自分の「好き」を大切に。

 

 

 

 

 

先々月から「推しを語る会」というものをやっており、

 

 

 

 

その第二回が終わりました。

知人たちが目をキラっキラさせて、

自分の「好きなもの」を語る様子を画面越しに見ながら、

 

「楽しいなあ」

 

と、言葉にすれば、その一言で。

 

 

 

 

 

 

 

「好きを語る」

ということに、わたし自身、未だ少々言葉にできない部分もありつつ、

大きな可能性を感じています。

 

 

 

 

 

 

専門学校でコミュニケーションの授業をしていた時、

ビブリオバトル(書評合戦)をやったことがありました。

 

みんな何それ?の状態でしたんで、

 

「ビブリオバトルとは…」

 

から勉強。

(放送できない言葉の入った本は今回は禁止です~、等々も言いつつ)

 

 

 

 

 

わたしも見本を見せなければなりませんので、

デモプレゼンを行いました。

語った『推し本』は、2冊。

 

萩尾望都の「11人いる!」。(マンガかよ!ですが)

木内昇の「新選組 幕末の青嵐」。(結局そこかよ!ですが)

 

 

「練習なんかしてないわよ」なふりをして、

実はものすごく練習していったので、

語り切った瞬間、拍手が波のように沸き起こるプレゼンになり、

ご満悦。

 

 

 

 

 

 

 

さて。

50人×3クラス。ほぼ男子のみ。

どうなることかと思ったんですが。

 

 

みんな、それぞれの「推し本」を選び、

ある人は生き生きと。

ある人はたどたどしく原稿を書き始め…

 

そして、本番の日。

 

 

 

 

 

 

 

わたしは、嬉しかった。

ただただ嬉しかった。

(今思い出しても、なんだかちょっと泣けてくる)

 

 

 

 

語る時間はわずか5分。

1冊でいいのに、「推しマンガ」を全巻、大きな袋に入れて持参した彼。

 

 

きれいな茶色の髪で、

いつもおしゃれなキャップをハスにかぶって参上する

黙して語らぬ彼が持ってきたのはファッション雑誌。

 

 

「センセー、これでもいいの?」

 

 

と節目がちの目で、

斜めに座ったまま聞かれた時は、

本当に嬉しかった。

 

(何も選ばないんじゃあ…

なんてちょっと思っていたので)

 

 

 

 

 

全員が、とにかく、自分の「好き」を選び、

形にし、

声に出し、

 

 

 

「人に伝える」

 

 

ことを経験したあの時間は、

わたしにとって本当に感動の時間となりました。

 

 

 

 

一人一人の「好き」。

 

 

 

その外見や、言動だけではうかがい知れない、

一人一人の心の中の「輝ける王国」。

 

 

それを、

ある人は熱く、

ある人はたどたどしく、

語る、

 

その、表情。

 

 

 

受け入れられるかという「不安」

自分を開示する「怖さ」

けれど、

それをかすかだけれど上回る

 

「伝えたい!」

 

という、思い。

 

 

 

それらすべてをひっくるめて、

美しいものでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分は何が好きか?

それのどこに惹かれるか?

 

 

 

 

それは、つまり

「自分とは何者か?」

「自分自身を幸せにする方法は何か?」

「自分が、何を軸に世界を関わるのが最も自分にとって、他者にとって幸福か?」

 

 

 

を、考え、はっきりと意識に浮上させ、

さらには「言語化」するということ。

 

 

これほど、大切なことがあるだろうか、

 

 

と思うのです。

(それがわからない、言葉に出ない

=「生きている実感」を肌感覚で捉えられない、

霧の中にいるような若者たちも見てきただけに、

本当に大切なことだと思うのです)

 

 

 

 

 

 

 

 

教員時代。

今の仕事。

それからウエディングプロデューサーをやっていた頃も。

 

 

 

その本質は、常に、

「あなたは何者か?」

を問い、それを引き出し、形にする(ことの手伝いを)

やっているように感じます。

 

 

 

 

「あなたを存分に発揮してください」

「あなたを存分に表現してください」

「あなたが幸せを感じるほどに、あなたの周囲も、世界も幸せなのだから」

 

 

 

 

 

