あなたの本質をあますところなく形にしてください

 

 

 

 

 

先日、ハンドメイドでベビーグッズを作っていらっしゃる

20代半ばの若い女性とお話することがありました。

はじめてこの方の作品を見たときに

 

 

「こんなの見たことない(かわいい!)」

 

 

と思ったのです。

ノスタルジックな柄と色味。

個性的なデザイン…まあ、ツボにはまってしまったわけです。

まったく使用予定もないのに

「買って帰ろうか」

と思ったくらいに可愛かった。

 

 

 

で、その方が切々と語るのです。

他の手作りをする人と比べてまだ自分のには個性がない!

色が…
センスが…

世界観が…

などなど、それはそれは熱く。

 

 

 

 

聞きながら思いました。

つまり今、この方の魂は、全力で

多分、人生で初めて

 

「わたしは何者なんだ!?」

と叫んでいるんだなあ、と。

若者がそれを叫び、探求する姿を見るのは

なかなかにいいものです。

 

 

 

 

 

 

自分は何者か?

ということは、なにをするにも大切な氣がします。

それがちゃんと見えていると、

何をするにも、何を表現するにも

ぶれなくて済む。

 

 

 

 

「『自分は何者か?』

という軸の上に、『場の意図』を設定してください」

 

とよく、セッションで言うことがあるのは

そういうわけなのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

数年前

NLPのトレーナーズトレーニングの席で

一人の男性は

 

「自分はファーマーだ」

 

と言いました。

彼の本質はその言葉通り

どっしりとした安定感と、安心感。

種子をまき、慈しみ丁寧に育てる、まるで農夫の粘りと穏やかさ。

(からだつきもがっしりしておられましたが)

 

 

 

 

 

 

彼の作った卒業制作のセミナーは

「大地と実り」をモチーフにしたセミナーでした。

 

 

 

時間の最後に、「実り」の象徴として

ラベルのないワインを一本づつていねいに手渡され。

 

「これまでの自分の人生をあらわす絵と、タイトルを描いて貼ってください」

 

と、色とりどりのクレヨンと一緒に

真っ白なラベルを渡されたときのワクワク感。

なんともあったかい空気の中で

自分の生きてきたプロセスを「実り」として、昇華できた時間でした。

 

あれは、あの人にしか作れない場であったろうな、と

今でも思い出します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人は

何者にもなれはしない。

自分にしか。

だからこそ

 

 

 

「自分とは何者か?」

(自分の本質は何か?)

 

 

 

認め、愛おしみ

その持って生まれた響きを

全身で奏でなければなりません。

 

それこそが

「世界にあなたが響き渡る」

唯一の方法であり、

世界や、自然や、過去の自分、父母祖父母…

そこへつながるたくさんの人たち

(大きなものをつないでくれた人たち)への

最大のギフトなのだと。

そう思います。

 

 

 

何より、最も自然です。

努力が要らない。

なぜなら

自分に還る、だけなのですから。

 

 

 

 

 

あなたは

何者ですか?

 

 

その答えは、あなたが幼いころから親しんできたもの

好きなもの

味わっていたい感覚、時間

あなたのまわりに頻繁にあふれるモチーフ

そんなものにしっかりと、

現れています。

 

 

 

「思いを語って世界を変える

  ~プレゼンテーションの技術を磨くワークショップ」

 

「情報を伝達する」というレベルを超え

 「相手の心を動かし、行動を変え、変容に導く」プレゼンテーションのためのスキルを磨くワークショップです。
 

「身体」

「言葉」

「構造」

 

の3つの視点からのプレゼンの要素の体験を通して

自分の軸(プレゼンス)を磨きます。

 

◆平成29年◆  

2月12日/2月26日/3月12日/3月26日 (全日日曜日)  詳しくはこちらへ

 

 

 

 

 

 

 

「境目を越えて、旅立ち、そして還る」は成長物語の王道

 

 

 

みなさま

新年あけましておめでとうございます。

どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

先月26日に、髪を切りました。

自宅から約1時間。

車を走らせ、向かった先は山里にある古民家を改築したとあるヘアサロン。

クライアントさんが紹介くださったお店、ということもあるんですが

ここに行ってみようかな♪

(年末の押し迫ったこの忙しい時期に、山奥を走りに走って1時間も!)

 

と思ったのは

さっきも書きましたが、古い厩を改築したお店、ということ。

一階にはカフェ併設、ということ(これは大きい!)←無類のカフェ好き

それに、その立地条件。

 

 

 

  「結構長い橋を渡ってすぐの場所にあるんですが

  この橋、車の離合もできない細い橋なんですよ」

 

 

 

そう

クライアントさんがおっしゃっていたのが興味津々で。

「離合もできない橋ってすごくない?どんな山奥?もしかして、吊り橋!?」

とかなんとか、想像は膨らみ。

 

 

 

 

 

 

さて

「橋」というものは

メタファーとしての意味を含ませて使われることが多い言葉です。

「平和の架け橋」とか。

 

そして

物語の中でも「ある役割」をもって登場することが多いアイテムです。

そういえば!

