神から預かりしものを、ただ花開かせるー研ぎ師に学ぶ『人育て』の本質

 

 

 

 

 

「漆黒の村正」

 

 

 

 

戦時中、刀身保護のためやむなく全身に漆を塗られてしまい、

そう呼ばれるようになった名刀を

今によみがえらせる、

という番組を見ていました。

 

 

 

 

「これは市民全員で守ってきた刀です」

 

 

と、重すぎる責任とともに刀を託された若い研師さんが、

一心に刀を研ぐ。

 

 

 

十数種類もの砥石や道具を使いながら

七十年越えの漆を剥ぎ取り、

下地研ぎ

仕上げ研ぎ…

 

 

と進んでいく様子を見るのはものすごく面白い。

 

 

 

 

 

 

「あくまでも刀の後ろに立って

応援してあげるって言ったらいいんですかね。

 

とにかく、オレがオレが、

研師がどうだっていうのは

あまりいい研ぎではないんです」

 

 

 

 

 

 

そして、

やがて、刀の表面にやっと、美しい刃文が顕れる。

 

かつて刀鍛冶が精魂傾け、技の全てを注ぎ込み、表した刃文。

刀本来の美しさ。存在意義。

 

 

七十数年前、

人の世の勝手な都合で本来の輝きを封印され、

いわば「刀としての生を封印されてきた」村正。

 

 

その輝きと刃文の出現は、

感動とともに、刀にそこまで興味のない私もついつい見入る美しさで。

 

 

 

 

 

 

 

研ぎを終えた、研師さんの最後の言葉。

 

 

 

「きちんとした仕事。

きちんとした砥石の当て方さえすれば、

刀がどんどん自らきれいになっていって、

美しくなっていってくれる、みたいなことを感じたんです」

 

 

 

 

 

 

そのとき、

僭越ながら、自分の仕事もまさにそうだな、との思いが浮かび。

 

 

私には、その研師さんがこう言っているようにも聞こえたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

「神から賜りしものを預かり、ただ花開かせる。

そこに『他意』は必要ない」

 

 

 

 

 

 

 

「親」から始まり、

世の中の全て、「人と出会い、能力(本質)を開花させる」ことをしている人も、

実は「育てている」などということではなく。

 

つまりこういうことなのではないか、と。

そんな風にも思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたにとっての、

「きちんとした砥石の当て方」とは何ですか。

 

 

対象が、自ずとその本質を。

持って生まれた輝きに自ら氣づき、あるがまま、存分に発揮しだす。

それを援けるあなたのースキル、考え方、精神の拠り所、

そして自身の「在り方」

等々。

 

 

 

 

 

 

あらためて考えてみるのも意味あることなのではないでしょうか。

これから、ますます「確固たる自分自身の『それ』」が

試され、必要とされる世の中になっていくようにも

思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それ」が合う子もいる〜オンライン授業の可能性

 

 

 

 

 

クライアントさんに、学校の先生や、なんらかの「教授」をしている方も多くて、

必然的にその方達の、

 

 

 

「今の頑張り・苦労」

 

 

 

を聞くことが増えています。

 

 

 

で。

皆さんに共通しているのは、

戸惑いはしたが、やってみると

 

 

 

「新たな可能性を感じている」

 

 

 

ということです。

例えば、

 

 

 

「オンライン授業に切り替えてから、子どもの自主性が高まった」

 

 

 

というピアノの先生。

教本を開き、色ペンを準備し、メトロノームを合わせ

…レッスンの準備を全てを自分でスタンバイして、先生を待つ。

 

画面の向こうの先生とのやりとりを、

こちら側で「具現化」し、形にするのは全部自分。

 

自分から動かなければ「オンラインレッスン」は成立しない。

 

 

 

 

 

 

 

また、

ある数学の先生は、

オンライン授業を開始してから、

 

「丁寧な質問」

 

がくるようになった、と。

 

 

生徒さんと自由にやりとりできるオンライン上の「部屋」に、

 

 

 

「ここから先のやり方がわかりません」

 

 

 

と。

 

解答の写真を貼ってもらう。

それを見ながらこちらも、細かくアドバイスができる、と。

 

 

 

その「やりとり」に、

いつもの「30人教室一斉授業」ではない楽しさ、新鮮さを

感じてらっしゃるのが伝わって来て。

 

 

 

 

 

 

話を聞いていると、

確かに!こういう形の方が合う(自分を出せる)

生徒も案外多いかもしれない、と思えます。

 

 

 

