「花」がなくなったときにどう立っているか?―「たたずまい」の美学

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こちら鹿児島は桜の季節が過ぎて
黄緑の若芽がどっと芽吹いています。
もはや初夏の風の空氣です。

そういえば、昨日、市内中心部の甲突川沿いで

「桜灯り祭り」

というような名前のお祭りをやっていたんですよね。
桜の木はすっかり「緑の回廊」になっていましたが…。
今年はほんとうに花が早かったんだなあと。

3月4月というのは、やけに樹木に目が行く季節です。

河津桜が満開の頃なので、3月半ば。
近所の学校で、満開の桜の木を見つけました。
(種類は不明!)

濃いピンクの花を全身につけたその木。
きれいなんですが、どうもしっくりこなくて。

というのは、幹は直径10センチもない細い幹。高さは2メートルくらい?
まだまだ細い枝に、
びっしりと、ごってりと大ぶりの花弁の花が鈴なりになっている姿で。

「ううむ。花が咲けば美しい、というものでもないんだなあ…」

と、妙に納得してその場を離れたのですが。

かと思えば、
老木となり、花の勢いはすっかり減ってしまい
わずかな花を見せるのみですが、
でもとても美しく、風情のある木もあります。

幹のこぶ。
大地にぐっと広がる根の張り具合。
足元にむした苔。
…それらすべてが相まって、その木はとても美しい。
ただ、そこにあるだけで美しい。
まさに「たたずまいの美」。

「たたずまい」という言葉に日本人が込めているものは、
「立っている姿」というだけの意味ではありません。

そこに、そのモノの過ごしてきた月日によって刻まれたもの、
それらすべてが加味されたものです。
人であれば、「精神」「あり方」「生き方」込みの言葉。
その人が醸し出す空氣。
その人が作り出す「場」込みの言葉。

世阿弥が語る、父、観阿弥が最後に舞った能の話。

「およそその頃、
物数をばはや初心に譲りて
やすき所を少なすくなと、色へてせしかども
花はいや増しに見えしなり。

これ、まことに得たりし花なるがゆゑに、
能は枝葉も少なく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。
これ、眼(ま)のあたり、老骨に残りし花の証拠なり。」

動きが少なく控えめなその舞は、いよいよ花が咲くように見えた。
まさしく老い木に残る花。
それを観客も称賛したのだそう。

そして、それは「まことに得たりし花」であったがゆえに。
と書いています。
世阿弥は「時分の花」という言葉も書いています。
若いとき、誰でも光り輝くとき、という感じでしょうか。
けれど、それは一過性のもので、「その時限りの花」なのだ、と。

「たたずまい」(佇まい)。

人は、年を重ねれば重ねるほど
若いときには満開の花で隠れていた「たたずまい」というものが
表面に現れ出でてくるのだろうな、と思います。

幹一つになったとき、
いったいどんな姿でそこに立っているのか?
ごまかしようのない「ただ一つの自分」というものが、
そこに立っているのだろうなあ、と思います。

この春。
大きく根を張り、苔むした幹から花の枝をのびやかに伸ばす古木。
数百度目かの萌黄色の若芽をつけ、嬉しそうに枝を揺らす巨樹。
そんな木々を見上げるたびに…

「ああ、佇まいの美しい人になろう!」

と、毎回、とても単純に心からその言葉が出ています。

みなさまも
よき春&新年度をお過ごしください。

 

 

 

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