わたしの好きな「精霊の守り人」もはじまりはこんな一節。

 

 

 

 

  「バルサが鳥影橋を渡っていたとき、

  皇族(おうぞく)の行列が、ちょうど一本上流の、山影橋にさしかかっていたことが

  バルサの運命を変えた」 (上橋菜穂子 「精霊の守り人」より)

 

 

 

流浪の女用心棒バルサと一国の皇子チャグム。

出会うはずもない二人の人生が交錯したのは「橋」。

あの橋を渡った瞬間、それはまさに、それぞれ未知なる自分の人生のステージへと

移行した瞬間でした。

 

 

偕成社「守り人シリーズ」より バルサとチャグム

 

こっちは綾瀬バルサ もうすぐ第二期がはじまります♪NHK大河ファンタジー「精霊の守り人」

 

 

そして

この物語は、再びこの「山影橋」で終わりを迎えます。

広大な冒険を終え、チャグムが皇子としての自分の世界へ戻るとき

この橋を渡って戻ってゆくのです。

大勢の臣下にかしづかれ、牛車に乗って…。

それははじめと全く変わらない絵なのですが、でも、そこにいるのは

大きく成長した「新しいチャグム」なのです。

 

 

 

 

 

 

 

「行って」「還る」。

境目を越えて、未知の世界へ旅立つ。

 

これは、冒険物語の王道です。

古今東西、すべての冒険物語にはこの形が組み込まれています。

 

 

 

人は

ある日「旅立ち」への目覚めの鐘の音を聞きます。

そして

望むと望まざるとに関わらず、押し出される。

まどろみの中に心地よくいた「村」から旅立つときがやってきます。

 

 

門をくぐる

橋を渡る

いろんな形で「境目」を超えて、未知の世界へと一歩を踏み出すのです。

 

 

 これも大好き。勇者ヨシヒコシリーズ

 

 

「橋」は境目であり、物語の世界においては「つなぐもの」。

「こちら」と「あちら」。

「日常」と「非日常」。

「過去」と「未来」。

「聖」と「俗」。

 

冒険物語において、

主人公は橋を越えて未知なる世界へといき

仲間と出会い、冒険をし「変化して」再び元の居場所へ還るものなのです。

たくさんの宝をたずさえて。

 

 

 

 

 

話が戻ります。

年末、リセット&リフレッシュの意味を込めて数時間、隔絶された世界へ旅立つなんて

(しかも、細い細い橋を渡って♪)

なんて、今の時期にぴったりなサロンだろう!

と思ったわけなのでした。

そして…橋を渡って「冒険」を終え

無事還ってきたわたしです。

はい、もちろん「美しく成長して」帰ってきましたとも!

 

 

 

 

 

 

みなさん

今年は「越える」体験をなさいますか?

「越えて」どこへ行きますか?

今年の、あなたの旅はなんですか?

 

 

 

 

旅立ちの鐘の音が、聞こえますか?

 

 

 

 

 

 

 

◆      ◆      ◆      ◆     ◆

 

日常を「越えて」いく冒険のご紹介↓

 

「声」の語源は「越え」からきている

と書いていた能楽師さんがいらっしゃいました。

 

声と言葉と身体と

それをつかさどる無意識の世界をひもときながら

「かけねなしの自分の存在」から伝える力を探求します。

それは、ひとえに「新しくて(実は懐かしい)自分と出会う」旅そのものです。

 

「思いを語って世界を変える

 ~プレゼンテーションの技術を磨くワークショップ」

 

「情報を伝達する」という世界を超え

 「相手の心を動かし、行動を変え、変容に導く」プレゼンテーションのためのスキルを磨くワークショップです。
 

人がみな持つ「恒常性維持機能(変わらないでおこう、という機能)」を軽やかに超えて、深く聴き手の無意識レベルにまで届き、あなたの大切な人たちを変化へと導く可能性を高めるためのプレゼンテーションの力を

「身体」

「言葉」

「コンテンツの構造」

の3つの視点から磨きます。

 

◆平成29年◆  

2月12日/2月26日/3月12日/3月26日 (全日日曜日)  詳しくはこちらへ

 

 

 

 

 

みちしるべはどこにある?~それは自分の五感の中に

 

 

 

 

ただ今、5人姉弟の姪っ子の上から2番目が世界一周旅行中なんですが

途中の国で

 

 

「ハンモック買ったよ!」

 

 

と嬉しそうに姉弟専用ラインにアップしていた…

と姉(彼女らの母です)から聞き。

なんでも彼女、それから地元にいる三女、ともに「ゲストハウス」をやりたいらしく、

そのためのハンモック?のうわさあり(笑)

 