わたし自身は、

「リアルな場」のもたらす波、うねりが何より好きなんですが、

でも、確かに…

 

 

 

これはこれで、

先生と個別につながりながら、

(嬉しい気持ちとともに)

静かに生き生きと…

学びの実感を得られる子も、

多いかもしれないな、と思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

オンラインの今こそ、

対面ではちょっとおろそかになっていた、

 

「できること」

「開発できる力」

 

がある。

(親子ともに。さっき見た、Eテレの「学びサポート番組」では

「学びに向かう力を育てる」と言っていましたが)

 

 

 

 

 

と。

そう思うと、

元氣が出て来ます。

 

 

 

 

 

今こそ大切な「自分を許す」

 

 

 

世の中的にも
何かと氣ぜわしい毎日。

わたしの周りでも、物事が揺れる中で、
いつもなら見えなかったであろう、多くの人の

機知、
心意氣、
勇氣、
暖かさ、
またある時には不安…

そんなものに触れる機会が多くなっています。

それらはなんであっても究極、美しく。
わたしはいつも感動しきり、になってしまい、

「書いていいですか!?」

と頼み込む毎日。

さて。
今日、わたしの住む鹿児島は久しぶりの、雨。

今頃、満開の桜を濡らしているだろうなあと思いつつ、
今日書くのもたくさんの「美しいもの」の中の一つです。


(近所の神社の桜です)

 

 

少し前、ものすごく大切な関係を亡くしてしまった知人がおり、
折に触れ、心の内を聞いてきたんですが。

その方から送られてきた一編のエッセイの中に、
こんな言葉が。

「人は、どんな道を選んでも、後悔してしまう生き物なのです」

知人は、
「あの時ああしていたらどうだったろう」
「あの時こうしていたらどうだったろう」

と。
それこそ数え切れないくらい反芻し、自分を多分、責めてきたことは、
想像に難くないのです。

「わたしのテーマは、『自分を許す』ことだろうなあと最近強く思います」

ああ、この方も、
人生貫く自分のテーマに、今、
再度直面しているんだなと思いました。

以下、わたしの返事。
答えにもならない返事ですが。

「(読ませていただき)
わたし自身の日々のもろもろ、自身のこれまでの頑張りや葛藤も、
すべて、思い返してみるに、ただ一点。

『後悔したくない』
『最善を生きたい』
『自分にとっての最善を選びたい』

と、つまりそういうことだったのだなあと改めて思いました。

そして。

今は、それでも後悔してしまった、
せざるを得なかった人生のあれこれを含めて、

『自分の最善の、頑張った選択だったのだ』と。

そんな風に思えている氣もします。

ここまで書いて、これはまさに、あなたが書いてらした
『自分を許す』ってことなのかなあと。

ちなみに、
そう思えたのは…

(色々あって、ただ、今ここにいる。
こうして生きている。
自分の人生における『意味』があるとしたらそれだ。

様々あって、そして今にいる。そのプロセス全部が、つまりは
「生きている意味」なんだ。それだけでいいんだ、と)

この4月の初めです(笑)

これまでも、そう思って生きてきたつもりでしたが、

天の覆いが一枚、スコンと外れたように。
こんこんと泉が湧き出すように、そう思えたのはこの間です」

先ほど、東京の知人からメールで、
「今、まさに、働き方、生活、衣食住、価値観までも変化させていく時!」

と。
本当にその通り。

そして、
前を向き、進むためにも
同時進行で、

自分の中の「古いもの」。
「古いけれど、これまで自分を支えてくれていた『方法』」
そして、
「これからを生きるには少々そぐわなくなったもの」

にも向き合い、
「ありがとう。さようなら」

を伝えるタイミングを、
今、たくさんの人が迎えているように思います。

時節柄、

うまくいかないこと。
イライラすること。
思う通りに運ばない物事。
先の見えない底のない不安。

自分を叱咤する前に、前へ前へと追い立てる前に、
まずはどうぞ、

「こんな中でも毎日毎日、毎瞬毎瞬生きている自分」
「今日も1日、自分と大切な人たちの生活を成り立たせることができた自分」

をいとおしみ、慈しんでください、と思います。

●今こそ確固たる自分の軸に立つ●
体験オンラインセッションへの誘い 2020春分
https://co-co0.wixsite.com/haru

・思考を整理する
・自分の思考の癖を知る
・感情を整理する/掃除する
・雑多な思考や感情の奥にある自分の本質(真に目指すところ)にアクセスする
・固定されたものの見方や思考パターンの外に出て、出来事を観る
・事実と解釈を分ける
・視点を転換させる
・問題点を明確にする
・「行きたいところ」をはっきりさせる
・行きたいところへ行くための「心の枷」を外す
・行きたいところへ行くためのアクセルを踏む
・自分の強みを知る
・客観的なフィードバックをもらう
 …

