「一人が進めば」

一昨日書いた
に、こんなメッセージを下さった方が。
「ブログを読んでいてズシンときました。
『行きたいところ』がはっきりしたとたん、私も怖さが顔を出してきている気がしますゞ
今はただそこにあるな~と感じながらせっせと過ごしてますが。。

恐れが出てくる時は、人が羽ばたかんとしているとき。

とても勇気をもらえました。
ありがとうございました!」

とても嬉しく、お返事を書かせていただきました
「恐ろしさのあまり
『見なきゃよかった』(行きたい方向を)
『気づかなかったことにしておこう』(行きたいところを)と

十数年前はそんなことを何度もした覚えがあります。
ですので、書いていらっしゃること
とてもよくわかります。
じんじんわかります!

話は飛びますが
クライアントさんと同時進行で
自分にも同じことが起こってくることが
私の場合は多々あります^^

わたし、そして周囲の人たち
みんなで手をつないで
いっせ~のせ!で前に進んでいる感じがするんですよね。
その、質や中身は違うんでしょうが
その「シンクロぶり」は恐ろしいばかり。

裏を返せば
一人が進めば
他もつられて進む、ということで。

自分が進めば
まわりまわってつながっている地球の裏側の誰かも
前へ進むことができる。

わたしたちは
そういう責任を負っているのだと思います。

もちろん、
『恐れ』を見、それを十分に味わい、燃焼させる貴重な時間込みで、で。

私も今また
もくもくと燃やし中!   」

この方は、これからますますリーダーとして活躍なさる方なので
そんなことにも思いを馳せつつ、お返事を書きました。
翌日、再びメッセージををいただきました。
「ありがとうございます!
『一人が進めば他もつられて進む・・・』
そうだった~」
ご自分の中にちゃんと知っていたことを
体でもって思い出してくださったことが伝わってきました。
さらに
次のステップへ行くと決めたとたん
「今あるところ」を卒業することへの恐れ
つぎのステップへ進むことの恐れがここ一か月出てきているのだと
丁寧に経緯が記されていました。
「こわいです~」
とその方は、とても率直な言葉で書いてくださっていました。
かわいらしい…^^
怖さをしっかり認めて、嫌わずに、その感情とまるでダンスを踊るように
軽やかに見つめていらっしゃるこの方の姿が目に浮かぶようです。
この方は、私のブログに勇気をもらったと書いてくださいましたが
私のほうも大きく元気をもらったのでした。
この方の、とても軽やかに「自分を見せてくれる」というあり方で。
「ブログに乗せてもいいですか?」
の私の問いかけに
「ぜひ」と。
「きっと私のように救われる感覚を味わう方がいると思います」
との言葉を書いてくださったこの方。
本当にありがたいことです。
この言葉に励まされ…
このやりとりが
今まさに動こうとしていて、こわいな、と思っている
どこかの誰かの元気になってくれればと思い
書いてみました。

「そばだてる」

日本スクールコーチ協会九州支部長崎地区の4月学習会

昨日終わりまして

(鹿児島は一週間前に終わりました)

先ほど

長崎のメンバーから

「こんなだったよ!」のメールが届きました。

その中で、印象に残った言葉。

「そばだてる」

「昨日講座の中で

参加者のみなさんのそれぞれの言葉に心うたれるものがあり

感動でした。

たとえば

『相手の気持ちに耳を欹てる(そばだてる)』という言葉。

…耳に残りました。

『そばだてる』ように

丁寧に聞いているか?と自身に問いかけが起こりました。」

「そばだてる」

・そびえ立たせる

・その方向へ向けて高く立てる

・一端を上げて傾かせる

   (広辞苑&新明解国語辞典より)

なんだか

静かで奥ゆかしいその所作までもを彷彿とさせる言葉です。

そうですね…

目を伏せ、かすかに首を傾け、片方の耳を少し上に向けて

相手の言葉や、言葉以外のもの、その気配のすべてに神経を集中させて、静かにうなずいている…

そんな感じでしょうか。

(あくまでも、わたしのイメージです)