長女は実家で菓子工房兼カフェをやっているので

そのうち何かからんでいくのかな…と思ったり。

 

末っ子の四女は伝統工芸の道に進みたいらしく

奈良のそちら系の大学への進学目指して受験勉強真っ最中です。

 

 

 

 

まあ、

みんな見事に「好きなこと」に向かってまっしぐらだなあ~

と思うわけです。

普通に「世間」との間でみなが人生で悩むようなことをしっかりと悩みつつも

 

 

自分の中にはためく一筋の「旗」

自分の中でなり続けるベルの音

もしくは

どんなに衝撃を与えても、必ず「ある一つの方向」を指し示し続ける羅針盤の針

 

 

をしっかりとキャッチし

OKを出し

自分の人生にそれをもたらすぞ、という意思、そこに迷いはありません。

 

 

 

この子たちの親(わたしの姉)がとにかく「自由自在の人」なので

子どもがさらにそうなるのは当たり前だな~

くらいに思っていたんですが

「身体」という言葉がふっと浮かんできたのは今朝。

セッションで、クライアントさんが自分のお子さんについて

「今は知識よりとにかくいろいろな感覚を身体でしっかり味わってほしい。

だから、いろいろな体験をさせてあげている」

とおっしゃっていたのを聞き。

 

 

 

姉夫婦は専業農家で

小さい頃から大人顔負けの手伝いをして育ってきた子たちなので

自然ど真ん中で身体を使ってきた子たちであることは間違いないんですが

浮かんだのは、厩の光景。

 

「昔は厩の2階の囲炉裏で、しょっちゅうたくさんの人たちが来て

あそこでご飯を食べて遅くまで語り合ったりしてたんだよ。

古くなったんだけど『絶対壊すな』というのは5人の子どもたちなんだよ」(姉、談)

 

姉の家はよく農業研修生を受け入れていたので

それこそ海外からも研修生が来ていたものでした。

 

 

 

 

揺れる火。温度。煙の香り。

囲炉裏の周りでいつもよりずっと楽しげな顔で、声で弾む大人たちの笑顔。

土の香り。

…この子たちの「幸福」「何を幸せと思うか」という価値観は

肌触りや、においや、それとくっついた「ワクワク感」と直結して刻まれている

と思ったのでした。

それはまさに「幸せへの羅針盤」。

そして、それは揺らぐことなく、彼らを導くのだ、と。

 

 

 

 

う~ん

今日はなんだかまとまりませんが

「自分にとっての幸せ」

「自分にとっての『これ!』」

は、すべて身体が知っている。

頭ではなく、身体が、という感じでしょうか。

迷ったら、身体に聴け。

そして、ちゃんと身体との回路をつなげて、開いておくことも大切。

 

 

身体と仲良く!五感と仲良く!

 

 

 

 

 

 

※「伝える」という場面においても五感は大切かつ強力な「道しるべ」です。
自分の身体感覚から出た言葉こそが『頭での理解』を超えて、相手の身体レベルにまで深く染み入り、相手の心を(人生を)動かす可能性が高まるから、です。
これをわたしは「言葉と自分を結びつける」と呼んでいます。
自分の身体感覚と遊離した言葉は、どんなにそれが美しい言葉でも相手の中に入りません。上をす~っと滑っていく感じ?でしょうか。

ということで、ご興味ある方はこちらもどうぞ↓

      11月27日(日)13時~ *11月30日(水)18時半~ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

面接の極意~「自分が、自分が…」から、周囲へ視点を移せたときに面接は成功する

 

 

 

昨日、元キャリアカウンセラー、

という経歴の方と話していました。

 

その方は、お仕事柄、たくさんの方に「面接の指導」もしてこられた。

 

「でもね…」

 

とここからは内緒の話。

「私個人でいえば、面接指導とかを始める前のほうが、自由で、あがることもなくって

自分を出してどんなところでも、誰とでも話ができていた気がする」

 

 

ええっ!そうなんですか?

 

 

「面接指導を始めて、

たくさんの資料を読んで、『面接とはこういうもんだ、こうしなくっちゃ』をガンガン頭に入れて…

かえってガチガチになっちゃったというか、自分が固まっちゃったような。

ああ、以前のわたしはこうじゃなかったのにな~、なんてね」

 

 

それから「面接話」で花が咲き。

 

 

「完全に覚えていった質問の答えをしゃべって

それからイレギュラーの質問が来た時の対応、その落差があると

残念だよね…」

 

ですよね~、とわたし。

 

 

 

面接も「コミュニケーション」。

コミュニケーションはキャッチボール。

面接官も人。

双方にとって心地よい「場」(空間)を作れたときに、嬉しい結果が出ます。

そこへの気づき、そしてそれを生み出せる力が大切。

 

緊張して、得てして「自分しか見えなく」なりがちですが…

(今、自分は今どう見られている?自分はうまく話せている?

自分が準備していった質問が出るか?

