人生初、私が「母」になった日(笑)ー人生に必要なのは「想像力・類推力・推理力」その他もろもろ

 

 

 

 

今朝方、夢で「ものすごくいい『表現力開発のワーク』」を思いついた。

というか、夢の中で熱くなってやっていた。

(目が覚めてからも行けそうなので、これは12月のワークショップでやろうと)

 

さて。

ちなみに、どうしてこういう夢を見たかというと、

多分、昨夜、鴻上尚史の記事を長いこと読んでいたから。

 

 

 

 

 

 

数年前、

鴻上尚史の演劇ワークショップに参加したことがある。

行ってみたら、役者のたまごだらけで、

若者だらけで(というか若者しかいない)さすがにだいぶ緊張した覚えがある。

 

 

 

 

 

 

「最近、いるんですよ。

役者志望じゃなく、申し込んでくる大人の方が。

前回は議員さん(だったかな?うろ覚え)が来ました。

なので、こういう需要もあるのかな、と思って」

 

と事務方さん。

 

 

 

 

 

疲れたな〜、大変だったな〜、

という思いがあるのだけど、その中でも思い出すのは

「3人一組」でやる短い劇。

 

 

 

 

 

 

 

その台本は、

「恋人同士と、その友」

といった設定だったか。

 

 

 

 

 

基本の台本に、自分たちで手を加えて

「セリフ+『心の声』(セリフの裏にある心情)」までを、

声に出して演じる、というものだったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

私のチームは、若い男の子と、女の子と、そして私。

私はやる氣満々で、彼らと台本について話し合っていたんだけど。

 

そこへ、

鴻上さんが「さささあ〜っ」と駆け寄って来て、

とってもすまなそうな表情で⬅️(と、私には見えた^^)

 

 

 

 

 

 

「あのさあ、このチームはちょっと設定を変えて、

『お母さんと息子』ってことでいいからさあ」

(もしくは、そうしようか!だったか)

 

 

 

 

 

 

 

あっという間に、恋人設定から、

私は人生初の「お母さん」になってしまった。

 

 

 

息子が初めて家に彼女を連れて来ているのを「発見」した母設定。

 

どう感じるんだろう?何を思うんだろう?

と思うまもなくそれ(演技)は始まり、

 

 

 

表「あら、可愛いお嬢さん」とセットで

裏セリフ「いったいどこの馬の骨⁉️」(アドリブ)

をガンガンと繰り出す自分がいた。

 

(だいぶ性格の悪いお母さんになった)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨夜読んでいたのは、

「鴻上尚史の人生相談」。

 

 

 

とても面白くて、氣づくと夜中の2時になっていた。

(なので今日はちょっとキツい)

 

 

 

 

 

 

何が「面白い(すごい)」のかというと、

たくさんあって未だ言語化しきれないんですが、

 

「人の視点を変える」

(思い込み/正しいと思ってずっと生きて来た価値観から、その人を外へ連れ出す)

 

いう最も難しいことを、

とても丁寧に、愛を持って、そしてうまくやってらっしゃる、という点。

(いきなり敬語)

 

 

 

 

 

 

 

「人のことを考えなさい」

「思いやりを持ちなさい」

「相手の立場に立って」

 

 

 

 

 

 

これら、

私たちも、誰かにきっと、一度や二度は言っているはず。

ほんと、まっとうなキレイな言葉(笑)

(私は教員時代にきっと言っていたんだろうなと)

 

 

 

けれど、これ…「はいそうですか」と、できますか???

そう「言葉で」言われてできるもんじゃない。

(それができるなら、世のコミュニケーションに関する問題は、

全てなくなっているはず)

 

 

 

 

 

 

 

鴻上さんは、

それを豊かなたとえ

(例えばあなたが〜だと想像してみましょう)

時間軸の移動

(あと10年後に行ってみたとして)

 

等々…

 

 

 

を使って、

相談者に「別な世界」「他者の視点」を見せる。

味わわせる。

 

 

 

 

 

 

 

こういった「質問」だけなら

使う人は多々いるだろうけれど(私たちコーチもそう)

 

 

 

 

 

 

鴻上さんは、

静かに、すぐそばにいて、手を握って話を聞きながら、一緒に

丁寧に、寄り添いながらゆっくり「そこへいざなっていく」。

(文章なんだけれど、それが伝わってくる)

 

そして、何と言っても、そのたとえの場面設定が絶妙。

 

 

 

 

 

 

 

「特質」「才能」もあるんだろうけれど、

これが「演じる」「表現する」ということに

命を傾けて来た人が会得した視点であり、在り方ではないか、

 

 

 

とも思うのだ。

 

 

 

 

 

 

一人の人を演じるということは、

ものすごい「想像力」を必要とする。

「想像力」「類推力」「洞察力」「共感力」「身体でそれらを感じる力」…

 

 

 

 

そういったものを総動員して、

初めて、「紙の上に書いてある一人の人間」

が、

立体となって立ち上がり、他者に伝わる息をして、「生き始める」。

 

