もしも、録音された「音」だけでなく「場に満ちる『何か』」までも再生できる機器があったなら➡︎あった

 

 

 

 

 

 

少し前、圓生をよく聞いていたのですよね。
廓の「張見世」(あの、遊女が並んでいる格子システム)をリアルで見たことがあって、
「江戸」の空氣感を演じられる最後の落語家。

 

で、
圓生の一番古い音源を再生して、
そこにいたお客さんたちの空氣も含めて、伝わってくるものがあるとしたら
どんなにかすごいだろう、と思い。
とある方に聞いてみたところ、

 

「そういうことになるかもしれません」
(と言ったような)お返事が。

 

 

 

この日、地元鹿児島は吉野にあるMAI Factoryさんにスピーカーの試聴会に行きまして。

(正確には「アンプ」の視聴会、なのですが)
音の洪水の真ん中で身体中に音を心地よく浴びる体験をしまして。

 

 

で、これらを作成された方に、
「アンプ」というもののことを色々と聞いたのですが、
実はここでその万分の一も再現することができず。
(なかなかに難しかった)

 

ですので、
今から書くことは、わたしの頭の中に
「残っていた」
「強烈に焼きついた」
ことだけ、なのですが。

 

 

 

❶アンプ職人はアンプを「アート」と捉えている。
なので、「自分の色(演出)」を出そうとする。
音に反映させようとする。

 

❷この方の作るアンプにはそれがない。
ただ純粋に「数値」のみを追い求めている。
(つまり、エゴが入ってない、とわたしは捉えました)

 

❸あなたの機器ならわたしの「氣」がわかるかも、
と氣功の先生から「氣」の収録を依頼されたことがある

 

❹この機器で再生されたBGMは、エンドレスでもイラっとっしない

 

 

他にも色々とすごいお話を聞いたんですが…^^;
で、もしかしてこういうことでしょうか?
と先ほどの圓生の話をした所
「そういうことかも知れません」

 

と言ったようなお返事が返ってきた、と。

 

 

 

で、その日、圓生の代わりに、
100年ほど前の「チェロ組曲」の音源を聞かせてもらったのです。
果たしてそれが、
100年前の「場の空氣」までも再現しているのか…

 

それは正直、わたしの耳ではわからなかったのですが、
けれどなぜか?少し涙が出てしまったことも
確かなのでした。

 

 

 

 

今日言いたいことは。
「そこ」に他意を挟まない。
「俺が」「わたしが」と言った「いらないもの」が入らない。

 

そういう人は、やがて「神様が喜ぶような仕事をすることになる」
と、そういう感じでしょうか。

 

 

 

この方が、
「『その音』のことを一番よく知っているのは、その音を奏でている人。

(そこにいろいろくっつけるなんておこがましい)」

 

 

と言ったようなニュアンスのことをおっしゃったことが
とても印象に残っています。

 

 

 

 

すごいアーティストさんたちが、この方の機器を選ぶのは、
まさに、
「ずっと研ぎ澄ませ続けてきた自分の音」
「ずっと研ぎ澄ませ続けてきた自分の思い」

 

それを、ただただ、まっさらに、極限まで正確に、
そのまま増幅してくれる機器だから、
なのではないか、と思ったのでした。

 

 

そして、
これはわたしの仕事とも似ているのです。
その人の最も「その人らしい」音をそのまま、極限まで増幅して
世界へ届ける仕事、と自分の仕事を捉えています。
そうありたい、と願っているわけで。

 

 

思わぬところで、

自分の中心軸とつながるような、

雑なものが細胞から全部出ていくような、すっきりとした体験をすることができました。

 

 

 

なんにせよ「よいもの」というものは、

人を軽くして「本当」「本質」「ありのまま」にかえすものなのだな、と思ったことです。

 

「場の力」を知れー「してあげる」ことだけが親の仕事ではない

 

 

 

 

 

幼子の遊ぶ様子を、同じ部屋にいて20分間「ただ見守る」ということができない、

という親の訴えが次のようなもの。

 

「手を出そう、口を出そう、先回りして指示しよう、道を指し示そうとしてしまう。
親の役割というのはそういうものだと思っている」

 

 

 

「それはこうだよ」
「そのおもちゃはこうやって遊ぶんだよ(と「正しい使い方」を示す)」
「次はこれをしたら?」

 

 

(子育て番組の話です。
子どもの中に「アタッチメント(乳幼児が親との間に築く信頼)」
を育てるために、親が20分間、口を出すことなくただ「遊びを見守る練習」をする)

