頼られる嬉しさーわたしたちは一緒に美しい色を描いている

 

 

 

先日、知り合いのクリエイターさんから

「日本語(縦型)表記における、ある記号の使い方」

の質問がきており。

 

 

 

 

「もと国語の先生なので、お詳しいかもと…」。

 

 

 

 

で、
がぜん元氣になり、張り切って調べ、
(なんでもやっとくもんだなーと呟きつつ)
お返事を書いたところでした。
役に立てているといいのだけどと心から思いつつ。

 

 

 

 

 

「あなたの力を貸して」
「あなたの知識を貸して。知恵を貸して」

 

 

 

どうしてこんなに嬉しいんでしょうね。
その「どうして」を掘り下げてみたいんですが、
今日は時間がなく。

 

 

 

 

 

で、
知識だけでなく。

 

 

 

 

「あなたの存在感を貸して」
「あなたの波長を貸して」
「あなたの笑顔を貸して」
「あなたの中心軸(ぶれないあり方)を貸して」
「あなたの『夢』を目指す力を貸して」

 

 

 

 

いろんな「貸して」があって、
わたしたちは影響を与え合って、
補い合い、混ざり合って、美しい色を織りなしているんだろうなあ

 

 

 

と思ったのでした。
(貸して、がなくても、自然とそうなっている)

 

 

 

 

 

そう考えると、なんだか元氣が出ませんか。
連休明け、もし、ちょっと元氣がなくなっている人がいたら、
「大丈夫、あなたがあなたなだけで、
なんかもういい感じなのよー」
(いるだけで影響を与えているのですよ)

 

 

 

 

とお伝えしてみたくなり、書いてみました。

 

 

 

 

 

 

*   *   *

 

《「コミュニケーションの体幹を鍛えるワークショップ
第一回『聞くこと(傾聴)の前にあるものは」》

 

🔸5月18日(日)14時〜16時30分
🔸鹿児島市/カクイックス交流センター(県民交流センター)リハーサル室4
🔸受講費 3500円
🔸残席 1

 

 

●お申し込みフォーム
https://form.run/@maikaze–y8gv4sN7nzB1LjeCeGdk

●詳細
https://ameblo.jp/businesskouko/entry-12900477660.html

 

 

🌟「ここでは聞ける。家に帰るとダメ」
🌟「頭ではわかっているけど、なかなか…」
🌟「ついいらぬ一言が口をついて出てしまう」

 

こんなふうに相手の話を「聞けない」とき。
自分を責める必要はないかもしれませんよ。
それはあなたの「スキル不足」じゃないかもしれませんよ。

 

「聞く」というスキルの「もう一つ前」にあるスキル。
「聞くこと」を支える「その前」を
みんなで練習しよう、鍛えてみよう、の時間です。

 

年齢・仕事・立場・役割に関係なく。

「人ともう少し心地よく関わりたい」
全ての方へ。

 

 

 

*   *   *

 

 

《第2回のご案内》

●6月15日(日)14時〜 鹿児島市/カクイックス交流センター(県民交流センター)
●内容→伝わる声と言葉についてのあれこれ
(タイトル、詳細は後ほど)
●受講費 3500円
●募集 8(残席5)

 

 

 

 

 

大人は忘れていても、それが子どもの人生を助け動かすことがある~小椋佳氏とマルコ・ポーロ

 

 

 

 

 

先日、知人からメッセージが来てですね。

 

 

娘さんのお友達の話を聞いていたら、

 

「バイト先の常連さんにとってもステキな女性がいて、
凛とした雰囲気が漂い所作や動きがとってもきれいで
私達との応対もハキハキとステキで仕事もできそう!
こんな大人の女性になりたいなって憧れる雰囲気の人がいる」

 

で、
どうも公子さんっぽいので、写真を見せたら大当たり。
と。

 

 

なんだか自慢みたいになっていますが、
そのメッセージを見たときのわたしの心持ちはそんなものではなく。
言葉にするならば、
「ああ!😭」と膝からくず折れるような、
そんなきもち。

 

「ああ、頑張ってきてよかった。
痩せ我慢しつつ、時には強がりつつ…でも本当に頑張ってきてよかった」

 

と、そういう感じでしょうか。
(と、その知人にも送ったのですけどね)

 

 

 

さて、本題。

 

 

今、朝5時と言う思いっきり早い時間に、昔やっていたアニメ
「マルコ・ポーロの冒険」
の再放送をやっていますが。

 

子どもの頃、一生懸命見ていたんです。
そして、出てくるいろんな曲が好きだった。

 

でその頃、曲を作った小椋佳さんが、
「マルコポーロの冒険」の楽曲について語るラジオ番組があったのです。
それを録音して、姉と二人で繰り返し繰り返し、聞いた。
でもって、すっかり覚えてしまった。

