「使う言葉はその人の内面そのもの」

それを言い表す言葉がない

(持たない)

ということは、「それはない」(その概念は存在しない。そのモノ自体がない)

ということと一緒なのだ、

ということをいつぞやのセミナーでお話した気がします。

「認識できるセンサー」を持っていないということは

もはやそれは存在しないということと同じなのだ、ということです。

あるアフリカの民族に

数種類の「緑」と「青」が塗られたボードを見せる。

日本に住むわたしたちには、すべてその「違い」が

色の名前とともに「見分けられる」のもばかり。

全部違う色。

(黄緑、青緑、深緑…などなど。呼び方は様々あると思いますが)

そのアフリカの人には「色の見分けがつかなった」。

青と緑、どちらの見分けがつかなかったのか…ちょっとうろ覚えなんですが

とにかくその人は

「全部同じ色じゃないか」

と発言した、と記憶しています。

環境によって、発達する感覚は違う。

生きて行くうえで、あまり必要とされない感覚は発達しない。

ということなんでしょう。

少し前にテレビでやっていた

「辞書を編む人たち」という番組で

大学院で日本語研究をしているという若いインターンの女性が

辞書に乗せる言葉の意味を書くのに四苦八苦する場面がありました。

彼女が意味をまとめなければならない言葉は

「エッジ」と「盛る」。

(髪を盛る、といった用例の際の「盛る」の意味ですね)

「もっとエッジの効いた質問をしろ!」なんて

コーチングを勉強し始めたころよく言われてたなあ…などと思いながら

彼女がどうまとめるのかを見ました。

「語釈」をまとめる過程は

それは大変そうで…。その作業を通して、

彼女が自分の視野や感覚に気づいていく過程が興味深い。

エッジ【edge】

④(主にファッションや音楽において)

(刃のような)鋭さ、あるいは切れ味のこと。「-のきいたデザインの服」「-をきかせたサウンド」

うん、これはちょっと伝わらないなあ、と

わたしでも思う、彼女が書いた一回目の語釈。

「鋭さと切れ味の違いって何?」などなど上司から突っ込まれ、玉砕。

続いて。

エッジ【edge】

④刃物などのような鋭い様子のもの。

「-のきいたデザイン」

…なんだか、ますますわかりにくくなってますけど。

「ふち・へり」「刃」という「エッジ」という言葉が持つ意味から広がって

多くの人たちがファッションの世界で、音楽の世界で…

「エッジ」という言葉を使うことで表現したいニュアンス。

「エッジ」という言葉の持つ「力」に託して表現したい「世界」

それは

どんなに『知識として』たくさんの言葉をもっていたとて

それだけではつかめない。

「エッジ」のきいた世界を「体感覚レベルで」

「聞き分けられ」「見分けられ」「感じ分けられる」感覚を持たなければならない。

表現しようもない。

そういったセンサーを常に磨いていなければならない、

ということなのでしょう。

彼女はジャズを聞き(「エッジの効いた」演奏と、そうでない演奏を)

それから

「エッジ」という言葉をどう使っているか、という街頭アンケートをする…

という手で、この課題を乗り越えます。

7時間、街に立って街ゆく人に声を掛け続ける彼女。

それは、ひとえに、彼女が自分を開き、

多くの「言葉」を

(言葉というより、知識としての言葉に息吹を吹き込み、生きた言葉として表現するための感覚を)

徐々に獲得していく過程であったようにも思いました。

エッジ【edge】

④(主にファッションや音楽などで)