 

 

 

 

教員でも同じようなところが(わたしは、ですけど)あって、
よーくわかる。

が、これでは育たないらしいのですね。

 

 

子どもの絶対的な安心感。見守られているという安心感。
その土台の上に乗っかって初めて子どもが発揮することができる、

 

 

 

「自分でやろう、自分で行こう、自由自在に冒険しよう、どこまでも行ってみよう」

 

 

 

という「自立のこころ」。
(将来、「自立心」となって発揮されるであろう「心の種」と言うべきか)

 

 

それには、
親との空間が「絶対的な安全・安心の空間」であることが絶対条件なのです。
そこを「安全基地」として、
子どもは初めて興味を外界へと向け、冒険できる。

 

 

 

 

 

 

その親御さん、悪戦苦闘の末、一つ「会得」する。
「ああ、これなんですね、これでいいんですね!」と。

 

「今、私は太陽なのだ」
とその親御さんは言いました。

 

「そう思うと、手も口も出さず、ただ見守っていられる」と。

 

 

 

 

 

何かをする。してあげる。与えるのが親の仕事。大人の仕事。
違います。

(とあえて言ってみる)

 

 

親の仕事は、まず「そこにあること」なのです。

 

存在すること。
最高の状態で、存在すること。
太陽のように、さんさんと絶対的な安心感と「愛」でもって、
ただ「そこにいること」。

 

 

Doing(何をするか)の前に、Being(どうあるか)なのです。
(こちらもどうぞ。
https://commu-w.net/2024/11/10/それはつまり
『それはつまり、親の努力じゃなく言葉になはらない意識の方が伝わる、ということじゃなかろうか』)

 

 

 

 

 

場の力、というものの大切さ、凄さを知る。
その空間に溢れる「空氣」。
自分の身体から出て、その空間を形作っている
「何か」についてもっともっと敏感になる。大切にする。

 

 

 

「何かをしなければならない」「役に立たなければならない」
が一番になると、
「それに貢献していない人」「それができていない状態」の評価は
一氣に下がります。

 

けれど、そうでしょうか?

 

 

 

 

昔から日本人は、「場」という感覚を大切にしてきました。
(プレイス、ではない、たくさんの意味のこもった概念であり感覚です)

 

何かが「出来る」という小さな視点のみでなく、

 

 

「場を作れるあり方」
「場を温められるあり方」

 

 

そのものに価値をおき、
大切にしてきた民族ではないでしょうか。
(と、大昔の、祖母の膝の上の「あの感覚」を思い出しています。あれより「無上の愛」の体験を未だ知らない)

 

 

 

日本人は、いつから「場」というものがわからなくなったのだろう?
疎かにするようになったんだろう?
と思います。

 

 

「場の持つ力」を知れ。
自分が自分自身の存在で、あり方で、波長で
「どんな場」を作っているかを、知れ。

 

 

 

「何をしたらいいの?」
「どう言えばいいの?」
「どう言えば伝わるの?」

 

 

 

 

のはるか以前、
コミュニケーションの根っこの根っこの大切な部分です。

 

 

 

コミュニケーションについて学ぶとはつまり「愛の表し方」を学ぶということなのだ

 

 

数日前、仕事先で連絡窓口となってくださっている方から、

 

「私も(研修案を)拝見させていただきました。

一人の親としても、大変参考になることが多く、
○○という役職の方だけでなく、
親としても勉強させていただきたいなと思うところでした」

 

の言葉と共に、
ご自身のお子さんとの関わりにおける、
とあるシーンへの(後悔の)思いが綴られたメッセージが届き。
(「タイムマシーンがあったらあの時へ戻るのに」と)

 

で、思ったわけなのです。
(たくさんの親御さんの似たような声、いわば「心の叫び」を思い出しつつ)

「ああ、お願いだから自分を責めないで」

と。
それはその時のあなたの(全ての親御さんの)
精一杯だったのだから、と。
で、最近思う
「この連綿とつながる『悲しみ』『もどかしさ』」は何なのだ、
という思いがまたむくむくと頭をもたげ。

 

 

で、
次のようにお返事を返しました。

 

 

 

*  *  *  *

 

「コミュニケーションについて学ぶとは、
つまり、

『愛の表し方』

を学ぶということなのだ、と思います。
他者への愛。
そして、自分自身への愛。

 

わたしたちはそもそも、
たくさんの愛を持っていますけど、
それを「適切に表す」「適切に伝える」すべ、を知らない。

 

自分の親も、その親も、その親も…

 

