「龍馬の坂道」

 

中村公子のコーチングna日々♪
がですね

あるのですよ。

 

先週

所用で実家に帰り

「霧島市牧園」にある

 

「龍馬公園」

と今回名称の変わった「塩浸温泉」にたちよりました。

なぜかというと

ここに

 

 

「この世の外」という名称の

(龍馬が手紙で、霧島のことをそう書いたらしい)

 

 

とてもとてもかわいらしい「プチ大河ドラマ館」が

できたからなのです。

(塩浸温泉は、龍馬が湯治をした温泉です

今も、その源泉から出る温泉に入ることが出来ます)

 

さて

その「やかた」の話はさておき、今日は以前から気になっていた

その「やかた」の背後に切り立つ深々とした山にある「道」の話です。

 

今、この温泉の前を通っている国道226号線は、もちろん幕末はなかったものなのですが

この、温泉の背後の山。小さい頃からここを通るたびに見上げてきたこの山は、見るからに「古そう」で

この景色は、絶対に150年前から変わっていないだろうな…という感じの山なのです。

露出した岩盤とうっそうとした木々の間を、ほそい坂道が上に向かって

ジグザグに走っています。

 

ためしに上ってみました。

(この町の町民として生を受け約40年…いつも前は通っていましたが、上ってみるのは初です)

 

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この石段の上には

小さなふるい祠があります。

「天保九年」と書いてあるようにも読めるんですが…

(自信はないので信じないように)

 

それはそれは風情のある坂道です。

 

下の温泉に戻ってから

「霧島龍馬会」の池田さんとおっしゃる方にお尋ねしてみました。

 

すると、この道をとおって

龍馬とお龍さんが

「犬養の滝」だったかに行ったのだそうです。(和気神社だったかな?)当時はこれしか道がなかったそうなので。

 

へえ、すごい。

そんな道、地元民なのに知りませんでした。一度もあるいたことすらない。

(なんてもったいない)

 

この温泉に二人がいた時期は結構長かったので

この坂道を、二人は頻繁にあるいたのではないか、と思うのですよね。

 

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龍馬目線で

温泉を見下ろすと、こう。

 

さて

この、龍馬とお龍さんがとおった道

今は通れないのですって!

途中でゆきどまっているらしい。

もったいない。なんてもったいない。

 

「土佐の龍馬脱藩の道」みたいに

なりますよきっと!開通させてくださいな!

 

と、龍馬会の池田さんに熱くお願いしてみました。

 

 

みなさま

鹿児島での龍馬の足跡を追われる場合は

塩浸温泉、一番のみどころはこの「裏山に続く坂道」ですから。

ぜひ、お見逃しなく!

 

この、古式ゆかしい坂道の風情をぜひ、味わってくださいね。

 

「龍馬夢枕に立つの話」

 

 

松平定知氏の講演を聴きに行きました。

テーマは「龍馬の新婚旅行」。

 

研修でお世話になっている新聞社の販売局のとある方から

「先生、確か幕末がお好きでしたよね」

という丁寧なメールとともに、お知らせをいただいたのです。

最近お目にかかっていなかったのですが、こうして覚えていて

メールをくださるそのお気持ちに感動しつつも

 

「この方まで知っていらっしゃるなんて、わたし、そんなに『幕末幕末』って騒いでいるのかなあ…」

 

とちょっと恥ずかしい思いをしつつ^^;

でも、楽しみに今日を迎えたのでした。

 

「歴史秘話ヒストリア」も好きですが「そのとき歴史は動いた」も好きでしたので

「うわあ~松平さん、本物だあ」と俗なことを喜びつつ、講演ははじまりました。

 

さて

確かに幕末は好きなのですが、そんなに系統立てて知識を得ているわけでもなく

龍馬のことは詳しくないので、とても興味深くお話を聞きました。

(松平さんがお話しになると、ものすごく複雑なつながりのあれやこれやが

なんでもないことのように紐解かれる感じがするのが不思議です。

そう、まるで「そのとき歴史は動いた」を見ているよう)

 

そして、その中で「へえ~!」と思ったのが

「龍馬。夢枕に立つ」のお話。

これは有名なお話なのですね。

以下、松平さんのお話。

(正確には「司馬遼太郎によると」ということですが)

 

「明治人は、龍馬を知らなかった。明治37年までは。

 

当時、日本人は「恐露病」であった。

そして明治37年2月、ロシアとの国交断絶の御前会議。

 

2月6日、昭憲皇太后の夢枕に、白装束の武士が立ち

『私は坂本龍馬と申すもの。今から三十数年前、奮闘したものにて

身は死んでしまったが、魂は日本を守る』

と言った。

皇太后は側近の香川敬三に

(←この人は確か、近藤勇を捕らえた人ではなかったですか??偉くなったんですね【中村注】)