上記のこれら。
いづれも、出来そうで、実は「一人では難しい」。
けれど、どんな場面でも、必要な状態であり時間です。

新年度のスタート。
また、何かと世界が動き、足元が揺れ動きやすい今こそ。
必要な方はこの時間を使ってください。

 

私たちは多分、今、新しい世界の入り口に立っている

 

 

 

 

 

今年も恒例の春分から始まる体験セッションを始めました
https://co-co0.wixsite.com/haru

さまざまなクライアントさんの話を聞いてきて、
「結局最後は自分なのだ」という思いをいつも実感する日々です。

自分の軸を確認する。いつもそこから動く。
最終的に、私たちにできることはそれしかないのだなあと

特に、今、このような時期。
(周囲を見ても、世間を見ても「通常」ではない毎日)

世界が渦を巻いて動き、
ともすれば不安に巻き込まれそうなこんな時こそ、
最後は「自分」なんだなあと。

自分の中の直感。
真の価値。
真の「行きたいところ」。
(自分は結局何が大切でどう生きたいのか?)

混沌とした自身の感情や思考の渦をかき分け、整理し、
その奥にしっかりとある「静けさ」にアクセスし、
その奥にあるものを活用できることが大切なのだ、と。

私たちは今、「新しい世界の入り口」に立っています。

 

 

何が大切なのかを問われ直され。
ある人は慣れ親しんだものを手放すことを求められ。
またある人は新しい在り方への移行を後押しされ。

真の幸福とは何かを改めて考え直させられる、今。

そんな時こそ。
たくさんの情報を踏まえ、最後は自分の中の
「揺るがぬ自分」へとアクセスする。
自分の叡智を引き出す。

実は、真実、自分の中からしかやってこない
「幸せ」への「真の答え」を引き出す。

そんな、自分との対話の時間は、
いくらとっても取りすぎることない時間でありながら、
実は日常生活の中で、
たいそうおろそかにされている時間である氣もするのです

今、この時こそ。
誰にとってもますます必要な時間である。

そんな想いとともに、
必要な人にこの時間を活用していただきたく思います。

*  *  *  *  *

《体験セッション概要》

● 形式
電話・スカイプ・フェイスブックメッセンジャー等による音声通話セッション​

● 期間
2020年春分の日(3月20日)より4月末日

【詳細・申し込みはこちらより】
https://co-co0.wixsite.com/haru

*〜〜〜〜〜*

《セッションで何をするか》

・思考を整理する

・自分の思考の癖を知る

・感情を整理する/掃除する

・雑多な思考や感情の奥にある自分の本質(真に目指すところ)にアクセスする

・固定されたものの見方や思考パターンの外に出て、出来事を観る

・事実と解釈を分ける

・視点を転換させる

​​・「行きたいところ」をはっきりさせる

・行きたいところへ行くための「心の枷」を外す

​・行きたいところへ行くためのアクセルを踏む

・自分の強みを知る

​・自分の本質を明らかに浮かび上がらせる

・客観的なフィードバックをもらう

 等

 

 

【具体駅なテーマ例はこちらより】
https://co-co0.wixsite.com/haru
 

 

言葉の力(語彙力)はどうやったら鍛えられるか?

 

 

 

 

 

とクライアントさんから質問されました。

そういいながらもその方、「語彙力なのかなあ…」と言葉を選びつつなんですが。

 

 

 

 

で、

 

 

 

 

 

①人に見せる文章を書く。

 

②その際、例えば「悲しい」と書きたいときに、「悲しい」という言葉を使わない。

「嬉しい」「楽しい」と書きたいときに、その言葉を使わない。

それ以外の言葉で表現する。

 

 

 

そのまま伝えてみました。

いつも私がやっていることなんですが。

 

 

 

 

 

 

 

一言で言い換えなくてもいいのです。

例えば、

 

「楽しかった」「悲しかった」

 

と書くかわりに、それを(その時の自分の状態/観察した相手の状態を)

丁寧に「描写」してみる。

 

 

●楽しかった

→「身体の奥からずんずん踊り出しそうな感じになった」

 

●悲しかった

→「なんとなくお腹の底から空氣がぬけて、椅子から立ち上がれないような心地がした」

 

 