自分が練習していった手順《開ける、歩く、座る、姿勢、目線…》を

ちゃんと出来ているか??)

 

 

つまり

自分が、自分が、自分が、自分が…

になりがちなのです。でも、答えは「そこ」にはありません。

相手の中に、そして、「自分と相手」の間に存在する「場」(空気)

の中に答えはあるのです。

 

 

そしてそれは

すべてのコミュニケーションにいえることです。

何を言う、どんな言葉を使う、といった表面的な「スキル」の土台を担う力

それを豊かに醸成させていくことが大切です。

 

 

 

「生きて使えるコミュニケーション力を身につける

◆Under25のためのコミュニケーション塾◆10月23日スタート

こんな方に

 ・就活中の方

 ・初対面の人と話すのが苦手だと思っている

 ・大生の人の前で話ことが苦手だと感じている

 ・声が小さいといわれる、聞き返される

 ・コミュニケーションを交わすことに自信がない

 ・いろいろな人と交わる体験をしてみたい

 ・自分の強みを知りたい

 ・新しい自分を発見したい

こちらです→ http://kokucheese.com/event/index/419741/

 

 

 

 

 

 

 

「自分を励ますのも自分」

春の良き日、みなさまいかがおすごしでしょう。
こちら鹿児島市は天候のせいか
すっきりと開花しないままにはや黄緑色の葉っぱがちらほら…。
数日曇りと雨も続き。
こんなときは、なんだか少し元気が出ないのですが
ふと、facebookで一年前の自分の記事を目にしまして。
(一年前を振り返ってみましょう、というアレです)
去年の今頃はちょうど京都奈良にいたのでした。

その記事を下記に。

☆彡    ☆彡    ☆彡

【十四転び十五起きの興福寺中金堂】

国宝興福寺の中金堂。ただいま再建中。
そして、再建現場を見せてくれます!
中金堂は710年の創建以来、なんと十四回も作り直されています。
うち半分の理由は「被災」。
何度燃えても、その度に職人さんたちが「よっしゃ!」と
作り直してきた、ということ。
そして、今回の再建は
1711年(享保二年)の被災の後作り直されたものの再建。
つまり…三百年ぶりの現場に立ち会ってしまいました!

現場ではこんなことも^_^(写真)。
宮大工さんの槍がんな実演♪
今の鉋とは全く違う、
一見不安定そうな小さな槍型の鉋で見事に滑らかな表面を作っていきます。
もう、カッコ良すぎです…(目が❤︎です完全に)

そして
厳重に足場の組まれた中金堂の屋根まで登ります。
今、この時期しか間近で、手の触れる距離で見ることの出来ない
巨大な梁、屋根瓦。
それは…まさに「圧巻」としか言いようのないものでした。
そうして、感じたのです。

生き物ではないけれど、でも確かに生まれ変わり、
命をずっと繋いできた「何かすごいもの」の存在を。
まるで、日々新しい細胞に入れ替わりながらも
全体として一人の「ひと」の形であり続ける人間のような。
そしてそこには、多くの人の思い、そして技…たくさんのものがやはり脈々と受け継がれ、
続いてきたわけです。(気が遠くなりそうです)

美しい勾配の屋根を見ながら
どうも立ち去り難く。
なぜなら、ものすごく「嬉しい」感覚が
空から降ってくるような感じがしてならないのです。

私の中では
「これは、職人さんたちが喜んでるな」
と、そういうことになっています^_^

十四回。
ずっとこの中金堂というバトンを手渡してきた
すべての職人さんたちがあそこでワイワイと声援を送っているような…
そんな気がしたのでした。

☆彡   ☆彡    ☆彡

なんとも熱い
エネルギーに満ちた。
(まあ、旅行中は誰でもエネルギーに満ちているものですが)
そして、なんといいますか
自分の中の「軸」がよみがえってくるような感覚を感じています。
何を大切にして生きているか。
仕事をしているのか。
なんのために生きている(と自分自身感じている、設定している)のか。
わたしの場合は
「つなぐ、伝える、受け継ぐ」
あたりがどうもキーワード(発火点)のひとつのようで。
人の最も美しい、「その人本来の」響きを開花させる、という
この仕事においてもおろそかにできない一点となっています。

自分の中の聖なる自分。
純粋な、幼子のような自分。
もしくは、旗を掲げ、道を指し示す導き人のような自分。
それは
どんなときでも自分の中にいて、声をあげています。
もしくは過去の自分の願い、未来の成長した自分…
すべてが一団となって、今の自分を鼓舞し、ひぱっていってくれる。
それらの自分といつもアクセスしていられると
きっと人生とてもスムーズで
いつも心やすらかに、エネルギーに満ちていられるんでしょうね。

そして
わたしたちは、意図してそれを行わなければなりません。
その時間をとらなければなりません。
自分が自分の中心にいること。
それほど自分を、そして周囲を幸せにすることはないんですから。
(といったって…
わたし自身、それがいつもうまくできるわけでなく。
すると今朝みたいに神様が助けてくださるわけですが)

記事、続き。

☆彡  ☆彡  ☆彡

槍がんなの削ったあと。
たくさんもらってきましたので
希望者にはお分けします!
そんじょそこらじゃめったに見られないレアものですよ!