相手の気持ちに「耳をそばだてる」。

わたしもあらためて

最近どうだったかなあ…(身近な人との間で)

と考えた朝の便りでした。

今日は「そばだてる」一日にしてみましょうか…^^。















「本当は空を飛べると知っていたから」

最近わたしのまわりで

「こわい!」の大合唱が起きています。

先日「声をつかむ」 の記事に

昔のわたしの生徒さんがコメントを寄せてくれました。

「すごくわかります!」

 (場の観客ひとりひとりを「つかみ」「ゆらす」という感覚が)

彼女は

このブログに何度か登場していますが、プロのダンサーさんです。

「ときどきその感覚から逃げてしまうときがあります。
なんでしょう・・・。
やっぱり向き合う力もないと、つかむ から 揺らす までは至らないのかもですねー・・・」

なぜ「逃げてしまう」んだろう?

「向き合わない」んだろう?

彼女は「場を掴み、一人ひとりを、場を揺らす」十分な力を持っているのにな。

と思うと同時にふと

彼女のダンスを見たときに感じた

「すっとひいて、内にこめる感じの気の出し方」を思い出しました。

それは、彼女独特の、激しい中にも高貴な、上質で繊細な波動をつくっていたと感じました。

(そう、以前わたしはそれを『能を見ているよう』と表現しました)

あれはあれで大好きなのですが

まだ知らない彼女の表現、彼女が行きたいと望みながら、未だ足を踏み入れていない世界が

あるのかもしれないな、と思いました。

「向き合う力もないと、つかむ から 揺らす までは至らないのかも…」

わたしには

「その世界へ踏み入れるのが怖い」

「その力を行使するのが怖い」

と、彼女が言っているように、なぜか感じたのでした。

今朝のセッション。

これまでもっていたものをすべて整理を終え、心から願っていた

あたらしい世界へ踏み出すことを決めた方のセッションでした。

その、具体的なステップを踏む段階になって

「…こわい」

「人がどう思うだろう?」

「摩擦がおきるのはいやだ」

「そこまでして(先へ)行かなくても」

と色々な声がその方を止める。

この方とのお付き合いは長いのです。

それがどれだけやりたいことであったか

この方の魂がどれだけ喜ぶことであるか

この方の本質にいかに合致していることであるか

そして、はたから見ていると、すべてのプロセスはこの選択にいたるためのステップであったかと

しごく当たり前に流れを進んでいるように感じられるのに

まるで、カナリアが美しい歌を奏でるように自然なことなのに

それでも、「こわさ」が出てくるのですね。

「変わること」へのこわさ。

当たり前のことなのですが。

『本当は空を飛べると知っていたから

羽ばたく時がこわくて風を忘れた』

何かのアニメの歌です。

なぜか、この部分だけ、とても鮮明に覚えています。

「自分らしく、自分の力を存分に使う」ことに

「自分を存分に生きる」ことに

恐れが出てくるとき

そのときは、まさにその人が「羽ばたかんと」しているときなのだ、と感じます。

さて

この文章を書いている途中で

メールがひとつ、はいってきました。

「踏み出しました!」のメール。

この方は

数日前のセッションで

「小さな迷いと不安」を口になさっていたのでした。

メールからは

ものすごい爽快感と開放感、そして

切ないような「愛惜の情」

変ですけれどそこはかとない「別離の悲しみ」のようなものが伝わってきました。

この方も

「慣れ親しんだ懐かしい場所」から一歩、踏み出したんだなあ。

今日もあしたもあさっても…

人が自分自身を生きる、すべてのプロセスを含めた場に立ち合わせてもらえることへの

感謝と畏れと感動を感じつつ

お返事を今から書こうと思います。

「カメラマンさんの『愛』」

桜の終わり少し前

新しく写真を撮ってもらいました。

今の写真が確か2年くらい前のものなので。

中村公子のコーチングna日々♪

鹿児島市の黎明館。

旧鶴丸城跡。

城壁には西南戦争の砲弾の跡が残り

桜の木もその時代をみつめてきたんだろうな…と思う

大きな木がたくさんあるところです。

その桜の中で撮っていただいたのですが

それが本当に気持ちよくて気持ちよくて気持ちよくて

その心地よさと幸せ感が数日続いたのでした。

(ちょっと恥ずかしいですが

その気持ちよさと至福の感じをお届けしたく

写真を載せてみました)