そんなことを教わっていないし、
知らなかった。

 

(特に、80年前、戦争が終わった時に、
一度大きく断絶してぐちゃぐちゃになった、と思います。
世の中の激変、価値観の激変。
あの時、日本の大人たちはみんな、
自分自身を信じられなくなった、と思うのです。
その傷(固まった心と身体)をわたしたちは受け継いでいる)

 

あなたのお子さんへの(後悔している)言動。
その、
根っこの根っこの深いところにあった、
あなたの「本当の願い」。

それは、
ご自身の不安もあったやもですが、

そのさらに奥には、お子さんへの「純粋なる愛」
がダイヤの原石のようにしっかりと存在していた、
と思うことなのです。

 

*  *  *  *

 

 

「愛を表現する」
「愛を伝える」

 

20代、
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読んで
「いっちょんわけがわからん…」
だったのですが、
それでも、最終章に出て来る

「愛とは修練である」

の言葉はとても印象に残っています。

愛とは。
愛を伝える、愛を表現するということは、
「練習あるのみ」なのです。

 

どろつき大根のままで
(洗うことも、皮を剥くこともなくそのままで)

「さあ、受け取ってくれ」
「どうして理解できないの?受け取ってくれないの?食べてくれないの?」

と言われても、
相手にとっては咀嚼は愚か、口にすら入れることができない。
(けれど、みんな案外「それでいい」「それが普通」
「自分、不器用だから…」レベルの認識で止まっているのが
「コミュニケーション」の分野なのではないかと思っています)

 

*  *  *  *

 

 

「わたしたちのような仕事の者の役割は、
それぞれが、その「ダイヤの原石」に気づいていただき、
楽しく磨いて「本来の美しい光」が
周りにしっかりと届くためのお手伝いをしているということでしょうか」

 

*  *  *  *

上のように続きを書いて、終わったことでした。
(我ながらいい喩えだなーと思いつつ)

 

 

 

まとまりませんが。
今年もそういう場でたくさんの人にお会いできることが
とても楽しみなところなのです。

 

 

 

追伸:
では、昔の日本人はそんなに「愛」を伝えるのがうまかったのか?
ということなんですが。

「言葉」がうまかった、ということではなく。
(何せ言葉は「今夜は月が綺麗ですね(=I LOVE YOU)」の世界なので)

「身体」が今とは違っていたのだと思います。
身体が常に「温まっていた」(体温ということだけではなく)。

 

柔らかく、豊かにコミュニケーションのためのセンサーが広がり、
リラックスした身体で
昔の日本人は生きていたのだと思います。

(渡辺京二「逝きし世の面影」にその雰囲気を感じることができるのではと)

 

つまり「いるだけで」「お互いそこにいるだけで」
安心感や、つながりの感覚や、愛おしいという感覚や…
そういったものが
溢れている身体、やり取りできていた身体、といいましょうか。
(昔、ばあちゃんの膝に乗っかっていた頃に、そういう感覚を
感じたことがあったように思います)

 

谷川俊太郎さんの訃報を聞いた日に書こうと思い立ったこと

 

 

 

 

朝のリレー 

       谷川俊太郎

 

 

カムチャツカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている

 

ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする

 

この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている

 

ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る

 

眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

 

 

 

*  *  *

 

 

 

今でも、夜明け前に起き出して、
どこか遠くへ移動するとき、
ちょうど空が白んできた頃、つい口ずさんでしまうんですよね。

 

 

「カムチャツカの若者が…」

 

 

この詩の言葉が身体の中に呼び起こす

すがすがしさ、
静かな躍動感、
何かが始まる前のワクワクする感じ、
壮大な感覚

そんなものが、
わたし自身の身体にもしっかりと刻まれてしまったんだなあ、
と。

 

 

この詩に出会ったとき、
もはや「いい大人」だったわたしでさえそんななのだから、

みずみずしい13歳の頃に出会った子たちの身体には、
もっともっと、深く刻まれていたらいいなあ、と思うんですが、
それは「授業をした人」(つまりわたし)
の力量に大きく関わっているんじゃあ??

と思うと、ほんっとに責任を感じる😅
と今更ながらに思うことなのです。

 

 

 

 

 

谷川俊太郎「朝のリレー」。
入学後のとても早い時期(春か、遅くても初夏)の題材として、
載っていたように思います。

「出発」「新しいスタート」を迎えた子どもたちに触れてもらうに、

なんとも相応しい。

 

 

 

 

美しい言葉に触れること。
美しい世界に触れること。
そこと、いつでもすぐにアクセスできる回路をつくること。
そこは、心の故郷であり、
いつでも自分を助け、温め、癒し、鼓舞してくれる、
大きな大きなものの「みなもと」。

 

 

 

 

詩の授業なんてのは、
結局「そういうもの」をたくさん作るために
やるんじゃあないの?