 

 

 

あらゆる角度から、

スポットライトを当てるように、

立体的、複合的に人を見て、聞いて、想像できて、

そして何より

「身体レベルでもそれを感じる」力。

(最後のがないと、単なる「評論家」「解説者」になってしまう)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話がまとまりませんが。

 

一昨日、専門職&学生を指導しているクライアントさんと、

 

「勉強ができない子(段取りが組めない子)って

想像したり、類推したり、推理したり…

という経験を人生でほぼしないで大きくなって来てますよねえ

(このすぐ先に、もう「世の中」が待ってるんですがねえ)」

 

 

 

という話になったことを書いて、

とりあえず終えておく。

 

 

 

 

 

  ↑

※鴻上さんの人生相談は本になったらしい。

リンクを上手に貼れなかったので自分で探してください☺️

 

 

 

 

 

あなたの「当たり前」が誰かの「特別」になるー強みとは自然とついやってしまう行動のこと

 

 

 

「TABICA」ってご存知ですか?

 

 

私が知ったのは結構前で、テレビでやっていたのを見たんですが、
散歩好きの人が、

いつもの自分のお氣に入りの散歩コース(東京・吉原界隈)、

 

それを案内するという「ツアー」にしてしまった、というお話でした。

 

 

自分の休日に、無理なくやるツアー。
少人数で「いつもの自分の散歩道」を巡る。(それがたまたま吉原な訳ですが)

お土産は吉原の名物煎餅1枚、という感じの氣張らないほっこりツアー。

 

 

でも、それが、

 

 

 

「よそからの人」
「吉原の歴史を知りたい!という人」

 

 

にはとても新鮮で、人氣のツアーになっている、
と。

 

 

 

 

 

「誰かの『当たり前』は誰かの『特別』になる」

 

 

 

 

 

これは、その「吉原ツアー」が載っているサイト
「TABICA」のキャッチコピーです。
https://tabica.jp

 

 

 

 

 

 

人が「何か」をするときに、
(「自分」というものを発信するときに)
基本、土台はそういうことなんじゃないのか、と思うのです。

 

 

 

 

 

特別な能力がないと。
もっと研鑽しないと。
もっと実績を積まないと。

 

 

 

 

 

自分には無理…
形が整っていない…
普通はこうだ…

 

 

 

 

 

そういうことではなくて、
「それでいい」
「そのままでOG」「そこからGO」

 

 

 

 

 

 

なぜなら、

自分自身にとっては『当たり前』で、
なんでもないことに思えても、

それが、他の誰かにとってはもはや
『すごいこと』なのだから。

 

 

 

 

 

 

人とは、
その「自分にとっての当たり前」
のパーツを持ち寄って、それが混ざり合って、
自然と、

噛み合って、
融合しあって、
そこからまた新しいものが生まれたりし…

 

 

 

 

そうして、みんなで楽しく生きていく、

 

 

 

 

 

それが、本質に思えます。
(いえ、そうなのです。でないと、こんなにみんなが違う意味がない)

 

 

 

 

 

 

 

 

私はいつも、いろんな人に
「ねえねえ、ブログ始めたら❓」

ですとか、

 

 

「ええ!それ、やったらいいのに〜‼️」

 

と、しょっちゅう言っていますが、
(本当にしょっちゅう)

 

 

 

 

 

私の周りには、
才能に溢れた人が、本当にたくさんいるのです。

 

(コーチングにおける才能、とは
「ほおっておいてもついついやってしまう思考や行動のパターン」

「無理なく、普通にやってしまう思考や行動パターン」のこと。

そこに優劣はない。それを「どう表出させるか」)

 

 

 

 

 

 

 

さて。
今、この「TABICA」を見て、思いついている、
やってほしいツアーは、

 

 

 

●某所、山城跡のすぐ下に住んでいる知人に、

「山城の頂上で眺望と美味しいお茶とお菓子を楽しむツアー」

(この知人は、お茶やお菓子の「心づくしのもてなし」が本当にうまい!いつも感動します)

 

 

 

 

 

 

 

それから、ツアーじゃないけれど、
映画のレビューをとてもわかりやすく書く知人がいて、
(その人の「視点」を通してみると、本当に映画が魅力的に切り取られる)

 

その人も、ブログをやったらいいのに、

と思っているところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※写真は、「もてなし名人」の知人の〈あるもので作ったおやつ〉。

ナッツをローストして
お芋で丸めて あんこで包んでお団子に
栗みたいなお芋のお菓子になりました。

 

 

だそう…。

添えてあるのは

ホーリー(聖)バジル(別名:トゥルーシー)。

 

こういうのが、するっと、瞬時に手の中から生み出されるんですよね(感動)

 

 

 

 

 

「チームおじやん」の話ー自分の中のたくさんの自分と手をつなぐ

 

 

 

 

 

 

「おじやん」

 

 

という言い方が、方言なのか、その人独特の言い方なのか、

わからないんですが。

 

 

 

 

 

 

長崎に親しくしているコーチがいます。

以前、親戚が入院中で付き添いによく行っていたそうで。

以下、彼女の言葉。

 

 

 

 

「看護三昧でちょっとお疲れモードです。

でも!

