桜の終わり少し前
新しく写真を撮ってもらいました。
今の写真が確か2年くらい前のものなので。
鹿児島市の黎明館。
旧鶴丸城跡。
城壁には西南戦争の砲弾の跡が残り
桜の木もその時代をみつめてきたんだろうな…と思う
大きな木がたくさんあるところです。
その桜の中で撮っていただいたのですが
それが本当に気持ちよくて気持ちよくて気持ちよくて
その心地よさと幸せ感が数日続いたのでした。
(ちょっと恥ずかしいですが
その気持ちよさと至福の感じをお届けしたく
写真を載せてみました)
知人が
桜の花の意味?というかエネルギー?について教えてくれました。
「桜は『潔い散り際』『はかなく散る』のあたりがクローズアップされるけれど
あんなに散るのは、『幸せのエネルギー』を周囲にふりまくためなのだ
(そういうエネルギーを持った花なのだ)」
…多分、そういう感じだったと思います。
とても、体で納得しました。
吹き渡る風
満開を少しだけすぎた桜の枝に、花に囲まれて
それはもう、口では言い表せないような、くらくらと酔うような
ふわりと薄桃色のひかりに包まれているような
あの感じ。
(それから数日、ずっと薄桃色のひかりに包まれている感じがしていたんでした)
さて
もうひとつ
それは「写真を撮ってもらった」ということ。
写真を撮ってもらうという行為は
「承認をもらうこと」だなあ、としみじみ感じたのでした。
1~2時間、ず~っと
カメラマンさんにカメラを向けてもらい、写真を撮ってもらう。
つきっきりで。
それはとりもなおさず
「あなたを見ているよ」
「あなただけを見ているよ」
「あなたが大切だよ」
とくりかえし、くりかえし
言ってもらっている時間に他ならないのですよね。
「愛をもって、見てもらっている」
(どのカメラマンさんも、写真を撮っているときは
被写体に対して『愛』を持つと思うのですね)
ということが
どれだけ人を心地よくし、満たし、高揚させるのか
ということを、この2時間で
ひしと感じたことでした。
(思いっきりうれしそうに飛んできた花びらをキャッチした瞬間です
よく見てくれているなあ…と感心)
みなさん
大切な人を、ちゃんと「見て」あげていますか?
あなたのそのまなざしだけで
今日の一日をまた頑張れる人が、きっといますよ。
この日は
桜の花から、そしてカメラマンさんから、あふれるほどのたくさんの愛をいただいた日となりました。