 

 

一番印象に残っているのは、

 

「取材に行ったとき、砂漠の真ん中で、自動車が壊れてしまった。
立ち往生して、どうにもならない、と思った時に、
星空の広さ、自然の中でポツンと、自分の存在の小ささを知った」

 

みたいな話で。

 

 

 

 

そして時は流れ、数十年。
小椋佳さんとご一緒する機会があり、
わたしはここぞ!とばかりに突進。
その話を熱く語ったのです。小椋さんに。

 

「今でも、ふっとおりに触れ、あのお話を思い出します。
そして、旅に出る時、ちょっとキツいなと思う時…
今でも、マルコポーロのいろんな歌が背中を押してくれるような時があります‼️」

 

と、それはそれは熱く(笑)

 

 

すると、小椋さんは、あの穏やか〜なお声で一言。
「ああ、そうなんだ…ごめんね。僕、何喋ったか覚えてないんだけど」

 

 

 

 

さて、何を言いたいかと言いますと。

 

「大人は覚えてえいなくても、子どもは『それ』を覚えていて、
しっかりとその身に刻み、そしてそれはいつか子どもの指針となり、子どもを助ける」

 

ことがある、と言いたかったのです。

 

 

 

だから「氣が抜けない」。
けど「氣が抜けない!」と、いつも周りを見回して身構えて、
ポーズを作って生きることはできないので、

 

つまりもう「日々の生き方」ってことになる。
掛け値なしの自分軸。
自分の体験と体感から出た言葉。
(あの日の小椋さんの言葉や、小椋さんがプレッシャーに苦しみつつ生み出した曲の言葉のように)

 

 

 

 

ここまで書くと、先の「知人のお嬢さんのお友達」の言葉が
どれだけわたしにとって嬉しかったか、
わかってもらえるのではないでしょうか。

 

スマートとも素敵とも言えない毎日。
アヒルの水かきの如く。

 

 

そんな毎日の中でも、

光る水滴のようにこぼれ落ちる「何か」があったのだとしたら。

それが若い人に伝わる瞬間があったのだとしたら。

 

 

 

 

本当に生きてきてよかった。
この生き方を選んでよかった。

そう思えたんでした。
(報われた瞬間、と言うんでしょうか。こういうの)

 

 

 

そして、(今これを読んでいる)皆さんも同じですね、
ということも言いたいのです。
みんなきっと、とても頑張っている。

 

 

今回、
皆を代表して、わたしのところに、
「その言葉」が(子どもたちからの見ているよ!という言葉が)
形となって降ってきたような、
氣がしているところなのです。

「毒親」とは何か?ーそれはみんながなりうるものだし、なっている瞬間があるもの

 

 

 

 

今朝、何かの記事を見て、俗にいう「毒親」の定義はなんだろう?とふと思ったのだけど。
わたしの思う「毒親」とは、

 

 

「自分の不安や心配や願望、コンプレックスなどの『心的状態』を
 子どもの問題にすり替える親。
 そして、そのことに気づかない(気づこうとしない、見ようとしない)親」

 

 

でしょうか。
(なので、「親」だけでなくいわゆる「毒教師」「毒上司」「毒配偶者」などというものも

存在するだろうな、と思うわけです)

 

 

 

 

ちなみに、
「とても満ち足りた、100%幸福な親」に育てられた人は
そんなにいないと思うので、

 

(敗戦、そしてその後の混乱で、
わたしたちの数代前の先祖の多くは皆、ずっと守り培ってきた価値観の「崩壊」それに
「挫折」が深く刻まれることとなったろうから)

 

 

 

そこからつながるわたしたちは大なり小なり、

 

「漠とした不安・これがないと幸せじゃない!という思い(願い)
よくわからない自己否定・コンプレックス」

 

などを持ち合わせているのじゃないか、と思います。

 

 

 

なので誰でもそういう「状態」(毒親・毒大人状態)になりうるし、
なっているときも実は大いにある、
というのが「案外普通のこと」なんじゃないか、と思うわけです。

 

 

だから、これがあることが悪いのではない。
(逆に、「全くない」と豪語する人の方が怪しいと思ったりする)

 

 

 

 

大切なのは、

 

「自分でそれを認めることができるかどうか。
 受け入れることができるかどうか。
 これは自分のものだ、自分で癒すぞ、と決めて、
 そことしっかり向き合うことができるかどうか」

 

なのだと思います。

 

 

 

 

何はともあれ、
自分の幸せは自分の中にしかなく。
何かの条件によるものでもなく、
ましてや人に託すものでもない、

 

ということはしみじみと思うのです。

 

 

 

