「なぜコンビニの前に座っていてはいけないのか」を子どもになんと説明するか

 

 

 

 

 

 

つい最近、(誰かの記事だったか、動画だったかで)見たのですよね。

 

コンビニ前や駅の構内で、
地面にペタッと座って飲食している子達がいたとして、

「草っぱらなんかでもじかに座る。どうしてここだといけないの?」

と問われたら、なんと答えるか、と。

 

 

で、その記事だったか、動画だったか…に、こういうコメントが。

「コンビニや駅の構内だと、
公衆トイレなどに行って、みんなそのまま歩いているから汚い。
なのでダメ、と子どもには教えています」

 

 

 

本当にその通り。
けれどでは、そこがもし、ピカピカの床で、
絶対に菌やウイルスの入り込む余地のない場所だったら
座ってもいい、

ということになるのかしらん、と。

 

 

 

 

で、わたしの率直な感想は、

「理由が…いるか?」

でした。

 

 

 

 

なんというか。

「理論」。「理屈」。
よく言われる「エビデンスは何ですか?」的な。
それがないものは存在の余地なし、みたいな昨今。

 

 

そんなものは全然「通って」いなくとも、

 

「とにかく良くないの」
「それは美しくないの」

 

という精神はもはや通用しないのかしら、と。
(お天道様が見ているから、的なですね)

 

 

 

 

 

 

 

知人が「今、仏教と神道の本を読んでいます」
と。

 

 

「自分たちはどうも、以前であればあれば自然と
『もらって』(受け継いで)
きたものを上の世代からもらえていないんじゃないか、という感覚があり」

 

 

 

 

ということなんだそうで。
(わたしから見ますと、その方、全くもって、そうは思わないんですけどね)

 

 

 

で、
ご自身の子どもに何を手渡すのか、にあたって、

 

「では、自分で再度見つけるしかないか」

 

と。

 

もらえていない、受け継いでいない、どこかで断絶している、のならば、
自分で知り、取捨選択をし、
自分で再編し直さねばならない、

 

 

 

 

と思ったのだそう。

そのためには知識が必要。

 

 

 

「根っこ」を知ることが。
揺るがぬ「根っこ」。
「真善美の根っこ」を知り直す必要がある、出逢い直す必要がある。

 

 

 

それはなんだろう??
と考え、「仏教」「神道」というものにも触れてみよう、
と思ったんだそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

これまでも何度か書いていますが。

「根っこ」を知らないもの、
根っこと繋がっていないもの、は弱いですね。
(基本・土台・型がないものは、とも言える)

 

 

 

とうとうと流れる時の中で、
自然と形作られてきた「道理」を無視して作ったものは、
どんなに「いい方法だ」と思った仕組みや考え方でも、
数年経つと、目まぐるしく変わる時の中で、
瞬く間に「合わないもの」「使えないもの」になっている感じがします。
(「時代の徒花」で笑いで済めばいいんですけど)

 

 

 

 

 

わたし達は今、大きな渦の中で、
何を信じていいかわからない。
何を支柱として生きていいかわからない。
だから、

 

 

「(有名な)この人が言っている」
「これが流行っている」
「みんながこうしている」
「『成功』している人がこうやっている」

 

 

を追いかけ、
追い求め、
右往左往している。

(この状態、「精神的孤児」という言葉で、以前書きましたが)

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、わたしたちが、
「正しい」「これが当たり前」「ずっとこうしてきた」
と思っていることも、歴史を辿れば、
戦後ほんの80年でできた「常識」であったり、
わずか160年前には全く違っていた、ということも多々あるわけで。

 

 

 

 

 

先に書いた知人が、
「わたしたち日本人を形作ってきたもの」
(自然、風土に自然と育まれてきた文化、価値観、身体観)

 

 

の源流を求めて仏教と神道の本も読んでみよう、と思った(切なる)氣持ち
わかるなあ、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

彼は、感じたのだろうと。
わたしたちが「こうだ」と思い込んできたことは、
案外「そうじゃないものもある」ということに。
ぐらり、足元が揺れ。

 

 

 

 

そして彼はきっと思ったのです。
自分の子どもたちを「孤児」にしたくないと。
デラシネ(根無し草)にしたくない。

 

 

 

 

たとえ世の中がどんなに渦巻いていたとしても、
自分の足で立って。

 

 

他者の作った真実ではない、自分の真実を。
「自分にとっての真の幸せ」を、
(それは自身の心にも身体にも至極自然で心地よく、なおかつ、
世界と自然に調和したものだと思うのですが)