 

その病院は、チーム医療が県内ではトップクラスの病院で、

入院初日、ベッドの周りに10人以上のスタッフ

 

医師

看護師

理学療法士

作業療法士

言語聴覚士

歯科衛生士

管理栄養士

薬剤師

介護福祉士

 

などが集まり

最初の動きのチェックがあり、共有していました。

 

 

 

おじやん、

がんばれ~!」

 

 

 

 

 

 

 

その「チームの結集」ぶりと、

おじやんのベッドの周りで行われる自己紹介が、

とにかく、とてもかっこよかったらしい(笑)

 

 

 

その人のためにエキスパート全員が集まり

方向を確認しあう。

「よし、これでいこう!」とみんなで手を取り合う。

連携を取り合ってともに進む。

 

「おじやん」のために結集した、これはまさに「チームおじやん」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして。

私たちの中にも実は、「チームおじやん」ならぬ

「チーム自分」がいる、というのが今日の話です。

 

 

自分の中にいるたくさんの自分。

(NLPではこれを「パート」と呼びます)

 

 

 

 

 

 

 

自分にとって好ましいパート。

私だったら「好奇心パート」(なぜかイメージは8歳児)や

人前でどかんと何かをやらないといけない瞬間に発動するパート

(イメージ→アメノウズメノミコトみたいな?)

 

それは、自分でその存在を受け入れている「パート」です。

 

 

 

そして、

いなければいいのに、とつい思ってしまうパートもある。

(私の場合は例えば「怖がり」のパート。なかなか前へ進めなくなる)

 

 

 

 

 

 

 

 

周囲の人間に対して「好き、嫌い」があるように、

私たちは自分自身に対しても「好きな自分」「嫌いな自分」がいる。

 

 

本当は、

「好きな」パートはもちろん

「嫌っている」「受け入れがたい」パートも

自分のために、よいことをしようと頑張ってくれているパートなんですが。

 

 

 

 

 

 

 

例えば、怖がりのパートは、

実はわたしを危険から守ろうとずっと奮闘し続けてきたパートです。

 

イメージだと「老執事」かな(笑)。

「お嬢様!おやめくださいっ!」みたいな…

 

いつも私の後ろで私が未知なることをしないよう、袖を引いてくれます。

それをすると「どんな怖いことが起こるか」を

とうとうと説いてくれる。

 

 

 

 

 

 

さて

自分の中「子ども」や「表現者」や「老執事」。

そのほか「学者」や「武士」などなどの…(いろいろいます)

たくさんの「わたし」。

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしたちの仕事(コーチの仕事)というのは

ひとえにこの「チーム自分」を、

 

 

あの、おじやんのチームのように

 

「お互いの存在と力を認め合った」

「それぞれの個性の発揮をかけがえのない『強み』にできる」

 

チームとすること。

最高の力を発揮できる状態に統合していく、というところにあります。

チームの中に「嫌われ者」として扱われる人がある限り

そのチームは力を発揮できません。

その人を「排除」すれば済むという問題ではない。

(また、次の「嫌われ者」を生むだけ)

 

 

 

 

自分の中に敵はいない。

すべてを自分のリソース(宝)に変えてゆくこと。

すべての自分が手を取り合って、進んでいく。

 

 

 

 

 

「チーム自分」がみな仲良く、うまくいっているときほど

人の人生は軽やかに、スムーズです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「チーム自分」の統合に興味がある、という方はこちらへ。

体験セッション、秋分を挟んだ1ヶ月間実施中。

 

https://peraichi.com/landing_pages/view/nagatuki

 

 

 

 

 

(この記事は、過去記事の再編集です)

あなたが幸せならあなたの一番大切な人たちも幸せなのだ-「父の長火鉢」

 

 

 

 

 

 

クライアントさんが家族のお話をするのを聞いていて、
ふと思い出したんですが、
父が、福岡だかであった長期研修から
帰ってきたときがあったのです。

 

で、
そのときの父の様子が、あきらかに違った。

一言で言うと「テンション、高!(笑)」。
あれあれ?こんなにしゃべる人だったっけ? 