といった。

 

 

 

 

 

安易に言葉を当てはめる代わりに、

「それ」

をしっかり観察する。観察して分解して言葉にしてみる。

初めは面倒臭いかもしれませんが、

 

 

「自分の中で起こっていること」

 

 

がわかることなしに、

「本当に使える生きた言葉」の獲得は難しい氣もするのです。

 

 

 

 

生きた言葉=

相手にしっかりと伝わって「本当のコミュニケーション」

(信頼・リラックス・安心・感動・プラスの変容と言ったものをもたらす関係性)

 

を構築できる言葉、ということですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セミナーで出会った「周りと関係が作りづらい」若者の特徴として多かったのは、

 

 

「自分の中で起こっていること(感情・感覚)に対して鈍い」。

 

 

 

自分の中で、何が起こっているかわからない。

自分の感情がわからない。

自分の中でうごめくそれを捕まえることすらできない。

ましてや、名前をつけることなど。

 

 

 

で、こういう子たちは「周りも見えていない」のです。

周囲の表情、声のトーン、醸し出す言外のニュアンス…そういったものが

わからない。

 

 

 

 

 

 

そういう子と話をする時は、

なんだか、分厚いセメントで塗り固められた地面の上を

歩いているような感じでした。

 

 

本当は、その子の中に、みずみずしい水場も草地も、

黒々とした土のふかふかな地面もあるだろうに、

全部塗り固められているのです。灰色に。ザラーっと。

 

 

 

 

 

言葉がなかなか出てこない子はもとより、

いわゆる「ペラペラと」喋りまくる子にも、同じタイプがいましたっけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「言葉の力」はどうすれば鍛えられるか、でしたね。

 

 

 

質問をくれたクライアントさんは、

今、「人生かけて」自分の想いや、愛情を周囲に伝えよう、としている人で、

セッションでは、その奮闘ぶりを日々聞かせてもらっています。

 

もう、「振り切った」その姿は爽やかですらある。

 

(もう、1分1秒たりともこれ以上、「自分でない言葉」は発したくないんだなあ、

それはしない、と決めているんだなあ、としみじみ思います)

 

 

 

 

 

 

思うのは、

「本当に」伝えようと思ったら。

 

 

①自分が心底、本心で、魂から思うことしか伝わらないし

 

②それの「精査」が必要だし、

(意図の精査、です。その感情の奥にある本当の願いや想いは?といった部分)

 

③そこまでして、初めて「言葉」の問題(どの言葉で伝えるの?)が出てくる。

 

 

 

 

 

 

ですから、簡単でもないし、苦しい作業かもしれない。

けれど、やっただけの大きな喜びを自分にも、周りの大切な人たちにも

もたらすものだと思います。

 

 

 

 

 

だから、画家や、作家が、ひと色に、ひと言に集中するように、

「呻吟」してみる。

 

 

 

 

毎日毎瞬呻吟するのは大変でしょうから

そういう場面を定期的に設定してみる。

(呻吟の時間を自分に与える)

 

 

 

 

 

 

このクライアントさんは、

セッションの時間を、「それ」に当ててらっしゃるようです。

 

 

 

 

「あの時なんと…」

「こういう場面でどんな表現のしようがあるだろう?」

 

 

 

 

 

それを通して、

いつも、自分という海にダイブする。

 

ある時は魚群やワカメの束をくぐり抜け、

そして、

深い深い海のそこの「本当の真珠」をがっつり掴んで、

浮上してくる。

 

 

(取ったど〜!みたいな)

 

 

 

 

 

凛々しく、勇氣あるダイバーさんだなあ、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

危機を通して振り返る「土台の力」

 

 

 

 

 

この一ヶ月、世間のざわつきを身に浴びながら、

 

「この秋は雨か風かは知らねども今日のつとめに田草取るなり」(二宮尊徳)

 

ー先のことはわからないが、今日も私は田へ出て、いつものように草を取るのだー

 

 

が身に沁みていました。

(尊徳さんすごい…)

 

 

本題です。

 

 

 

 

*     *   *

 

 

学校が臨時休校になり、

こどもたちをどうする、と混乱するニュースを見ながらなんとなく思い出していたんですが。

 

 

 

以前、クライアントさんから「92歳、現役保育士さん」

の話を聞いたんです。

 

 

 

 

 

 

92歳もすごいんですが、その他もすごい。

その保育園は、敷地3000坪。

まことに自然豊か。

 

そして園には「カリキュラムがない」。

みんなで一斉にに何かをすることも基本ないし、自由。

 