知人が

桜の花の意味?というかエネルギー?について教えてくれました。

「桜は『潔い散り際』『はかなく散る』のあたりがクローズアップされるけれど

あんなに散るのは、『幸せのエネルギー』を周囲にふりまくためなのだ

(そういうエネルギーを持った花なのだ)」

…多分、そういう感じだったと思います。

とても、体で納得しました。

吹き渡る風

満開を少しだけすぎた桜の枝に、花に囲まれて

それはもう、口では言い表せないような、くらくらと酔うような

ふわりと薄桃色のひかりに包まれているような

あの感じ。

(それから数日、ずっと薄桃色のひかりに包まれている感じがしていたんでした)

さて

もうひとつ

とても心地よく、満たされた気持ちになった理由があります。

それは「写真を撮ってもらった」ということ。

写真を撮ってもらうという行為は

「承認をもらうこと」だなあ、としみじみ感じたのでした。

1~2時間、ず~っと

カメラマンさんにカメラを向けてもらい、写真を撮ってもらう。

つきっきりで。

それはとりもなおさず

「あなたを見ているよ」

「あなただけを見ているよ」

「あなたが大切だよ」

とくりかえし、くりかえし

言ってもらっている時間に他ならないのですよね。

「愛をもって、見てもらっている」

(どのカメラマンさんも、写真を撮っているときは

被写体に対して『愛』を持つと思うのですね)

中村公子のコーチングna日々♪

ということが

どれだけ人を心地よくし、満たし、高揚させるのか

ということを、この2時間で

ひしと感じたことでした。

(思いっきりうれしそうに飛んできた花びらをキャッチした瞬間です

よく見てくれているなあ…と感心)

みなさん

大切な人を、ちゃんと「見て」あげていますか?

あなたのそのまなざしだけで

今日の一日をまた頑張れる人が、きっといますよ。

この日は

桜の花から、そしてカメラマンさんから、あふれるほどのたくさんの愛をいただいた日となりました。

「場数とセンス」

古くからの友の家で

なんとはなしに過ごしているとお昼時になり

彼女が

「ごはんが残ってる~」

「夕べの残りのミートソースがあるなあ・・・」

冷蔵庫をごそごそやりながら

昼食の算段をするのをぼんやりと眺めていました。

「それでい~い?」

「何でもいい~」(もう、ご飯にありつけるだけで幸せでございます)

