久しぶりにオープンセミナーを開くこととしました。



* * * * *
日時:5月18日(日)14時〜18時30分
ところ:カクイックス交流センター(かごしま県民交流センター)
〒892-0816 鹿児島市山下町14番50号
募集:8
受講費:3500円
※上にチラシのスクショも貼ってみましたが、
なんだかぼやけています😅
久しぶりにオープンセミナーを開くこととしました。
* * * * *
日時:5月18日(日)14時〜18時30分
ところ:カクイックス交流センター(かごしま県民交流センター)
〒892-0816 鹿児島市山下町14番50号
募集:8
受講費:3500円
※上にチラシのスクショも貼ってみましたが、
なんだかぼやけています😅
今朝、何かの記事を見て、俗にいう「毒親」の定義はなんだろう?とふと思ったのだけど。
わたしの思う「毒親」とは、
「自分の不安や心配や願望、コンプレックスなどの『心的状態』を
子どもの問題にすり替える親。
そして、そのことに気づかない(気づこうとしない、見ようとしない)親」
でしょうか。
(なので、「親」だけでなくいわゆる「毒教師」「毒上司」「毒配偶者」などというものも
存在するだろうな、と思うわけです)
ちなみに、
「とても満ち足りた、100%幸福な親」に育てられた人は
そんなにいないと思うので、
(敗戦、そしてその後の混乱で、
わたしたちの数代前の先祖の多くは皆、ずっと守り培ってきた価値観の「崩壊」それに
「挫折」が深く刻まれることとなったろうから)
そこからつながるわたしたちは大なり小なり、
「漠とした不安・これがないと幸せじゃない!という思い(願い)
よくわからない自己否定・コンプレックス」
などを持ち合わせているのじゃないか、と思います。
なので誰でもそういう「状態」(毒親・毒大人状態)になりうるし、
なっているときも実は大いにある、
というのが「案外普通のこと」なんじゃないか、と思うわけです。
だから、これがあることが悪いのではない。
(逆に、「全くない」と豪語する人の方が怪しいと思ったりする)
大切なのは、
「自分でそれを認めることができるかどうか。
受け入れることができるかどうか。
これは自分のものだ、自分で癒すぞ、と決めて、
そことしっかり向き合うことができるかどうか」
なのだと思います。
何はともあれ、
自分の幸せは自分の中にしかなく。
何かの条件によるものでもなく、
ましてや人に託すものでもない、
ということはしみじみと思うのです。
そして、全ての大人が、
「楽しく、ワクワクと、静かに満ちて、しみじみと…」
(いろんな言葉がつくけれど😀)
とにかくそういう感じに「自分の」人生を生きていることが。
自分の「中心軸」で生きていることが、
(親は親の「自分が生まれてきた目的」をちゃんと生きていることが)
子どもの幸せにとって、必要不可欠なことなんだ、
と、そう感じます。
今日はなぜこんなことを書いているかというと、
確たる理由は全く思い浮かばないのだけど。
今が、分岐点、な氣がするから、でしょうか。
わたしたちは今、分岐点に立っている。
(という言葉が勝手に浮かんできている)
NLPに、
「親のタイムライン(生きた軌跡)までを遡り、癒し、統合するワーク」
というものがあるんですが。
親のたどってきた人生、思いを癒し、
先祖のたどってきた人生や思いをも癒し、
それら全てを美しく力強い「糧(かて)」に変え、
自分のこれからの未来のタイムラインを生きるための
プラスのエネルギーとする。
そういうワーク。
それは「全て」は、
誇らしく輝かしい「リソース」へと姿を変え、
わたしたちの人生を通して、
次の世代へと手渡されていくことになるのだろう、と思います。
そして、それが今、(わたしたちが)できるかどうか?が
案外これからの日本を大きく左右するのではないだろうか、
(その、最後のポイントに今、わたし達は立っている)
と、そんな氣がしています。
こういうのは理屈ではないので、うまく言えませんが。
ちなみに自分はどうなの?という話なんですが。
昔、20代後半だったか30代前半だったか忘れましたが、
「『負の文化的遺伝子』を次には手渡さない」
と、なぜか思ったことだけははっきりと思い出します。
(ちなみに、うちの親が「毒親」だったと言うわけではなく。
日々悩みつつ、生活しつつ、子どもを愛し、
時にはそれが十分にできない自分にまた悩むというごくごく普通の親でした)