 

研修先でいい仲間に出会い、その仲間たちと数週間。
(はっきりとは覚えていないんですが)
みんなで頑張ってきたんだな、
いいチームが出来たんだな、

 
 
というのが、今思えばよくわかる雰囲氣でした。
父は上機嫌で、焼酎を飲みながら、見たこともないいろんな人(仲間)
のことを語り、語り、語り…。

ああ、違う世界を見てきたんだな~、というのが
よくわかりました。

 

 
どんなに父が盛り上がっていたかというと、
それから数日たって家に届いた巨大な箱状の荷物。

研修が終わってから、街で仲間たちと遊び、
そして大好きな骨董品やさん巡りもしたらしく、
大きな四角い火鉢まで買ってきてしまっていたのです。

(木製の。時代劇でよく見る長いやつ。親分が座っていそうな)

 

他にも、細々と、矢立てなども買ってきていたような。
母、そこに関しては無言。
(私は嬉しかったですが)

 

わたしが小学生の頃の話です。
細かいところは本当にもう覚えていないのですが
でも、とても鮮明に覚えていることがあります。

 

それは「感覚」。

この出来事は、わたしにとって、とても幸せで、
楽しくてたまらないという満ち足りた「感覚」で満ちている。

 

父の表情。
何を言ったかはもはや、全く覚えていませんが、
得意げに語るその調子。

 

数歳若返ったような。
まるで若者のような父の高揚した「存在感」。
きっと、その研修は、父にとって
存分に自分の力を自分らしく発揮できた場であったのでしょう。

それは、わたしたち家族にとっても、
ほんとうにほんとうに幸せな時間であり空間であり、空氣でした。

 

仕事や人生、普通に悩んだ時期もある父で、

その時期も子どもながらにしっかりと見、
そのときの薄いブルーに沈んだ湖の底のような
家の空氣も味わって育ちました。

 

それだけに。

父が笑っているということ。
本来の父であること。
(本来の父は、頭がよく、学ぶことが好きで、
社交性にも企画力にも創造力にも富んだ、
なかなかの『出来る男』でした。多分…)

 
その質そのままでそこにいる父の存在を感じることが、
ほんとうに嬉しくて、楽しくて幸せでした。

 

ちなみに、うちは6人家族。
そして、多分この頃は弟が生まれたばかりで、乳飲み子状態でした。
いや、母はもしかしてお腹が大きかったかな。臨月?
父よ、よく行った。

 

ここまで書いて。
あの時の父は、とくにわたしにとっても誇りなのだな、
と今、思い至りました。

 
 

そして
今日のタイトルへと行きつきます。

「あなたが幸せなら、あなたの一番大切な人たちも幸せ」。

 

 
どうぞ、
自分を生きることに。
自分を存分に表現することに、躊躇しないでください。
遠慮しないでください。
氣は使わないでください。

 

何よりあなたが幸せなら。
笑っていたなら。

あなたがあなたの人生を存分に生きていれば、
その、拡大したあなたから醸し出される
生き生きとした豊かな波長を全身で浴びて
あなたの大切な人たちも幸せです。

 

 

そして、それこそは
大切な人たちの身体に染み入り、記憶に刻まれ…
あなたがいなくなっても、
大切な人の一生を鼓舞し続ける。

あなたが大切な人たちへ手渡せる
何よりの、そして消えることのない財産なのです。

 

 

 

 

 

願いはただ一つ「自分の手で触る。自分の目で見る」ー「どろろ」の話

 

 

 

 

久しぶりにアニメを一生懸命見ています。

手塚治虫の「どろろ 」。

1969年に一度アニメ化されていて、50年ぶりのリメイク作品。

 

 

*  *  *

 

 

戦国時代。

 

 

 

鬼神と契約し、

生まれてくる自分の子どもの身体と引き換えに

権力と国の安寧を手に入れたとある領主がいた。

 

 

 

 

 

その子は生まれた瞬間、

目も鼻も口も手足も12の鬼神にもぎ取られ、

密かに川に流される。

 

 

 

16年後。

辛くも命を取り留め、

義手義足義眼ながら神のごとき身体能力を身につけた子「百鬼丸」は、

自分の身体を取り戻すため、

12の鬼神を倒す流浪の旅に旅立つ。

 

 

 

*  *  *

 

 

 

という…

なんか、身体を取り戻す話だよな〜、

というのは知っていたんですが、

設定が結構きついのでそこ止まり。

けれど、見てみると面白い。

 

 

 

 

 

 

 

「どろろ」は

貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)

(尊い生まれの子が捨てられ、試練を経て親を超え世に正義をなす物語のパターン)

なおかつ

ロードムービーの基本構造を持ちつつ、

2019年、漫画とも1作目とも違う、いろんな意味で新しい進化を遂げている。

 

 

 

 

 

 

 

2019年のどろろは

百鬼丸が身体のパーツを取り戻すごとに、

 

 

 

「世界と(自分と)繋がりを取り戻す」

 

 

 

という「自分探し」のお話になっている。

 

 

 

 

 

 

 

手足はもとより、視覚聴覚嗅覚、声、触覚の全てがない頃は、

感情もない。

 

暑い寒い、痛いもわからない。

周囲は自分に「敵意があるか、ないか」のみで分けられているのだけど、

 

 

 

皮膚感覚を取り戻し、

聴覚を取り戻し、

 

世界と触れ合う感覚が増えるごとに驚き戸惑うその様は、

まさに、生まれたての赤ん坊が

ゆっくりと世界と出会っていく様子そのまま。

 

 

 

 

 

 