中村公子のコーチングna日々♪

という会話の10数分後

出てきたのが右のお昼。

ご飯を炒め、塩コショウとバジルペーストで味付け。

その上にミートソースとチーズをかけ

オーブンでこんがり♪

さらにバジルを散らして味をぴりっと引き締めた一品。

これがとても、おいしい。

彼女とはながい付き合いですが

彼女の手から生み出されるものがおいしくなかったことは

一度もないのです。

残った冷たいご飯。

大根のきれはし。

おつまみチーズのあまりもの。

そんなものが、彼女の手にかかっていつも、すばらしいご馳走に変身して(しかも短時間で!)蘇ってくるのを

何度もこれまで見てきました。

わたしにはとてもできないことです。

彼女の頭の中と、体には、食材や料理に関するたくさんの「経験値」が蓄えられているのでしょう。

彼女は昔から料理が好きでした。

そういえば高校の頃
中村公子のコーチングna日々♪

彼女の家で泊りがけのパーティーをやったのですが

彼女が買い揃えていたパーティー用の豪華な食器の数々を

目にして

その華やいだ雰囲気にみんなで大いに盛り上がったものでした。

好きこそものの・・・で

料理のセンスや想いはその頃から群を抜いて、さえていた彼女。

(彼女が持っていたパンチボウルとグラスのセット

〈こんなかんじ〉)→

「場数とセンスだねえ・・・」

お昼をいただきながらしみじみと感嘆を声に出すわたし。

「わたしの仕事も、こうでなくっちゃね」

「仕事はなんでもそうだよね~」

「だよね」

たくさんの「素材」をあつめ、チョイスし、それでもって「一つの世界」をつくり

そこにお客様をいざなうのがわたしの仕事です。

使う素材は他者と同じであっても

それをまとめ、どういう料理に仕上げるかはわたしの腕ひとつ。

わたしにしか出せない色、味があり

そこにこそ、わたしの存在理由がある。

彼女と話しながら

かつてウエディングプロデューサーをしていたときに

当時はやりはじめていた「人前式」の式次第を

他の会場さんも取り入れていましたが

同じ「式次第」でも、それを実際運用し演出し、当日進行する人間の「腕前」によって

まったく「似て非なるもの」になっていたことを思い出していました。

100人で一列に並んで

「大根の切れ端と残りご飯と、ちょっとこげた夕べのミートソース」で料理を作れといわれたときに

それを使って最高のものをつくってやる。

誰にもマネはできない。

させやしない。

そんな仕事をしよう、と

彼女を見ながら思ったことでした。

「テストの花道」

NHKの教育番組

中でも子どもや若い人向けのものが好きで

たまに見るのですが

その一つが「テストの花道」

「考えるチカラをつけて、目指せ試験の突破!」をテーマに

毎回いろいろな「勉強のコツ」を

実際に高校生達が試して、そのノウハウを手に入れていくという内容のものです

「要約するチカラ」

「情報を読み取るチカラ」

などなど…

普通に大人のわたしも「そういう方法あるなあ~」と

毎回楽しくみてしまいます

ちなみに

わたしは昔、国語の教員だったのですが、ほぼ「活字中毒」といってもいい

子ども時代~学生時代をすごしたため

実は、文章読解など、「生徒がどこがわからないのかがよくわからな」かったのです。

「ここに答えは書いてあるのに、それがどうしてわからないの??」

といった感じで…

(余談ですが、そういったわけで

一番教えていて自分自身が明解で、生徒に「伝わっている」感があったのは

学生時代に自分が最も苦手だった『文法』でした

何がわからないかがよくわかった)

ですので

これを見て

「ああ、わからないって、こういうことかあ」

「こうやって教えたらよかったんだなあ」

と、今頃になって気づくことが大!なのです

さて、この「テストの花道」

先日は、「苦手克服合宿」ということで、お寺さんで2日間、みんなで合宿しながら

現役大学生たちから「英単語暗記法」を

伝授してもらうという内容でした。

それがまあ…

色々な方法があるのですね。

「とにかく発音しながら書く」

「紙も鉛筆も使わず、ひたすら目で見て発音、指でなぞる」

「単語カードを一定リズムで何度もめくって見る。(じ~っと見るんじゃないところがポイント)」

「単語の例文を自分で考えて、書く(知人を登場させたりして楽しいイメージに)」

「意味にダジャレをくっつけて語呂合わせ」

「リスニング教材を聞きながら、体を動かしてジェスチャーで覚える」

見ていて気づくのは

目から入れる

耳から音で入れる

そして

書く、動く、などなど…体の動きを通して入れる

五感への複数の刺激をうまく起こしているというのが特徴のようですね

「うまくいく方法」はやっぱりそうかあ、と納得します

NLPなど学ばなくても、うまくいっている子は

自然にその方法を編み出している

結果

2日目の英単語100問テストで

前回「4点」「3点」だった高校生達が80点、90点をとるのでした

(みんな、おめでとう!)