子どもは自分で考えて、自分のやりたいことを、やる。

思う存分、やる。

 

 

 

 

 

 

で。

クライアントさんの言葉で印象深かったのが、次のようなこと。

 

 

 

「そうやって、この園で成長した子ども達は、

小学校に入学すると、戸惑うそうなんです」

 

 

 

そりゃあ、そうだろうなあ。

一斉に、同じところに座って、みんなで同じことをやる。

時間でブツブツと区切られていて…

 

 

 

さぞかし窮屈でしょう。

そもそも身体がなじまない、というんでしょうか。

出来ない事、うまくいかないこともあるだろう。

 

 

 

 

 

 

「けれど…」

 

 

 

話は続きます。

 

 

「その子たちは、10歳くらいを境に、いっきに『開花する』んです」

 

 

めざましく創造性を豊かに発揮し出すようになる、と。

 

 

 

 

 

この話を聞いて、

「土台づくり」「土づくり」という言葉がしみじみと浮かんだんでした。

 

 

 

 

どこを見据えて。

何を見据えて。

大人は子どもに、どんな肥料を与え、栄養を与えるのか?

そして何を与えず、見守るのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私たち大人がこい願うのは、

子どもが、人生通して、

自分の本質を生き生きと最大に発揮して生きられること。

 

 

 

何があっても、

創意工夫でそれらを乗り越え、

「幸福のタネ」を自分自身の力で大きく育てて

生きることができるようにすること。

 

 

 

 

 

他者の力や、外的要因に左右されるのではなく、

いつも、「幸せ」の状態を自分で選べること。

(うん、これが私にとっては一番です)

 

 

 

 

 

 

先の話を聞いたとき、

ひとが本来持つ力に全幅の信頼を寄せ、静かに水を与え続けていく時間が生み出すもの。

 

逆に、

教育(という名で、私たち大人の身に染み付いた「普通」「慣習」「価値観」もろもろ)

によって、良かれとやってきた行為の危うさについても、

改めていろいろと感じたんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の「コロナ騒動」。

 

 

外に出られない。

あれがなくなった。

これがなくなった。

 

 

 

 

 

 

そのかわり、得られたものもたくさん。

(私ごとですが、本当に語り合いたい人たちと一緒に過ごす時間が増えました。

それから風邪をひいてしまったこともあり、

他にも食事の質、生活のリズムなどなど…随分と軽やかになりました。

何より、以前よりご飯がえらく美味しいのはどうしたことだ?)

 

 

 

 

 

 

 

周囲を見るにつけても、

今のこの時間が、多くの人、企業、そして日本社会にとって、

 

 

「立ち止まり、振り返り」

 

 

何が本当に大切なのかに氣づき、再発見し、見直し、

脆弱なシステムは手放し、

「より大切な本質」へと、

回帰する、またとない機会となっていることを感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(写真は、2月半ば、風邪で体調が優れなかった時に知人が出してくれた膳。

お茶は月桃の葉のお茶で、ご飯は発芽玄米の2日と3日もの。

「根昆布は大好きなので、いつも多めに買って、秘伝の配合で炊いて保存しておく」らしく。

そしてうっすらと柔らかく甘い黒豆…。細胞に沁みました)

 

 

 

 

私たちはつながっている

 

 

 

 

 

 

用があって、

出かけようとしたら車のエンジンがかからず。

 

 

 

時間も迫り、

焦っていつもの、メンテナンスをお願いするディーラーさんに電話をすると、

 

「ロードアシストを頼んでください。

保険の書類に連絡先が書いてあります。車の中にありますか?」

 

 

「ど、どれですか!?」

 

 

上ずったわたしの声に、

 

「まず落ち着きましょうか!」

 

と冷静な声。

 

 

 

 

 

 

ロードアシストを待つ間、

予定の場所へキャンセルの連絡を。

 

「すみません。出ようとしたら車のエンジンがかからなくて(汗)」

 

「ええ!大丈夫ですか⁉︎大変ですね!」

 

「もう、本当にごめんなさい」

 

「大丈夫ですよ!予定変更をいたしましょうか。

いつがよろしいですか?」

 

 

電話の向こうの親身な声音に安心し。

 

 

 

 

 

 

 

最近こういう場面が多くて。

例えばPCの電話サポート。

 

 

「わたくし○○が、

問題解決に向けて全力でサポートいたしますので、ご安心ください!」

 

「それについて、専門の○○が、今、わたくしの後ろに控えております。

ただいまからその者に代わりますのでお待ちいだだけますか?」

 