その時、大きく言えば「世界が披く(ひらく)」。

バキンと音を立てて何かが外れ、

目の前にみずみずしい世界が広がる。

 

 

(人のその瞬間を見ているのがたまらなく好きです)

 

 

 

 

 

 

 

「好き」の中に全てがある。

自分とは何か。

自分の構成要素。

 

 

 

 

 

 

自分を生きる、ということ。

 

 

 

いきなり大きくなりますが、

これにかなう「世界平和」への道筋はない、

なんて思うのです。

 

 

*   *   *

 

 

 

 

 

 

11月のオンラインセミナーお知らせです。

 

 

●●●11月17日(火)20時〜22時●●●

「瞬発力を持って発想し、自信を持ってみんなで創造する

コミュニケーションの力を磨くーインプロワークショップ」

 

 

 

 

「インプロ」(即興演劇)

の役者さんたちが練習のために使う

コミュニケーション力を高めるゲームを使った

ミニセミナーです。

 

 

 

 

「即興力」というと、

 

「自分はお芝居をやるわけじゃないから」

「自分には必要ない」

「うちのチームにはそういうものを発揮する場面はないから」

 

などの言葉を聞くことがあるんですが、

本当にそうかなあ、と思うわけです。

 

 

 

「即興力」とは、そもそも

 

・どんな状況下でも

・フリーズすることなく、

・自分やチームにとっての最善を見つけ、選び、行動し、

・自分にとっての最高を「表現し続ける」

 

力。

 

 

 

これら、何か「特別な」ことを書いているようですが、

そうではなく、

 

「毎日のコミュニケーション」

 

は、「これ」の繰り返し、です。

 

 

 

今回のセミナーでは、

即興力の中でも特に大切な土台の力。

「相手の言葉を受け取り、発展させる」

コミュニケーションの力を磨きます。

 

 

詳しくは上のリンクから。

 

 

 

 

 

感情にブラされない「型」を身につける

 

 

 

 

 

これを見ているだけで氣持ち良くなってしまった。

 

 

 

 

 

 

人には「ミラーニューロン」があるからか、

やっていなくても、身体が「やった」状態と同じ反応をしてしまうのでしょう。

 

 

 

 

ものすごく心地よく声を出している歌い手さんの歌を聞くと、

その人の、その瞬間の身体状態がこちらに「移って」くることがあるんですが、

自分の身体もぱあっと開く感じがします。

 

 

 

 

 

「ときに型は感情を凌駕する  BY萬斎」

 

 

 

 

 

自分の中に、

700年前から蓄積された「型」を備えているこの人たちは、

その「型」一つで、

いつでも700年前の人間の「身体の在り方」=「精神の在り方」

を宿すことができる。

(能役者さんの「能はタイムカプセル」という言葉もあるし。

なにせ、「変わっていない」のだ。ずっと)

 

 

 

 

 

常に揺れ動き、コロコロと転がる「感情」にブラされない

「型」を自分の中に備える。

 

 

 

 

「背筋を伸ばす」

「茶碗と箸をどう持つのか」

「正座」

 

 

 

 

などなど…

能や狂言ではなくても、

その「型」を普通に大切にしてきたのが、

わたしたちに連なるご先祖様たちなんだなあ、

 

 

 

と思うのだけど、

最近、自分自身、その「型」が崩れているのを

とみに感じる。

(この10ヶ月特に。そして、「これはいかん」と焦っている)

 

 

 

 

 

 

 

…とりあえず、家に帰って、

ご先祖さまに手を合わせて「ありがとう」と言おう。

と思った今です。

 

 

 

 

 

 

「好き」のエネルギーは世界を救うーあなたの「推し」を聞かせてよ

 

 

 

 

 

なかなかたくさんの人と

会合しづらかった時期、

静かにオンラインで下記のような催しをやっていました。

 

 

 

 

✨「あなたの『推し』を聞かせてよ?〜『推し』を語る会」

 

 

 

こういう状態の時って、

何が、エネルギーが上がるかな、

と思った時に、

 

 

 

 

何より「好き」を語ること。

めちゃくちゃ真剣に聞いてもらえる場があること。

「いいね」とか「すごいね!」と言い合える場があるということ。

(つまり、語り合える場があること、ということですが)

 

 

だなあと思い。

 

 

 