 

 

そこから始まる長い人生、
どんな場面でも、
「帰れる」「繋がれる」心のエネルギー源をたくさん作るために。

 

 

 

 

と今なら思います。
今ならわかります。

 

 

 

 

 

*  *  *

 

 

《追伸》
この「朝のリレー」のドリル(市販の小テスト)を見ていたら、

 

【そうしていわば交替で地球を守る】
ここの意味として正しいものを選べ。(4択)

 

の選択肢の中の三番目の選択肢が
「地球防衛軍に入って防衛に力を尽くす」
という感じの選択肢だったのが、とても(笑えて)気に入ったことを思い出します。

 

『風の時代』本格到来と懐かしいマドモアゼル・愛先生の本の話

 

 

 

 

 

教員時代、マドモアゼル・愛氏の

「自分の素晴らしさに気づいていますか」という本を、
学級通信で紹介したことがあるのだけど、
当時クラスで一番大人びていた部類に入る男子が、
額にかかる前髪をサラリと払いながら
(本当はそんなことはなかったんだろうけれど、なぜかそういうイメージで覚えている)

 

「先生、これはだめだよ〜」

 

と注進してきたことがあった。

 

 

 

何がダメなのか、全くわからなかったのだけれど、
つまり、彼いはく、
「自分たちは年頃なんだから(この絵はいかがなものか)」
と、そういうことだった。
(そういえば、そのプリントを配った時、いつもは騒がしい帰りの会なのに、
妙に静かになった気はしたのだった。男子が)

 

 

小さく縮めて載せていたし、
リアルでもなんでもない絵本風の「挿絵」なので、
全く気に留めていなかったのだけど。
(今になると配慮が足りなかった、ホントに申し訳なかった‼️と思うのだけど)

 

 

 

子どもたちとは、本当に優しくて、
わたしにとっては大きな存在であったな、と思う。

 

思春期特有のセンサーで「大人の都合」や嘘や欺瞞には
敏感に反発しまくってくるのだけど、
こちらの掛け値なし、作為のない頑張りには、
たとえ成果が出なくても、失敗しても優しかった。

 

教職後半になるに従って、この子達に
「伝えないといけないもっと大切なことがある」
という思いが湧き。
(例えば、この本に書いてあるような、生きる上で大切であろうことを)

 

しかしいかんせん。
思いは湧くのだけど「知識」がない。
「技術」がない。
(「自分を大切にしましょう」と口で言ったからといって、
授業になるわけではないし、ましてや子どもが「そうできる」ようになるわけもなく)

 

 

 

そのうち、もう嘘はつけないなあ…
という苦しくなったのも、教員を辞めた理由の一つだったように思う。

 

 

それから数年して、
「出来なかった苦い思い」を「出来る」にするための
格好の知識と技術、概念として、
コーチングに出会ったと思っているのだけど。

 

 

 

さて。
今日の本題は実はそこではなく。
上記のような懐かしい昔を思い出させてくれた
マドモアゼル・愛氏いはく、

 

【20日、5時28分に、冥王星が山羊座から水瓶座に入った】

 

のだそう。
200年続いた「土の時代」から「風の時代」に「本格移行」した。

 

⚫︎土の時代の象徴は「ルールの整備、安定、物質、権威」
⚫︎風の時代の象徴は「自由、知性、情報、横の繋がり」

 

産業革命から今までの約200年間がまさに、
「土の時代」だったんだそう。

 

わたしたちは存分に土台を固め、物質的に発展を極め、
昔からあった既存のルールや権威を基準として、
幸せを追求し、
また享受する時代を過ごした、ということでしょうか。

 

 

 

そして「風の時代」がやってきた。

 

懐かしいマドモアゼル・愛氏の口からその「到来」を告げられ
(たまたま見た動画でですけど)
なんだか感慨深い気持ちになっています。

 

 

今思えば、ですが。
昔、生徒たちに伝えたかったことは、
既存のルールが崩れて、自分の軸がより必要になる
「風の時代」をメインとして生きることになるであろう彼らにとって、
必要なことでもあったんだなと、
そんなことを思ったりもしているところなのです。

 

 