で、
わたし自身、それが今うまくできているかと問われると、
毎瞬毎瞬「プルプル」しています(笑)
(繊細に揺れて、ズレては戻りズレては戻り…ということです)
なんですけれど、
周りに色々な「ズレを元に戻してくれる」たくさんの人や
ものがちゃんと存在してですね
それが本当にありがたいと思っています。
一人ではなかなか難しい。
なので、世の皆さんたちも、無理はしないでくださいね、
というのは大いに言いたいところです。
「赤毛のアン」がとても好き、というわけではないのですが。
子どもの頃、数回は読み、自分なりのイメージや好きな場面もあって。
(アンの親友、ダイアナがアンに間違って飲まされる「いちご水」(実はお酒)が美味しそうだなー、とか)
そして、やはり世界に冠たる「高畑勲監督」の名作中の名作アニメ
「赤毛のアン」が浮かんでくるんですが。
この春始まった新作アニメ「アン・シャーリー」。
プリンスエドワード島の風景が美しく描かれ。
アンも生き生きと可愛くて。
今のアニメ技術で存分に描かれるアンの世界に、
「きれいだなー😍やっぱり絵が綺麗なのは正義だわー」
と見ていたのだけど、
話が進むに従って、少しの違和感が。
言葉にするなら、
「このアン、わたし…ちょっと一緒に暮らしたくないかも」。
カスバート家入り口。
アンを連れ帰ったマシュウに、マリラが
「男の子はどこ?」と言い、「この子しかいなかった」と返すマシュウ。
「なんですって⁉︎」とマリラ。
次の瞬間。
「誰もわたしを欲しくないんだ!」と叫ぶアン。(戸口で)
そして、大泣きしながら案内もされない
(人んちの)部屋の中にズカズカと歩み入って、
(人んちの)居間のテーブルにわっと泣き伏して
繰り言を延々と述べながら泣き続けるアン。
コミカルな演出で、
(コーデリアと呼んで。せめて「e」のついた「アン」と呼んで。
の有名なセリフもここで出てくる)
可愛いよ。
可愛いんですが…。
けど。
なんだかちょっといやだ、この子(笑)
というか、怖い。
アンよ、礼儀はどこへ行った?君の高潔なる矜持はどこへ行った?
その後、SNSにて。
◉「アンは背筋を伸ばし座る。アンは礼儀正しい。
『クイーン・アン』と後にギルバートが言う芯の強さがアンにはあり、
アンは可愛いお転婆娘ではない」
アンが駅で待ってるシーンだけどこの差。アンは背筋を伸ばしすわる。アンは礼儀正しい。「クィーン・アン」と後にギルバードがいう真の強さがアンにはあり、アンは可愛いお転婆少女ではない pic.twitter.com/ihyuNwkiTE
— お絵描き二年生 (@oekaki1nensei_) April 4, 2025
他にも。
◉「ヴィクトリア朝時代の少女が膝を抱えて座っていることはありえない」
◉「原作アンのカバンは布の古い鞄。こんな高級な革製のトランクを孤児は持てない」
◉「そもそもアンはピンクを着ない。
(原作に「赤い髪をした者はたとえ想像でもピンクのものは着られないのよ」のセリフがあるとか)
なのに、ポスターでは堂々とピンクを着ている」
◉「ダイアナの黒い瞳と黒い髪にアンは憧れる。なのにアニメのダイアナの目は青」
などなど。
みなさん、すごいです…。
赤毛のアンの世界観を大切にし、
アンをずっと愛し続けてきた人たちの氣持ちがそこには渦となって溢れていました。
◉「赤毛のアンのアンは
前向きで元気で夢見がちな魅力的な女の子ではなく、
生き抜くために想像力を使った、
愛に飢えたサバイバーなんですよ。
そしてアンを支えるのはその気位の高さ。
誰が相手でもそれを崩さない。
アンは単なる一時的な怒りでギルバードを叩いたわけでもない。
アニメ萌え表現に消費される」
(先の、リンクを貼った方の言葉)
なるほど…。
高畑アニメで感じた、
「繊細な、触れれば壊れてしまいそうな、
けれどもその奥に存在する真っ直ぐなクリスタルの硬質」
を持ったアンの姿を思い出したのでした。
さて。
「原作をどこまで尊重するか?」
「今の時代(の子どもたち)に受け入れられる」ための改変。
わたし自身の「好み」なんですが、
原作(設定・キャラ・世界観)を使って、
「自分の言いたいこと、自分の表現したいこと」を脚本家や監督がぶっ込んでくるような作品作りは
好きではありません。
そして、
「今の時代のテンポ、感覚」に合うように変えることは
あってよしですが、