 

 

生きる人になってほしいと思ったのだと思います。

 

 

 

 

 

 

決して色褪せない「根っこ」を。美しさを。
幸せに生き抜く力を、

 

子どもたちの身のうちにすっくと、しなやかに
立ち上げてあげたかったのかなと思います。
(本当に、何よりの宝だと思うんですよね)

 

 

 

 

 

 

※写真は、わたしの部屋の紫陽花です。愛おしきかな😍

 

 

 

 

それは愛か?を見分けるのは容易い

 

 

 

 

 

 

 

朝ドラ「らんまん」を見ていて、ふと上の言葉が浮かんだんでした。

 

 

 

主人公の描く精密な、精密すぎる植物の絵。
どんな気分であっても、どんな状態であっても、
そこに植物があったらつい嬉しくなり、じっと見てしまう。
話しかけてしまう。
(牧野富太郎博士自身がそういう人だったんだろう、
とご本人の笑顔の写真を見て思うことなのです)

 

 

 

 

 

 

「愛」というものの土台は、

 

 

「見ている」

 

 

ということなのだと思います。
「まなざしを注ぎ続ける」と表現した方がいいでしょうか。
(または「あたたかい観察」)

 

 

そして「ものすごく細部まで見てとることができる」
「氣づくことができている」
ということ。

 

 

 

 

 

いつも「見ている」。
細部に至るまで「見ている」。
細やかに「見ている」。
朝昼晩、春夏秋冬、ずっと「見ている」。

 

 

朝と夕の変化。
季節ごとの変化。
どんな細かいところまでも、
繊細な葉の筋の一本までも「氣づくことが」できる。

 

そして、「それ」のありのままの姿、
ありのままの特質を心から愛で、賞賛し、尊敬し、慈しむ。

 

 

 

 

 

 

他者から自分に向けられる言葉や行為に対して。
または自分自身から発せられる「誰かへの言葉や行為」に関して。

 

 

 

それは「愛から」のものなのか?
そうでないものなのかを見分けるには、
上に書いた「土台」が根底にあるか?あってのものか?
を判断基準にすればいい、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛」からのものとは、

 

 

・いつも見ている、しっかり見ている(あたたかい観察)
・細部まで見ることができている
・対象のありのまま(本質・特質)を見てとれている
・ありのまま(本質・特質)への尊敬、賞賛、慈しみがある
・ありのまま(本質・特質)をこそ、大切に保ちたい、
 伸ばしてあげたいと思う気持ちがある

 

 

 

 

 

それ以外のものがもし入っていたら、
それは「愛」ではなく。

 

 

 

「自分の心配、自分の不安、自分の欲、自分の願望、自分の理想…」

 

 

 

を押し付けられているのかもしれない&押し付けているのかもしれない。

と疑ってみてもいい。

 

 

 

 

 

 

牧野富太郎博士の植物の絵。
あの細やかさ、あの緻密さ、
あれは、「愛」以外の何ものでもない。

 

ただただ、対象をありのまま、真の意味で「愛した」。
愛を持って「見続けた」からこそ描けた人の絵なのだと感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

世の中は簡単で単純でシンプルでいいー年末の大掃除と共に、自分の中も絶賛大掃除中ー

 

 

 

 

今年は結構早くに大掃除を始めてしまい、
ただいま家の中が散れに散れてしまっているんですが、
(開かずの押し入れとかに手をつけてしまうと、そうなる)

並行して、
「自分の中身」も絶賛大掃除中です。

 

 

 

 

 

昨日、自身のセッションで、
(わたしがメンターから受けるコーチングセッション、の意)

 

 

『かんたんな方法じゃダメだ』

ー簡単にうまくいくはずがない。
ー自分で考え、難しい課題をクリアしてこそうまくいく。
ー全て自分で頑張らないと欲しいものは手に入らない。

 

 

という考え方の「癖」(信念)
を、根強く、根深く、後生大事に持っていた、

 

ということを発見して、大いに驚いたところです。
(PCに向かって「それです!それそれ!」と叫んでしまったくらいに)

 

 

 

 

けれどまあ。

思い返してみると、むべなるかな、なんですよね。
しようがないよね(それしかやり方、知らなかったよね)
という諸々の「歴史」があるわけで。

(こういうのって、みなさんにも何かしら、あると思うのです。
世界とはこうだ!という自分自身の「信念(考え方の癖)」を
生み出すに至った体験)

 

 

 

 