*  *  *

⚫︎縦社会→横社会へ
⚫︎物質を獲得→心の豊かさをより重視
⚫︎型のある人生→自分の意思で選択する人生
⚫︎みんなと一緒→個性を出していく
(「風の時代って何?」こちらのサイトからお借りしました)

https://note.com/satomi_09/n/n641f1e650782

 

*  *  *

 

 

ということで、みなさん。
「風の時代」に突入したそうですよ。

 

それはつまり、親の「努力」じゃなく「言葉になはらない意識」の方が伝わる、ということじゃなかろうか

 

 

 

【努力は実を結ばないのね】というタイトルで、

 

 

「歯を丁寧に仕上げ磨きしてあげていたのに、歯も磨かない男になった。
毎晩読み聞かせをしていたのに、スマホ以外の活字は読まない男になった。
ご飯、ちゃんと手作りしてたのにカップラーメン大好きな男になった。
環境考えて親子でエコ活動してたのに一面ゴミの部屋で暮らす男になった。
…息子に一言。
努力が実らない世界があるということを知った。
教えてくれてありがとう」

 

といった感じの内容の内容の文章を見た時に、
(文章はうろ覚えなので悪しからず)

 

 

それはつまり、
「結局、親の(大人の)『何が』子どもに伝わるか」
ということなのじゃないだろうか、
と想像したのでした。

 

 

ちょうど知人に話したばかりなのだけど、
「人はあなたの言葉の通りになるのではない。あなたの身体の通りになるのだ」
という言葉があって。
(コミュニケーションにおいて、わたしの好きな言葉です。本質をついている)

 

これはつまり、
言葉や、思考でコントロールした行動。
ああしたほうがいい。
こうすべき、と言った言葉や行動ではなく、

 

結局「本音」(無意識)の方が伝わる、
影響を与える、ということなのだけど。

 

 

「ちゃんとしなくちゃ」
「〜すべき」
「正してあげないと」
「しっかりしないと、させないと」
「いいことをさせないと」

 

 

そこには、親自身の
「楽しさ」
「リラックス」
「心から『それしたい!』」
という感覚は
含まれていない。多分。

 

で、子どもには、「そっち」の方が伝わるのだ。

 

 

 

「親も常日頃言っていたし、やっていたし。
『そうした方がいいし、正しい』のはわかっているけれど。
なんだかわからないけれど、
それを考えると、
しようとすると、
固い感じ、重い感じ、嫌な感じを感じる…」

 

 

という、子ども本人にも理解できない「感覚」
になって子どもの中に残る。
それがつまり
「相手はあなたの言葉(思考)のとおりになるのではない。
あなたの身体(無意識)のとおりになるのだ」。

 

ということなのだと思う。

 

 

自分の話になりますが。
子どもの頃から本が好きで、
多い時で年に2〜300冊くらいは読めていたように思う。

 

今も本好きは変わっておらず、
いい癖をつけてもらったなーと。
ここのところは親に感謝しているのだけど、
「本を読め」と言われたことは一度もない。

 

だだ、「家に本があった」。
父が本好きだった。
壁一面をぶち抜いた本棚と、
父の机の上にはガラスの扉のついた「特別本棚」があって、
その中には父のお気に入りの本が並んでいた。

 

 

 

何を言いたいかというと、
読み書きかせでもエコ活動でもなんでも。
「自分も楽しい」
「何より自分が好きで、したい」
「夢中になれる」
のだったら、
より、いいんじゃないだろうか、と思うのだ。

 

 

「頑張る」「しなきゃ、させなきゃ」が醸し出す大人の無理や、
緊張の方が、
結局子どもには伝わってしまうから。
(と書きながら、なんだか切なくなっている。
その気持ちも、よくわかるから。
そして、教員時代を思い出すに、
それで上手く行ったことは一つもないなあとも思うのだ)

 

 

いつも思うのは。

 

「大人が笑って、のびのびと自分の人生を楽しんでいる」
「その姿を、ただ見せる」

 

もっというと、
「家の中がなんか知らん、
そんなHAPPYな大人が出すHAPPYな波長で満ちている」

 

 

子どもの幸せはまずは、それじゃあなかろうか、と思うのだ。

「小さな気がかり」こそ、完了させると大きな力が戻ってくる

 

 

 

 

一昨日、知人の腕時計を見せてもらったんですが、
それが、

 

 

「中学生の時から使っている」

 

というものだったのです。
お祖父様からのプレンゼントだそうで。

 