☆彡  ☆彡  ☆彡

だそうで。
思い出した…。
「槍鉋のけずりくず」
を山ほど持って帰ってきて、
可愛くラッピングして周囲に配りまくったのでした。
みんな…ゴメンね。

久しぶりに
出してみますか。鉋くず。
わたしの心を震わせた「魂のかんなくず」(笑)。

※一年前の写真もアップしておきます。
 宮大工さんからは「お顔込も一緒に掲載OK」の許可をいただいております。

「声のワークショップ・ミニinふくおか もうすぐです」

 

「声のワークショップinふくおか」
いよいよ近づいて参りました。

下は10代から上は60代。
年齢も立場も、そしてもちろん性別も
そして目的もさまざまな方々が集う場となりそうです。
自分の人生かけた「表現活動」の枠を広げたい、という10代から
チームを背負い、リーダーとしての「プレゼンス」向上を目的としていらっしゃる方々まで。
これは…いったいどんな場になるんだろう??
蓋を開けてみないとわからない、思いっきりの楽しさです。

そもそも
表現とは何なんだろう、と思うのです。

「あなたは表現者です」

そういうと、ほとんどの方は「いえいえ」
という顔をなさいます。そんなとんでもない、と。
それは、何か特別なことをしている人のことでしょう、と。

そうだろうか?

と思うのです。
生きているということ、イコールもはや表現している、ということだと思うのです。
そこに存在している限り、言葉を発する以前にもはや発している「何か」を
わたしたちは日々交換し合って生きています。
そしてそれはいつも多くの人に影響を与え、多くの場に影響を与えている。
あなたが好むと好まざるとにかかわらず。

また
身近な自分の大切な人たちに
よき影響をと願いつつ日々言葉を発します。思いを伝えます。
要望を伝えます。
それはつまり『表現している』ということです。
どうせなら、ちゃんと伝わったほうがいい。
そしてそこにプラスのエネルギーが渦巻いた方がいい。

自分を見てみる。
気づく。
そして、調音する。調律する。
楽器と同じです。
自分のベストな音であれるように。
自分の最高の音でいつもこの世の中に歌を奏でられるように。
それは具体的に「声」という部分でも
また
声を出すことをつかさどる自分の「気持ち」という面でも
きっと良い調律の時間となることと思います。

あと少し、ご参加いただけます。
どうぞ、こちらより!
http://kokucheese.com/event/index/303644/
 

「人を動かすことはできないが、『願う』ことならできる」

クライアントさんが
「家族に個人セッションを受けてほしいんだけどなかなか。
こういうのがあるから受けてみたら、といいたいんだけど、反発されそうで…」

とおっしゃったのでふと思いつき

「人を変えることはできませんが、願うことはできます」

とお返事を送ってみました。
たったこれだけのフレーズなのにその方は
「ああ、そうですね…!」と。
その方の中で、何か響く部分があったのでしょうか。

そのとき、わたしの頭の中にあった話をご紹介します。
知人の話です。
知人の義理のお父様は現在一人暮らし。
高齢でいらっしゃいます。
高齢ですが、田舎にお住まいなので、車が必需品でした。

実は
それまで乗っていた車を事故で壊してしまい
(幸運なことに、誰も怪我をしなかったのよ!とは知人の弁)
けれど、そのことを忘れ、新しい車を購入しようとなさる。

遠くに離れて住む家族は大変です。そして心配です。
車なんてもうとんでもない。
でも、ご本人には伝わらない。これまでずーっと乗ってきたわけですし
それを「やめろ」と言われることへの反発もひとかたならず。
家族の「説得」は功を奏さない。

自身の親とのやりとりや、周囲の「家族と老親とのやりとり」をつい思い出しつつ
話を聞きました。

その「膠着状態」を動かしたのは
知人の言葉でした。

「おじいちゃんに手紙をかいてくれない?」

わたしの知人は
義父の息子であるところの自身のだんな様に
そのようにお願いしたのです。

「禁止ではなくて、願いの手紙を」。

ああするな。
こうするな。
もう歳なんだから。
何考えてるんだ。
もう、できないだろう?