で。
めでたく、「その信念」の下、これまで相当頑張ってきた自分を、

「改めて確認し」
「認め」

そして、

「存分に感謝し、いたわる」

というプロセスを経てセッションは終了しました。
なんだかとてもラクになった。

 

 

 

 

そして今朝。
(正確にはさっき)

文章でも書こうかと、昨日のセッションメモを開けたところ、
いきなりどん、と目に飛び込んできた文が、

『かんたんな方法じゃなきゃダメだ』。

え…?
と一瞬思ったんですが。
つまり、見間違えたのです。読み間違えた。

 

 

 

 

『かんたんな方法じゃダメだ』
と自身の「ビリーフ(信念)」をメモしていたんですが、
   ↓
『かんたんな方法じゃなきゃダメだ』

 

 

と脳が認識した、と。
つまり一夜にしてわたしの無意識だか潜在意識だかが、
書き変わった、ということか?

 

 

 

 

と。(少しびっくり)

 

 

 

さて。
それによって何が起こるか…
詳しくは書きませんが、
不思議と、努力とは無縁の「棚ぼた」のような嬉しいことが起こったり、
タイミングよく情報を聞いたり…

ということが続けてあり、
(つまり、妙に世界が「簡単」になっているような(笑))

「自分の思っていることが自分に返ってくるのだなあ」

ということを静かにしみじみと実感している今日。

 

 

 

 

さて。

「この世界が自分にどんなカードを配るかは、
自分が自分自身をどう扱っているかによって決まる」

という言葉を昔、何かの本で読んだことがありますが。

 

 

 

今年1年間。さまざまに溜まった書類。
モノ。

押し入れの奥から取り出し、
目の前に広げ、確認し、精査し、手放すものは手放す。

とっておくべきものは埃をふるい、丁寧に棚に戻す。
大切なものは改めて磨き上げ、ピカピカにして、
一番使う場所に改めて置く。

 

 

 

どんなに大切にしてきたものでも、
役立ってきたものでも、
自分を助けてくれたものでも。

年月と共に必ず「変化」が訪れます。

自身の成長とともに、
もう使わなくなったり、
そぐわなくなったりすることもある。

 

 

今の、これからの、来年の自分にとって、
最も心地よく、幸せな状態に住まいやモノを整えるように。

 

 

 

「自分の内面」にある戸棚の引き出しも開けてみる。

そこに何が収められているのか?
どんなルールブックを自分は今、使っているのか?
それは有効か?
(大体、いつ作ったものなのか?)
それは今の自分の支えと助けになっているか?

 

 

 

これらの作業も、
実は、ものすごく、ものすごく「有効な」大掃除、であると感じます。
(何せ、「生きること全ての土台」ですから)

 

 

 

さて。
わたしの2023年版「マイルールブック」に書き加えたのは、

 

 

『世の中は簡単で単純でシンプルでいい』

 

 

ずっと使い慣れてきたルールの変更です。

少しの不安と、そこはかとない寂しさと。
そして、
静かな解放感を感じているところです。

 

 

 

 

 

来年へ向けて–まず自分が今年「得たもの」について思いを巡らす

 

 

 

 

 

メンターコーチから、

 

「公子ちゃん(と、彼女はそうわたしを呼ぶ)

自分が意識してないだけで、
いとも簡単に(意図しただけで)手に入れているもの、
たくさんあると思うよ」

 

 

と言われ、
そういえばそうかな、と思ったのでした。

 

 

 

本当に、「意識して」ちゃんとそういうことは考えないと、

ついつい、

「ないもの」
(あれがない。これがない。これがまだだ。手に入っていない)

の方に意識が向きがちになってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

で、昨日、12月1日。
(ちなみに、滅多にないことに、11月中から小さくあちこち掃除を始め、
なんと!年賀状も作成を始めている今年←わたしにはすごいことです)

 

 

 

改めて、姿勢を正し、しっかりと座り、

「それ」

について考えてみることに。

 

そうすると、正直…あまり出て来ないことに愕然としているところです。
(ない、のではなくて、いかに「忘れてしまうのか」ということに。
もしくは「当たり前」の箱に入れてしまっていることに)

 

 

 

 

 

 

 

そんな中、絶対に忘れられない思い出の一つ、
について書いてみることにします。

と思ったのだけど、書いていて恥ずかしくなったので、これは消してしまいました。
(やっぱりこれは宝物なので、自分の心のうちだけにとどめておこう、と)

 

 

 

 

 

 

けれど、「それ」は。

 

自分が最高に楽しんでいて、
全てを忘れて(人の目がどう、とか)
全身全霊で味わって、喜んでいる時。

まるで、細胞がどんどこと音を立てて、祭り太鼓を奏でているような感覚の時、
思いもかけないところから降ってくる、という

 

 

 

「自分自身の『うまくいっているパターン』」

 

 

 

だけは、しっかりと再確認することができました。

 

 

 

そうやってわたしは、
たくさんの人と出会い、
よきものと出会い、
素晴らしい体験をたくさんしてきた。

 

(堂々と書いてみましたが、こういうことは、自分で認めて、
自分で「そうだ」と認定しないと、本当に、「なきもの」とか
「大したことないもの」になってしまうのです!)