本当に

どうすれば、外界から一番効果的に情報を取り入れることが出来るかは

「人それぞれ」

その人に合った「方法」があるんですね

と、

いつも研修で自分がそう言っているのですが

この日はそれをまた深く実感したことでした

昔は、よく、生徒に怒っていました。「私のやり方」についてこない子に

今なら

わたし、ものすごくいい先生になれそうです

「万葉集にみるNLP」

昨日は

「万葉びとに学ぶ  ~平城京遷都一三〇〇年によせて~」

という講座に行っておりました。

講師は元 財団法人奈良県万葉文化振興財団 万葉古代学研究所 主任研究員で

今は鹿児島高専の准教授でいらっしゃる松田信彦先生。

鹿児島に、こんな、古代の風をまとった(いえ、松田先生が古代っぽいという意味ではなく)

古代の人の息遣いをわかりやすく、今に伝えることができる方がいるのだということに

しかも2時間、3時間…それらを熱く語り続けられる方がいるのだということに

(本当に楽しそうにお話になるのですもん)

感謝と感動を覚えつつ…。

松田先生、よくぞ鹿児島にいらしてくださいました!

さて

「万葉集にみるNLP」なんて

壮大な題名をつけてしまいましたけれど…^^

そんなたいした内容ではないんです…

人は、外界の刺激を取り入れるのに「五感」を使いますよね。

視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚

この感覚、人によって『利き感覚』がある。とNLPでは学びます。

(利き腕、と同じようなものですね。優位感覚、といいます)

何かを覚えたりしないといけないときに、この「優位感覚」は顕著にあらわれます。

例えば…

新しい電気製品の使い方を理解するときに

①使い方の図(絵)やフローチャートを見ると理解しやすい?

②文章を読む・人から耳で聞くと理解しやすい?

③読むのも見るのもかったるい。直にさわって動かしてみて理解する?

①が強い人は「視覚優位」

②は「聴覚優位」

③は「体感覚優位」ということになります。

(ざっくりですからね^^ざっくり)

そして、優れた、人の心を討つ「名スピーチ」をする人は

この3つの感覚に訴える言葉を、演説の中にしっかりと織り交ぜている、ということなのです。

「目で見え」「耳に聞こえ」「体で感じる」…ことのできる全ての要素の言葉を

巧みに入れている。(オバマさんとかね。そうなさっているようですね)

さて、

話、持って回っていますが、ここで万葉集。

「我が宿のい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕(ゆうべ)かも     巻十九 4291」

  ~わが家のわずかな群竹をすぎる風の音のかすかな、この夕暮れよ~

わずかな群竹、それが夕日の光照らされてゆれている情景が見えます。

風が葉をゆらす「かさこそ」というかすかな音が聞こえます

そして、その過ぎ行く風を頬で感じませんか?

この、わずか三十一音の中に、すべてがある。

映像と音と感覚の惹起によって導かれる世界が、瞬間にしてわあ~っと広がります。

その場に、行ってしまう。

松田先生いはく

「心情を表す言葉は一つも入っていない。それでいて『春愁』(春のなんとなく感じるもの悲しさ)を感じる歌」

なんだそう。

日本人は

ことさら意識などしなくても、繊細にそれぞれの感覚に訴えることばを

豊かに配置して、その妙を味わっていたのですね。昔から。

こんな感覚をDNAとして持っている日本人をあらためて誇りに思いました。

(なんだ…昔からふつうにやってるじゃん、という感じでしょうか)

NLPを学んでみて

あらためてその歌の世界の豊かさ、すごさが実感できてしまった…というお話なのでした。

「きず」

新しい机がやっと来ました。

一時オーダーメイドにしようと決めて、工房まで出かけたくらい熱心に選んでいたのですが

打ち合わせの日程が合わぬままに時がすぎてしまい

結局購入することで落ち着きました。

それでも、楽しみに待っていたので

嬉しさもひとしお・・・

さっそく部屋にすえて、そしておおがかりな模様替えの続きをはじめたのですが

その途中で思わぬ出来事が!