(時代劇だって厳密に作れば「お歯黒女性」だらけになってしまうわけですし)
キャラクターの性格や物語の設定における、
「作者が最も表現したかった」根幹に関わる部分の改変は、なし、
ではないか、と思っています。
ちなみに、
SNSで印象に残ったもう一つの言葉があって。
「今はもう、原作を読み込める制作者がいない」
「凜とした少女、を描ける人はもういない」
といったもので。
恐ろしいことですが、そういうこともあるのだろうかと思ったり。
さて、さらなる願い、なのですが。
子どもには。
いえ、子どもに届けるものだからこそなおさら、
「わからないだろうから変えてあげよう、
薄めてあげよう、
こっちの方が見栄えがいいだろう」
といった大人側の安易な、勝手な
(戦後の薄い、毒された「テレビ文化」の中で育った貧困な想像力から生まれた)
「改変」ではなく、
ガッツリと「作者が描いたキャラクター」そのままに
「作者が描いた世界観」
「真に伝えたかったこと」を、
子どもたちに手渡してほしい、と思っています。
ゆるいお粥のような作品ではなく、
噛みごたえのある強飯(こわめし)を与えて欲しい、と思います。
子どもはそこまでバカでも、愚かでもないのだから。
そこへの思いや努力がないのなら、
「原作もの」に手を出してはいけない、というのは言い過ぎでしょうか。
(上記SNSの方の言葉のように「萌えアニメとして消費」するために
原作の世界観を使ってほしくはないなと)
何より、原作者が、
「ああ!映像化してくれてありがとう!アニメ化してくれてありがとう!」
と喜ぶ作品になるのが一番だと思います。
この「アン・シャーリー」を、
作者のモンゴメリが見たらなんと言うかはもちろんわからないんですけれど。
(案外面白がったりしてですね。
そして、この「アン・シャーリー」。
十分に面白くて「いいアニメ」なことは確かだと思っているのです)
(上の新旧比較写真は、先のリンクを貼った方のSNSよりお借りしました)
昔、ゴダイゴが大好きな子がいて、その子が歌の英語部分を得意げに発音しながら
「英語は一つの音に一つの『単語』が入るけど、
日本語は一つの音に一つの『字(仮名)』しか入らない。
だから日本語の歌はダメなのよ。
(内容が薄い。従って劣っている)」
といった意味の発言をしたことを
よく覚えているのだけど。
それから年月はたち、
「一つの音に、真っ直ぐのびやかな一つの音がスッキリと入る」
我が母語がますます好きになっています。
どの音を伸ばしても、その先に真っ直ぐな母音が広がる日本語。
口にしていて本当に気持ちよい。身体が心地よい。
その、世界にたった一つしかない、
(正確には、日本語と、それからポリネシアの一部の島のみにしかない)
「母音を中心とした言語(母音を主体に音声認識をする言語)」
である日本語の歌が、ボカロ文化を通じて
今、世界の若者たちを魅了している、という番組を見ました。
訳されたものを歌っているのではなく。
英語やフランス語、その他…
圧倒的多数を占める
(そして、世界をいい意味でも逆の意味でも牽引してきた)
「子音言語」
の国の若者たちが、日本語のままで歌い、熱狂し、涙し、大合唱を繰り広げている。
それを見ながら、
「ああ、これから世界は平和になるなあ…」
と。
英語を話す時と日本語を話す時では性格が変わる、
というのはよく聞くけれど。
子音言語は、
「ディスカッション」「ディベート」が必要だった人たちの間で
発達した言語なのだ、と読んだことがあり。
「シュッ」「ツッ」と口をすぼめ、
鋭く息を吐き出す複雑な破裂音が圧倒的に多い。
自然は「征服」する対象。
自分を主張し、他者を威嚇し、境界線を引き、
自分の生存を確保する必要があった。
いわば戦いの言語、なのだ、と。
そして、生きることが過酷な地域ほど
「複雑な鋭い子音の発音」を持つ言語として発達している、と。
(例として、砂漠の民の言語、アラビア語が挙げてあり)
かたや、縄文時代数万年にわたり
「戦いのなかった平和な時代」を謳歌したゆえか、
日本語はその「音」からして、単純でおおらか。
「アー」
「オー」
「ウー」
日本語を(母音を)口にするとき、
身体は開き、リラックスして解放される。
自然の音を写し取り、自然と融和する言語。
それが日本語なのだと。
「古代日本は、農耕をせずとも…自然に生える草や実と、
浜にいる魚貝を採取していれば十分に間に合ったのだ」
