だからある意味「物語」は恐ろしいー「アリこそ正義」に侵食されていた自分にはっと気づいた今朝

 

 

 

 

 

 

アリとキリギリス。

あの、例のアリとキリギリス。

 

 

今朝方、クライアントさんが、
「あれって、本当はああいう話じゃない、という話を聞いたことがあるような…」
と。
そこからしばし、
「アリとキリギリス」の話で盛り上がったんですが。

 

 

「キリギリスは持って生まれた歌の力で冬ごもりのアリたちを、
楽しくしたらいいですよね。
アリはアリの矜持を持って(◀︎この視点がこの方らしい😊✨)
『それくらいの食べ物、どんと来い!俺たちの力を見ろ!』
と、キリギリスを食べさせてあげればいいですよね」

 

とクライアントさん。

 

 

「ですよねえ!
そういえば…なんだかこの話って
『みんなアリであれ』『アリとして生きろ』
『アリが立派』って言われているようにも。
でも、それって考えてみれば無理ですよね。
アリとキリギリスはそもそも違いますし」

 

とわたし。

 

「頑張る」こそ正義。「コツコツ」こそ正義。努力こそ正義。

そんな感じでしょうか。

この話からわたしがずっと、受け取っていた

(そして無意識のうちに肌身に染み込んでいたところの)メッセージは。

 

 

 

それから
生きるためには、歌も必要です。
踊りも必要です。芸術が必要です!
(魂のご飯です!)

 

と…
話がなんだかあちこちに広がって行ったのでした。

 

 

 

 

さて、今日、声を大にして言いたいのはそういうところではなく。

 

 

「物語」というものは人の無意識に深く深く入り込み、
個々人の価値観を作り、世の中の価値観を作り、そして「時代の風向き」(方向性)
を作る、ということを言いたかったのです。

 

「物語」は人を勇氣づけ、能力を発揮させ、鼓舞し、解放もする。
「物語」は、とても容易に「ある価値観」「ある状態」に持っていくこともできる。
それが「物語の力」。

 

 

「物語」は、だからこそある意味「恐ろしい」。
人の「意識のガード」をやすやすと超えて、
無意識に音もなく入り込み、
わたしたちは、それに「染まって」いることさえ氣づかない。

 

 

 

わたしたちの周囲に溢れる「物語」には
(毎日流れてくるニュース含め)
どんな意図がその奥にあるのか、
一体、それは
「わたしたちに『何を正義とし』『どこへ導こうと』しているのか?」
そんなことをちょっと考えてみるのも面白いかもしれません。

 

 

 

さて。
で、今もし、まだわたしが教員をしていたら、なのですが。

(話は飛びますが)

 

 

この「アリとキリギリス」の話を元に、
ここから、たくさんの価値観を体現した、新しい「アリとキリギリス」の脚本を
子どもたちに作ってもらうだろうなあ〜

 

と思います。

 

これからの時代を生きる彼らに、
新しい「アリとキリギリス」の世界を。
たくさんの、いろんな生き方の「アリ」や「キリギリス」の話。

 

たくさんの価値観を、世界を発見してほしい、
創造して欲しい、と思うのです。

 

例えば…
「それぞれの強みを活かして、
一緒に『新しい村』を作るアリとキリギリス」とか??

 

 

で、
それをお芝居にして、子どもたちみんなで舞台を作って
あちこちで上演して回ることだろうなあ、
と思います。
声を出して、全身で、存分に思いっきり
「新しい物語」を自分たちの身体に刻み込んでほしい、と思います。

 

(在職時代にこういう自由な発想にならなかったのが
誠にまことに残念です。
子どもたちとたくさんお芝居は作っていたんですが)

 

 

 

春のセンバツ、市立和歌山の川辺謙信主将の宣誓がすごかった件(「心を掴むプレゼンの枠組み」にのっとっていた件)

 

 

 

 

 

 

 

一昨日の春の甲子園の選手宣誓が、よかったのですよね。
短い中に「物語」があった。
短い中に聴衆の意識を過去から今、そして未来へと連れていく壮大な「仕掛け」があった。

 

 

 

●「高校野球は100年以上にわたる長い歴史の中で、幾多の困難や、
苦難を乗り越えながら発展してきました」

 

そして「大正、昭和、平成、令和…」と言葉で繋ぎ、
イメージを喚起し、一瞬のうちに観客と共に時間を旅する。

 