 

 

 

ちなみに「やろう!」と思ったのにはきっかけがあります。

オンラインセミナーに誘った知人から、

 

 

 

「パソコン関係は詳しくないし、ズームとかはやったことがないので…」

 

 

 

と参加を断られ、

残念…

と思いつつ、話はそのままアニメの話に。

(チャットでしたが)

 

 

 

 

 

だんだんと盛り上がり、

「こういう話、もっとたくさんしたいですねえ、zoomで」

 

とふと言葉が出てしまい。

すると、

 

 

 

「やりますっ!zoom!」

 

 

 

と、さっきとは打って変わった返事が帰ってきたという(笑)。

 

 

 

「ああ、『好き』はいとも簡単に不安を超えるんだ」

 

 

 

と思った瞬間でした。

 

 

 

「好き」はいとも簡単に枠を超える。

いとも簡単に世界を超える。

 

 

 

そして、

その掛け値無しの純粋無垢のエネルギーは、

ただあるだけで、

周りをも元氣にする。生きる元氣、明日の元氣を持ってくる。

(本当に、オタクは世界を救っていると思う今日この頃)

 

 

 

 

 

さて。

第2回を月末に開催するんですが、

自分が「どの推し」について語るかも含め、

(準備が楽しい♪)

 

 

一体今度は何が出てくるのか楽しみなところです。

 

 

 

 

 

「あなたの『好き』は世界を救う」

 

 

 

 

 

最近、「好き」を感じていますか?

語っていますか?

 

 

 

 

 

「わかって欲しい」と人を責めたくなったら思い出してみるといいこと

 

 

 

 

 

HSP

(Highly Sensitive Person=直訳すると「非常に敏感な人」)

の診断テストを知人がアップしており、
何とはなしにやってみたのです。

下記、HSP診断テストより抜粋。

「HSPとは、一般に繊細・神経質・内向的と
言われる人たちが持つ『気質』です。

生まれ持ったものですが決して病気ではなく、
世の中のタフな人と、そうではない敏感な人とを2タイプに分けた、
ただの概念に過ぎません」

だそうで。

48個の設問に答えると、
自分がその特質をどの程度持っているか、
が数値化されます。

例えば、感覚的な特徴の設問でいうと、
「他の人が気にならないような音でもひどく苛立たしいことがある」
ですとか、
「鋭い光が氣になる」
ですとか。

で、答えているうちに、
不思議な氣分になりました。

「世界を見て聞いて感じ取るアンテナ」というものは、
いかに人それぞれ違うものか。

と。

 

 

 

今、この瞬間、
自分の目の前にあるこの音も、色も、香りも、
その受け取る度合いや質感、深さがみんな、わたしとは違う。
(皆、自分と同じように見て聞いて感じているわけではない)

という、
至極当たり前のことを、
改めて実感してしまった、というわけなのです。

人間関係。環境との関わり…などなど

48の設問を改めて読みながら、
「ここに書かれている設問に関して、
全く真逆の感覚で生きている人も、いるんだなあ」

と、
しみじみ。

あなたが見ている世界と、
わたしが見ている世界は違う。

わたしの家族とわたしが感じている世界も。
同じ場所に立って、同じ体験をしても、
実は、同じものを見て聞いて感じているわけではない。

そう実感すると、
…実はだいぶ楽になったのでした。
いい意味「あきらめ」がつくといいますか。

「自分のことをわかって欲しい」なんて…

そんな無茶な(笑)

「あなたのことは全部わかってる…」

なんて、それも無茶な(大笑)
神様でもあるまいし。

だからわたし達は言葉を持ち、
会話を交わすのです。

いえ、実は、
言葉でさえも、厳密に
自分と「同じ意味で」使ってる人はいない。

わたしの言う「愛」と
あなたの思う「愛」は違う。

わたしの使う「優しい」と
あなたの使う「優しい」。
その内容成分は違う。

そこには、それぞれのの体験や、
そこから生まれた信念・価値観によって
裏打ちされたものが山ほど入っている。

朝起きた時。

初めて出会った時のような、
みずみずしい感覚と敬意を胸に、

相手の世界に入っていけたらなあ、

とわたし自身、いつもそう願いつつ、です。

 

 

 

 

人の脳には「容量」があるが案外それに氣づかず自分を責めていないか?