そうではなくて。

あなたのことがどれだけ大事か。
あなたにどれだけ感謝しているか。
これからも、共にこんな時間を過ごしていきたいのだ。
いつまでも、あなたと一緒にいたいのだ。
あなたに元気でいて欲しいのだ。
だから…

「もう、運転はしないで。いつも、安心で、安全にいてほしい」

と。

長い長い手紙を、だんな様は書かれたそうです。
そして、手紙はお父様の元へ。

それからどうなったか、なのですが
ここからひとクッション、ふたクッションほどあり。
(はじめ、手紙に反応がなかったのだそうですが
その後、だんな様が、お父様と一緒に過ごす時間を増やし始めたあたりから
手紙が来た!ということを思い出したかのようにおっしゃりはじめたとか)
その手紙をやがて、嬉しそうに持ち
「こんな手紙を息子が送ってきた」

と、話すお義父さまの姿が見られるようになったそうです。
もちろん、車の購入の話はなくなり。

人を変えることはできませんが、
でも、願うことはできる。
心からの思いで持って、自らの願いを伝えることはできる。
伝え続けることは出来る。

わたしはあなたに幸せでいて欲しい、と。

それが伝わる時まで
受け取ってもらえるまで
ただ願い、伝え続けることはできる。

そんなことしかできないのではないかと、思うのです。

「老人介護施設にて~相手の世界に寄り添う力」

老人介護施設に勤めている友人の話が

とても面白かったのです。

面白い、という表現はあたらないし不謹慎かもしれないのですが

つい「すてきだな」「美しいな」という感覚を覚えてしまいました。

もちろん、そのことに付随する

わたしには想像もつかない大変なことが山ほどあるのだ、ということは思いつつ。

友人いはく

「すっごく面白いの。おばあちゃんたちと話してると」。

友人が

あるお年寄りの部屋に掃除に行く。

すると、ベッドの中からお年寄りがいう。

「お布団の中で子どもが二人、遊んでるいるの」

もちろん、子どもなどいないわけです。

けれど、友人は「は~い」と言ってお年寄りの布団をめくってあげる。

そしてこう言うんだそう。

「ほら~。、みんな出て行きなさい。〇〇さんが眠れないよ~」

すごいじゃん!とわたし。

「で!? そう言うと、お年寄りはどんな感じ?」

「うん、とっても嬉しそうににっこりするよ~」

さらに友人の話は続きます。

「おばあちゃんが庭を指さして『あそこに猫がいるでしょ』と。

そこの庭は猫など入り込めない造りなの。

おばあちゃんは

『前に三毛猫の親子を見たけど最近いないから

死んでしまったと思ったけれどちゃんと生きていた。よかった』

と。

わたしにはどんなに目を凝らしても猫の姿は見えないの。

『〇〇さん(施設の人)に猫がいるって話したら、

バカなこと言わないの!っておっしゃったよ。あそこにいるのに』

って。

おばあちゃんには見えているみたい。

ねえ、こーこちゃん

(と、友人はわたしのことを呼びます)

何と言おうかと頭の中をいろんなコトバがぐるぐるしたよ。

だって、介護の勉強ちゃんとしたこともないし

認知症のマニュアルもあるみたいだけど読んだことないし…」

彼女がおばあちゃんと、どのような言葉を交わしたのか?