(そうだ、そうだぞ!ずっと、いろんなことがあった。
本当にいろんなことがあった。よくここまで続いてきた…と涙するわたし)

 

  ↓

 

●「わたし達は、今、大好きな高校野球を続けることができています」

 

現在に到着。
今、その高校野球を共に「見ることができている」
自分たちにも「氣づく」聴衆。自分たちも今ここにいるのだ。
「わたしたち」の中に入っているのだ。

 

(本当、奇跡だわ〜!感謝だわ〜!と、もはやここで、

心は野球以外の全てのことに飛んでいるわたし)

 

そしてさらに今の(課題)を提起。
「そして現在、野球人口が減少する中…」

 

  ↓

 

●「この大好きな高校野球をさらに魅力あるものに発展させ、
未来の高校球児へとつないでいく責任があります」
「今まで支えてくれた全ての人たちへの感謝を胸に、仲間を信じ、
そして、未来のために、全力でプレーすることを誓います」

 

みんなの目を、意識を、未来へ。未来のありたい姿へ。
(だよ!その通りだよ!わたしもそうする!という熱い塊が胸の中に沸いているわたし)

 

 

 

美しい。

なんて美しい流れ。

 

 

 

 

 

これって、昔学んだ、
「インフィニティ(♾️)ストラテジー」だったか、

 

の枠組みなのですよね。

 

 

「過去の出来事をつなぎ、橋をかけ、今につなぎ、
そこから今度は未来の好ましいイメージへとさらに繋げていく」

 

という構造が書かれた説明の紙をもらい、
(その紙にはまさに「♾️」の形の図が書き込まれていました。ちょうど真ん中の交差点が「現在」)

 

 

 

それをギュッと手に持って、実際にフロアをうろうろとしながら
(過去・現在・未来と動き回りながら)
何回もプレゼン練習をしたものです。

懐かしい。

 

 

 

 

 

さて、人というものは。

 

 

 

生きていく上で「物語」が必要な生き物なのだ、と思います。
「つながり」が必要な生き物なのだとつくづく思います。

 

 

時のつながり。
先人たちとのつながり。
思いのつながり。

 

未来の子どもたち。
まだ見ぬけれど、
確実に自分たちの思い、行動の延長線上に
存在することになるであろう
人たちとのつながり。

 

その結果出現するであろう世界とのつながり。

 

 

 

その「滔々たる流れ」の中の
「意味ある一人」として
「意味ある一瞬」を生きている。

 

自分も、「それ」を担っている。

 

 

 

そう思えた時に、
今持っている錘(おもり)は軽くなり、
歩むエネルギーが湧いてくるのだ、と思います。

 

 

 

 

この「つなぐ」という仕組み。
歴史上の偉人の「人を動かした名プレゼン」をみてみると、
この「つなぐ」ことをやっているプレゼンが結構あるのですよね。
(♾️などと名づける以前に、人の心が動く時の、とても自然な流れなのだと思います)

 

 

 

自分の「大切な思い」を誰かに伝える必要のある人。
大勢の人に、自分の「思い」を伝えて、揺り動かしたい場面のある人

 

 

 

 

興味のある方はぜひやってみてください。

 

「混じり気がない」「純粋な」は本当に善か?

 

 

 

「不純物を極限まで取り除いた水は、『いい成分』も全部取り除かれている」

と何かで読んだのですよね。

 

殺菌、除菌はわたしたちのからだの「常在菌」も殺してしまう。
(身体を守っているよい菌も)

 

 

完全なる「清潔」。
完全なる「健康」。
完全なる白。
完全なる光。
完全なる善。

 

 

 

というものは、この世に存在するのだろうか。
というか、
それを追い求めるのは、自然に反した
とても「歪(いびつ)」な行為のだろうな、

 

と今朝、ふと思ったので書き留めてみました。

 

 

人だって、自分の中の雑多なるもの。
悲しみとか、怒りとか、悔しさとか、妬ましいとか…

 

こういう「闇」というか
自分の中の色々な感情を、
ないものにすることはできないですし。
(無理にそんなことをしたら返って大変なことになる)

 

 

きゅっと、幼い5歳児を抱きしめるように
抱きしめて、声を聞いて、癒しながら生きていくしかない。

 