それは…

机に傷をつけてしまったのです。

我が家に来て滞在時間わずか2時間で…傷。

なんと可愛そうな机。

濃い茶色の表面から、ほんの少しだけ、3ミリくらいですが、白い地肌がのぞいています。

瞬間

正直ちょっとクラッときました。

とてもとても悲しい気持ちになったのです。

そのまま元気をなくしてしまい夕刻まで時を過ごしました。

夕刻

えいやっと心を奮い立たせて近くのホームセンターへ。

そう、「家具の傷隠し」なるものを買いに行ったのです。

「家具のマニュキア」というものを買って帰ってきました。

そして早速塗ります。

全10色。そこから3~4色を選び、乾かしながら何回も上塗り。

そして、最後に艶出しを塗ります。慎重に慎重に。すると…

とっても不思議なことがおきました。

机にではなく、わたしの中に。

とたんに、机がいとおしくてたまらなくなったのです。

まっさらで、新品で来たときよりも、ずっとずっといとおしい。

これは、私の机。世界にたった一つだけの私の机。

そう思うと、嬉しくなって、つい机にほおずりしてしまいました。

傷って、不思議です。

ふと、昔に見たドラマの台詞を思い出しました。

確か、幸田露伴が娘の文に言った言葉だったと思うのですが

(とても昔のことなので、しっかりとは覚えていないのです。違っていたらごめんなさい)

「お前の傷こそが、大切なのだ」

「おまえの傷こそが、お前なのだ」

といった意味の言葉でした。

「傷」というのは「欠点」というような意味です。

おりしも先月は、コーチトレーニングプログラムで

「強み」のクラスを運営していました。

「強みとは、いい、悪いの判断を加えない、その人の持つ思考や言動のパターン」

これを定義に、4週間、「強みを見つけ、生かす」ということについて

参加の皆様方とディスカッションやエクササイズを重ねたのですが。

自分自身、とても理解していたつもりだったのですが

体のそこから「わかった」気がしました。

傷はそのものらしさ。

傷は個性。

傷があるからこそ、輝く。

傷もまた、強み。

そして

どうして机に傷がついたのか

なんとなく、わかったような気になりました。

「龍馬の父・八平さんのコーチング」

先日

長崎で会った知人がこんなことを言っていました。

わたしが「今日は龍馬の史跡をめぐってきた」というのを聞いて

話して下さったのですが。

「龍馬伝、見てますか?

見ていて思うんですけれど…

あ、こんなところでもコーチングだなあって(彼女も、コーチングに携わっている人なのです)」

え、そう?気づかなかったなあ?と、思いつつさらに耳を傾けます。

「ほら、龍馬に『黒船を作ってどうする?』って。

それを龍馬は考えて…」

ああ、そうか。

そういう場面があったなあ。確かにそうだ。あの場面は、とてもいい場面だった。

「黒船を作れたらいいな」と言った龍馬に父、八平さんが言います。

『作って、どうするがじゃ』

そこまで考えて言うたわけでは…いいとどむ龍馬に父は続けます

「龍馬…

この世に生まれたからには、おのれの命を使い切らんといかん。

使い切って生涯を終えるがじゃ」

なんだ、そんなことも考えてないのか!とならないところがステキですよね。

それから

龍馬はず~っと考えるのですね。剣を振るいながら、人々と語らいながら…

何気ない時間がすぎる中で、父、八平からの問いかけが

龍馬の中に、深く深くしみわたり、意識的に、無意識的に、答えを静かに探し続けている様子が

ゆったりと描かれます。

そしてついに、龍馬は言います。

「黒船を海に浮かべて、わしはこの一家みんなを乗せるがじゃ!