そして、全ての大人が、
「楽しく、ワクワクと、静かに満ちて、しみじみと…」
(いろんな言葉がつくけれど😀)
とにかくそういう感じに「自分の」人生を生きていることが。

 

 

自分の「中心軸」で生きていることが、
(親は親の「自分が生まれてきた目的」をちゃんと生きていることが)
子どもの幸せにとって、必要不可欠なことなんだ、

 

と、そう感じます。

 

 

 

 

 

今日はなぜこんなことを書いているかというと、
確たる理由は全く思い浮かばないのだけど。

 

 

 

 

 

今が、分岐点、な氣がするから、でしょうか。
わたしたちは今、分岐点に立っている。
(という言葉が勝手に浮かんできている)

 

 

 

 

 

NLPに、
「親のタイムライン(生きた軌跡)までを遡り、癒し、統合するワーク」
というものがあるんですが。

 

 

 

親のたどってきた人生、思いを癒し、
先祖のたどってきた人生や思いをも癒し、

 

それら全てを美しく力強い「糧(かて)」に変え、
自分のこれからの未来のタイムラインを生きるための
プラスのエネルギーとする。

 

そういうワーク。

 

 

 

 

それは「全て」は、
誇らしく輝かしい「リソース」へと姿を変え、
わたしたちの人生を通して、
次の世代へと手渡されていくことになるのだろう、と思います。

 

 

 

 

そして、それが今、(わたしたちが)できるかどうか?が
案外これからの日本を大きく左右するのではないだろうか、
(その、最後のポイントに今、わたし達は立っている)

 

 

 

と、そんな氣がしています。
こういうのは理屈ではないので、うまく言えませんが。

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに自分はどうなの?という話なんですが。

昔、20代後半だったか30代前半だったか忘れましたが、

 

 

 

「『負の文化的遺伝子』を次には手渡さない」

 

 

 

と、なぜか思ったことだけははっきりと思い出します。

(ちなみに、うちの親が「毒親」だったと言うわけではなく。

日々悩みつつ、生活しつつ、子どもを愛し、

時にはそれが十分にできない自分にまた悩むというごくごく普通の親でした)

 

 

 

 

で、
わたし自身、それが今うまくできているかと問われると、
毎瞬毎瞬「プルプル」しています(笑)
(繊細に揺れて、ズレては戻りズレては戻り…ということです)

 

 

なんですけれど、
周りに色々な「ズレを元に戻してくれる」たくさんの人や
ものがちゃんと存在してですね
それが本当にありがたいと思っています。

 

一人ではなかなか難しい。

 

 

なので、世の皆さんたちも、無理はしないでくださいね、
というのは大いに言いたいところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

もしも、録音された「音」だけでなく「場に満ちる『何か』」までも再生できる機器があったなら➡︎あった

 

 

 

 

 

 

少し前、圓生をよく聞いていたのですよね。
廓の「張見世」(あの、遊女が並んでいる格子システム)をリアルで見たことがあって、
「江戸」の空氣感を演じられる最後の落語家。

 

で、
圓生の一番古い音源を再生して、
そこにいたお客さんたちの空氣も含めて、伝わってくるものがあるとしたら
どんなにかすごいだろう、と思い。
とある方に聞いてみたところ、

 

「そういうことになるかもしれません」
(と言ったような)お返事が。

 

 

 

この日、地元鹿児島は吉野にあるMAI Factoryさんにスピーカーの試聴会に行きまして。

(正確には「アンプ」の視聴会、なのですが)
音の洪水の真ん中で身体中に音を心地よく浴びる体験をしまして。

 

 

で、これらを作成された方に、
「アンプ」というもののことを色々と聞いたのですが、
実はここでその万分の一も再現することができず。
(なかなかに難しかった)

 

ですので、
今から書くことは、わたしの頭の中に
「残っていた」
「強烈に焼きついた」
ことだけ、なのですが。

 

 

 

❶アンプ職人はアンプを「アート」と捉えている。
なので、「自分の色(演出)」を出そうとする。
音に反映させようとする。

 

❷この方の作るアンプにはそれがない。
ただ純粋に「数値」のみを追い求めている。
(つまり、エゴが入ってない、とわたしは捉えました)

 

❸あなたの機器ならわたしの「氣」がわかるかも、
と氣功の先生から「氣」の収録を依頼されたことがある

 

❹この機器で再生されたBGMは、エンドレスでもイラっとっしない

 

 

他にも色々とすごいお話を聞いたんですが…^^;
で、もしかしてこういうことでしょうか?
と先ほどの圓生の話をした所
「そういうことかも知れません」

 

と言ったようなお返事が返ってきた、と。

 

 

 

で、その日、圓生の代わりに、
100年ほど前の「チェロ組曲」の音源を聞かせてもらったのです。
果たしてそれが、
100年前の「場の空氣」までも再現しているのか…

 