しかない、といいますか、
それこそが、その人の「味」であり
美しい陰影を持った複雑な味わいの
「どこにもない魅力」になるのかな、と思います。

 

 

 

と、ここまで書いて、
昔、中国で、農作物を食べる「害鳥」だから、とスズメを全部殺し、
結果、虫が大発生してもっと大変!という話を聞いたことを
思い出したんですが。
(研修時に聞いたんですが、セミナールームの参加者全員で

「あり得ない〜」「中国やりすぎ〜」と大笑いした覚えが)

 

 

過度に何かを嫌う。
過度に何かを(ある状態を)追い求める。

 

 

というのは、自然界ではあり得ない「形態」なんだろうな、
と思います。
人間の「思考」だけが生み出す、虚構の世界。

 

 

 

ということで…
みんな、今日はとりあえず、自分に優しくしましょう。
全てにおいてあんまりピリピリしないで
ほどほどに。

 

と、自分に一番言い聞かせている今朝です。

 

 

(写真は近所のお庭の梅です✨)

 

もしも、録音された「音」だけでなく「場に満ちる『何か』」までも再生できる機器があったなら➡︎あった

 

 

 

 

 

 

少し前、圓生をよく聞いていたのですよね。
廓の「張見世」(あの、遊女が並んでいる格子システム)をリアルで見たことがあって、
「江戸」の空氣感を演じられる最後の落語家。

 

で、
圓生の一番古い音源を再生して、
そこにいたお客さんたちの空氣も含めて、伝わってくるものがあるとしたら
どんなにかすごいだろう、と思い。
とある方に聞いてみたところ、

 

「そういうことになるかもしれません」
(と言ったような)お返事が。

 

 

 

この日、地元鹿児島は吉野にあるMAI Factoryさんにスピーカーの試聴会に行きまして。

(正確には「アンプ」の視聴会、なのですが)
音の洪水の真ん中で身体中に音を心地よく浴びる体験をしまして。

 

 

で、これらを作成された方に、
「アンプ」というもののことを色々と聞いたのですが、
実はここでその万分の一も再現することができず。
(なかなかに難しかった)

 

ですので、
今から書くことは、わたしの頭の中に
「残っていた」
「強烈に焼きついた」
ことだけ、なのですが。

 

 

 

❶アンプ職人はアンプを「アート」と捉えている。
なので、「自分の色(演出)」を出そうとする。
音に反映させようとする。

 

❷この方の作るアンプにはそれがない。
ただ純粋に「数値」のみを追い求めている。
(つまり、エゴが入ってない、とわたしは捉えました)

 

❸あなたの機器ならわたしの「氣」がわかるかも、
と氣功の先生から「氣」の収録を依頼されたことがある

 

❹この機器で再生されたBGMは、エンドレスでもイラっとっしない

 

 

他にも色々とすごいお話を聞いたんですが…^^;
で、もしかしてこういうことでしょうか?
と先ほどの圓生の話をした所
「そういうことかも知れません」

 

と言ったようなお返事が返ってきた、と。

 

 

 

で、その日、圓生の代わりに、
100年ほど前の「チェロ組曲」の音源を聞かせてもらったのです。
果たしてそれが、
100年前の「場の空氣」までも再現しているのか…

 

それは正直、わたしの耳ではわからなかったのですが、
けれどなぜか?少し涙が出てしまったことも
確かなのでした。

 

 

 

 

今日言いたいことは。
「そこ」に他意を挟まない。
「俺が」「わたしが」と言った「いらないもの」が入らない。

 

そういう人は、やがて「神様が喜ぶような仕事をすることになる」
と、そういう感じでしょうか。

 

 

 

この方が、
「『その音』のことを一番よく知っているのは、その音を奏でている人。

(そこにいろいろくっつけるなんておこがましい)」

 

 

と言ったようなニュアンスのことをおっしゃったことが
とても印象に残っています。

 

 

 

 

すごいアーティストさんたちが、この方の機器を選ぶのは、
まさに、
「ずっと研ぎ澄ませ続けてきた自分の音」
「ずっと研ぎ澄ませ続けてきた自分の思い」

 

それを、ただただ、まっさらに、極限まで正確に、
そのまま増幅してくれる機器だから、
なのではないか、と思ったのでした。

 

 