 

 

 

 

 

 

 

「やることを忘れてしまう」「いつも通りに仕事が進まない」

 

 

ので

頭の中を整理したい!

というクライアントさんの話を聞き、

 

 

「それはもう、忘れたりすっぽ抜けて当たり前でしょう」

 

 

と、たいそう思ったので、

わたしが送ったのが下の図。

 

 

 

(脳のキャパの例えの図)

 

 

 

 

 

以前NHKの「あさイチ」で、

 

 

「今、みなさん脳の中はこんな感じです」

 

 

と、とてもわかりやすい例えで説明していたので、

それを描いてみたもの。

 

 

 

 

 

わたし達は、この数ヶ月、自分で思うより、ずっと、

 

 

「不安で」

 

 

加えて、

 

「氣を使っており」

「やることが増えており」

 

 

しかもそれは、

 

「まったく体験したことのない初めてのこと」

 

であり、人によっては、

 

 

「大切な人の健康と、人によっては命を守る」

 

 

ということに直結している。

そんな(薄氷を踏むような)毎日を、もう数ヶ月間、過ごしてきたわけです。

 

 

 

 

 

このクライアントさんは教室を運営されてますので、

「人のお子さんを預かって」いるわけで、

その心労と行動面への負荷は察して余りあるものがある。

 

 

もうそれは、話を聞いているだけでも、

 

 

「それは…日常の、自分の生活のこまごまとしたことに氣が回らなくなっても、

当たり前ですね」

 

 

 

と、明確にわかる奮戦ぶりであった、

このクライアントさんなのでした。

(そしてまた、それが自分のこととなると余り

意識できなくなるのが面白いところで)

 

 

 

 

 

 

 

さて、

今日、何を言いたいかといいますと、

 

 

①人の脳にはキャパがある

②今、脳のテーブルには、相当大きな「余計な箱」が面責を占めている。

②が、人は自分では、なかなかそれに氣づかない。

(もっとできるはずなのに!なぜできないの!と自分については思ってしまう)

④「大変!」な人が今、必要なのは、

 

・責めない(自分も他者も)

・休む

・先を見過ぎない。「一個づつ」。

・自分への基準を緩める

・人に話す、頼る

 

 

 

 

 

 

今いる「自分の入っている箱」の中から外に出て、

客観的に自分を見る。

状況を見る。

 

 

 

その一つの手段として、

コーチングも役に立ちます。

 

 

 

「今こそ必要なのはコーチです」

 

 

 

との、このクライアントさんの声を受けて、

今これを書いているわけなのでした。

 

 

 

 

 

 

 

追伸:九州地方は、加えて台風9号と10号が見舞いました。

   話を聞くと、やはりみなさんいつもの台風より相当「頑張って」乗り切った感を感じ。

   

   (私も何を隠そう相当今回はピリピリしまして^^。

   初めて窓を外からダンボールで覆い、街中の立体駐車場に車を預けに行きました。

   心身ともに疲れた…)

 

   頑張ったみなさん。

   ゆっくりと、日常に戻りましょう。

 

  

  

   

 

 

毎日生活を継続するということ自体がすごいことなのだ。尊いことなのだ。

 

 

 

 

 

 

と、

表題のように、

「禅」の番組を見ていてふと思ったわけです。

 

 

 

 

 

 

毎日掃除をする。

廊下を拭く。

落ちる枯葉を履く。

季節が移るごとに、日々の仕事(作務)は変わる。

 

作務は毎日毎日出現し、

そして繰り返される。

 

 

 

 

 

そういったものが、

昔はたまらず。

なかなか意味を見出すことができなかったのですが。

 

 

 

 

 

 

 

昔から、なぜか?