ある要素を強調することで生まれる斬新さやめりはり。

「-のきいた服」「-をきかせたサウンド」「-の立った曲」

これが

最後に彼女が書き上げた語釈。

この短い言葉の連なりの中に、彼女の「新しい言葉」が詰まっています。

言葉を獲得するということは、

言葉の繊細な差異を感じられるということは

生きる世界を広げるということ。

見えるもの、聞こえるもの、感じられるものが増える。

分かるものが増えるということ。

それはつまり、

表現の可能性が広がるということで、伝えられるものが、方法が増えるということ。

より多くの人に、多様な方法で、その人それぞれの心のひだに入りこむ様に

伝え、届けられる可能性が増える。

だからこそ

自分自身もいつも、「言葉」と、それが表わす世界、感覚に対して敏感でいたい

と思ったことでした。

何より…

自然ひとつをとっても四季の表情豊かな私たちの国。

雨、雲、風、雪、そして色も…それらを言い表す言葉の数の多さと美しさ。

「繊細であること」「違いが判ること」ことこそが

なによりの強みのひとつである日本人として

それらを磨かず、錆びつかせてしまうのは

とてももったいなくもあり、また怠惰である気がするのです。

「その言葉の前提は何か?」

いつも東京に行くたびに

それはそれはお世話になる知り合いのご家族がいます。

その方の住む街は

大きな欅の並木がそれはそれは美しく。

あんな並木はちょっと見たことがありません。

なにせ、徳川家康が植えた(いえいえ、寄進した)ってんだから、すごい。

直径5~6メートルはありそうな欅の大木のつらなるその先には

1000年を超える古からの社が鎮座するというなんとも美しい街です。

5月の祭りでは、その並木を馬が駆け抜けるらしく…ああ、見てみたい。

話がはじめっからそれています。

いけないいけない。

その欅の並木の近くには、古いソメイヨシノの並木道もあり、これまた美しい。

「この並木を、毎年小学校の鼓笛隊が演奏して歩くのよ。結構有名な鼓笛隊で…」

「へえ!じゃあ、地域の皆さん、毎年楽しみにしてらっしゃるんじゃないですか?」

鹿児島でいうと

某小学校の某有名ジャズバンドみたいなものかな??

なんてイメージじながら聞いていました。

聞くと、ほんとうに厳しい練習で有名な鼓笛隊のだそうで

しかも、希望者で構成される「部活動」ではなくて、全員参加なのだとか。

いや~、それは大変そう。

「うちの娘が小6の時にね…」

話は続きます。

どうしてこの方が内情に詳しいかというと

まさに、ご自身の娘さんがかかわったからなのですね。

地域でも有名な鼓笛隊。

朝練つきの厳しい特訓。

難しそうなポジションや楽器はすべて試験つき。

3人しかなれない指揮者などはもう、いわずもがなで。

で、

その方の長女さん。小6の頃のこと。

もちろん問答無用に鼓笛隊に所属していました。

で、どの楽器をする?となったときに、長女さんが選んだのは笛でした。

縦笛。

「あの子は、ほんとうに欲というか、頑張ろう、人よりこうなろう!というようなものが、

ないのよねえ…マイペースで」

と、私の知人はしみじみ、といった口調でお話なさいます。

そして、ここから更に、あらたな登場人物が。

「でね、そのパレードを見た妹がね、日記を書いたのよ」

妹さん、わたしももちろん、会ったことがあるのですが

それはそれはテンポのよい勢いのあるリズムで話す元気な方です。

そのとき妹さん、小3くらいでしたか。

彼女は、お姉ちゃんの晴れの鼓笛隊パレードで指揮者の横に登場!

部外者でありながらちゃっかりと新聞掲載の写真に収まるという

快挙を成し遂げ

さらにはその日の感動を、こう、学校提出用の日記にしたためたのでした。

『お姉ちゃんは笛なんかやって。

わたしだったら絶対指揮者をするのに!』

ああ、そうかあ~。

素直な、小学校3年生の感想です。

憧れと、鼓笛隊を見た高揚感と、自分の未来への夢をたくさんに託した

素直な思いの表現!

で、

ここからなのです。わたしが

なんじゃそりゃ?と思ったのは。

翌日、妹さんの日記に、先生からのコメントがついて帰ってきました。

このように。

 『おねえさんも、おねえさんなりに頑張っているんですから

 もっといいところを見てあげましょう』

「ひどい~、そのコメント!」

「でしょう~?」

帳面にコメントを書くまねをしながら話すその方の声を聞きながら

顔を見合わせて、つい笑ってしまいました。

言葉の奥にある先生自身の価値観が

(「前提」が)ビシビシと伝わってくるなんとも、「名」コメント。

表面には出ないけれど言葉の底に込められた「前提」というものは

人の無意識下にするりと入りこみ大きな影響を与えるのですよね。

なかなか強大なメッセージです。

その夜

件の話の主人公、つまり、長女さんと、けっこう長く雑談をしました。

彼女は今、30代。

人を束ねる立場に、長いことついていらっしゃいます。

趣味の話、旅の話…

いろんなことを話していて感じたのは、なんとも懐の広い方だなあ、ということ。

「アジアの街の、混沌とした活気が大好き」

という彼女からは、

白と黒、善と悪にきっかりと分ける、という世界とは反対のものを感じます。

すべてにおいて

そのままの状態をよしとして受け入れ、慈しむ…それがいつものこの方の

「あり方」なんだろうなあと、そんな感じでしょうか。

この人のお店でならスタッフしてみたい、とふと思ったり。

まとまらないまま

今日のテーマは終わろうとしています。

最後に質問。

あなたなら、どんなお返事コメントを書きますか?

「宇宙はそれをこそ、『才能』と呼ぶ」

昨日

知人の「コスプレイヤー」

(というと、おおいに言い過ぎですが!)