 

 

 

 

…マニュアルにある言葉だとは思うんですが、

やっぱりとても嬉しい。

 

本当にきっと後ろに立って、まるで

「忍びの者」が静かに控えるように、チェンジを待っているのかな…など

想像してしまいます。

そしてまあ、本当に一生懸命やってくださる。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

 

 

 

「みなさん、お仕事だから」

 

 

 

言ってしまえばそうなんでしょうが。

 

 

 

それにしても何なんでしょう。

このまっすぐさ。

一生懸命さ。

なぜこの人たちは、こんなに真摯なんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数週間、

困難な状況を過ごしたクライアントさんがいらっしゃり。

 

 

不安、孤独、恐怖…それらの人生、何度か訪れる巨大なやつがやってきつつ、

一人で乗り切り、家族を守ったその方が、

振り返って言う言葉が印象的でした。

 

 

 

「朝、起きて、

窓の外を見ると、朝早くから工事現場のおじさんが旗を降っている。

 

それを見ているだけでとても安心しました。

ああ、一人じゃないんだ、と」

 

 

 

 

 

 

 

私たちは、繋がりあって、みんなで生きている。

大きなつながりの中で、

ジグゾーパズルのように。

 

誰かの存在が誰かを励まし、誰かを助け、誰かに幸せをもたらしている。

特別なことをしなくても。

日々の「本分」をただただ全うすることが、しっかりとそれに繋がっている。

 

 

 

なんと素敵なんだろう、

(そして嬉しくありがたいことだろう)

と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

程なくやって来た「ロードアシスト」は、

 

いろんな機材がついた

消防車みたいなつやつやの大きな車から降り立った

物腰と眼差しのたいそう柔らかな若者が、

 

静かに職務を全うして、微笑みと共に去って行ったことを付け加え、

今日の文章を終わりたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この文章を書き終わって、ふと

「スカイハイツ・オーケストラ」という短い物語を思い出しました。

 

昔、国語の教科書に載っていたんですよね。

 

 

 

 

 

夜、

団地の真ん中の公園の滑り台の上に置かれたタクトを少年が振ると、

 

団地の窓という窓が開け放たれ、

家の人たちが一斉にベランダに出てきて、めいめい楽器を奏で、

それが美しい音楽になる。

 

終わったら、何事もないように日常に戻る、という。

 

あれはいいお話でした。

 

 

 

 

 

人がみな違う理由ー罷り間違っても人と同じになろうと思ってはいけない

 

 

 

「生命誌研究者」の中村桂子さんという方がいらっしゃいます。
昔、この方のエッセイが国語の教科書に載っており、何となく覚えていたんですが。

その 中村さんが、「左手のピアニスト」舘野泉さんとの対談で、
自身の研究所にある下記の絵を見て、次のようにおっしゃいました。

扇の要の「一個のアメーバ」から始まって、多種多様な「生き物」へと広がっている。

 

 

「生き物はずーっと38億年続いていく中で、20億年くらいの頃に、
『きっと全部同じに生きて行っちゃ、うまくいかないぞ』
と思ったんだと思うんです。

で、違うものを作って、自分は死んで次へ渡す、というやり方をすると、
今みたいに、こんな多様ないろんな生き物が生まれて、
そして続いていく。
というように考えた…というと変ですけど、

そういうシステムを生み出すことが『続く』ためにはいいと。

いろいろな生き物をつくること。
それが『続くこと』の秘訣だ、ということを見つけたんだと思います」

「違う」ことが、生命が続いていくために生命自身が「選んだこと」。
そうだとすると、

むやみに「同じであろう」とすることは、
生命の流れ、それこそ中村さん言うところの
「生命誌(いのちの歴史)」に
逆行することになるのではないか?と思う私。

対談はこう続きます。

「音楽だっていろんな方がいるから面白い」(中村さん)

と、それを受け、舘野さん。

「新しいものができていく。
(例えば)現代音楽は難しいと言うけれどそうじゃない。

また新しい方法、出口で、
『生きている自分』
を表すものを続けたいわけです。
それを探している。それが楽しいんですよ」

お二人の対談から感じたこと、それは、
生命としての自然なあり方
というか、生命の『目的』と『戦略』。

「目的ー『続くこと』」
「戦略ー『違い』をそれぞれが、自分の方法で『存分に表す』こと」

多様性。
違うことの豊かさ。
そして、それを各自が存分に表現すること。

それをこそ、生命は目指し、進化してきた。
それをこそ、宇宙は愛している。

「続く命」のために。

壮大なる38億年の「生命の意図」に逆行するものは、
仕組み、あり方…全てにおいて、
これからますます衰退していくんだろう、と
そんなことも感じ。(それが自然の摂理)