声を取り戻してからも、

「自分の声がうるさい」

(声は骨伝導でも聞くので、わんわん響いてうるさかったんでしょう)

 

 

 

という理由で言葉を話さなかった百鬼丸が、

初めて人の名前を呼ぶ場面はちょっと感動的。

 

(一緒に旅するどろろの名前を、かすかに絞り出す。

ものすごく変なイントネーションなのが笑える)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今現在、私の見ている百鬼丸は、

 

 

 

どろろを除く周囲の人間全員から

「自分の身体を自分の元に取り戻す」

という当たり前のことをガンガンに阻まれながら、

(百鬼丸が身体を取り戻すということは、父である領主の国が滅ぶということなので)

 

 

 

 

 

 

「ジブンの…てで…さわる…!」

 

 

 

 

 

 

ずっと一緒に旅してきたどろろを、自分の手で触るのだ、

自分の目で見るのだ、

 

 

 

 

と、その一心で血を飛ばしまくり、

闘っているところなんですが、

(その願いが切ない)

 

一体この後どうなるんだろう、百鬼丸は幸せになれるんだろうか、

と大いに心配なところなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私がこのどろろと百鬼丸の旅を見ていて思ったのは、

私たちも、

 

 

 

「本当の自分の目」「自分の耳」「自分の感覚」

 

 

 

というものを取り戻している旅の最中なのではないか?

と。

 

 

 

自分のものだと思っているこの「世界を見る目」、

「世界を見て聞いて感じる視点」は

本当に自分のものか?

 

 

 

百鬼丸のように、本当はどこかへ置いてきているんじゃないか?

どこかに人質みたいに、

置いてきたんじゃないか?

 

 

 

代わりに持っているのは、誰か他のもの。

常識という名で(もしかして過去数十年?数百年?)

ずっと信じてきた何か。

そういうことにしておきましょう、というようなもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

そういうものが、

どんどんあらわになって、自由になる時代。

本当の意味で、

「自分の目で見て、聞いて、感じ、言葉にする時代」

を私たちは生きている。

準備はいいか?

 

お前の目と手と耳は戻ってきているか?

 

 

 

 

 

 

 

と、そういう物語にも見えます。

 

 

 

 

 

 

(とにかく絵が綺麗✨✨)

 

 

 

 

 

 

一歩待て。一呼吸おけ。そして『思いを致せ』−相手の価値観を大切にする

 

 

 

 

 

 

先日の「承認を学ぶセミナー」で、

「最近ちょっと頑張ったこと」

というのを語る時間がありました。
その「頑張り」に対してみんなで承認の言葉を伝える、

というワークだったんですが。

一人の女性が語ったのは
「セミナー会場までどうやってきたか」。

家から車で2時間。
3人の子どもたちを車に乗せ、
それぞれ違う時間帯に空腹を訴える子どもたちに、

「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」

食物を与え、
(という言い方はしませんでしたが、身振り手振りがまさにそんな感じで^^)

途中、実家に子どもたちを「投げ込み」、
ああ、やっと一人になれた…とおもったら、
渋滞に巻き込まれ「遅れてしまう…!」と。

「渋滞を乗り越え、やっとここにたどり着きました」

そうやって、
だいたい3分くらいの、彼女の「山あり谷ありの旅」の話は終わりました。

そのあと。
聞いていた男性陣から出た第一声で、一番私の印象に残ったのは、
承認の言葉でもなんでもなく、

「…反省します」

の一言。

「今まで、妻が家のことをするのは当たり前だと思っていました」。

と。
(わたしの内心→「へえぇ〜、今、そんなことが起こっていたんだ(びっくり)」)

ちなみに、絶対に「大変だろう」と思っていらしたと思うのです。
ご自身の奥さんのことを。

しかしそれは、あえて言えばもしかして「頭での理解」。

けれど今。
目の前で、語り手の表情を見、声を聞き、その言葉を聞き…
彼女と一緒に、2時間の旅をしっかりと「体験してしまった」。
そして、「わかって」しまった。

こうだろう、という頭での理解の枠から一歩出て、
彼女の世界を一緒に生きた3分間が、
男性陣の「立ち位置」を、いとも簡単に変えてしまった。

さて。

人がわかり合う。
相手の価値観を尊重する、共有する。

そのために有効な方法の一つは、
相手がそこに至るまでの「背景を知る」。

ということなんだろうなあと思います。

先日見た「未来のミライ」。
(テレビであったのを録画しておいたんです^^)

これも見方によってはまさに、そういう映画だった。

男の子に妹が生まれ、
お父さん、お母さんの注意がそちらに行ってしまう。

男の子は、お父さん、お母さんの愛情も失った氣がして
妹をどうも好きになれないし、かわいがることもできない。

そして、ますますわがままを言って(妹もちょっといじめたりして)
お父さん、お母さんを困らせてしまう。

そんなとき、
あれやこれやがあって、その男の子、
タイムスリップ、というか、時空間を超えてしまう。

で、自分のお母さんが小さかったときや、お父さんが小さかったとき、
そしてさらに先の「ひいじいちゃん」の若い頃に会うことになる。

そして、
「身体が弱くて小学生になっても自転車に乗れなくて、
泣きながら練習している子どもの頃のお父さん」や、

戦争中、戦艦から海に投げ出され、
怪我をしながらも諦めずに必死で泳いでいく「ひいじいちゃん」の姿を見たりする。

(この「青年ひいじいちゃん」がとてもかっこいい→声・福山雅治)