のお話を書きました。

特注衣装でライブに臨む熱き真面目な男のハナシ。

http://ameblo.jp/businesskouko/entry-11725861108.html

その方から、「ブログ拝読しました」の一言とともに新たなるメールが。

「可分なお言葉、ありがとうございます。

割と他人に言われます。

多趣味やなあ、とか、何にでも一生懸命やね、と。

私は、『何にでも一生懸命でない』人世を過ごしたことがないので

(やや過剰表現ですが)

逆に『なんでみんな普通で納得してるんやろ』

と思っていました。

で、ごく最近、気づきました。

私の生き方の根本にある、一つの気持ち…

他の方には多分ないんです。

それに、44歳になって気づきました^^;」

おもわず「それです!」と大声で叫びたくなりました。

「それをこそ、才能と呼ぶのですよ」

と。

コミュニケーション・ワークス中村公子公式ブログ

「才能とは、繰り返し行われる感情や思考や行動のパターンである」

土曜日、福岡で参加していた「才能ワークショップ」における

「才能」の定義です。

自分にとってはそれがあまりにも当たり前。

水や空気のように普通に自分の中にいつもある。その存在の意味を疑いさえしない。

そんな思考や行動のパターン。

あまりにも当たり前なので

「みながそれを普通に持っているはずだ」(だから、これは特別なことではない)

と思い込んでしまっている、そんな思考や感情、行動。

それこそが「才能」である。

ワークショップでは、それぞれが持つ「特質」ごとに分かれて通称「部族会議」。

そして

自分たちの「スタンダード」を場内に向けて発表したのですが

部族間のあまりの「違い」に、場内、驚きや爆笑のどよめきの渦でしたっけ。

思い出の旅のレシート一枚までとっておく「収集心」族

(これ、わたしです)

ルーティンワークをさせると3日で死亡してしまう^^「着想」族

いつも新しいこと、ワクワクすることを求めている

(これもわたしです)

いつも「もっともっと」と、上り続ける「最上志向」族。

他者からの評価ではなく、自分の「もっと」ごころが満足するまでやめられない。

などなど…

自分が自分である限り

生きて、呼吸をしている限り

「ついやってしまう」「やめようったってやめられない」自分にとってあまりにも当たり前の

思考や行動のパターン。

それをこそ、「強み」として生かすのだ。

自分の人生に!組織作りに!

とまあ、そういうワークショップだったのですが。

何度か私自身のセミナーでも話したことがあるのですが

この話で(「ストレングス・ファインダー」の観点から見た才能の話ですね)

いつも思い出すのは

「ネコのサーカス」の話です。

ネコが、逆立ちや、何やら…いろんな芸をするサーカス団のこと。以前テレビで見たのです。

そのニュースのポイントは

「気まぐれな猫に、どうやって芸を覚えさせるのか」??でした。

答えは・・・

「覚えさせない」

ネコに、芸をわざわざ覚えさせたりなんかしない。

はじめから、その「芸」に近い動きをするのが大好きなネコに、それをやってもらうのだ。

そして、そういう「個性」が集まり、一つのサーカス団が出来る。

「私の生き方の根本にある、一つの気持ち…

他の方には多分ないんです。」

そう記されたメールを見ながら、何だか胸が熱くなりました。

そう、それこそが、あなたの才能なんですよ。

『一生懸命でない人生を過ごしたことがない』。

そうせずにはいられないあなたの熱、高いレベルのこだわり…

それゆえに、あなたはこれまでたくさんの、人が手に入れられない成果や

多くの感動を手に入れてきたではないですか。

それを、わたしにもいつもおすそ分けしてくれたではないですか。

それこそが

あなたをあなたたらしめている魅力です。

そんな思いが胸にあふれながら

返事のメールを書いたのでした。

みなさんの中にある

あなたをあなたたらしめている「繰り返し行われる感情や思考や行動のパターン」は何ですか?

それを大切にしていますか?

愛おしいと思っていますか?

嫌ったりなんか、していませんよね?