自身のこととして思ったことは、

すべての人が上記の「戦略」を生きることをサポートする、
ということを自身の人生の軸においている、という点において、

とても大きな、悠久な「生命の流れ」の中に、
共に乗っているんだな、ということを改めて感じたのでした。

自分は自分の「方法」で、
「生命が続くこと」に寄与している。貢献している。

なんという「安心感」。そして喜び。

日々生きていると、

何となく毎日が流れ、その中で小さな不安や不満…毎日いろんな思いがわきますが、

 

たまには、時間軸を

「明日、明後日、明々後日」から

 

 

 

「38億年の流れ」

 

 

 

なんていうところに広げてみるのもいいかもしれません。

そして、自分自身の、瞬間瞬間の「意図」と、

壮大なる「生命が38億年で獲得した意図」を、重ね合わせ、擦りあわせてみる。

 

 

 

 

何が起こりますか?

どんなことに氣付きますか?

 

リーダーの仕事とはかくあるべきもの

 

 

 

 

 

先日、クラシックの番組に、

 

「石田組」

 

なる男性ばかりの弦楽アンサンブルの集団が出ていました。

 

 

 

「硬派弦楽アンサンブル」

と名のつくそのグループのリーダーは

こんな方で、

 

 

 

 

 

 

この、石田さんを筆頭に、グループは全員男性。

黒づくめでずらり、並んで立っているところは迫力がある。

 

 

 

この「石田組」がやるのは、クラシックはもちろんロック、演歌まで。

 

そして、固定のチームではなく、

石田さんがつどつど声をかけ、選び、メンバーを集めるんだそう。

なので、コンサートごとに構成メンバーが違う。

 

 

きっと、その時々に合ったメンバーを石田さんがチョイスして、

「『それ』を演奏するに最高のメンバー」

をいつも揃えるんだな、と。

(この仕組みもいいなと思うんですが)

 

 

 

 

 

 

「初めは戸惑いましたが、どんどん楽しくなって」

 

「声をかけられるのが(召集されるのが)嬉しい」

 

「石田さんは基本、何も言わない。自由に演奏させてくれる。ここは違うな、と思ったときだけ『ちょっと…』と言ってくる」

 

「石田さんは(演奏中に)何をしてくるかわからない。『そう来たか~!』と思う。

(それに応えるのが楽しい)」

 

《メンバー談》

 

 

 

 

 

 

 

 

「クラシック音楽の世界」「オーケストラ」

いう、ある一つの枠、形のなかでずっと演奏をしてきた一流の人たちが、

 

 

どんどん「自由」「表現の質、方向性」において。

またひとつ、解放され、花開いているらしいことが。

 

そして、それぞれが

「自分も知らなかった自分」「思っても見なかった自分」に出会っている場なのだ、

ということがよくわかる。

そして、そのことにそれぞれが「大きな喜び」を感じている。

 

 

 

 

 

 

 

一人のビオラ奏者。

ロックのソロパートを担当したときの話を、

 

「いきなり石田さんから、『前に出ろ』と言われたんですよ!演奏中に!」

(と石田さんの「前に出ろ指示」をジェスチャーで)

 

 

 

 

 

ずっとオーケストラで演奏してきた人からすると、

まずありえない。

そしてどうしていいかわからない場面。

まず、フリーズしてしかるべき場面。

いきなり打ち合わせもなく振られて、大変だったろうなあと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

番組の最後。

そのロックの曲が演奏されました。

 

 

 

演奏している一人一人の表情が…

なんとも言えない表情で。

一見、何の変わりもない。

作った「パフォーマンス顔」をしているわけでもないし、

激しく動いているわけでもない。

 

 

 

 

けれど。

 

その内から、抑えても抑えても溢れてくるのは

「高揚」「喜び」そして「誇らしさ」。

言葉ではなかなか表現できない。

 

 

 

 

 

そして、先のビオラの人。

 

ソロパート。

ぐいっと数歩、前に踏み出し、

膝のバネを効かせてしなやかな弓なりの姿。

 

 

…あんなに美しい、男の人の表情を久しぶりに見ました。

 

 

男の人というのは、

自分の使命を生きていると、あんな顔をするんだな、というような。

 

 

 

 

 

 

 