 

 

 

 

 

 

 

さて。
もうすぐ今年も終わります。
来る年、

 

「何をしよう」
「これをやりたい」
「こんな一年に」

 

あれこれと考えたり、書いたりしてらっしゃる方、多いかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

その前に、
「今年(これまで、でもいいですし)自分にするりともたらされたもの」
「今年(同上)自分の元にやってきた素敵なもの、素晴らしいもの」

 

 

 

 

 

 

について、改めて思いを巡らせてみるものいいのでは、
と思います。

そこには、自分自身の「方向性」(うまくいっているときの形)が刻まれている。

 

 

 

 

 

その「形」を明確にして。

 

(「結局、自分はこの形なんだな」
「無理しても意味ないやん」
「自分でないことをやっても意味ないな」
「迷ったらここに戻ればいいのね」などなど…←わたしの中に今、起こっている声)

 

 

 

 

 

 

そして来年へと進んでいくというプロセス(一段階)を持つ。
これは、なかなかに有効なことなのではと感じているところです。

 

 

*  *  *  *  *

 

 

写真は「前田コーヒー」。
京都文化博物館の中庭にある、「いい感じのカフェ」でした。
エスプレッソに牛乳を混ぜると「ラテ」じゃなく、
違う名前になるんですが、なんですっけ。

 

 

 

 

この地球上に、誰一人として「同じ人」はいないと改めて実感する。 例え同じことをやったとしても、全く違うものが出来上がるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

ウエディングプロデュースの会社にいた頃の話なんですが。
当時流行り始めていた「人前挙式」の台本を、
近隣のホテルの婚礼担当の人たちがもらいに来ていたのです。

 

「どんな風にやるのですか?」
「進行台本を下さい」

と。

 

 

 

 

 

わたしのいたプロデュース会社の社長の方針は、
「惜しげなく、全て与える(空いた空間に、また新しいものが入ってくるのだから)」。

 

 

 

 

同地域のホテルの方々にも、台本や、
その際に使う革のフランス製(だったかな?忘れた)のかっこいい署名シートや…

そんなものを全て。

 

つまり「挙式を美しく、厳かに、新郎新婦とご列席の方々、全ての心に
一生残る最高の時間と空間になるための演出を」

惜しげなくお伝えしていたと記憶している。
(今考えても本当にすごいな、と思う)

 

 

 

 

 

 

で。
いつだったか。

プロデューサーを辞めてからだったかもしれないんですが、
「見た」のですよね。どこかの式場で。

とてもそっくりな台本と進行で人前挙式をやっているところを。
その時、ちょっとびっくりしながら思ったのです。

 

「同じものをやっても、こんなにも違うものなのか」

 

と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうしてこのことを思いだしたかというと、
知人がこの度、新しいことを学ぶことになりまして。

 

で、その方が、ちらっと、
「他にもやっている人はいるし、もっと早くから取り組んで、もはや形になっている人もいる。
けれど…『どうせ自分は』と言ってしまうのはもったいない」

 

 

と。
ほんとうに、その通り!(どうせなんて思う必要なし)

 

 

 

 

「これまでに様々な体験をして、いま、この瞬間にいる、という、
その『これまでの体験』込みですごいと言いますか。

あなたが今後、されることは、
それ単独ではなく、これまでのあなたの『すべて』の上に乗っかって、
構築され、これまでの全てと渾然一体となって、
ますますあなたならではの『価値』を発揮していくことになると思います」

 

 

 

とメールを送ったのですが。

 

 

 

 

 

 

世の中の1000人が1000人、同じことをしたとしても。
この世の中に形となって現れるものは全部違う。
元は同じ水でも、あなたという「地層」を通って、
唯一無二、その人だけの「ミネラル含有の水」になって滲み出てくる。

 

 

子供のころの記憶。身体に刻まれた体験。
やってきた仕事。
喜び、悲しみ。
何度となく味わってきた心震える感動の瞬間
本当の望み
そして、何より「それ」を通して、どんな思いを表現したいのか