そして、
これはわたしの仕事とも似ているのです。
その人の最も「その人らしい」音をそのまま、極限まで増幅して
世界へ届ける仕事、と自分の仕事を捉えています。
そうありたい、と願っているわけで。

 

 

思わぬところで、

自分の中心軸とつながるような、

雑なものが細胞から全部出ていくような、すっきりとした体験をすることができました。

 

 

 

なんにせよ「よいもの」というものは、

人を軽くして「本当」「本質」「ありのまま」にかえすものなのだな、と思ったことです。

 

「場の力」を知れー「してあげる」ことだけが親の仕事ではない

 

 

 

 

 

幼子の遊ぶ様子を、同じ部屋にいて20分間「ただ見守る」ということができない、

という親の訴えが次のようなもの。

 

「手を出そう、口を出そう、先回りして指示しよう、道を指し示そうとしてしまう。
親の役割というのはそういうものだと思っている」

 

 

 

「それはこうだよ」
「そのおもちゃはこうやって遊ぶんだよ(と「正しい使い方」を示す)」
「次はこれをしたら?」

 

 

(子育て番組の話です。
子どもの中に「アタッチメント(乳幼児が親との間に築く信頼)」
を育てるために、親が20分間、口を出すことなくただ「遊びを見守る練習」をする)

 

 

 

 

教員でも同じようなところが(わたしは、ですけど)あって、
よーくわかる。

が、これでは育たないらしいのですね。

 

 

子どもの絶対的な安心感。見守られているという安心感。
その土台の上に乗っかって初めて子どもが発揮することができる、

 

 

 

「自分でやろう、自分で行こう、自由自在に冒険しよう、どこまでも行ってみよう」

 

 

 

という「自立のこころ」。
(将来、「自立心」となって発揮されるであろう「心の種」と言うべきか)

 

 

それには、
親との空間が「絶対的な安全・安心の空間」であることが絶対条件なのです。
そこを「安全基地」として、
子どもは初めて興味を外界へと向け、冒険できる。

 

 

 

 

 

 

その親御さん、悪戦苦闘の末、一つ「会得」する。
「ああ、これなんですね、これでいいんですね!」と。

 

「今、私は太陽なのだ」
とその親御さんは言いました。

 

「そう思うと、手も口も出さず、ただ見守っていられる」と。

 

 

 

 

 

何かをする。してあげる。与えるのが親の仕事。大人の仕事。
違います。

(とあえて言ってみる)

 

 

親の仕事は、まず「そこにあること」なのです。

 

存在すること。
最高の状態で、存在すること。
太陽のように、さんさんと絶対的な安心感と「愛」でもって、
ただ「そこにいること」。

 

 

Doing(何をするか)の前に、Being(どうあるか)なのです。
(こちらもどうぞ。
https://commu-w.net/2024/11/10/それはつまり
『それはつまり、親の努力じゃなく言葉になはらない意識の方が伝わる、ということじゃなかろうか』)

 

 

 

 

 

場の力、というものの大切さ、凄さを知る。
その空間に溢れる「空氣」。
自分の身体から出て、その空間を形作っている
「何か」についてもっともっと敏感になる。大切にする。

 

 

 

「何かをしなければならない」「役に立たなければならない」
が一番になると、
「それに貢献していない人」「それができていない状態」の評価は
一氣に下がります。

 

けれど、そうでしょうか?

 

 

 

 

昔から日本人は、「場」という感覚を大切にしてきました。
(プレイス、ではない、たくさんの意味のこもった概念であり感覚です)

 

何かが「出来る」という小さな視点のみでなく、

 

 

「場を作れるあり方」
「場を温められるあり方」

 

 

そのものに価値をおき、
大切にしてきた民族ではないでしょうか。
(と、大昔の、祖母の膝の上の「あの感覚」を思い出しています。あれより「無上の愛」の体験を未だ知らない)

 

 

 

日本人は、いつから「場」というものがわからなくなったのだろう?
疎かにするようになったんだろう?
と思います。

 

 

「場の持つ力」を知れ。
自分が自分自身の存在で、あり方で、波長で
「どんな場」を作っているかを、知れ。

 

 

 

「何をしたらいいの?」
「どう言えばいいの?」
「どう言えば伝わるの?」

 

 

 

 

のはるか以前、
コミュニケーションの根っこの根っこの大切な部分です。

 

 

 

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