 

「何かを成し遂げなくては」

「ここではないどこかへ行かなくては」

 

という感覚が強く、

結局、目の前の「この瞬間」の物事はないがしろにされる。

という状況がわたし自身、

長いこと、あったように思います。

 

 

 

 

この、雲水たちの生活を見ていると、

その箒の「ひと履き」のなかに、

「すべて」が詰まっている、という感覚が

すうっと腑に落ち。

 

 

 

「その『ひと履き』こそが修行であり…」

 

 

 

と、禅では考えるようですが、

わたしには「自己表現」という言葉の方が、

しっくり来るような氣が。

 

 

 

 

どう履く

どんな重さの箒を使い

どちらから

どんな工夫をし

所作は

身体をどう使う

 

 

何であっても、昨日と同じ、というものは

実は存在しない。

 

毎日一見変わらぬものの中に、

小さな変化を見出し、

そこへ丁寧に創意工夫をすることの喜び。

 

 

 

 

 

すべては、

「自分」という人間が現われ出でたもの。

卓を右から左に拭く、その数10センチの行為にさえ、

そこに「喜び」を見出すことが出来る。

美しさを追求することができる。

 

 

 

 

 

 

昔、知人が(まだ年若い知人でしたが)

 

 

「このカップをどう洗うか?

その『洗う』

という行為に集中するのだ」

 

 

と。

 

 

あの頃は、

「今、ここに集中する」という

その意味が、頭ではわかっても、

(良いことだ、と)

身体では理解できなかったのですが。

 

 

 

 

今、やっと、少し、わかってきた氣がしています。

 

 

この「一瞬」に永遠が宿る、という感覚。

そぼふる雨の一滴に、全てが宿る、という感覚。

 

 

 

 

 

そして、

「やっとわかってきた」だけに、

それをずっと「やってきた」人たちがすごいな、と思うのです。

 

心から敬意を表したい、と思うのです。

 

 

どこかの禅僧とか、雲水さんとかのことではありません。

「あなた」のことです。

毎日頑張ってきた「あなた」のことです。

 

 

大切な人たちのために、

日々の暮らしを毎日毎日毎日…

 

時には愚痴なんか言いながらも、

丁寧に続けてきた「あなた」のことです。

 

 

 

そして、

その「継続」によって、

わたしたちに「良きもの」を文化、伝統、風習として

繋げてくれた、

たくさんのご先祖様たちのことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝日。

露のにおい。

炎天の蝉の声。

鉢にかかる水の粒の美しさ。

夕餉のちょっと焦げた魚の香り。

 

 

 

 

挙げればきりがない「今、生きている感覚」。

 

日々の生活を味わい、

丁寧に生きたいものだと、

 

感謝とともに、

最近ますます思い始めている、この数ヶ月です。

 

 

 

 

 

 

 

 

スタンバイしている子は適切な滋養を与えると一氣に開花する

 

 

 

 

我が家のあさがおです。

 

 

 

先週、盛りを少し過ぎて、花屋で少し安く売り出されているのを買ったので、
花が咲くかなあと思っていたんですが、
一日2〜3輪づつ、毎日花をつけています。
(毎朝楽しみなんですよね?)

 

 

 

で、昨日だけ、朝見たらいっきに8輪、咲いており、
「キレイ〜!」を通り越してちょっとぎょっとしたんですが。

 

理由はちゃんと分かっており、

YouTubeの

 

 

「朝顔の育て方・花をしっかり咲かせるには」

 

 

で「リン酸多めの肥料を与える」

というのを見て、
買ってきて少量パラパラっと巻いたから、なのです。

 

 

 

けれど…

いっきに8輪、に、

 

なんだか悪いことしちゃったような、

朝顔の背中を「いきなり急かして押しまくって」しまったような
無理させたような、そこはかとない罪悪感を感じ、

さっそく姉に相談しました。

返事は以下。

(何度か書きますが、姉は有機無農薬の専業農家)

 

 

 

 

 

「大丈夫、
8輪はちゃんとつぼみを持っていて、
スタンバイしてたんだよ。
肥料も効くまで数日かかるからこれから効いてくるよ。(^_^)」

 

 

 

 

 

 

ああよかった、と
ホッと一安心。
(なんにしてもプロの言葉は力強いものです)

 

 

 

 

 

「スタンバイしてた」

 

 

 

 

って、いい言葉だと思いませんか?