 

全て、みんな違う。

 

 

 

 

 

こんなにも違うのに、
その「唯一無二」の「そのあなた」を通して出てくるもの、
この世界に表出されるものが、ありきたりなものであるわけがない。
そんなことあるわけがない。
そして、この世界には、

 

 

「そこがいい!」
「あなたのそれこそがツボにハマる」

 

 

 

という人たちが必ずいる。
そういう人たちと出会うことになっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

例え万人「そのこと」をやっている人がいたとして、
神様は、「あなたに」「あなたの方法で」
表現してほしいのだ。
発信して欲しいのだ。

だからこそ、神様はこんなにもたくさん人間を作った。

 

 

 

 

 

 

 

 

早いもので、今年もあと少し。
2023年、何かを始めようと、少しドキドキしながら動きだしている「あなた」。
よろしければこの言葉、心の中にinしてお進みください。
(心から応援しています)

 

 

 

 

 

「足りない」より「ここにある」から出発する方がいい-教頭先生方の研修会にて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日、鹿児島は南薩地区の、小中学校の教頭先生方の研修会に行ってきたんですけれど、

その時に出されたオーダーが、

 

 

 

「先生方はとにかく忙しい。だからホッとする時間にしてほしい」

 

 

 

だったのに、結構な感動を覚えたのでした。

この仕事を始めてもうすぐ20年。

正直言って「初めて」のオーダーな氣が。

 

 

 

 

これまで、

たくさんのオーダーを受けてきたけれど、

「こんな力をつけてほしい」

「こういうふうになってほしい」

 

 

 

 

 

 

まあ、当たり前です。

研修というのは、一般的に「そういうもの」ということになっていますんで。

 

「こういう力をつける」

「こういう知識を得る」

 

つまり、

「もっとこうなってほしい」。

 

 

 

 

 

 

けれど。

裏を返せば「足りない」「不足している人たち」という視点で

「その人たち(参加者)」をみている、ということにもなる。

 

「あなたはこういうところが足りない」

「もっとこうなりなさい」

 

 

という目で見られ、

「だから行って来い!」と研修に突っ込まれて、

嬉しいはずがない、とも思うのです。

 

 

 

 

 

「先生方は忙しい。

 

(確かに!こと教頭先生の忙しさは超弩級であると考えられます。

わたしも教員時代によく拝見していました…早朝でも、もはやいるし、夜、未だいるのが「教頭先生」)

 

だから、何よりほっとする時間を」

 

 

 

 

この言葉に、先生方の日々の頑張りへの深い信頼を感じたのは、

わたしだけでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

「今」への信頼。

そして、それを

「さらに豊かに発揮できるような、そんな『エネルギー』となる時間を」

そんな、依頼者の思いを感じたのでした。

 

 

 

 

 

 

「研修とは、今ある自分の素晴らしさを知り、認め、誇り、そして、

それをさらに、自由自在にのびのびと、発揮するためにあるものなのだ」

 

 

 

 

 

 

3年くらい前、

そういうことを書いた氣がするんですが、

今回ほらねと、再確認です。(クスッと笑う得意げな自分がいる)

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてこれは、わたしたち自身に関しても同じで。

すべての体験。

これまでの自分の人生。

歩んできた歴史。

 

 

「もっとこうであったら」

「どうしてできないのだ」

「なぜ、こうなのだ…」

 

 

さまざま思うところもあるでしょうが、

この人生を生きてきて、今ここにいる自分。

この時間を、このプロセスを否定してなんの意味が?と思うのです。

 

 

わたしたちは、頑張ってきた。

本当に、十分に頑張ってきた。

 

 

そして、たくさんのことを学び、身につけ、その傷までもが、

糧として、今や自分のかけがえのない唯一無二の輝きを形づくっている。

そう、その傷なくて、今のあなたはいなかった。

 

 

 

 

 

 

わたしの前にいるあなたの笑顔をつくっているのは、

あの日、奥歯を噛み締めていたあなた。

静かに涙を流していたあなた。

悔しさと無力感に膝をついたあなた。

だったりするのです。

(そんなあなたと出会えて嬉しい、といつも思う)

 

 

 

 

 

 

全、肯定。

もし、あなたが肯定できなくても、わたしが全肯定したく思う。

今、ここにあるあなたこそがまず何より美しい。すごいと思うし、尊い。

 

そして、結局、そっちの方が、ずっと効率が良くて、

エネルギーが満ちるので、うまくいくのです。

 

そして、すべてのものとの関係性の土台はここ、なのです。

 

 

 

 

 

*  *  *  *  *

 

 

《雑記》

鹿児島の「南薩地区」には、温泉で有名な指宿が入っています。

(この研修自体も、会場は指宿だったのですけれどね)

 

 

そして、指宿の官公庁の「夏の公式ウェア」は「アロハシャツ」なのです。

さすが、南国指宿!