『坂本龍馬を知っているか』と尋ねた。

 

翌、2月7日も、また同じ夢を見た皇太后は再度『龍馬のことを知りたい』と香川敬三に言った。

香川は宮内大臣の田中光顕(元陸援隊副隊長)にこのことを伝えた。

田中光顕は龍馬の写真を渡した。

皇太后はその写真を見て「この人だ」と言った。

 

この出来事は『皇后の奇夢』として新聞に載った。

わが国には守護神がいるぞ!ということになり、盛り上がった。

おりしも、東郷平八郎がバルチック艦隊を破り、龍馬人気は湧き上がり、そのまま龍馬伝まで続く」

 

 

龍馬、すごい!!そんなにニッポン国のことを!

なんだか龍馬のキャラではないような気もしますが…。

 

そしてさらにこの話は

「薩長土肥」の中で圧倒的に多い勢力の薩長に対抗する田中光顕(土佐)の

「起死回生」の作り話である、との話もあると続きます。

田中さんは昭和まで生きた方で、死ぬまで「あの話は本当だ」と言っていたらしいですが。

 

 

歴史とは面白いものですね。

上のお話の真偽さておいて

歴史とは

私たちが知らないところで、いろいろな、いろいろなことがたくさんあって

そして、最終的に、誰かが意図して表面に表出させて「表現」しているものを

私たちは「歴史」として受け取っているんだろうなあと、そんなことを思いました。

(はい、これをわが国の「歴史」としますのでよろしく!みたいに)

松平さんもおっしゃっていました。

「勝者の歴史」が累々と続いていく。勝者が自分たちの正義を残すのであり、正誤を論じるのは意味がない、と。

 

さて

最後に「うわあ、この方は本当に歴史が好きなんだなあ」と感じた言葉を(ざっとですけど)。

 

 

「今日の話には、私見が入っているが

歴史とは、そういう見方でよいのではないか。

エビデンスを並べつつも類推する。既成の歴史を自分の中に近づける。

歴史は無機物ではない。数字と出来事を知ることが歴史好きということなのではない。

 

歴史とは、斬れば血の流れる人間の汗や、喜びや、悲しみであり

人がどうその歴史に対峙したかなのだ」

 

さりげなくエンディングにはいり

ぐん、とリズムが高まっていく最後の2行

その静かに熱い語り口調の、あの独特のリズムについ乗せられて

「そうそう、そうなんだよね!」と周りよりもちょっと熱い拍手をしてしまったことでした。

 

「種子島の革鎧」

 

 

 

昨日、伯父の整体院に行ったと書きましたが

そこで興味深いものを見せてもらいましたので、みなさんにもお見せしたく。

 

革のよろいです。

いつの時代のものなんでしょう。
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伯父のところに行くと

いつも、伯父の昔話に花が咲くのです。

戦時中の話や

見たことのない祖父や祖母の馴れ初めの話など…

知識としてして知っている時代に、生き生きと生きた人の

皮膚感覚が加わるようで、とても楽しいのです。

 

 

そして

昨日はこの「種子島でもらったよろい」の話で盛り上がったのです。

 

 

 

伯父の奥さん、つまりわたしの伯母。3年ほど前に亡くなりましたが

種子島の出身で、しかもだいぶ「よき家」の出だったそう。

小さい頃の伯母はほんとうに大切にされていて(鹿児島弁では「てねん(丁寧に)されちょせえなあ~」となる)

「何もしなくてよかった」らしい、などなど…いろいろと話をききましたが…。

 

伯父は、その関係で、今も種子島に行くことがあるらしいのですね。

 

 

 

このよろいは「種子島家」の古い家の中にぽつねん、とあったものなのだそう。

伯父がもらいうけて、保管していたのですが

歴史資料館へ寄贈することになったとかで、それなら…と、「次のお客様がやってくる」としぶる伯父を

拝み倒して、見せてもらったのです。

 

 

 

軽いです。
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そして、硬い。硬いというか、乾燥しています。からから。

昔からこうだったのか、時間がたってこうなったのか。

これを身に着けて戦うと、あちこちすれて痛そうだなあ・・・

とそんなことをふと思ったり。

 

 

 

前にうっすらと家紋が残っています。

そして、前のパーツと後ろのパーツを組み合わせて着用するように

なっています。

結び合わせたであろう、紐を通す穴が残っています。

 

 

 

後ろの下部に、同じ素材の革で房のような

飾りがついているのですが、すっかり朽ちてしまっています。

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どんな人がこれを身に着けていたんだろう。

これを身に着けて、戦をしたのでしょうか。

軽輩の方々が身に着けていたのじゃないかと

なんとなく思ってしまうのですが。

(テレビで見る「立派なもの」とは違いますので)