(なんて愛らしいつぼみたち。

「まだかなまだかな」

「お前いつ咲くの?」

「もう8月も半ば近いし、そろそろ咲きたいんだけどさあ〜」

みたいな)

 

 

 

 

 

 

 

スタンバイしている子には、
適切な滋養を与えると、
いっきに開花する。

(知っていたけれど、身体で改めて「わかった」今日の実感)

 

 

 

 

 

数学は苦手だと思っているけれどーリケジョの知人に思うことー

 

 

 

 

 

 

小二の算数の時間に、

 

 

「あれ…なんかわかんないかも…」

 

 

と、意識がすっと遠のいていくような、

全身が冷たくなるような感じを味わったのを今でも覚えているんですが(笑)

 

 

 

 

 

それ以来、数学は苦手、ということになっています。

教員時代も、クラスの人数分けなど、とっさの計算が必要な場面は、

 

「えっと、こっから先よろしく」

 

と、生徒たちにやってもらっていました。

 

 

 

 

 

 

数学ができない、というわけではないのです、多分。

いわゆる「模擬テスト」などでは、

それなりの点を取っていたこともあったので。

 

 

ゆっくりと、時間をかけて理解して、慣れていけば、

出来る。(多分)

 

 

 

 

けれど…。

とにかく前提として「苦手だ」というのがあり、

この意識がますます数字に対して

心と身体をフリーズさせるような氣がするのでした。

 

 

 

 

 

 

と。

 

どうしてこういうことを思い出したかというと、

イベントを共に企画した知人が、

その材料のグラム数に至るまで細やかに計算して金額を出してくれたので、

(それがまた早い)

 

 

「氣を遣わせてしまったようで…(スミマセン)」

 

 

的な意を伝えたところ、

 

 

 

「最近、数字で認識するのに改めて喜びを感じてしまう自分を認識中」

 

 

 

という(とんでもない)旨の返事が帰ってきて、

軽く感動した、ということがあったからなのです。

 

 

 

 

「私はリケジョでして。

(なので、お気遣いなく)

 

 

工学部建築科に進学してまして。

若き頃はハウスメーカーにおりました。

 

(中略)

 

今の仕事場では、周りの人は完全に文系さん達で、

学生時代の数学は(わたしも)全く得意と言えるレベルではなく

相当苦労していたのだけど、

 

文系さん達の数字苦手は桁違い!と感じる事多し。

 

時々数値での分析すると物凄く有り難がられる、又は理解してもらえない。

面白がってしているレベルなんで、その反応も楽しくて!

(このあと大きなニコニコマークが2つ)」

 

 

 

 

 

そうそう、そうなのですよ。

「桁違い」なのですよ。

苦手意識の高きことエベレスト並みなんですよ、

 

 

 

と呟きながら、

 

 

「違う世界を見ている人がいるんだなあ」

 

 

 

と思ったのでした。

そして、この知人の「見ている世界」の話を聞いてみたい!と思いました。

なんだこの軽やかな楽しい感じは!

一体どんな世界が見えているのか?

 

 

 

この世に生まれて、半分しか世界を見ていないような、

とても片手落ちな氣がしてきたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

クライアントさんに一人、数学の先生がいらっしゃり、

この方の話を聞いた時も、

全く知らない世界の淵を覗いたような氣がしたものでした。

(だいぶ昔の記事で書いたことがあるんですが)

 

 

 

 

「夜のしじまに、数学の神様が降りてくる」

 

 

 

 

とおっしゃった、んだったかな?

 

 

 

 

「数学の世界は美しい。いい式は美しい」

 

 

 

 

とも。

 

 

 

 

 

 

 

 

数学は面白い。

数字の世界は面白い。

数字は友達♪

 

 

 

とまではいきなり行かなくても、

「その世界を愛し、そこで生きている」人の話を聞いてみたい、

と今、そんな欲求がふつふつと高まっているところなのです。

(これは、何げにすごいことだと思うのですよ)

 

 

 

 

 

 

 

わたしの手を引いて、

はるか昔、入りそびれた大いなる門の入り口に。

 

またある時は、未知の世界の入り口に。

いざなってくれる…

 

 

わたしの心のハードルをいとも易々と越えさせてくれる、そんな先達は、

 

 

 

 

 

 

いつ、いかなる時も、

難しさや権威とは真逆のところにある、

 

何よりその世界に「愛あるオタク」なのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたの中の’5歳児’はずっと待っているー独眼竜政宗に見る’インナーチャイルドの統合’

 

 

 

 

 

 