ほんで…世界を見て回る!!」

「自分の命を使い切る」とはどういうことか、21歳の龍馬が出した答えがこれでした。

荒唐無稽な、夢みたいな…

そんな反応でも、全くおかしくないであろう現段階での龍馬の「答え」を

八平さんはじめ家族は笑顔で暖かく見守るのです。

さて

『黒船を作ってどうする?』
『お前は、自分の命をどう使い切る?』

という、父、八平の質問と、自分が出した「答え」は

龍馬の中でずっとそれからも醸成され続けたのだろうな、と思います。

やがて龍馬が手がけるさまざまなことの「根っこ」をなす大切な思いとなったのではないかと感じます。

わたしたちは、日々様々な質問を子どもにしますが

その中にたった一つでも

「こどもの中に染み込み、人生かけて考え続けられるような、『その子の人生を創る質問』があるか」を

考えたことがあるでしょうか。

そしてまた、いつも子どもに「即答」を求めてはいないでしょうか。

優れた質問とは、元来、その人の中に染み込み、長い時間をかけてその人の中で

「自分で考え、探し求める」ことを活発化させる質問です。

子どもの真の成長のためには

子どもの思考を促す「優れた質問」と大人の「信じて待つ」という姿勢が不可欠なのです。

時によっては数年その答えを待たねばならないこともあるでしょう。

さらには

子どもがそのとき出した答えに、「評価・判断」を加えたりはしていないでしょうか。

(何いってんの、とかムリムリ、とか、もっと現実をみなさいよ、とか・・・)

子どもは常に、精一杯の状態で、そのとき出せるベストの答えを出してきます。

それを今の自分(大人の私)の枠にはめて判断すること=子どもの枠を狭めることになりますね。

それに第一、「わたし」と「こども」は違う生き物なのです。

「わたし」にはできなかった。でも、こどもにはやれる力が多分、ある。そんなものなのです。

「…おまんは、そんなことを考えちょったか」

龍馬の答えを聞いてつぶやく

父、八平の表情からは、息子の存在をすべて受け取って、包みこむ暖かさが感じられます。

八平さんは

龍馬の中に、一生、生き続けるであろう大きな質問を残したのですね。

そして

「…おまんは、そんなことを考えちょったか」という一言の中に

全身全霊で、「お前ならできる!やれ!」という思いをこめて、そして逝ったのでしょうね。

静かな中に

父、八平さんのあふれるほどの切ない思いと、龍馬への愛を感じた場面でした。

「いい仕事の核には震える弱いアンテナが…」





先週の金曜日はキャッチワークかごしまにて

「求職者のためのコミュニケーション能力アップ講座」で

一日若い方々と過ごしておりました。

特に、若い方々は「緊張する」「人見知りする」「あがる」「上手く話せない」(と自分で思っている)

ことへの思いをおっしゃる方が特に多いのです。

「人前で上手く話せない」という一人に

周りのみなさんが

「それは、丁寧に言葉を選んでいるからだよ」

などなど…すてきな「視点の変化」の言葉をプレゼントしているのを聞きながら

その日を終えたのですが。

さっき、PCの整理をしていたら

こんな詩が出てきたので、転載してみます。

以前、昔からの知人が同じようなことを言っていたときに

プレゼントした詩です。


「汲む ~Y・Yに~」(茨木のり子)

  (前略)

   初々しさが大切なの

   人に対しても 世の中に対しても

   人を人と思わなくなったとき

   堕落が始まるのね 

   墜ちてゆくのを隠そうとしても

   隠せなくなった人を何人も見ました

   私はどきんとし そして深く悟りました

   大人になってもどぎまぎしてもいいんだな

   ぎこちない挨拶 醜く赤くなる

   失語症 なめらかでないしぐさ

   子供の悪態にさえ傷ついてしまう
  
   頼りない生牡蠣のような感受性

   それらを鍛える必要は少しもなかったのだな

   年老いても咲きたての薔薇

   やわらかくなく外に向かってひらかれることこそ難しい

   あらゆる仕事 すべてのいい仕事の核には
 
   震える弱いアンテナが隠されている きっと…

この詩を、プレゼントしたときに

実は一番染み込んでいたのは

自分自身だったことを思い出しました。

彼らにも、この詩を読んであげられたらよかった。

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