宇宙は。

天は。

それをこそ、「才能」と呼ぶ。

今こそ、自分の「才能」を存分に使い、発揮するときなのです。

わたしたち一人一人が。

(※参考書籍:「さあ、才能に目覚めよう~あなたの5つの強みを見出し、生かす」

                                 日本経済新聞社  )

「自分の位置に立つ」

ワークショップの場で参加のお一人が

「ふっと、シェアしたくなったんですけど」

と、話してくださったお話です。

そのときやっていたのは

「出会いのワーク」で

他者と向かい合ったときに

自分の中に起こる感覚や感情をただ味わい、体を任せる、というようなものだったんですが。

どんな話かというと、その方のご家族のお話でした。

その方のお祖母様が、施設にはいることとなった。

その一連の出来事に直面し

家族、親戚の方の不安や動揺、とまどいやいらだちが

互いに噴出する場面に、その方は遭遇したのだそう。

どの家族にも「歴史」あり。

家族といえども、いえ、家族だからこそ

「笑って流せない」気持がたまにはあったりもするもので

状況を前にその方は

「お母さんの気持ちもわかる。叔母さんの気持ちもわかる。

目の前で繰り広げられる光景に不安をになるお祖母さんの気持ちもよくわかる」

という状態で、

誰の肩を持つこともできず。

家族の「互いの心の悲鳴」を目の当たりに聞かなければならなかった

その場面を想像して

「つらかったろうな。逃げ出したかったろうな」

と想像しつつ。

話は続きます。

さて

その状況の中

その方が選んだのは「そこにいつづけること」でした。

「自分のままで」「自分自身として」。

誰の感情に巻き込まれることもなく

場に満ちた「不安」「怒り」の波の渦に飲まれることなく

ただ、自分として、そこにいつづけよう。

問題解決という名の他者攻撃に走ることもしない。
鎧も着ない。

ただ、そこにあり続けよう。

その一点のみをイメージして

その方はずっとそこに、「居続けた」のだそうです。

ニュートラルに。

お婆ちゃんの横に座って、そして、体の力を抜いて、リラックスして。

手を握って、ただ寄り添っていたのだそう。

聞きながら

昔読んだ本にあった「碁盤の目」の喩えのイメージを思い出していました。

「みな、本来、碁盤の目の一つ一つの点にしっかりとまっすぐに立っている。

一人がずれてしまうと、周りも押されて、みんながずれていってしまう。

それが、今の世の中なのだ」

と、その喩えは始まっていました。

「けれど…」

と、喩えは続きます。

「誰か一人でも気づき、自分の立ち位置に帰ることを始めれば

周りも押されて、いずれ全員がまた『本来の場所』に戻ることができるのだ」

ああ、この方は

それをやったんだなあ、と思いました。

渦にのまれず、自分の軸でもってまず立つ、というのは

なかなか大変な場合も多いのではないでしょうか。

自分で「出会いのワーク」を体験するときも思うのですが

人は「何かに直面した時」に

自分の中に起こる感情や感覚を、ただ受け入れ、ありのままに認める

ということがなかなかできません。

体の発する声を聴かない。認めない。

そこをすっ飛ばしてすぐに

先読み、防衛・・・

自分の中に起こった居心地悪さのごまかし

問題解決

そこへ飛びつこうとします。

本当の「解決」はそこからは始まらないのですけれどね。

その方の

「出会いのワーク」。

静かにただそこに立つ姿は本当に自然で、やわらかくて、安定感に満ちており

つい

「…屋久杉みたいですよ」

という言葉が口をついて出てしまったくらいだったのですが

その方のお話に

「そういうわけだったのか」

と皆で大いに納得したのでした。

「任せる・ゆだねる・明け渡す」

最近
仕事について話したことをプロのライターさんにまとめていただくという機会があり。

海沿いのカフェ。
心地よい雰囲気の中、お昼過ぎに始まったインタビューは
目の前の桜島が茜色に染まるころに終了。

 
  
 

思うまま、自由に語らせていただいた
なんとも気持ちの良い約3時間の長広舌だったのですが
その後、
見事ぴたっ…
と、わずか一日で話した内容をまとめてくださったのには、本当に脱帽でした。
しかも、その内容は、わずかな字数で
驚くほどわたしの伝えたい部分の核心を
捉えてくださっており。
正直なところ、あまりの「そこです!」な感じに
こんなにもわかってもらえた…と、少し泣きそうになったくらいに
嬉しかったのでした。

限られた字数の中で、
あの膨大な話の中からこの文章をまとめあげるという力は
一言でいうと「センス」だろうな、と思うのです。
文章を書くということに関する知識や技術だけではないところの「センス」。

例えば
多分、ライターさんは、五感を総動員して
あの場にいてくださったのだろうな、と思うのです。
言葉とともに
言葉だけではないものを聞いてくださっていたのだろうな、と。
わたしの呼吸、声にだんだんこもってくる熱、表情・・・
そういったものすべてを「見て」「聞いて」「感じて」くださっていたのだろうな、と。

あの場に共にいて
あの「空気」を共有したものでなければ書くことができない内容の凝縮であり
文章であるな、と感じたのでした。
そのことを、再度強く確認したのは、ライターさんの下記の言葉。