お祖父様、本当にいいのもを選ばれたのだなあと、
その思いや、大切に使っている知人の思い。
また、丁寧で繊細な生活の仕方に本当に感動してしまい。

 

 

 

で、
ふと思い出したのは、仕事机の引き出しの中で眠っている自分の時計。

分解清掃もしてもらい、大切にしていたのですが、
最後に電池が止まってから、なんとなくそのままにしていたのですよね。

 

 

理由は、

⚫︎分解清掃しても、電池のもちが徐々に短くなっていた。
⚫︎「丁寧にメンテナンスしながら使うといい時計は3万円くらいからかなあ〜」と、

時計屋さんからのレクチャーを受け、なんとなく気持ちが「しょぼん」となっていた。

 

 

そんなところでしょうか。
けれど。気に入って買ったものなので、
そしていろんな時間を共にしてきたものなので、

自分が気持ちいいのが一番、と。
時計屋さんに走って行ったわけなのでした。

 

 

 

時計屋さんで、早速にわたしの感動、
(知人の腕時計の話です^^)
それからあれこれ…

 

「この時計、今の仕事を始めた時に買ったもので、
思い入れがあるので大切に使おうかなあと思って」

 

などと勝手に決意表明までしていたところ、
時計屋さんがニコニコと満面の笑みで、

 

 

「いいですねえ😃✨✨
それに、今日はちょうど『時の記念日』ですしねえ」

 

 

で、ますますテンションが上がってしまったのでした。

 

時の記念日?
時の記念日に、止まっていた時間が動き出すなんて…
なんていいタイミングなの⁉︎
なんて素敵なの!

 

 

と、言葉にするとそんな感じでしょうか。
時計屋さんが「なぜ今日が記念日か?」まで教えてくださり。
(語呂合わせではないのですよ。
天智天皇の水時計まで遡る、立派な記念日なのです)

 

で、最後に
「時の記念日来店記念」で
可愛いものまで頂いてしまいました。
(しじみ貝の根付け。いい柄、いい色合いだと思いませんか^^)

 

 

 

つまり今日、何を言いたいかと言いますと、

 

「時計が動きだして、嬉しい」
「なんか、来てる気がする(いい感じのタイミングが!)」

 

以上喜びの報告、2点なのですが、
何より大きいのは、

 

 

「これでスッキリ」

 

 

ということかなあと。

 

 

心の中に、微かに、微かに。
日頃忘れていても。思い出しもしないくらいに微かなことであっても、

それでも、「小さな気掛かり」はわたしたちの中に音もなく積み重なり、

 

わたしたちのエネルギーを奪う。
微かなる「エネルギー漏れ」は続いていく。

なので、「穴は塞ぐ」。
徹底してふさぐ、ことが大事。
小さな穴ほどふさぐ。即、ふさぐ。さっさとふさぐ。丁寧にふさぐ。

 

 

 

つまり「未完了は完了させる」。

 

コーチングでは、とても大切な視点&日々の行動の一つになってます。
(の割に、こういう気掛かりを放っておいたりするのですが)

 

 

とにかく、
今日は本当にほんとうに「スッキリ」しました。

 

 

もうすぐ節目の夏至もやってきますし。

夏至までに「小さな未完了」の書き出しと、「集中して『終わらせる』」週間。

皆さんにもおすすめします。

 

 

 

 

ここらで「人の話を聞く」という「超基本」について振り返っておこうじゃないかー私たちは本当に「聞いて」いるか?聞けているか?

 

 

 

数日前、会話をしていて「聞かれてないなあ」とモヤモヤすることがあり、

すっかり元気がなくなってしまったので、

(わかりきっていることですが「聞かれてない」「受け取ってもらってない」

という感覚は結構「来ますよね」心に)

 

 

 

みんなで再確認しましょう‼️

 

 

 

まず、前提として、
「コミュニケーションはキャッチボール」。

 

よく聞きます、知ってます、と思ったあなた。
この「キャッチボール」が本当には「出来ていない」こと、結構多いのです。

 

以下、
わたしが研修で実際にボールを使ってやる
「コミュニケーションはキャッチボール」のエクササイズを、言葉で書いてみます。

 

 

 

 

さて、「心地よいキャッチボール」のルールとは。

 

 

❶心地よい速度の(受け取りやすい)ボールが
❷一回に一個、こちらに飛んでくる

 

 

当たり前ですね。
当たり前なんですが、ボールを「言葉」に置き換えると。

 

「ものすごい速さのボールが」
「一度に2〜3個飛んでくる」

 

