少し前、圓生をよく聞いていたのですよね。
廓の「張見世」(あの、遊女が並んでいる格子システム)をリアルで見たことがあって、
「江戸」の空氣感を演じられる最後の落語家。
で、
圓生の一番古い音源を再生して、
そこにいたお客さんたちの空氣も含めて、伝わってくるものがあるとしたら
どんなにかすごいだろう、と思い。
とある方に聞いてみたところ、
「そういうことになるかもしれません」
(と言ったような)お返事が。
この日、地元鹿児島は吉野にあるMAI Factoryさんにスピーカーの試聴会に行きまして。
(正確には「アンプ」の視聴会、なのですが)
音の洪水の真ん中で身体中に音を心地よく浴びる体験をしまして。
で、これらを作成された方に、
「アンプ」というもののことを色々と聞いたのですが、
実はここでその万分の一も再現することができず。
(なかなかに難しかった)
ですので、
今から書くことは、わたしの頭の中に
「残っていた」
「強烈に焼きついた」
ことだけ、なのですが。
❶アンプ職人はアンプを「アート」と捉えている。
なので、「自分の色(演出)」を出そうとする。
音に反映させようとする。
❷この方の作るアンプにはそれがない。
ただ純粋に「数値」のみを追い求めている。
(つまり、エゴが入ってない、とわたしは捉えました)
❸あなたの機器ならわたしの「氣」がわかるかも、
と氣功の先生から「氣」の収録を依頼されたことがある
❹この機器で再生されたBGMは、エンドレスでもイラっとっしない
他にも色々とすごいお話を聞いたんですが…^^;
で、もしかしてこういうことでしょうか?
と先ほどの圓生の話をした所
「そういうことかも知れません」
と言ったようなお返事が返ってきた、と。
で、その日、圓生の代わりに、
100年ほど前の「チェロ組曲」の音源を聞かせてもらったのです。
果たしてそれが、
100年前の「場の空氣」までも再現しているのか…
それは正直、わたしの耳ではわからなかったのですが、
けれどなぜか?少し涙が出てしまったことも
確かなのでした。
今日言いたいことは。
「そこ」に他意を挟まない。
「俺が」「わたしが」と言った「いらないもの」が入らない。
そういう人は、やがて「神様が喜ぶような仕事をすることになる」
と、そういう感じでしょうか。
この方が、
「『その音』のことを一番よく知っているのは、その音を奏でている人。
(そこにいろいろくっつけるなんておこがましい)」
と言ったようなニュアンスのことをおっしゃったことが
とても印象に残っています。
すごいアーティストさんたちが、この方の機器を選ぶのは、
まさに、
「ずっと研ぎ澄ませ続けてきた自分の音」
「ずっと研ぎ澄ませ続けてきた自分の思い」
それを、ただただ、まっさらに、極限まで正確に、
そのまま増幅してくれる機器だから、
なのではないか、と思ったのでした。
そして、
これはわたしの仕事とも似ているのです。
その人の最も「その人らしい」音をそのまま、極限まで増幅して
世界へ届ける仕事、と自分の仕事を捉えています。
そうありたい、と願っているわけで。
思わぬところで、
自分の中心軸とつながるような、
雑なものが細胞から全部出ていくような、すっきりとした体験をすることができました。
なんにせよ「よいもの」というものは、
人を軽くして「本当」「本質」「ありのまま」にかえすものなのだな、と思ったことです。