「たとえ、文章として理路整然としていなくても
私がその場へ行き、その方にお会いしたからこそ、聞いたからこそ
書ける言葉を書きたいのです」

数回にわたる原稿のやり取りの中で
その方からいただいたメールの中の言葉です。
(実際はもう少し違う表現だったのですが、その方とのやりとりの中での大切な
言葉なので少しニュアンスを変えて書きました)

原稿をやり取りするうちに
だんだんと熱が入ってしまい

「ここはこういう文言のほうがより意味が伝わるのでは?」

と、ついこだわりすぎるわたしに
この言葉をくださいました。

ああ。
そうだった。

「伝える」ことが仕事ゆえに
自分の言葉で、自分の世界をいかに正確に表現するかに
つい肩の力がはいってしまったのですが。

ライターさんがいる意味。
その方の感性で見て、聞いて、感じてくださっていることの意味。
その方の「フィルター」を通して自分の世界が
言葉となり、発信されることの意味。

「その世界」にどっぷりと浸っている者には
もはや持ちようもない
新鮮な疑問や驚き。
わたしにはない視点からわたしの世界に触れてくださり
「お客様」とわたしの世界、を
繋ぐ役割を果たしてくださってる
何より貴重な「架け橋」としての言葉ではないか。

そんなことをはた、と再確認したのでした。

「私の言葉では
今まで通り、これまで伝わってきた人にしか伝わらないじゃないか」

日々、そして万事
つい
がんばってしまう。
自分の力のみを恃みに
走ってしまう、そんなときもあるのですが

「任せる。ゆだねる。明け渡す」

それが出来ると、
人生のいろいろな場面でもっと楽に、風通し良くなるな。
そして、
自分の人生に、自分の視野だけでは得られない様々な可能性が
開けてくるな。

そんなことを、
改めてしっかりと感じた、
大切な時間となりました。

大きな気づきをくださったライターさんに
心から感謝しています。

「責任持って、幸せでいましょう」

今年の春は
本当に満たされることだらけで。
ことに幸せです。

よく考えると
それは自分が自分にそのことを与えている、許している、ということなのですよね。
もう、たくさんたくさん。山ほど。
そして振り返ると
正直、そうでなかった時間も長かったなあ~
と思います。

小さいころは
無意識どころか、意識の上でも
かなりはっきりと
「我慢するのが当たり前」「欲しいと言ってはいけない」
「自分の人生に、自分の望むものは手に入らない(その資格がない)」
と、思っていましたっけ。
そして、その行動パターンをしっかりと体の中に作り上げていました。

もしかして、そうじゃないんじゃないか…?
といつのころからか思い出し
それからは
「そうでない証拠」を
地道に、一つづつ、集め、集め…丁寧に丁寧に。ゆっくりと。
それはまるで、積もった砂や土砂を刷毛で少しづつ払い
宝を掘り出す発掘作業のようなもので。
そしてここ数年は、それを恐ろしい勢いで塗り替えにかかっている気がします。

すると
なんと、人生というもののスムーズに流れることか。
…なんだ。もっとはやくこうすりゃよかった。

というふうに
とにかく幸せを噛みしめていたこの春
ある方からメールをもらいました。

内容は、私に対してではなく
あることへの非難を書いていらしたんですが
言葉が体に刺さってくるのです。
結構ツライ。
「人の怒りの呼気はハエを殺す、って実験を聞いたことがあるけれど本当だな」
と、ふとそんな記憶が頭をよぎり。

その方の言葉の奥底に感じるのは「不安」と「恐れ」そして「焦り」で
ああ、今、不安定なんだな。大変なんだな、と思いました。
その中で、一生懸命頑張っているんだな。

今自分にできることは何だろう、と思ったのですが
「責任をもって、幸せでいること」
だと思い至りました。
揺るがぬ幸せの状態でいること。
外から与えられるモノや状態によって左右されるのではない。
自分の中から湧き上がる
自分の中の泉とつながった、揺るがぬ幸せ。
いつでも、その状態に自分で帰れること。