ようなキャッチボールを平気でやっている人がいたりします。
(ボールだと、そんなことしたら「何かの特訓か??」ですけど、
「言葉」だと平気でやってしまったりする)

 

 

 

 

さらに。
心地よいキャッチボールのルールは続く。

 

 

❸自分が投げたボールを「相手が受け取った」ということがちゃんとわかる

 

 

これも当たり前ですね。けれど、これを言葉に置き換えると、

「反応がない
(うなづきがない、相槌がない、目が合わない、受け取ったよというメールがない…)」

とても「不安になる」やり取り、溢れているんじゃないでしょうか。
さらに。

 

 

❹投げたボールが相手から自分の手元に返ってくる

 

 

この❹までを完了して、初めて「コミュニケーションが完了した」
ということになります。
ここまでをやって、一つのコミュニケーションが終わる。

 

 

「相手にボールを返さない」
「もらったボールを一人持ちし続ける」

 

 

そんなキャッチボールは「ありえない」わけですが、
これが言葉だと、ある。とてもある。ものすごくある。

 

 

「返事が返ってこない」

 

 

というわかりやすいものから、
あなたが一生懸命話した内容に対して、

 

 

「へえ〜、そうなんだ」

 

 

の一言で、

 

 

⚫︎「ところでさあ」とあとは自分の話に持ってかれる…
⚫︎「それってこうなんじゃないの」
と断定される、判断される、ジャッジされる、
欲してもいない(合ってもいない)「答え」を返される、などなど。
(ああ、なんて悲しい)

 

 

 

 

 

 

さて。
心地よいキャッチボールのルール。

 

 

❶心地よい速度の(受け取りやすい)ボールが
❷一回に一個、こちらに飛んでくる
❸自分が投げたボールを「相手が受け取った」ということがちゃんとわかる
❹投げたボールが相手から自分の手元に返ってくる

 

 

 

 

ボールを「言葉」に置き換えて、
自分が毎日、どんなふうに、どんな速度で、どんな投げ方で
「言葉というボールを」相手に向かって発しているか、
そして、どんなふうに受け取り、相手に返しているか。
双方にとっての快適な「リズム」はあるか?

 

 

改めて、「イメージして」みてください。

 

 

あなたと大切な人との対話において、
きっと、大いに発見するところがあるのではと思います。

 

「コミュニケーションはキャッチボール」

 

 

このことが、しっかりと「身体で」実感出来ていると、
コミュニケーションというものが、
「なんて言えば…」
とか、
「どんな言葉を使えば…」

 

以前のものであって、
表面的なハウツーのみでは成り立たないものだということが、
よくわかるのではないかと思います。

 

 

 

才能とは何か?ー今年もみんなが自分の才能全開で生きる1年となりますように

 

 

 

 

「わたしの才能は…」なんていう言い方は、
少々(だいぶ)抵抗のある人もいるのではないだろうか。
いや、むしろ言えない、という人もいるのではないだろうか。

 

才能・強み。

 

わたしの専門分野ではそれを、

「放っておいてもついつい勝手にやってしまう、思考パターンや行動」

と定義しているけれど、
最近、いろいろな人の話を聞いていて、

「人には見えていないものが見える(わかる)分野」

という言い方も(わたしにとって)ピッタリくる、
いい表現が見つかったなー、という気がしている。

 

 

ある人と、布の話をしていたのだけど、
話を聞いているうちに、
自分がミクロサイズになって、
布の繊維一本一本が交錯している巨大な織りの空間に
ふわんと浮かんでいるかのような感覚を覚えた瞬間があった。
(大昔、こういうSFドラマがあったぞと思いつつ⇨小さくなって人体に入るやつ)

わたしには想像もつかない視点。
見ているところ、見えているところ。
それは多分、その人にとっては「ものすごく当たり前」で、
わたしにとっては新鮮で驚きだらけのものだった。

 

 

で、
「才能」に関して、小さい頃伝記で読んだ
「シュバイツアー博士」の話を思い出したんでした。

 

シュバイツアーは小さい頃から、
オルガンがうまかった。
メロディに美しい和音をのせて弾く。

 

で、ある日、担任の先生に、
「先生はこうすると綺麗な演奏になることを知らないんだ」
と思い、アドバイスした。

 

翌日、先生が相変わらず、
片手で(一本指で?)オルガンを弾いているのを見て、
「みんなができるわけではないんだ。
これが普通だと思っていたけれどそうではないのだ」

ということを初めて知る、と。
そんな内容だったかと。

 

 

 