秋口とはいえ、まだまだほとんどの指宿の教頭先生方が、「アロハシャツ」でのご参加でした。

(いや〜、爽やか^^)

 

 

 

他にも、頴娃(えい)という地区があってですね。

(難しい方言No1と言われる方言を持つ鹿児島でも、

特に特徴がある言葉の地区で、県内では「英語」ならぬ「頴娃語」と呼ばれているんですが)

 

そこの教頭先生方の「チームウェア」はかっこいいポロシャツでした。

 

 

 

 

本当、時代は変わったんだなあ…。

(しみじみ)

でした。

 

 

 

 

 

年内にやるといいいこと「自分の中からザクザクと宝を掘り出す」

 

 

 

 

 

年内にやるといいこと、ということで

 

 

「今年やったことを100個書き出す」

 

 

と、YouTubeで浅見帆帆子さんが言っていたので、これ、いいなと思い、わたしもやる予定です。

 

 

 

 

この「100」というのがポイントで、

だいたい途中で出なくなる。もう何もない、何も思い浮かばない!という段階がくる。

 

 

 

けれど、ここからが「本番」。

無意識層が検索を受けて活発に動き出す段階といいますか。

頭で思いつく浅い部分を超えて「次の段階」へ突入する。

思ってもいなかったことが「ぽん」と出てき始める。

(そして、その「ぽん」が本当に大切なことであったりする)

 

 

 

ことの大小に関係なく「どんな小さなことでも」書く。

行動したことだけではなく、自分の考えについて、感情について…

あらゆる角度から自分について検討し、捜索し、書く。

(それに「小さい」といいましたが「取るに足らない」認定をしているのは自分だけだったりするわけで)

 

 

 

 

 

 

「自分がこの1年にどれだけのことを成し遂げたか、驚くことでしょう」

(と帆帆子さん)

 

 

 

 

 

本当に。

わたしたちは今年もどれだけのすごいことを成し遂げてきたことでしょう。

よくがんばった。

 

 

そして、それらは何より「自分で確認し、自分で認める」ことが大切で、

周りから100万遍褒められたとしても、

自分が認めなければ、その「成し遂げたこと」は「ない」のと同じ。

 

 

逆に、自分がそれを認め、歓び、慈しむことができたなら。

たとえ周囲から見て「小さな」ことであっても、それは美しくそびえ立つ強固な城のように、

自信となり、誇りとなり、滋養となり、力の源となる。

 

 

 

 

 

 

 

自分のこと。周囲で起こる様々なこと。

「そのこと」にどんなラベルを貼るのか。自分の意識の向き。意味づけ。

それこそが自分にっての真実であり、自分にとっての世界であり、100人いれば100人分の「真実」がある。

そして、人は「意識の向いた方向」へ進む。そのことを「多く得る」。

 

 

 

自分でも100満遍、これまで人に言ってきたことですが、

そうだねえ、ということを今年もしみじみと実感した年でした。

 

 

 

 

これを読んでくれたみなさんへ。

「わたしが成し遂げた、この上ない豊かなあれこれ」というスポットライトを当てて、

ぜひ、この365日間を精査してみてはいかがでしょう。

 

来年へ向けてのこの上ない宝物となり、エネルギー源となるのでは、と思うことです。

 

 

人の感情の責任まで引き受けない「聞き方」(一本の線を引くことは大事)

 

 

 

 

相談業務が仕事のクライアントさんがいます。

 

 

 

相談終了時、彼の発した「話してみてどうですか?」の問いに、

相談者が「ますます不安になりました」と言った、とのことで、

なんだか落ち込む、と。

 

 

話を丁寧に聞き、相手の言葉を受けて、

「それならばこういう案も」「こういう方法も」と提案も様々にしたのだが、全て却下。

話は「そして出発点へ戻る」で終わったのだそう。

 

 

この間、約2時間。

「どっと疲れました…」

とのことで。

 

それは、お疲れ様でございました…としみじみ思ったのでした。

 

 

 

「ますます不安になりました」と言われたときに、

「それ、自分のせいですか?そうなんですか⁉︎」という思いが

瞬間ぐるぐると渦巻いたそうで。

 

その気持ち、わかる…(わたしもそういうところがあるからなあ~と思いつつ)

 

 

 

で、ふと浮かんできた一つの喩えをお伝えしてみました。

 

「わたしたちの仕事は、交通整理をしているようなところがあります。

相手の中の膨大な量の情報、感情の交通整理。

お巡りさんが、交差点の真ん中に立って交通整理をするときに、どんなにたくさんの量の車が走っていても、

ひどい渋滞であっても、一台一台の車に感情移入をすることはないでしょう?