自分のために
そして、自分の波動が影響を与えるであろう、周囲の人たちのために
自分がいつも幸せでいたい、と思いました。
責任を持って、幸せでいよう、と。

これからも
わたしは自分にたゆまず、あきらめず、妥協なく
「幸せ」をプレゼントし続ける予定です。
毎日、毎瞬。

「食パンの四枚切りはありますか?」

その店員さんは

動きもきびきびと一生懸命で、その人柄の誠実さが伝わってくるよう。

とても好感が持てるのです。

応援したくなる。

が、

何かが一点「惜しい」。

と、パンを買ってレジでお金を払いつつ思ったのでした。

その疑問はほどなく解けました。

店の一角のカフェスペースでお茶を飲み始めて間もなく

「食パンの四枚切りはありますか?」

新しく入ってきたお客様の声。

即座にこんな返答が聞こえてきました。

「あっ…(申し訳なさそう)五枚切りか六枚切りですね…

(ますます申し訳なさそう)ご予約いただければ四枚切りもできるんですが…申し訳ありません」

お客さんと店員さんの間に流れる微妙な間。
まるで
二人の間のエネルギーがだんだん下がってくるのが見えるような。

店員さんの表情が想像できました。

そう、きっと、さっきと同じ顔。

少し眉間にしわを寄せて、まゆ尻が八の字に下がったその表情。

はじけきらない遠慮がちな笑顔。

…もったいない

なんだかとてももったいない。

わたしならなんと言ってもらったら嬉しいかなあ

というか、がっかりした気持ちが軽減されるかなあ

と考えてみました。

こんな感じかな。

「申し訳ございません。(笑顔で)今日は置いていないのですが、ご予約いただければ

いつでも、お好みの厚さと枚数でご準備できます!!」

こっちのほうが嬉しい。

「じゃあ次お願い」と言いたくなるかも。
時間があったら
「四枚切り」にすると特に美味しそうなパンなどおすすめしてもらったらさらに盛り上がるかもしれません。

お客様の「意識の滞留時間」を

どこに持ってくるか、これは大きな問題な気がするのです。

「準備がない」

「お客様のご要望に、今この瞬間、すぐに応えることができない」

それは厳然たる事実で

ごまかすことはできない。

ここからです。

お客様の意識を長時間「お店の欠乏」「ないお店」「使えないお店」という点に

当てさせておくことはない。

意識は、焦点をあてたものを増大します。

お店の「欠乏」部分に焦点を当てればあてるほど

お客様の無意識にはそのイメージが刻まれます。

声のトーン、表情、言葉…すべてを使って

せっかく期待してきてくださったお客様の意識と無意識に

「役に立つ力がない店なんですスイマセン」のメッセージを刷り込み続けてどうする!

というわけです。

もったいない。実にもったいない。

いかに早く

お客様の意識を「プラス面」に転じてもらうか。

「できるお店」

「自分の要望を満たしてくれるお店」

「その気(満たす気)満々の提案力のあるお店」

であるという部分に視点を移し、そっちに焦点を当てててもらうか。

どこをお客様の印象に深く刻んでもらうのか。

「今はできない」「持ってない」けれど

その「危機」をも、いかに「お店のやる気と魅力」を伝える要素に(チャンスに)瞬時に転じられるか

という言い方もできるかもしれません。

と、ここまで書いて、懐かしいな、と。

昔、結婚式のプロデュースをしていた頃、そういうことが多かったのでした。
いろいろな会場に行って、そこで披露宴をつくっていました。

レストランや料亭さん…もともと大人数のパーティーのために作られた場所ではない会場で

結婚式をつくることも多かったのですが。

お客様の動線、音響設備、新郎新婦の控室、…すべてがピカピカに良い状態のものが

完璧に整えられる会場なんてまずない。

そのほか、当日に起きる事態(ガーデン挙式で雨、ですとか)などなど

結構いろいろとあるもので。

「そこにあるもの」「現状」を使うしかない中で

それを「どうプラスに生かしていくか」の姿勢を、言葉を、表現を条件反射になるくらい

鍛えられた気がします。

「欠点」を補完し

さらにはかえって「それがあったからこそよりよくなった」くらいの提案、演出をできるか。

それは次第に、とても楽しい作業になって行きました。

話がそれました。

言葉の使い方ひとつで、物事に対する人の感じかたは(焦点の当たり所は)変わるんだなあと

ますます実感したというお話でした。

脳の癖は

「焦点化」

そして

「焦点をあてたものを引き寄せる」。

言葉は

焦点を当てる場所を「指定」することができる大切なツールです。

意識を当てる場所は言葉によって瞬時に変えることができる。

まるで、スポットライトが照らす場所を一瞬にして変えるように。

使う言葉で人生が変わると言いますが

日々の小さな瞬間瞬間が積み重なると

まさにそういうことになるんだろうなあと

そんなことも思いました。

「『もう出ません』そっからが勝負」

変なタイトルだなあ(笑)

さっき、サイトのデザイナーさんと話をしていたのです。

で、その方が興味深いことをおっしゃったのですね。

「二作目がよい」。

どういうことかと言いますと

クライアントさんと打ち合わせをし、詳しくイメージを聞き、さまざますり合わせて

デザインをつくる。

完成する。

(実際、私のヘッダーも、一つ、完成したところです)