それは正直、わたしの耳ではわからなかったのですが、
けれどなぜか?少し涙が出てしまったことも
確かなのでした。

 

 

 

 

今日言いたいことは。
「そこ」に他意を挟まない。
「俺が」「わたしが」と言った「いらないもの」が入らない。

 

そういう人は、やがて「神様が喜ぶような仕事をすることになる」
と、そういう感じでしょうか。

 

 

 

この方が、
「『その音』のことを一番よく知っているのは、その音を奏でている人。

(そこにいろいろくっつけるなんておこがましい)」

 

 

と言ったようなニュアンスのことをおっしゃったことが
とても印象に残っています。

 

 

 

 

すごいアーティストさんたちが、この方の機器を選ぶのは、
まさに、
「ずっと研ぎ澄ませ続けてきた自分の音」
「ずっと研ぎ澄ませ続けてきた自分の思い」

 

それを、ただただ、まっさらに、極限まで正確に、
そのまま増幅してくれる機器だから、
なのではないか、と思ったのでした。

 

 

そして、
これはわたしの仕事とも似ているのです。
その人の最も「その人らしい」音をそのまま、極限まで増幅して
世界へ届ける仕事、と自分の仕事を捉えています。
そうありたい、と願っているわけで。

 

 

思わぬところで、

自分の中心軸とつながるような、

雑なものが細胞から全部出ていくような、すっきりとした体験をすることができました。

 

 

 

なんにせよ「よいもの」というものは、

人を軽くして「本当」「本質」「ありのまま」にかえすものなのだな、と思ったことです。

 

「場の力」を知れー「してあげる」ことだけが親の仕事ではない

 

 

 

 

 

幼子の遊ぶ様子を、同じ部屋にいて20分間「ただ見守る」ということができない、

という親の訴えが次のようなもの。

 

「手を出そう、口を出そう、先回りして指示しよう、道を指し示そうとしてしまう。
親の役割というのはそういうものだと思っている」

 

 

 

「それはこうだよ」
「そのおもちゃはこうやって遊ぶんだよ(と「正しい使い方」を示す)」
「次はこれをしたら?」

 

 

(子育て番組の話です。
子どもの中に「アタッチメント(乳幼児が親との間に築く信頼)」
を育てるために、親が20分間、口を出すことなくただ「遊びを見守る練習」をする)

 

 

 

 

教員でも同じようなところが(わたしは、ですけど)あって、
よーくわかる。

が、これでは育たないらしいのですね。

 

 

子どもの絶対的な安心感。見守られているという安心感。
その土台の上に乗っかって初めて子どもが発揮することができる、

 

 

 

「自分でやろう、自分で行こう、自由自在に冒険しよう、どこまでも行ってみよう」

 

 

 

という「自立のこころ」。
(将来、「自立心」となって発揮されるであろう「心の種」と言うべきか)

 

 

それには、
親との空間が「絶対的な安全・安心の空間」であることが絶対条件なのです。
そこを「安全基地」として、
子どもは初めて興味を外界へと向け、冒険できる。

 

 

 

 

 

 

その親御さん、悪戦苦闘の末、一つ「会得」する。
「ああ、これなんですね、これでいいんですね!」と。

 

「今、私は太陽なのだ」
とその親御さんは言いました。

 

「そう思うと、手も口も出さず、ただ見守っていられる」と。

 

 

 

 

 

何かをする。してあげる。与えるのが親の仕事。大人の仕事。
違います。

(とあえて言ってみる)

 

 

親の仕事は、まず「そこにあること」なのです。

 

存在すること。
最高の状態で、存在すること。
太陽のように、さんさんと絶対的な安心感と「愛」でもって、
ただ「そこにいること」。

 

 

Doing(何をするか)の前に、Being(どうあるか)なのです。
(こちらもどうぞ。
https://commu-w.net/2024/11/10/それはつまり
『それはつまり、親の努力じゃなく言葉になはらない意識の方が伝わる、ということじゃなかろうか』)

 

 

 

 

 

場の力、というものの大切さ、凄さを知る。
その空間に溢れる「空氣」。
自分の身体から出て、その空間を形作っている
「何か」についてもっともっと敏感になる。大切にする。

 

 

 

「何かをしなければならない」「役に立たなければならない」
が一番になると、
「それに貢献していない人」「それができていない状態」の評価は
一氣に下がります。

 

けれど、そうでしょうか?