そして、男の子は少しだけ成長していく、というお話。

彼はまさに
「今、目の前にいる人」の背景を「一緒に生きた」。

さらには、いろんな人たちが「その時、その時代の精一杯」を生きて、
命を繋いでくれたから今の自分がいる、ということも何となくだけど察してしまう。
(設定4歳児なので、はっきりとは描かれないけど)

以上。
セミナーの受講者さんから「他者の価値観を認めるためには?」
という質問に対して書いたお便りを少し変えたものなんですが。

 

「思いを致せ」。

環境に。その人が生きた時間に。その時代に。

それは、その時、その人が生きた「精一杯」。
その中で、最善を選択し、目の前のその人は頑張って生きてきた。
それは「あなたの良し悪し」、
「今という時代の善悪」「良し悪し」だけで決して測れるものではない。

「思いを致せ」。

そこにこそ、他者である「あの人」の価値観を、「採用すること」はできなくても
(無理して採用する必要は決してない)
「認め」「受け止める」ための、

静かな、けれど少し心地よい
「風の吹くスキマ」が生まれる。

(カッコよすぎる「ひいじいちゃん」)

 

 

 

 

わたしは「大切な一人」なんだ、と他者に感じさせることができる人

 

 

 

 

最近行きだしたカフェで、

昨日、ものすごく感じのいいスタッフさんと友達になりました。

 

 

いつもと場の空氣が全く違っていたので「…店長さんですか?」

と聞いてしまったのがきっかけ。

たった一人の人間の動き、氣の配り方で、

空間の雰囲氣は面白いくらい変わるもんだといつも思います。

 

 

 

 

 

そういう人の特徴はというと、言葉では言い表しにくいんですが

「全身がオープン」なんですよね。
そう、身体が常に温まっている。反応がいい。
(コピー機のスリープ状態の「逆」)

 

 

 

例えば、カフェのドアを開けるその前に、もう目が合ってしまう。
そうすると「ウェルカム!」の表情でニコッと目を細めて口角をあげてくれる、
みたいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

『あなたに氣がついています。あなたをちゃんと見ています』
それが伝わる全ての行動(言葉含む)が「承認」。

 

 

 

 

 

 

これが、
コミュニケーションにおける「承認」の定義なんですが、
(どう褒めるか、という狭いところではなく)
ことさら学ばなくても、

 

 

 

 

「自然と、初めから卓越している人」

 

 

 

 

というのがいます。まさに「ネイティブ」!

 

 

動きの軽やかさ。
声の適度な張り。
リラックスした自然な立ち姿
(心身に緊張が少ないんでしょう。緊張は周りに伝染しますんで)
目の輝き。
そして、ほんのちょっとした「言葉かけ」の多さ

 

 

わたしが今まで出会った「ネイティブ」は、
みな、そういう特徴がありました。

 

 

皆、惚れ惚れするくらいそれぞれの「爽やかなリズム」があって、
仕事が「普通」を超えて、
「ものすごく出来る」のもみな共通でした。

 

 

 

 

 

その人といるだけで、
こちらのエネルギーも上がってくる。
その人を好きになるのはもちろん、
その人のためにも頑張ろうと思える。

みんな、そういう人でした。

 

 

 

 

 

 

さて、
わたし自身は「自分はネイティブではない」。
ことをしっかり自覚しているわけですが、

 

 

 

 

 

遥か昔。

 

何はなくとも、自分の周りの人たち
一番大切な人たちに、自分もこうできたら、
どんなにいいだろう、

 

 

 

と、
初めてこれらに触れた時に(しょうにん、っていうんだ〜、と)

切なる願いを抱いたことを、
明日のセミナーの準備をしながら、あたらめて、
結構新鮮に思い出しています。

 

 

 

 

 

 

 

人の心に火を灯せる人。

ああ、わたしは「大切な一人」なんだ、と人に感じさせることができる人。

本当に、「何はなくとも」、

 

 

 

と思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

(そこのカフェのティーポットはこんな感じ?)