そして…

「ここからが勝負!」

とはおっしゃいませんでしたけれど

それを経て、

次につくる二作目がとても「よい」ことがその方は多いのだそう。

その方いはく

「一作目は『顕在意識』にアクセスして作る

二作目は『潜在意識』にアクセスして作る」

「一作目はお互い『我』が出るんですよね~」

とその方。

面白い。

イメージを伝え、使用する写真素材を提供したのはわたし。

それを咀嚼し、ふくらませ、作品として形にしたのはその方。

私の解釈ですけれど

こう見せたい、こうしたほうが「受けが」いいんじゃないだろうか

これだけできるんだ…等々

お互いの「我」(見栄の張り合い^^?)が残った状態できる一作目。という感じでしょうか。

「それを全部出しきったところから本当の創作は始まる」

(ははあ~、なるほど~)

コーチングのセッションにも似たような部分があります。

「もうない」。そこからが始まり。

私のメンターは、以前よくこういってました。

「歯磨きチューブのさらなる一押し」

「もう出ないや…」そう思ってから、そこから先にさらに出てくるものがある、ということです。

(そこにこそ、素敵なものや核心が隠れていることが多い、という意味も含みます)

例えばクライアントさんにアイデアなどを聞くときに

「他には?」「それから?」

と畳み掛けるように聞いていくことがありますが

それはまさに「顕在意識」で本人が「わかっていること」「把握できていること」

「コントロールできている範囲の答え」が出尽くした時に

その奥に自分も気づいていなかったさらなるリソース、宝、方法、アイデアが

湧き出てくる、その「扉」を開くための問いかけです。

「ここからが始まり」

その方の言葉は、わたしに軽やかさと楽しさと

視界ががらっ…と開けるような自由な感覚をもたらしました。

「本当にあなたが出したい光は何なのか?」

エゴという殻を通り越して

その奥にある「私の真の願い」をともに探求してくれるのがうれしく。

自分という「深い泉」の中にそれは必ずある、という絶大な信頼のもとに

舞い踊るように、遊ぶようにアクセスしていくような

「つくる」作業をしてくださるその方に

感謝しているところです。

「チーム自分」

友人コーチからメールが来ました。

ご親戚が入院中で

そのつきそいによく病院に行っているとのこと。

「看護三昧でちょっとお疲れモードです。

でも!

その病院は

チーム医療が県内ではトップクラスの病院で

ベッドの周りに10人以上のスタッフ

(医師・看護師・理学療法士・作業療法士・言語聴覚士・歯科衛生士・管理栄養士・薬剤師・介護福祉士)

などが集まり

最初の動きのチェックがあり、共有していました。

おじやん

(ってこの方はご親戚のことを呼んでいるのですね^^)

がんばれ~!」

その人の

「目標達成」のために

エキスパートが全員で集まり

方向を確認しあう。

「よし、これでいこう!」とみんなで手を取り合う。

連携を取り合ってともに進む。

「おじやん」のために結集した

これはまさに「チームおじやん」。

か、かっこいい…。

こういうの、聞いているだけで身震いしてしまいます。

おじやんも、なんとも心強いことでしょうね。

さて

そして、私たちの中にも「チームおじやん」ならぬ

「チーム自分」がいる、というお話なのです。

自分の中にいるたくさんの自分。

(NLPではこれを「パート」なんて呼びます)

自分にとって好ましいパート。

好きなパート。

私だったら、『好奇心』パート(羽の生えた子どもの姿をしている)

や人前で場に浸透する波紋のような気を出さないといけない瞬間のパート

(吟遊詩人とか、アメノウズメのミコトみたいなイメージです)

は好きですね

その存在を受け入れている「パート」です。

そして

いなければいいのに、とつい思ってしまうパート。

(私の場合は例えば「怖がり」のパート。なかなか前へ進めなくなるときが)

ほんとうは、

「好きな」パートはもちろん

「嫌っている」「受け入れがたい」パートも

自分のために、よきことをしようと頑張ってくれているパートなのです。

怖がりのパートは

実はわたしを危険から守ろうとずっと奮闘し続けてきたパートです。

私が幼い頃から、ずっとわたしを見守ってきてくれたかけがえのないパートです。

イメージだと「老執事」かな(笑)。

「お嬢様!おやめくださいっ!」みたいな…

いつも私の後ろで私が危険なことをしないよう、「常識」を説いてくれます。

袖を引いてくれます。

さて

自分の中「子ども」や「詩人」や「老執事」。

そのほか「学者」や「武士」などなどの…(すいません、いろいろいます)