「大河ドラマ歴代最高視聴率」

と呼び声高い割に、当時あまりちゃんと観ていなかったので、

「麒麟がくる」休止に伴う特番、

 

 

 

『戦国大河ドラマ名場面集、第一回「独眼竜政宗」』

 

 

 

「へえ〜、こんな感じだったんだ」

 

と観ていたんですが。

 

 

 

ラストシーン。

死に際、迎えにきた母の呼びかけに無邪氣に走って行く幼年の政宗、

少年の政宗、そして、

手を差し伸べる老いた政宗

 

を見て、

 

 

 

「よかったねえ」としみじみ。

 

 

 

 

詳しくない方のために注釈しておくと、
(って、私も非常にぼんやりとしか覚えていなかったですが)

 

 

 

 

 

 

・幼年の政宗→「梵天丸は醜いか?」(疱瘡で片目をなくし)
・青年政宗→「これが心尽くしの膳にござるかっ…!」
(実母に毒入り料理を食べさせられ、縁先でゲロゲロ吐く)

 

 

 

 

 

 

これだけでも、
なんだかもう、根っこの土台がハードモードな人生。

 

 

 

 

 

うちにあるインナーチャイルドの本に、
幼い頃からの、各年代の、たくさんの自分(悲しかった自分・辛かった自分…)
を連れて、統合するというワークが載っているんですが、
このラストは「まさに、それじゃん」と。

 

 

 

 

 

 

 

 

本当の政宗がどうだったかは知らないですが、
人生のある地点で、

 

 

「完了する」「すべて許す(自分も他者も)」

 

 

というのはとても大切なことで、

 

 

死の間際であれ、その瞬間であれ、
すべてのわだかまりが解け、母に駆け寄って行けた幼い政宗たち、

母に手を差し伸べ、

本当に欲しかった言葉を母から受け取ることのできた老いた政宗に、
 

 

 

 

 

「本当に、よかったね(涙)」

 

 

 

 

 

と、もうそれしか言えない私なのでした。

(↓これが、そのラストなんですが、なんだかこの写真では私の感動があまり伝わらない…)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と、上記のようなことをfacebookに書いたんですが、

 

 

「自分の中の『それ(インナーチャイルド)』もそろそろどうにかしないとな」

 

 

と、コメントをくださった方あり。

「そういえば確かに」

という方あり。

いく人かの方には「響いた」ようで。

 

 

 

 

 

 

 

「インナーチャイルド」という表現もまた一つの「比喩」で、

自分の体験、感情のあれこれを整理しやすくするための

「捉え方」「表現の仕方」の一つだと思うのですが、今日はそれで進めます。

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたの中にも私の中にも「待っている子ども」がいるかもしれない。

 

「いつ迎えに来てくれるんだろう」

「いつ約束を果たしてくれるんだろう」

 

と、

膝を抱えて。

あるいは、「あの場所」にいまだ立って、

 

 

待っている子が。

 

 

 

 

ちょっとどき…とした人は。

 

迎えに行ってみてもいいかもしれない。

(いえ、ぜひ迎えに行って欲しい)

 

そして、手をとって「長いこと待たせてごめんね。さあ、一緒に行こう」

と、歩き出す。

 

 

 

それはすなわち、

私たちの人生に、大きな大きなエネルギーが戻ってくることにつながる、

とそんなふうに感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

人が変化する時は。(小野田さんと陸軍中野学校の動画より)

 

 

 

 

 

NLPのコースに行っていた頃、

人を変化、変容へ誘う(いざなう)ことのメタファー(たとえ)として、

 

「ジャングルで数十年間戦い続けた日本兵」

 

というのがあった。

 

 

 

 

戦争が終わったこともわからず、

ずっと、戦争中の「任務」をただひたすら守り続け、

一人ジャングルにこもって戦い続ける日本兵。

 

人々が戦争を忘れ、どんなに戦後復興を遂げ、豊かさを謳歌し始めても、

彼にとっての「真実」は未だ戦いの中にある。

 

彼はかたくなで、

投降を進めるビラも、わざわざ現地に行ってマイクで呼びかける親族の声も、

全て、

 

「敵の罠」

 

というフィルターを通してしかみることが出来ない。

したがって、絶対にジャングルから姿を表さない。

 

 

 

 

 