 

 

 

 

昔から日本人は、「場」という感覚を大切にしてきました。
(プレイス、ではない、たくさんの意味のこもった概念であり感覚です)

 

何かが「出来る」という小さな視点のみでなく、

 

 

「場を作れるあり方」
「場を温められるあり方」

 

 

そのものに価値をおき、
大切にしてきた民族ではないでしょうか。
(と、大昔の、祖母の膝の上の「あの感覚」を思い出しています。あれより「無上の愛」の体験を未だ知らない)

 

 

 

日本人は、いつから「場」というものがわからなくなったのだろう?
疎かにするようになったんだろう?
と思います。

 

 

「場の持つ力」を知れ。
自分が自分自身の存在で、あり方で、波長で
「どんな場」を作っているかを、知れ。

 

 

 

「何をしたらいいの?」
「どう言えばいいの?」
「どう言えば伝わるの?」

 

 

 

 

のはるか以前、
コミュニケーションの根っこの根っこの大切な部分です。

 

 

 

コミュニケーションについて学ぶとはつまり「愛の表し方」を学ぶということなのだ

 

 

数日前、仕事先で連絡窓口となってくださっている方から、

 

「私も(研修案を)拝見させていただきました。

一人の親としても、大変参考になることが多く、
○○という役職の方だけでなく、
親としても勉強させていただきたいなと思うところでした」

 

の言葉と共に、
ご自身のお子さんとの関わりにおける、
とあるシーンへの(後悔の)思いが綴られたメッセージが届き。
(「タイムマシーンがあったらあの時へ戻るのに」と)

 

で、思ったわけなのです。
(たくさんの親御さんの似たような声、いわば「心の叫び」を思い出しつつ)

「ああ、お願いだから自分を責めないで」

と。
それはその時のあなたの(全ての親御さんの)
精一杯だったのだから、と。
で、最近思う
「この連綿とつながる『悲しみ』『もどかしさ』」は何なのだ、
という思いがまたむくむくと頭をもたげ。

 

 

で、
次のようにお返事を返しました。

 

 

 

*  *  *  *

 

「コミュニケーションについて学ぶとは、
つまり、

『愛の表し方』

を学ぶということなのだ、と思います。
他者への愛。
そして、自分自身への愛。

 

わたしたちはそもそも、
たくさんの愛を持っていますけど、
それを「適切に表す」「適切に伝える」すべ、を知らない。

 

自分の親も、その親も、その親も…

 

そんなことを教わっていないし、
知らなかった。

 

(特に、80年前、戦争が終わった時に、
一度大きく断絶してぐちゃぐちゃになった、と思います。
世の中の激変、価値観の激変。
あの時、日本の大人たちはみんな、
自分自身を信じられなくなった、と思うのです。
その傷(固まった心と身体)をわたしたちは受け継いでいる)

 

あなたのお子さんへの(後悔している)言動。
その、
根っこの根っこの深いところにあった、
あなたの「本当の願い」。

それは、
ご自身の不安もあったやもですが、

そのさらに奥には、お子さんへの「純粋なる愛」
がダイヤの原石のようにしっかりと存在していた、
と思うことなのです。

 

*  *  *  *

 

 

「愛を表現する」
「愛を伝える」

 

20代、
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読んで
「いっちょんわけがわからん…」
だったのですが、
それでも、最終章に出て来る

「愛とは修練である」

の言葉はとても印象に残っています。

愛とは。
愛を伝える、愛を表現するということは、
「練習あるのみ」なのです。

 

どろつき大根のままで
(洗うことも、皮を剥くこともなくそのままで)

「さあ、受け取ってくれ」
「どうして理解できないの?受け取ってくれないの?食べてくれないの?」

と言われても、
相手にとっては咀嚼は愚か、口にすら入れることができない。
(けれど、みんな案外「それでいい」「それが普通」
「自分、不器用だから…」レベルの認識で止まっているのが
「コミュニケーション」の分野なのではないかと思っています)

 

*  *  *  *

 

 

「わたしたちのような仕事の者の役割は、
それぞれが、その「ダイヤの原石」に気づいていただき、
楽しく磨いて「本来の美しい光」が
周りにしっかりと届くためのお手伝いをしているということでしょうか」

 

*  *  *  *

上のように続きを書いて、終わったことでした。
(我ながらいい喩えだなーと思いつつ)

 

 

 

まとまりませんが。
今年もそういう場でたくさんの人にお会いできることが
とても楽しみなところなのです。

 

 

 

追伸:
では、昔の日本人はそんなに「愛」を伝えるのがうまかったのか?
ということなんですが。

「言葉」がうまかった、ということではなく。
(何せ言葉は「今夜は月が綺麗ですね(=I LOVE YOU)」の世界なので)

「身体」が今とは違っていたのだと思います。
身体が常に「温まっていた」(体温ということだけではなく)。

 

柔らかく、豊かにコミュニケーションのためのセンサーが広がり、
リラックスした身体で
昔の日本人は生きていたのだと思います。

(渡辺京二「逝きし世の面影」にその雰囲気を感じることができるのではと)