 

『ああ、あの車は赤ちゃんが泣いている!ごめんよ…』

 

とか、

『あの車の中は苛立って喧嘩をしているな。申し訳ない…』

 

と、ともに悲しんだり、嘆いたり、どうにかしてあげよう!と思ったりはしないですよね。

それは、お巡りさんの仕事ではないから。

お巡りさんの仕事は、ただ渋滞を、安全に適切に捌くこと。

共感しつつも、その視点を持っておくといいかもしれません」

 

 

 

彼は、

「ああ!とてもわかりやすい!」

と。(ヘッドセットの向こうで、「メモを…」の気配)

 

 

 

 

話を聞いていて。

 

コミュニケーションをとっていて「疲れる」というときは、

そこに「ゲーム」(無意識下のエネルギーの奪い合い)が起こっているとき、なのだろう、と思います。

(エネルギーが均等に、クルクルと循環しているときには疲れないし、

逆に、お互い触発しあって元気になり、いいアイデアがバンバン浮かんだりするものです)

 

 

 

「課題を解決するのは、相手」

「相手の機嫌は相手の責任」

 

 

 

感情、身体状態ともに、ともすれば反応してしまい、なかなかそこの切り離しができないこともありますが、

自分にとって心地よい、新しい「軸」を採用し、

それを何度も何度も「採用し続ける」ことで(ここが大事!)

やがてそれは身体に沿った「生きた技」となり「在り方」になっていくものだな、と思います。

 

 

 

 

 

 

(今朝の桜島。島はおぼろでしたが光る海に

観光の人たちが「おお〜!」と歓声をあげていました)

 

彼女は「他者の可能性を引き出す者」としての身体を手に入れた

 

 

 

最近アニメをよく見るので、YouTubeにこんなゲームの宣伝が入ってきます。

「吹き抜けろ、僕らの音楽──

生徒と奏でる青春育成ゲーム『ウインドボーイズ!』

吹奏楽部の顧問になって生徒たちと青春の日々を過ごそう!」

https://windboys.jp

 

きらっきらの男子高校生26名と関係性を構築し、コンクール優勝を目指す乙女ゲーム。

 

…友達の音楽教師に教えてあげようと思う。

(せめてここで夢を見てね☺と)

 

 

 

 

吹奏楽部の顧問の先生たちをいろいろ見てきたけど…もう大変なところしか見たことが、ない。

 

朝は早くて、昼休みなし。夜は一番遅く、暗くなってから鍵をかけて学校を出る。

盆も正月もない。みんな命かけていた気が。

 

しかも、どっちかというと構成メンバーは女子が多い。

(なので、なんやかんやといらぬ心配(人間関係)も出来する)

 

 

 

 

思い出すのは一人の先生。

 

 

その先生がやってきたのは定例の4月だったか覚えていないのです。

 

 

はっきりと覚えているのは、多分「初赴任、初先生」の学校だったのだということ。

挨拶のために職員室の前に立ったそのやや内股な立ち姿を見た時、

 

「リカちゃん人形がやってきた!」(皮肉じゃないです)

 

と感嘆したくらいに、目が大きくて、可愛らしくて華奢だったこと。

 

 

 

彼女は音楽科(ピアノ専門だったか?)だったので、

自然と吹奏楽部の顧問になった。

そして…

 

 

 

その学校は、もともと吹奏楽が強かった。前顧問の影響力も大。

そんな中、生徒たちの信頼を得て部を統率することが、いかに困難だったか、想像に難くない。

 

(確か「音楽室、生徒鍵しめ事件」

なんてものもあった気が。部員たちが籠城したんだったか。記憶がはっきりしないのだけど)

 

 

 

 

 

そんな話を漏れ聞きつつ、夏休みの明けた、9月1日。

 

 

 

集会の後、そのまま吹奏楽部の壮行会が行われ。

 

全校生徒と先生たちの見守る中、彼女は指揮台に立った。

そして、指揮棒を構えた。

その瞬間、

 