組長、石田さん。

演奏終盤、バイオリンの弓が数本、切れているのを、

しっかりとカメラが捉えていました。

(それくらいの熱を持った演奏)

 

 

 

 

この人の「思い」。

「全細胞から出る波」。

「全存在」そのものが、

場を作り、揺らし、動かし、

それがメンバーに伝わり、一人一人が「花開いて」「限界を超えて」

くる場を作っているんだなあ、とよくわかりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いろんなリーダーの形はある。

 

牽引する人。

後押しする人。

言葉たくみな人も、口下手な人もいるだろう。

 

人それぞれ、100人100通りの「リーダーシップ」。

 

 

 

 

けれど、

全てのリーダーがなさねばならぬことがある。

それは、

 

 

「場を作る」ということ。

 

 

 

構成員一人ひとりが、自由自在に動き、お互いに影響を与え合う場。

共振し合い、そこから「かける何倍」もの

すごいものが生成する場。

 

個体が熱を加えられると活発に動き出し

「液体」そして「氣体」となるように。

 

 

 

その「熱」を加えるのが

リーダーの仕事であり、

メンバー一人一人に自身の振動を伝え、ゆり動かすのが仕事であり、

リーダーが作らねばならない「場」なんだと。

 

この「石田組」をみていると、

そう思います。

 

 

 

 

 

これだけは、学校から企業まで、種類や規模は違えど、

全てのリーダーにおいて、確かなことなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

みんなで同じものを食べることの意味・食べるという場を共有することの意味

 

 

 

 

 

 

 

最近、ウエディングプロデューサーをしていた頃のことをよく思い出すのは、

当時の同僚と最近、

フェイスブックで繋がり、たまにやり取りをすることがあるからなのです。

 

その人は今、古民家にてフレンチレストランをしており、

当時のあの仕事ぶりから察するに、

そのレストランには、微に入り細に入った、細やかなもてなしが、

氣っ風のいい爽やかな風と共に吹いているんだろうなあ、と思うのです。

 

 

 

 

 

 

さて。

その仕事をする際に、色々とたくさん勉強をしました。

例えば、

「ウエディングケーキをみんなで食べる意味」

なども。

 

 

 

「丸いもの」というところの意味の他にも、

みんなで同じものを食べる、というところに、

祝福や、共有、幸せを分かち合う、という意味もあったような。

 

 

 

 

 

 

 

で、話は飛びますが、

昨日「夜のピクニック」に行きまして。

「食べたいものは持ち寄り」の。

 

 

 

 

 

シートの上にずらずらと並べられたもの数々。

 

・ペンネ

・パプリカのクリームチーズ詰め

・ノドグロの干物

・フグせんべい

・クロワッサン

・チーズケーキ

・ねったぼ

・ポテチ(トリュフ味がポイント)

・チーズかまぼこ

・ブロッコリー(冷凍)

 

鍋と火を持参でカマンベールチーズを溶かそうとする者あり。

(ここに冷凍ブロッコリーをin)

酔ってのどぐろをばらまく者あり。

 

 

 

 

 

 

まだまだたくさん並んでいて書ききれないんですけど。

 

どんな風にして作ってきた、とか、誰が作った、とか。

どこでどんな風に手に入れた、とか。

目の前の食物を手に取るたびに賑やかで。

 

(親が作ったの〜。ひとパックでいいって言ったんだけどね。

ああ、親ってそうだよね、とか)

 

 

 

 

 

その人の「味」をみんなで共有する。

一緒に味わいながら話を聞く。

そこに、その人の嗜好はもちろん、

 

生活が見える。

家族が見える。

歴史が見える。

人生が見える(大げさ?)

 

 

 

 

 

 

 

みたいな。

 

その時にふっと

「みんなで、一つのものを食べる意味」

(さっきの、ウエディングの)

 

 

 

 

 

 

 

というのを、

妙に「ああ、そうか!」と腑に落ちて思い出していたんでした。

こういうことね!!!

この感覚ね!と。

 

 

 

 

 

 

 

昨日は、

いろんな人の「珠玉の一品」を通して、

みんなをより愛おしく感じた秋の夜、でした。

 

 

(次回は「マイFavoritep駄菓子持ち寄り」を提案中)

 

 

 

 

 

 

食(感覚)を共有すること。

 

人間にとってもっとも原初の欲求であり、

生きるための必須であり、

楽しみであり…。

 

 

それを共有するということ。

(中身もですが、やはり、「時間と場」でしょうか)

 

 

 

 

 

馬鹿になりません。

大切です。

 

 

 

 

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