 

つまり「いるだけで」「お互いそこにいるだけで」
安心感や、つながりの感覚や、愛おしいという感覚や…
そういったものが
溢れている身体、やり取りできていた身体、といいましょうか。
(昔、ばあちゃんの膝に乗っかっていた頃に、そういう感覚を
感じたことがあったように思います)

 

谷川俊太郎さんの訃報を聞いた日に書こうと思い立ったこと

 

 

 

 

朝のリレー 

       谷川俊太郎

 

 

カムチャツカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている

 

ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする

 

この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている

 

ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る

 

眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

 

 

 

*  *  *

 

 

 

今でも、夜明け前に起き出して、
どこか遠くへ移動するとき、
ちょうど空が白んできた頃、つい口ずさんでしまうんですよね。

 

 

「カムチャツカの若者が…」

 

 

この詩の言葉が身体の中に呼び起こす

すがすがしさ、
静かな躍動感、
何かが始まる前のワクワクする感じ、
壮大な感覚

そんなものが、
わたし自身の身体にもしっかりと刻まれてしまったんだなあ、
と。

 

 

この詩に出会ったとき、
もはや「いい大人」だったわたしでさえそんななのだから、

みずみずしい13歳の頃に出会った子たちの身体には、
もっともっと、深く刻まれていたらいいなあ、と思うんですが、
それは「授業をした人」(つまりわたし)
の力量に大きく関わっているんじゃあ??

と思うと、ほんっとに責任を感じる😅
と今更ながらに思うことなのです。

 

 

 

 

 

谷川俊太郎「朝のリレー」。
入学後のとても早い時期(春か、遅くても初夏)の題材として、
載っていたように思います。

「出発」「新しいスタート」を迎えた子どもたちに触れてもらうに、

なんとも相応しい。

 

 

 

 

美しい言葉に触れること。
美しい世界に触れること。
そこと、いつでもすぐにアクセスできる回路をつくること。
そこは、心の故郷であり、
いつでも自分を助け、温め、癒し、鼓舞してくれる、
大きな大きなものの「みなもと」。

 

 

 

 

詩の授業なんてのは、
結局「そういうもの」をたくさん作るために
やるんじゃあないの?

 

 

そこから始まる長い人生、
どんな場面でも、
「帰れる」「繋がれる」心のエネルギー源をたくさん作るために。

 

 

 

 

と今なら思います。
今ならわかります。

 

 

 

 

 

*  *  *

 

 

《追伸》
この「朝のリレー」のドリル(市販の小テスト)を見ていたら、

 

【そうしていわば交替で地球を守る】
ここの意味として正しいものを選べ。(4択)

 

の選択肢の中の三番目の選択肢が
「地球防衛軍に入って防衛に力を尽くす」
という感じの選択肢だったのが、とても(笑えて)気に入ったことを思い出します。

 

『風の時代』本格到来と懐かしいマドモアゼル・愛先生の本の話

 

 

 

 

 

教員時代、マドモアゼル・愛氏の

「自分の素晴らしさに気づいていますか」という本を、
学級通信で紹介したことがあるのだけど、
当時クラスで一番大人びていた部類に入る男子が、
額にかかる前髪をサラリと払いながら
(本当はそんなことはなかったんだろうけれど、なぜかそういうイメージで覚えている)

 

「先生、これはだめだよ〜」

 

と注進してきたことがあった。

 

 

 

何がダメなのか、全くわからなかったのだけれど、
つまり、彼いはく、
「自分たちは年頃なんだから(この絵はいかがなものか)」
と、そういうことだった。
(そういえば、そのプリントを配った時、いつもは騒がしい帰りの会なのに、
妙に静かになった気はしたのだった。男子が)

 

 

小さく縮めて載せていたし、
リアルでもなんでもない絵本風の「挿絵」なので、
全く気に留めていなかったのだけど。
(今になると配慮が足りなかった、ホントに申し訳なかった‼️と思うのだけど)

 

 

 

子どもたちとは、本当に優しくて、
わたしにとっては大きな存在であったな、と思う。

 

思春期特有のセンサーで「大人の都合」や嘘や欺瞞には
敏感に反発しまくってくるのだけど、
こちらの掛け値なし、作為のない頑張りには、
たとえ成果が出なくても、失敗しても優しかった。

 

教職後半になるに従って、この子達に
「伝えないといけないもっと大切なことがある」
という思いが湧き。
(例えば、この本に書いてあるような、生きる上で大切であろうことを)

 

しかしいかんせん。
思いは湧くのだけど「知識」がない。
「技術」がない。
(「自分を大切にしましょう」と口で言ったからといって、
授業になるわけではないし、ましてや子どもが「そうできる」ようになるわけもなく)