 

 

私たちは言霊の幸はふ国の住人なのですー「言葉を使う」「伝える」とは

 

 

 

 

今週末はセミナーです。

春先から、コミュニケーションのスキルを、丁寧に、初歩の初歩からやる、

というものを久しぶりに開催しているんですが、

下記はその「ご案内文」。

 

妙にエネルギーがあるので、こちらにも載せてみます。

 

このセミナーをやろうと思ったのは

「全然嬉しくない褒め言葉」

を投げかけられたことが、この2ヶ月くらいの間にあったのがきっかけなのです。

 

 

 

「それ、全然嬉しくない。
そもそも、目の前の私を、本当に見て言ってないよね。
なので全然入ってこない。
そういうの100人に言ってるよね」

 

と。

 

 

 

「ああ、言葉が滑りまくっているなあ〜。こりゃいかん」。

 

 

 

で、決めました^^

 

 

 

 

 

 

 

私たちは勘違いしています。

 

言葉を口から出すとは。
伝えるとは。

 

 

「元氣に」
「スムーズに」
「スマートに」
「勢いよく」
「かっこよく」
「氣の利いたことを」

 

 

そういうことではありません。

 

 

 

 

「会話が詰まるなんて恥ずかしい」
「間が空くなんて。(沈黙は)だめ」

 

 

 

 

もし、そんなふうに思っていたとしたら、
それこそが大きな勘違い。

 

 

 

 

 

 

私たちは、
学校で「国語」は習うけれど、
誰も本当に「言葉を使う」とはどういうことなのか、は教えてくれなかった。

 

 

 

もともと、言葉とはそんなに軽々しく「消費」していいものではないのです。

 

 

 

 

 

 

 

さて。今回のセミナー、コミュニケーションの技術でいうと、

 

 

「承認」
「フィードバック」

 

 

の技術を学ぶ、ということになります。

 

 

 

 

丁寧に、「承認(含む「褒める」)の初心に戻って、
自身が「見て、聞いて、感じた」
ことを、丁寧に拾い、言葉にすることから始めます。

 

 

 

きっと、自分がいかに毎日、
本当の意味で「見ていないか」。
「見たつもり」「聞いたつもり」で予測の上に言葉を発してるか。

 

 

 

 

本当に自分で察知したものではなく、
なんとなく「そこにあるラベルを貼る」ような感覚で、
何かを言い表していたこと、

 

などなど…様々なことに氣づくかもしれません。

 

 

 

 

 

ですが。
これは、

 

「生きた言葉を使う」
「本当に、自分の中から出た言葉を使う」

 

ことの第一歩です。

 

 

 

 

 

私たち日本人は『言霊の幸はう国』の住人です。

何かを表現したい人ならば、
この世界で成し遂げたいことがあるならば
(大切な人に大切なことを伝える、を含めてです)

 

 

 

 

 

これに取り組まなくてどうしましょう?
という氣もするのです。

 

 

 

 

・ほめ言葉が受け取ってもらえない氣がする

・日頃「こういう人にはこういう話題がいい」

(例「女の人はパフェが好き」「男の人はスポーツが好き」)

とひとくくりで思っており、そういう準備をする、話題を探す傾向がある

・「褒める」=いいことを言うことだ、と思っている

・伝わる言葉、人に届く「自分の言葉」を出せる回路を開きたい

 

 

あ…!

と思った方はぜひどうぞ。

 

 

 

 

 

 

言葉は「ただ」と思っている人がいるかもしれませんが、

(いや、ほとんどいないとは思いますが)

 

 

とんでもないことです。

「一致しない」言葉は(言葉と感情/言葉と意図/言葉とエネルギー…)

自分自身も、場も汚します。

 

受け取る相手にダメージを与えるのはもちろんですが、

自分自身をも蝕みます。

 

 

 

一見美しいクリスタルのグラス。

でも、ひびが入っており、ジリジリと水が漏れ続けている…

 

 

 

 

それが

「一致しない言葉」を使っている人の様子です。

自分の生命力が漏れていく。

 

 

 

 

 

今日1日、自分の使う言葉に意識を向けてみてもいいかもしれません。

 

 

 

 

その人が本当に求めていることは案外本人も知らないところにあるー弁当から価値観へ

 

 

 

 

 

先日の「質問」セミナー。最後のクライマックス

(と、自分で書くのもなんですが)。

 

 

 

 

 

参加者全員でコーチング。

 

一人の課題に対して、参加者全員で「適切な質問」を

投げかけ、投げかけ、投げかけ…

本人の中から「解決」を導く。

 

とまあ、そういう場面があったんですが。

 

 

 

 

 

 

 

クライアント役が

エクササイズ用に出してくれた「テーマ」は「弁当」。

 

 

 

「食費節約のためにもお弁当を作りたいけど、

ギリギリまで寝てしまうので、なかなか作れない…」

 

(可愛い♪学生さんです)

 

 

 

 

 

 

さて。

この彼女に向かって、

あきらかに倍以上生きている百戦錬磨の大人たち(笑)が、

手を変え品を変え…

この日、取得したばかりの「質問」を投げかけ、

「答え」をみちびきだす。

 

 

 

 

 

 

「朝起きられないのはなぜかな?」

 

「週に最低何日お弁当を作れたらいい?」

 

「夜は、何をしていて寝るのが遅くなるのかな?」

 

「夜、さっと寝ることができるときはどんなふうに動いてる?」

 

 

 

 

 

 