どうやって、彼の心を開き、

「変容」

にいざなうか。

 

 

答えは、

「当時の上官を連れて行き、ちゃんと、作法に則って

上官から『任務解除』を伝える」。

 

 

 

 

 

「変化」は誰にとっても恐ろしい。

 

人を変容に導くということは、

その人の見ている世界、住んでいる世界に寄り添い、

丁寧に「お邪魔し」

そして、相手の気持ちと状態を最大に尊重しつつ、行われるべきことなのだ、

 

と。

 

 

 

そういう趣旨のたとえだったように覚えている。

結構胸に響く、好きな逸話として印象に残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、

なぜ、いきなりこんなことを書いているかというと、

ついさっき、偶然にも、

 

「陸軍中野学校」

 

の映像を見たからなのです。

(全く違う映像を探していたんですが、

ふっと、なんとなく、上がっていたのをクリックしてしまい、

結局最後まで見てしまった)

 

 

 

 

 

そして。

ずっ~と、なんとなく「イメージ」として描いていた

「上官による任務解除」

の瞬間を、しっかりと画像で確認してしまうことに。

 

 

(小野田少尉、上官の谷口さんから30年経って任務解除を言い渡される)

 

 

す、すごいインパクト。

わかってはいたつもりでしたが…

「本当にあったこと」なのですね。

 

 

 

 

 

このドキュメントで、

当時の小野田さんの同僚たちが、

思っていたよりも、もっともっと、ずっと小野田さんに、

「寄り添い」「工夫して」

この時を迎えたことを知りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

ずっと出てこない日本兵がいる。

 

 

その時、

中野学校

(※陸軍中野学校→戦争中、情報将校・ゲリラ戦をする兵を育成した機関。

 小野田さんもここの出身)

の出身者だけは、その気持ちが手に取るようにわかった。

 

 

 

彼らは、

現地へ行き、自分たちだけがわかる「校歌」を歌い

ジャングルに呼びかける。

さらに、

当時の上官を探し出し、

 

 

「この人なら

当時とほぼ顔が変わっていないから小野田は覚えているだろう」

 

 

と、そんなところも配慮して、

現地で「復員命令」を伝えてもらう。

 

 

(ここまで、昔あった歴史バラエティ

「驚き桃の木20世紀」情報ですので悪しからず)

 

 

 

 

 

*  

 

 

 

今、私の周囲で、

(いえ、私も含めてかもですが)

 

 

自分の中の、

「ず~っとジャングルに隠れていた自分」

(NLPでは「パート」と呼びますが)

 

 

が、ひょこ、ひょこと顔を出したり、

暴れている人がいるように感じています。

 

「あの時は辛かったんだ」

「寂しいよ」

「変わりたくない」

「外は怖い」

 

 

今の、世界の状況的なものもあってか、

皆、変わらざるを得ない現実の変化を前に

不安定になることも大いにあるでしょう。

 

 

 

 

 

そんな時は、

思い出してみて欲しいのです。

 

自分の中の「それらのパート」。

それに、一番寄り添わねばならないのは、

何より自分自身なんだということを。

 

丁寧に、丁寧に、扱って欲しいのです。

 

言葉をかけて欲しいのです。

 

「頑張ったよね」

「よくやってきたよ」

「大丈夫だよ」

「君がどれだけ頑張ってきたか、よく知ってるよ」

(じゃないと、ますます、ジャングルから出てこなくなります)

 

 

 

 

まかり間違っても、

「馬鹿野郎グズグズ何してんだ」

「お前間違ってるよ」

「いつまでそんなことやってんだ」

なんて罵声を浴びせ、

無理やりジャングルから引き摺り出すようなことはしないで欲しいのです。

 

 

 

 

あなたの中の「パート」は、

昔の体験から得た「命令」(ルール)を今も、純粋に、

信じているだけなのですから。

 

 

 

 

丁寧に語りかけ、

そして、もしその「ルール」が今のあなたの幸せにそぐわないものだったら、

優しく解除してあげて欲しいと思います。

 

 

 

 

 

それが、結局変化への

「一番の早道」だということなんだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

追伸:それにしても…昔(教員時代)

   全然寄り添わない「変化の強要」を、していたこと、あったなあと

   今思えば反省しきりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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