 

 

 

そのうち、もう嘘はつけないなあ…
という苦しくなったのも、教員を辞めた理由の一つだったように思う。

 

 

それから数年して、
「出来なかった苦い思い」を「出来る」にするための
格好の知識と技術、概念として、
コーチングに出会ったと思っているのだけど。

 

 

 

さて。
今日の本題は実はそこではなく。
上記のような懐かしい昔を思い出させてくれた
マドモアゼル・愛氏いはく、

 

【20日、5時28分に、冥王星が山羊座から水瓶座に入った】

 

のだそう。
200年続いた「土の時代」から「風の時代」に「本格移行」した。

 

⚫︎土の時代の象徴は「ルールの整備、安定、物質、権威」
⚫︎風の時代の象徴は「自由、知性、情報、横の繋がり」

 

産業革命から今までの約200年間がまさに、
「土の時代」だったんだそう。

 

わたしたちは存分に土台を固め、物質的に発展を極め、
昔からあった既存のルールや権威を基準として、
幸せを追求し、
また享受する時代を過ごした、ということでしょうか。

 

 

 

そして「風の時代」がやってきた。

 

懐かしいマドモアゼル・愛氏の口からその「到来」を告げられ
(たまたま見た動画でですけど)
なんだか感慨深い気持ちになっています。

 

 

今思えば、ですが。
昔、生徒たちに伝えたかったことは、
既存のルールが崩れて、自分の軸がより必要になる
「風の時代」をメインとして生きることになるであろう彼らにとって、
必要なことでもあったんだなと、
そんなことを思ったりもしているところなのです。

 

 

*  *  *

⚫︎縦社会→横社会へ
⚫︎物質を獲得→心の豊かさをより重視
⚫︎型のある人生→自分の意思で選択する人生
⚫︎みんなと一緒→個性を出していく
(「風の時代って何?」こちらのサイトからお借りしました)

https://note.com/satomi_09/n/n641f1e650782

 

*  *  *

 

 

ということで、みなさん。
「風の時代」に突入したそうですよ。

 

それはつまり、親の「努力」じゃなく「言葉になはらない意識」の方が伝わる、ということじゃなかろうか

 

 

 

【努力は実を結ばないのね】というタイトルで、

 

 

「歯を丁寧に仕上げ磨きしてあげていたのに、歯も磨かない男になった。
毎晩読み聞かせをしていたのに、スマホ以外の活字は読まない男になった。
ご飯、ちゃんと手作りしてたのにカップラーメン大好きな男になった。
環境考えて親子でエコ活動してたのに一面ゴミの部屋で暮らす男になった。
…息子に一言。
努力が実らない世界があるということを知った。
教えてくれてありがとう」

 

といった感じの内容の内容の文章を見た時に、
(文章はうろ覚えなので悪しからず)

 

 

それはつまり、
「結局、親の(大人の)『何が』子どもに伝わるか」
ということなのじゃないだろうか、
と想像したのでした。

 

 

ちょうど知人に話したばかりなのだけど、
「人はあなたの言葉の通りになるのではない。あなたの身体の通りになるのだ」
という言葉があって。
(コミュニケーションにおいて、わたしの好きな言葉です。本質をついている)

 

これはつまり、
言葉や、思考でコントロールした行動。
ああしたほうがいい。
こうすべき、と言った言葉や行動ではなく、

 

結局「本音」(無意識)の方が伝わる、
影響を与える、ということなのだけど。

 

 

「ちゃんとしなくちゃ」
「〜すべき」
「正してあげないと」
「しっかりしないと、させないと」
「いいことをさせないと」

 

 

そこには、親自身の
「楽しさ」
「リラックス」
「心から『それしたい!』」
という感覚は
含まれていない。多分。

 

で、子どもには、「そっち」の方が伝わるのだ。

 

 

 

「親も常日頃言っていたし、やっていたし。
『そうした方がいいし、正しい』のはわかっているけれど。
なんだかわからないけれど、
それを考えると、
しようとすると、
固い感じ、重い感じ、嫌な感じを感じる…」

 

 

という、子ども本人にも理解できない「感覚」
になって子どもの中に残る。
それがつまり
「相手はあなたの言葉(思考)のとおりになるのではない。
あなたの身体(無意識)のとおりになるのだ」。

 

ということなのだと思う。

 

 

自分の話になりますが。
子どもの頃から本が好きで、
多い時で年に2〜300冊くらいは読めていたように思う。

 

今も本好きは変わっておらず、
いい癖をつけてもらったなーと。
ここのところは親に感謝しているのだけど、
「本を読め」と言われたことは一度もない。

 