などなど…

質問は大学での時間の過ごし方にまで及び。

 

 

問われるままに、自分の中から言葉を探し出し、

ゆっくりと言語化を続ける彼女。

しばらくして。

 

 

 

「あっ…」。

 

 

 

目を少し上にあげて、瞬間。

「私…、自分がやらなくていいことまで、やっているかもしれないです…」

 

 

 

 

 

 

授業の課題以外に、ゼミ、学友会(的なもの)の仕事、先生からの頼まれごと…

そして、夜はもちろんバイト。

 

 

「(大学の中の仕事で)

これ、私がやらなきゃいけないのかな、と思うことが…結構あります」

 

 

 

自分の「パターン」。「癖」。

ずっと自然にやってしまってきているものだからこそ、

自分ではわからない。氣付きにくいものなんですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

「弁当が作れない」という訴えは、彼女自身わかっていなかった

(彼女の意識の上にはのぼっていなかった)

 

「自分にとって、大切なものは何か?」

「自分のエネルギーをどう使うのか?」

 

という、人にとって結構根本的なところに結びついてた。

 

 

 

 

 

 

 

すかさず、「百戦錬磨メンバー」がサポートの言葉を投入。

 

 

 

「自分の時間をどれに集中させるか。

この取捨選択は、一生ものなんですよね。私もそうです」

 

(しみじみ、あったか〜な低い声音で。

そして、もちろんご本人は、「サポート」なんて思ってらっしゃらない。

つまり、芯から滲み出た言葉で…こういうのが本当に「効く」)

 

 

 

 

 

 

 

「問題」だと思っていることの根本は、案外違うところにあったりする。

この一連の流れを見ると、

 

 

 

「表層にあらわれた『問題』だと思われるもの」

 

 

 

だけを槍玉に挙げ、

例えばアドバイスや指示をすることが、いかに無益なことかわかります。

そのことの真の答えは、

 

 

 

 

 

「本人自身の『深い思考』と『氣付き』の中にこそある」

 

 

 

 

 

他者に対しても。

そして、自分自身に関しても、そう。

 

 

 

 

そして。

大切な人と、そういう関わりができたとしたら、

何にも勝る宝を。

(思考する力・本質を抑える力・人生の根本を理解し、変える力を…)

 

「その人」に残すことができる。

それは何よりも大切なこと。

 

 

 

 

 

そう思いませんか。

 

 

 

 

 

「そのこと」を通して「何を味わいたいか」は一人一人違う

 

 

 

 

 

別なところへ行くつもりが、なぜかここで引っかかってしまいました。

 

 

 

 

明石屋という和菓子屋さん。

鹿児島では老舗で、弘化4年創業?かな?

 

 

ここは庭も美しくて、

外では苔の上の葉っぱや枯れ草を綺麗にするのに余念のない庭師さんが二人。
ちょっとお声がけしてみたんですが、

鹿児島市は吉野の「庭吉」さんの庭師さんだそう。
(サイトがとてもかっこよかったので貼っておきます)
https://niwakichi-kagoshima.jp/

さて。
この2ヶ月のうちに、

脳天カチ割られたように「庭師になりたい!」と思った瞬間があり。

(人生で数回、衝動的に思うことがある?

昔から好きだったのですよね)

そして今、
外の二人の若い庭師さんの姿を見ていて
(苔の上を片手サイズの竹ほうきで履きながら、小さな枯れ草まで丁寧に撤去✖️30分)

「あ、やっぱり無理だ…」

庭をつくるっていうのは、つまりずーっと
「続けていく」「保つ」
ということなんですよね。
(当たり前じゃないか、とツッコミつつ)

以前、結婚式の仕事をしていたのは、
「空間演出」
が好きだったこともあったんですが、

●演劇
●ウエディング

わたしの辞書に「創る」はあっても「保つ」という言葉はない!
(「瞬発力」「爆発」とかも上位に載ってます^^)

自分は「消えもの」専門だなあ〜

と庭師さんたちの姿を見ながら、
さらにしみじみと実感でした。

「そのモノ」に惹かれるわけ。
「そのモノ」の中の、どの特質に惹かれるのか?
自分の最も譲れない(動かせない)本質と何パーセント合致しているか?

仕事のミスマッチを起こさないポイントでした?
 

 

 

 

 

 

例えば、

これをやりたい。こういう大学に行きたい、

こういう仕事につきたい!とお子さんが行ってきたとき

上記の様な質問をしてあげることは、

意味があることなんじゃないか、と思います。

 

 

 

 

親族をはじめとして、

周りが妙齢の親たち(つまり、子どもの巣立ち(進路選択)に直面している親たち)

が多いもので、そんなことをふっと思いました。

 

 

 

 

(結構、「修羅場」を見聞きするもので。

まあ、横から見ている分には気楽なものです^^

もっとやれ!と思う。

 

今、妥協しないでお互い、徹底的にやりあわないと、

後からもっとグダグダになるぞ〜、と)

 

 

 

 

 

 

 

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