それはきっとみなさんの想像なさった通りです。

ペーシングにバックトラッキング…

自由自在に変幻自在に「寄り添う力」をいとも簡単に発揮する

友なのでした。

昔から魅力的な友でした。

読書量はハンパなく、くすっと笑いたくなるような発想をよくする友でした。

車に乗ると、飽きずに何時間でも窓の外を眺めている友でした。

窓の外を過ぎてゆくいろんなものを見ているのが面白い、と。

動物が好きで、「言葉わかるんじゃないの?」と思うくらい

自然に話しかける友でした。

そして、何より何より優しい友。

彼女は、その自由自在な想像力と

やわらかな感性でもって年寄りの世界にいとも簡単に寄り添うのです。

するりと「世界にお邪魔する」のです。

そして同じのものを見、同じ音を聞くのです。

彼女にはそれが「当たり前」のことであり、喜びなのです。

「それってペーシングだね~」などと言っている自分が

ひどく頭でっかちに思えました。

同じ場面でわたしならとっさにどうするだろう。

最後に、心に残った友の表情を。

風の音や窓の軋みや。

大きな建物の中、ふとそういう音がするときがありますよね。

そんなとき、その施設の中にいる人たちが言うのだそう。

「亡くなった〇〇さんが来ているのかもしれないね」

と。

でも、彼女は思う。

「ここにはいない」

窓の外をじっと見つめていたあの人が。

車椅子の上

「あんたは若いからいいね。自由に動けて――」

と言ったあの人が

今ここにいるはずはない。

やっと体から解き放たれ、自由になったその瞬間に

心は大空を駆け巡り、きっと一番行きたいところへ行ったろう。

懐かしいところへ行ったろう、と。

彼女は窓の外を見ながらそう静かに言いました。

その横顔がとても印象的で。

わたしにも

見えた気がし…。

抜けるような空高く、駆けてゆくそのおばあちゃんの笑顔が。

一瞬ですが。

人生の最後の時期。

体も弱くなるでしょう。

呆けて、皆の住む「現実」と自分の住む世界が合致しなくなる時が来るかもしれません。

でも

小さな子供が、自分の見ている世界のままに動き、笑い、はしゃぐことを受け入れられ

その世界ごと愛され、尊重されているように

お年寄りもまた、そうされなければならない。

尊重されなければならない。

50年、60年、愛するもの達のために働き続け

わたしたちの生活につながる復興と繁栄の土台を全力でつくってくださった方々。

そんな方々が

最後まで、一人の人間として

自分の価値観を、大切にしてきた世界を尊重され、

幸福な心持ちで一生を終える。

「否定」は。

「受け取られない」のは、大人であっても、子どもであっても心が傷つきます。

魂が痛みます。

誰であっても、どんな状態であっても。

言葉はたとえ聞こえなくても「否定」の波長は届きます。

棘となってささります。

「ああ、そう~!猫がいるんだね~。

元気でよかったね!

わたしんとこからはよく見えないんだけどさ…

おばあちゃんとこからは見えるんだ~。いるんだね~!」

嘘はつけないところもまたわが友なのでした。

「それを手放さなかった人の違いは何?~伝説の『ゴジラ伝説』」

7月は

いろいろな講演やワークショップに顔を出していました。

一つは

怪獣デザイナーで漫画家の西川伸司氏の講演。

ゴジラのデザインも手掛けていらっしゃる方だそうで。

かっこいい。

そしてもう一つは

映像デザイナーの青木裕幸氏のセミナー。

無縁の世界ゆえお名前も存じ上げなかったのですが

お仕事の内容を見ると、あらなんと。

私の好きな「科学大実験」(NHKEテレ)などを作っていらっしゃるとあり。

興味津々で出かけてきました。

西川さんのお話。

「ゴジラVSビオランテ」という映画があって

難航を極めたゴジラの相手役「ビオランテ」のデザインが最後に自分に回ってきた。

西川さんははじめ

ビオランテに顔をつくらなかったのだけど

(ビオランテはもとが植物なのです)

上層部の「子どもが怖がる」という意向によりしぶしぶ顔をつくった。

けれど、今思えばやはりそれがよかった。あの頃は若気の至りで

…などなど。

あれでも十分怖かったですが?

当時、ビオランテの絵をもって怖がる弟を追っかけ回していた気も。

あの「ビオランテ」のデザインを、この目の前の方が!

こんなに何枚もデザイン画を描いて、ご苦労なさっていたとは。

青木さん。

のっけから「次の映画の冒頭をご覧ください」。

「12人の怒れる男」

「椿三十郎」

のはじめ1分ほどをそれぞれ見ます。そしておもむろに質問が。

「それぞれ、何カットで撮影されていましたか?」

12人…のほうはカメラを切り替えず、続けて撮っていたのはわかったけれど

椿三十郎は、えっと…10カットくらいかな??

(答えは「12人」~1カット。「椿」~30カット、でしたか)

そこから

カメラアングルについて、

実際に黒沢映画やヒッチコック、スピルバーグなどの映像を見ながら学びます。

面白い。

さて

先の西川さん。

子どものころからずっと怪獣や特撮好きで

「同人誌」という呼び方もないころからゴジラなどのマンガを描いていたそう。

そして大学生となったある日、「それ」はやってきた。

「2人で旅行に行かないか?」(BYお父さん)

西川さん、来た!と思ったそうです。

勉強もせず、マンガを描くことだけに明け暮れている自分。

お父さんからの「引導」があってしかるべき時期です。

けれど

お父さんは、西川さんの話を聞き、言ったのだう。

「大学、辞めていいぞ」

しかしそこには条件が一つ。

「本を一冊作ったらな」

そして西川さんは一冊の本を作りました。

「ゴジラ伝説」というマンガです。

同時にその本こそが、西川さんの「怪獣デザイナー」の道を切り開くものとなったのだそう。

青木さん。

場がすすむにつれ、どんどん声が大きく、というか

違う熱が。

話は「サイコ」を経て2001年宇宙の旅、そしてスターウォーズへと進んでいます。

「この、ミレニアムファルコン、何かに似ていると思いませんか??」

 (カブトガニと答えて場を盛り下げてしまいました…)

「この映像の中に、実はミレニアムファルコンが隠れています。どこでしょう?オマージュですね!」

 (スイマセン全くわかりません…)

「この、2001年のポスターは、NASAのお抱え絵師が書いたもので!その画集はこちらです(と、分厚い画集)」

 (青木さん、目が、目が輝いています)

何でしょう。

この「好き好きオーラ」は!