だだ、「家に本があった」。
父が本好きだった。
壁一面をぶち抜いた本棚と、
父の机の上にはガラスの扉のついた「特別本棚」があって、
その中には父のお気に入りの本が並んでいた。

 

 

 

何を言いたいかというと、
読み書きかせでもエコ活動でもなんでも。
「自分も楽しい」
「何より自分が好きで、したい」
「夢中になれる」
のだったら、
より、いいんじゃないだろうか、と思うのだ。

 

 

「頑張る」「しなきゃ、させなきゃ」が醸し出す大人の無理や、
緊張の方が、
結局子どもには伝わってしまうから。
(と書きながら、なんだか切なくなっている。
その気持ちも、よくわかるから。
そして、教員時代を思い出すに、
それで上手く行ったことは一つもないなあとも思うのだ)

 

 

いつも思うのは。

 

「大人が笑って、のびのびと自分の人生を楽しんでいる」
「その姿を、ただ見せる」

 

もっというと、
「家の中がなんか知らん、
そんなHAPPYな大人が出すHAPPYな波長で満ちている」

 

 

子どもの幸せはまずは、それじゃあなかろうか、と思うのだ。

「小さな気がかり」こそ、完了させると大きな力が戻ってくる

 

 

 

 

一昨日、知人の腕時計を見せてもらったんですが、
それが、

 

 

「中学生の時から使っている」

 

というものだったのです。
お祖父様からのプレンゼントだそうで。

 

お祖父様、本当にいいのもを選ばれたのだなあと、
その思いや、大切に使っている知人の思い。
また、丁寧で繊細な生活の仕方に本当に感動してしまい。

 

 

 

で、
ふと思い出したのは、仕事机の引き出しの中で眠っている自分の時計。

分解清掃もしてもらい、大切にしていたのですが、
最後に電池が止まってから、なんとなくそのままにしていたのですよね。

 

 

理由は、

⚫︎分解清掃しても、電池のもちが徐々に短くなっていた。
⚫︎「丁寧にメンテナンスしながら使うといい時計は3万円くらいからかなあ〜」と、

時計屋さんからのレクチャーを受け、なんとなく気持ちが「しょぼん」となっていた。

 

 

そんなところでしょうか。
けれど。気に入って買ったものなので、
そしていろんな時間を共にしてきたものなので、

自分が気持ちいいのが一番、と。
時計屋さんに走って行ったわけなのでした。

 

 

 

時計屋さんで、早速にわたしの感動、
(知人の腕時計の話です^^)
それからあれこれ…

 

「この時計、今の仕事を始めた時に買ったもので、
思い入れがあるので大切に使おうかなあと思って」

 

などと勝手に決意表明までしていたところ、
時計屋さんがニコニコと満面の笑みで、

 

 

「いいですねえ😃✨✨
それに、今日はちょうど『時の記念日』ですしねえ」

 

 

で、ますますテンションが上がってしまったのでした。

 

時の記念日?
時の記念日に、止まっていた時間が動き出すなんて…
なんていいタイミングなの⁉︎
なんて素敵なの!

 

 

と、言葉にするとそんな感じでしょうか。
時計屋さんが「なぜ今日が記念日か?」まで教えてくださり。
(語呂合わせではないのですよ。
天智天皇の水時計まで遡る、立派な記念日なのです)

 

で、最後に
「時の記念日来店記念」で
可愛いものまで頂いてしまいました。
(しじみ貝の根付け。いい柄、いい色合いだと思いませんか^^)

 

 

 

つまり今日、何を言いたいかと言いますと、

 

「時計が動きだして、嬉しい」
「なんか、来てる気がする(いい感じのタイミングが!)」

 

以上喜びの報告、2点なのですが、
何より大きいのは、

 

 

「これでスッキリ」

 

 

ということかなあと。

 

 

心の中に、微かに、微かに。
日頃忘れていても。思い出しもしないくらいに微かなことであっても、

それでも、「小さな気掛かり」はわたしたちの中に音もなく積み重なり、

 

わたしたちのエネルギーを奪う。
微かなる「エネルギー漏れ」は続いていく。

なので、「穴は塞ぐ」。
徹底してふさぐ、ことが大事。
小さな穴ほどふさぐ。即、ふさぐ。さっさとふさぐ。丁寧にふさぐ。

 

 

 

つまり「未完了は完了させる」。

 

コーチングでは、とても大切な視点&日々の行動の一つになってます。
(の割に、こういう気掛かりを放っておいたりするのですが)

 

 

とにかく、
今日は本当にほんとうに「スッキリ」しました。

 

 

もうすぐ節目の夏至もやってきますし。

夏至までに「小さな未完了」の書き出しと、「集中して『終わらせる』」週間。

皆さんにもおすすめします。

 

 

 

 

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