そのことが苦ではなく、ずっとできる。
そして、自分にとって、まるで
「そこに空氣があるように」
「ご飯を食べるように」

自然で当たり前のこと、感じ方、見え方、動き方。
それを「才能」と呼ぶ。

 

そしてそれは、もちろんあなたの中にも。
あなたの身近な人の中にも。
皆に備わっているもの。

 

 

それをお互いに交換しあい、
披歴しあい提供しあってつながっていく。
まるでパズルのかけらのように補い合って丸い豊かな世の中になる。

 

そんな世の中、
最高じゃないか!と今年、今この瞬間も、ものすごく思っている。

 

さて。
人はそれに「まみれて」いる時が一番幸せ。

 

今年、あなたはどれくらいの時間、それに「まみれて」生きるだろう?
あなたの大切な人の「それ」を発見し、
彼が、彼女がそれに「まみれる」ことをどれくらい
サポートするだろう?

 

どうぞ、今年も存分にやっちゃってください。

 

「自身が発した言葉をどう受け取るかは相手の責任。 わたしたちは相手の責任まで負うことはできない」が第一位でした。 (「研修で一番心に残ったことは?」の質問に対して)

 

 

 

 

 

参加者24人中、7割が「一番心に残ったとしてあげたのがタイトルにあげた言葉。
「これが来たか〜!」と内心驚きました。予想外。

 

 

 

 

これをぜひ伝えたい、と思ったのは、
研修前に書いてもらった「うまくいかなかった部下との会話事例」のアンケートで、

 

 

⚫︎表現が回りくどい
⚫︎相手に気を遣いすぎて、結局一番言いたいことまで達していない

 

 

例がとても多かったからなのです。
(名付けて「外堀戦法」。
まあ、時間がかかっても本丸まで到達できればいいんですが、
外堀だけ埋めて力尽きている事例、多数😊)

 

 

 

 

「相手が傷つかないように気をつけて話しました」
「(お客様からのクレームを)そのまま伝えては相手が傷つくので、表現を柔らかくして伝えました」

 

 

 

と。
とても順当な、人として当たり前の感覚に思えます。
けれどこの中に、わたしたちの中に長いこと居座っている思考と感情のパターンが厳然として存在する。

 

「相手のことを考えなさい」
「周囲に合わせなさい」
「人を傷つけてはいけません」
「もっと思いやりを持ちなさい」
「人から嫌われないようにしなくては」

 

確かに。
これを否定するものでは全くありません。
けれど同時に、これらは時にはわたしたちを過度に縛り、自由な表現を妨げるものにもなっている。

 

 

 

 

さて。
「相手の気持ち」なんてものは、
いくら想像しても本当にはわからない、ということを承知しておくといいのです。

 

 

そんなものは魔法使いでない限り、本当のところはわかりはしない。
「傷つく」と思っているのはあなたであって、相手がそうなのか、本当にはわかりはしない。
相手がどう受け取るかなんて、コントロールできはしないのだから。

 

 

 

(実は、ここをコントロールしたい、という人は結構いて、
「相手にこのように思ってもらうために、行動してもらうために
『どう言ったら』いいでしょう?」という質問、よく聞きます)

 

 

 

 

自分の中から「本当の」思いと言葉を解き放ち、相手に届け、そして勇気を出して、委ねる。

 

そんなコミュニケーションは、すっきりとしていて、軽やかだな、と思います。
風が吹いて新緑が揺れるようであったり。
太陽に照らされた土みたいにほっこりと温かったり。
派手じゃないけれど、遠赤外線で、ゆっくりと効いてくる炭火みたいだったりする。

 

 

 

 

つまり、その人の個性、人間性がしっかりと伝わってくるものになっている。
「言い方」(言葉)もとても大切ではあるが、
その人の「真の意図」(あり方。being)こそが、
相手に振動となって伝わるのだ、ということがよくわかる。

 

 

 

 

 

わたしたちは、相手に幸せになってほしいと思えば思うほど。
相手といい関係を作りたいと思えば思うほど。
コントロールしたい、という欲求が生まれることもあるものです。

 

 

 

けれど、そこにしっかりと「境界線」を引く。
相手と自分は違う人間なのだと理解し、
尊重し、信じ、委ねる。

 

 

 

そんな「健全な境界線」こそが、
「新緑の風が吹くような」自由自在な関係性と互いの成長を
もたらすものなのだと思います。

 

 

(写真は島津家別邸、仙巌園の白梅。
見ると近所の白梅も満開になっており、「はじまったー^^!」という感じがしています)

 

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