 

 

 

「ゾワっ…」

 

 

 

体育館の空気が一変した。確かに。

彼女の背中から、何か出ている…。

 

 

 

確か彼女、指揮未経験。

 

けれど、立ち方から何から、全てが違う。

完全な別人。

もう、何か降りてきている、としか思えない。

 

 

 

あごをくいっと持ち上げ、すっと水平に上げた両の腕と、

真っ直ぐに立ち上がった背中のラインとの間に出来た空間の、なんと深くて優雅なこと。

 

 

 

 

自分の拡げた身体のうちに、部員と全ての楽器を内包し、彼女は「場をしっかりとホールド」して立っていた。

 

 

 

 

 

今でもはっきりと、その美しい後ろ姿を思い出すのです。

 

 

 

結局、曲が終わるまでの間、わたしは彼女の指揮に釘付けだったわけですが、

彼女の指揮に心動かされたのはもちろんわたしだけではなく、

隣にいた50代の丸っこいおじちゃんたち(先生です)が、

 

 

 

「指揮っち言うのは、あげんかっこよかもんやったんやなあ〜」

 

 

 

と、囁き合っているのを確かに聞き。

 

 

 

 

わずか数ヶ月。ここまで「変容した」彼女を思いました。

 

「指揮は生徒に習いました」

 

と笑っていたけれど。

本当にもう、軽く言葉で書くことなんかできない時間があったんだろう。

 

 

 

 

知識は誰だって容易に手に入る。

 

それをいくらだって「言うことが」できる。

でも、人はそれだけではついてこない。人はそれだけでは心を開かない。言葉を受け取らない。

最も大切な、

 

 

「教師としての身体」。

 

 

教員だけではない。

 

「学び・成長の場を創り」「人が共振しあう場を創り」「人の中からその人の最高を引き出す」

 

ことをやる人間ならば、必ず備えていなければならない、

 

 

「技化された身体状態」

 

 

を彼女は恐ろしい勢いで、開発せざるを得なかったのだ、と思った。そして、それをやった。

「指揮をする」ということは、そう言うことだから。

 

そして、忘れてはならないのは、「身体と精神はつながっている」。

 

 

 

吹奏楽にまつわる思い出の中でもひときわ美しい思い出です。

 

今でも吹奏楽は大好きですが、それは、沢山の聞き覚えた音楽の向こうに、

 

 

「成長するのに、先生も生徒もない。ただ、真剣な場と、そこに向き合う真剣な大人がいればいい」

 

 

 

というたくさんの実例を、いろんな人たちの「変容していく顔と姿」を、

リアルに思い出すからかもしれません。

 

 

 

 

いつも、普通に、周りに「見えている、聞こえている、感じている」ものが人を形作る

 

 

 

 

朝の番組の「名店の技・塩むすびを握る」で、

いかにご飯をふっくらと炊くか、

握る回数はふわっと三回だけ、

 

というのをやっており、

その名店さんの握る手つきを見た瞬間、

 

 

 

 

「あ、これできる…」

 

 

 

 

どうしてそう思ったかというと、

わたしがとても小さい頃、近所のおばちゃんたちがみんな、

「まさにその手つき」

で握っていたのをまざまざと思い出したからなのです。

 

 

 

正月だったかお盆だったか、お葬式だったかお祭りだったか。

何かあるたびに台所でおばちゃんたちが集まって

おにぎりを握る。

みんな、こんな握り方だった。

 

丸い柔らかい手で、

身体の中から生まれる小刻みなリズムとともに

ふわっと丸めるような手つきで生み出される柔らかいおにぎり。

 

 

 

分厚い手の中から魔法のように次々と生み出される、

白くてふわっとしたあったかいおにぎりが、

もろぶたに並んでいくのを、

飽きずに眺めていたもんでした。

 

 

 

 

 

 

なんでもですけど。

 

その環境にいた、普通にそれが周りにあった、というもの。

何かしら身体に刻まれている気がします。

(そしてそこには初心者よりも多少「勘所」が生まれる)

 

 

 

 

親がそれをやっていた、

などというのはそれの最たるものでしょうか。

やっぱり、

見えていた、聞こえていた、嗅いでいた、感じていた…というものは、

自然と身体に入ってしまうといいますか。

 

 

 

 

 

人って、

後付けでたくさん知識も手に入れますが、

土台のところは、

囲まれているものから(無意識に五感から入ってくる情報から)

でできている、

と、

 

 

いつも実感していることをまた思い出しています。

それが人を形作る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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