たくさんの「わたし」。

つまり、わたしをわたしたらしめ、わたしの望む人生を作っていってくれる

大切な「チーム自分」。

わたしたちの仕事(コーチの仕事)というのは

ひとえにこの「チーム自分」を

あの、おじやんのチームのように

「お互いの存在と力を認め合った」「結束力のある」チームとすること。

最高の力を発揮できる状態に調整していく、というところにあります。

チームの中に「嫌われ者」として扱われる人がある限り

そのチームは力を発揮できません。

その人を「排除」すれば済むという問題ではない。

また、次の「嫌われ者」を生むだけです。

自分の中に敵はいない。

すべてを自分のリソースに変えてゆくこと。

すべての自分が手を取り合って、進んでいく。

「チーム自分」がみな仲良く、うまくいっているときほど

その人の人生は軽やかに、スムーズであり

わたしたちは他にも求めなくとも、ただ、今、あるがままの「幸せ」でいることができると

感じます。

ただ内側から満ちてくる幸せ。

自分の中のたくさんの自分。

「チーム自分」。

大切にしたいものです。

「麹菌をまく」

姉がクリスチャンなこともあって

「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」

などという言葉を

10代の頃

意味も変わらずただ何となく覚えていたりしたのでしたが。

この

「種子をまく」

というイメージ(メタファー)は、わたしの日々の生活のあちこち

仕事をする場面でも

結構お気に入りのイメージとして出てくるものです。

焦るとき、成果を急ぎたくなる時…地に足がつかなくなりそうなわたしの心を鎮め

目の前にある「この瞬間」に、丁寧に

集中させてくれます。

先日、もっとふつふつとイメージを掻き立てられる(モチベーションの上がる)

メタファーを発見しました。

知人の講師が言いました。

「たとえば、そのセミナーの一時間の中で、うわ~っと劇的な変化が起こって

受講生さんが『先生!よかったです!』なんて言ってくるのをやっぱりどこかで望んでいたけれど

最近、そんなものでもないかな、と思い出した」

そうそう。

確かに、そういうことがあると、その場の満足感や「やった~!」という達成感はあるんですけれどね。

「講師満足」ってやつ。

 

彼女が今担当しているセミナーは

リレーのように、さまざまな講師がバトンをわたしながらクラスの授業を進めていくという形です。

彼女が担当するのはその一番初めの2時間のみ。

わたしと同じくコミュニケーションを専門とする彼女は

そのクラスが「学べる集団」になるように、一番最初の「土台作り」

(土を耕し、やわらかくし、物事がしみこむ土壌を作る)

という役割を担っています。

彼女はいつも、その「耕した畑」にその後、どんな変化が起き、

クラスの人たちがどのように成長して行くのか、それをともに味わい、見届けることはできないのです。

最後の収穫をともにすることは、ない。

「寂しいけれどね~」

確かに。

「でも、最近思うんだけど

この人たちの中に、麹菌をぽつ、と埋め込むような、そんな時間でいいのかなと」

麹菌。

あの独特のにおいが一瞬、よみがえりました。

子どもの頃、うちで味噌を作っていました。

蒸した麦の上に麹菌をふりかける。

見た目は変わらないのに、でも、「確実に中で何かが起こっている」あの感じ…。

温かくなっている「もろぶた」の中を覗き見ては叱られたものでした。

私が寝ている間も、くぷくぷと、静かに、ゆっくりと、生命活動は進行し…

そして翌朝には麦は「変なにおい」になって真白くなっていましたっけ。

そしてその

変化した麦と大豆がまたさらに絶妙な化学変化を起こしてくれる。

うちの味噌…本当においしかった。

「ああ、楽になりますねえ…」

つい、そういう言葉が出ました。

ていねいにていねいに、

目の前の人たちに、ただ麹菌をまく。

今すぐの、目の前で「劇的な変化」でなくていい。

その人の中で、ゆっくりと、確実に、くぷくぷと化学変化が進行していくことを意図し。

その人の人生でいずれ豊かに「醸造」された「成果」がその人の人生を潤すことを意図し。

コントロールへの欲求を手放し

相手を信じ、場を信じ、願いを込めてひとつぶの麹菌を手渡す。

どんなものに変わるのか…出会う要素によってさまざまな変化の可能性を秘めた

くぷくぷ…という音が聞こえます。

小さいころに体で聴いた、あの音です。

肩の力がどっとぬけて

そしてとても大きな自由を感じました。

広い地平線を見渡しているかのような自由。

何かから解き放たれたような感じ、というのでしょうか。

先生方

親御さん

世の「人に何かを伝え、人の変化を促す」ことをしている多くの方にも

お伝えしてみたくなり

書いてみました。

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