門外漢。まったくの異世界のことゆえ、青木さんの質問の半分も言い当てることもできないのですが

でも、なんだろう、この楽しさは。

無性に楽しい。

セミナー終了後

近くへいき、資料として持っていらした雑誌や画集を見せていただきました。

その中の一冊。

特撮の専門雑誌。古いのは一目でわかるのですが

でも、とても状態がよく、きれいに保存されている。

「これは、いつ頃買ったのですか?」

「これは、中学の時です」

そうか…そうなんだな。

この人も「手放さなかった人」なのだ。

幼き日、出会った世界の衝撃を。

若き日、家族の寝静まった夜更け。

自らの心臓の音が聞こえるくらに静かな夜のしじまに、どっぷりと浸り、夢中になって思い駆け巡らせた

あの瞬間を。

忘れることができなかったのだな。

手放すことができなかったのだな。

とても遠い日

自分にも確かにあったあの時へ、あの感覚へ

くらっと一瞬、タイムスリップした気がしました。

デザイン。

映像の構成。

これらは、セミナーをつくるときにも、とても役立ちます。

「人に見せ、人を魅了し、人を巻き込み、感動をつくる」ものですから。

そのリズムや視点を磨き、鍛えるという点において、大いに役立ちます。

そんな思いもあって、参加した講演であり、セミナーだったのですが

そんな、内容への興味を超えて、

今回もっとも心に残ったのは、このお二人の存在自体、ということになりました。

「それ」を手離さず。

もっとも味わっていたい音色を。

もっとも自分らしくいられる、自分を自分たらしめてくれるそのリズムを

自分の人生の中心に置き

そして今に至るお二人。

そんなお二人が歩んでこられた人生のプロセスそのものに

たくさんの元気をもらった気がしたのでした。

「神の島のマリア様の気持ち」

長崎セミナー翌日

神の島のマリア像を見に行きました。

着いてみると

神の島というところは、鳥の声と風の音しかしない…つまり

人工物の音(エンジン音など)がほとんどしない静かな場所。

小高い山の上には白い壁の教会が美しく、

そして、山から見下ろす岬の先端にマリアさまはいらっしゃいました。

案内の長崎の友人いはく

「振り仰いでお顔を見るとどきっとする」

と。

とても厳しいお顔をしているのだそう。

マリア様には珍しいお顔だ、と。


強い向かい風の中

岬の突端に立つマリア様。約4,5メートルの堂々たる立ち姿。

口角をきゅっと強く引き結び、海のはるかかなたのそのまた向こうをじっと見つめるその表情。

その視線の先を見ると

この長崎という地が

古くから、たくさんのもの…それこそ、新しきもの、よきもの、そしてそうでないものも含めて

海の向こうから多くのものを受け入れてきていた土地なのだろうなと

そんなことをふと感じます。

この、海の入り口に立って、それらを受け入れ、また、悪しきものから

この地を守っているかのような、そんなふうにも感じられ。

ふと

マリア様の気持ちになってみたい、とそんな気持ちが起きました。

なぜだかわからないのですが。

ああ、それはいい。そうしよう。やってみよう。

で…。

両手をすっと軽く広げてみました。

てのひらを前に向け、4本の指は軽く曲げ、親指も軽く曲げててのひらに添えます。

右足は半歩前に踏み出し、

そして左足の膝は軽く曲げ右足に寄せ。

彼女の姿をよく見て、寸分たがわず「再現」するのです。

そうすると、前に出ているのは右足ですが

重心は両足のちょうど中間、地面に向かって真っすぐに落ちているのが体感できます。

肩はとてもリラックスして力が要らない。

つまり、ものすごく安定感のある、まるで地球に吸い込まれるような

立ち方をしていることがわかる。

そしてさらに

あごをくっ…と引いてみます。彼女がそうしているように。

そして、口角をあげ、きゅっと力を入れ…遥か水平線に視線を置きました。

体中で感じる向い風。

ああ、いつも、この風を受けていらっしゃるのか、とそんな考えが頭をよぎります。

が、それも一瞬。

深い深い一呼吸をおいて

体の奥からわ~っと湧き上がってきたその感覚は。

言葉にするならば

「覚悟」と「決意」。

深い愛に裏打ちされた、決意と覚悟、とでも言いましょうか。

何があっても、わたしはここに立ち続ける。

そして、すべて見続け、受け止め、そして守り続けるのだ、と。

驚くほど静かな中に、何もゆらぐものがない。

自分の体から

余計なものがすべて洗い落とされ、

たった一つの強い「思い」とともに

ただ、しっかりとそこにあり続ける…そんな感覚をしばらく、そこで感じていました。

両手を広げ、深い呼吸とともに。

鹿児島に帰ってきて4日。

今も、あの「形」をとると、体の中に彼女を感じることができます。

どこまでも続く海の色とともに

自分の中に瞬時に生まれる

ぶれることのないまっすぐな軸を、再現することができます。

それはとても心地よく、すっきりと

あるときはわたしを助けてくれるのです。

まとめると

NLPでいうところの「モデリング」と

「アンカリング」

(よいパフォーマンスを生み出す体と心の状態を自分の体に刻み込む)をやりました、

というお話なのでした。

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