「自然に恵まれ、誰かを威嚇したり殺したりする必要もなく
…私たちの祖先は、ことばを生み出したとき、
威嚇の必要性を感じなかったのである」
今、日本語の歌を熱唱する若者たちが世界中にいる。
日本語を発することで得られる、
「ゆるむ」「おおらかな」心地よい身体感覚をその身体に響かせ、
日本語の「余白」「あわい」の世界観を受け取り、
「これは自分たちのことを言い表している」
「これはわたしのことを歌っている」
と、そこに「居場所」を見つけている若者たちがいる。
虫の音や雨の音…
子音言語の脳には「ノイズ(騒音)」としか聞こえない自然の音に
「メッセージ」を見出す稀有な言語を、世界の若者たちが合唱している。
それはつまり、世界でただ一つ、
「地球の声を聞ける言語」
が、日本語であり、
それを世界の若者たちが合唱している、
ということではないか?と思うのだ。
そんな彼らが大人になり、これからの世界を作る。
彼らの中には、彼らの最も繊細な時期をしっかりと支えた
日本語の歌、日本の文化がきっと生きている。
(子どもの頃に培った感覚は消えることはないのだから)
これで平和にならないわけがない、と思うのです。
(参考、引用ともに「日本語はなぜ美しいのか」黒川伊保子 より)
前売り券をいただいたので映画館に行ってきました。
「親鸞ー人生の目的ー」
(アニメです。出ている声優さんが結構豪華でですね◁大事なところ)
感想なのですが。
自分を認めよ、そのままの自分を愛せよ、
まず自分が今のままの自分で幸せになれ、
それなくして周りの幸せは、ない。
という映画かなあと。
煩悩はなくらなない。
私たちが煩悩と呼んでいるものは
人の自然な「生」の発露と表裏一体。
美味しいものを食べたい→生きる欲求
異性に惹かれる→種の保存の欲求
もっとお金が欲しい→安心や自由への欲求
それを「よくないもの」として
消そうとすること自体無理がある。
人の素直な「生のエネルギー」に反する。
それを認め、愛し、抱きしめるからこそ、
それの肥大、暴走から、自由になることができる。
前半、
若き親鸞が山にこもって修行をする20年間が
(自分は煩悩まみれだー!死んだらどこへいくんだー!と)
もう見ていてキツくて(笑)
「早くやめなよ、そんな無駄なこと」
と思いながら見ていました。
逆に、山なんかにこもってるからわからないんじゃないの?
膨らんじゃうんじゃないの?
365日、そればっかり考えているわけで、
そりゃあ、大木にガンガン頭打ちつけたくもなるよ、と。
市井に降りて、
目の前のことせっせとやって「生活」しなよ、
真の悟りはそこからしか生まれないわよ。
なんて思いつつ。
(今、世界中の親鸞ファンを敵に回しているかもです💧)
で、思い出したのですが。
悟りたい(解脱したい、だったかな?)僧が
生きながら墓に入るんだったか、
密閉した船で海に出るんだったかをやる話。
「何がなんでも、死んでも解脱してやる(変な言い方ですが)」
という…
逆に凄まじい「執着」ともいえると、
はっとしたことがあったんですが。
さて。
親鸞が生きた時代からすると、わたしたちは少し
「進歩」しているのかな?とも思えます。
人の意識の進化、といったほうがいいでしょうか。
親鸞の時代は、
「阿弥陀仏」「念仏」という「形」を使って、
「そのままの自分を阿弥陀仏は抱き止めてくれる」
「だからそのままの自分を愛せよ」
「そのままのあなたで救われる」
という「教え」で人を導き救おうとしたわけですが、
今、わたしたちはそれを普通に「知って」いる。
自分の中のたくさんの「自分」を赦し、愛し、
手を携えて生きていくことを知っている。
そこにこそ幸せがあることを知っている。
(サクッとできるかは置いておき)
ここまで書いて、
人の意識の広がりも進化も、親鸞はじめ、多くの人たちの「修行」
(人間の探究・心の探究・信仰の探究ときづき)
の先にあるものなんだよなと。
そう考えると「現代人の上から目線」の
「やめなよ、そんな無駄なこと」
ではなく、
「ありがとう。あなたたちの『旅』の先に、今の私たちがいる」
ということかなあと今、思いました。
ちなみに、親鸞の声が櫻井孝宏さんで、その奥様の「玉日姫」の声が花澤香菜さん。
「でた!水柱と恋柱…」
と思いながら見ていたことでした。
マイナーアニメながら、声優さんが豪華でした。本当に。
(櫻井孝宏の声で「なむあみだぶつ」が聞けるレアな感覚&至福感)