 

 

 

 

「よろい」というと

テレビで戦国武将が着ているようなものしか見たことがなく、どうも「飾り」のイメージが先行してしまうのですが

やけにリアルな革のよろいに

身近な道具として、これを着て、手入れなどしていた人のことなどを感じたことでした。

…以上、「種子島のよろい」のお話でした。

 

「首はどこへいった~新選組六番組長、源さんの首の埋葬地」

 

 

今日は久しぶりにゆっくりした一日。

書類の整理や、お礼状の作成などをやっております。

 

 

お礼の手紙を書きながら、思いついたので

今日は市川さんの話をします。

 

 

市川さんは「日野新選組ガイドの会」のガイドんさんで

『日野宿本陣文書検討会』のメンバーでいらっしゃいます。

先日の日野での研修の際も、公私にわたり、大変お世話になった方なのです。

 

 

 

さて、話は飛んで140年と少し前の慶応4年1月。

幕府軍と薩長軍による「鳥羽伏見の戦い」がはじまりました。

この戦いで、新選組は伏見奉行所に陣を置き、薩長軍と戦っていました。

(ちなみに、わたしはこういうのを書くときに、資料を再読しませんので、「うろ覚え」です^^。

間違っておりましたらあしからず。

あんまり違うと失礼になりますので、ここから先は「維新の道」2009年10月号の

市川さんのエッセイをもとに書きますね)

 

この、鳥羽伏見の戦いでは、多くの新選組隊士が命を落としたのですが

その中に、六番隊組長、井上源三郎がいました。

源三郎さんは日野の出身で、新選組の中核をなした近藤・土方と同じ「試衛館道場」のメンバーです。

剣は強く、温厚な人だったらしいのですが

この戦いのときは、大砲で最後まで薩摩兵に反撃を試み、銃弾を受け亡くなりました。

 

戦いのさなか、遺体の埋葬などできません。

ともに参戦していた源三郎の甥の泰助くん(12歳)は

源三郎さんの首と刀を羽織に包んで大坂へ運ぼうとします。でもあまりの重さに持ちきれず

断念して、途中のお寺の門前の田んぼに首と刀を埋め、退却したのだそうです。

12歳の子どもの体験としては、すごいものだと思いますが…当時は戦ともなればあたりまえのことだったのでしょうか。

 

この、源三郎さんの首を埋めたお寺の名前は、長い間わからないと言われてきました。

 

 

時はたち…

今から2年ほど前、市川さんは淀(源三郎さん戦死の地)を訪れました。

東軍の位牌や、砲弾の跡などを見、慰霊碑を探して散策などしたそうです。

その際、淀城の跡入り口で見つけた古地図のパネルで「敗走ルート」を指でたどって見ると

「欣浄寺(ごんじょうじ)」という名前があったそうです。

それは、日野の井上家(源三郎さん生家)の前にあるお寺と同じ名前でした。

そのとき、市川さんは「泰助が源三郎さんの首を埋めたのは、このお寺に違いない」となぜか

確信したのだそうです。

 

市川さんは、今はない淀の「欣浄寺」を調査をし、絵地図の写真をとりよせ

その存在を井上家五代目、井上源三郎資料館の館長さんにお伝えしました。

するとなんと

「泰助が首を『欣浄寺』に埋めた」と

館長さんの祖母ケイさんは言っていたということがわかりました。

そうなのです!

実は、井上家では、祖母のケイさんから「首を埋めたお寺は欣浄寺だ」と聞かされていたのですね。

ところが、たまたま「欣浄寺」という名前のお寺が家の前にもあったため

「おばあちゃん、それは家の前のお寺でしょう。ボケてしまって何言ってるの」

という感じで、長い間、ケイさんの言葉は周囲に信じてもらえないまま現在に至っていたのです。

 

「泰助さんが、故郷と同じ名前のお寺を見つけ、ここならおじも安らかに休めるだろうと埋葬したのでは」

と市川さんは想像したそう。

 

銃弾飛び交う激しい戦のさなか

悲しさなど感じるひまもなく、おじの首と刀を抱いてよろよろになりながら逃げる道すがら

遠く離れたふるさとの、家の近くのお寺と同じ名前のお寺を目にしたときの

12歳の泰助くんの想い、察してあまりあるものがあります…。

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そして、源三郎さん埋首地の土は

ご子孫によって日野の地に無事持ち帰られ

盛大に百四十回忌が行われたそうです。

やっとふるさとに帰ってきた源さん。

よかった。ほんとうによかった。

源さんは、今も日野駅の近く、宝泉寺に眠っています。

 

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最後に、この「維新の道2009年10月号」に記された市川さんの

言葉を。

 

「千両松の慰霊碑を探し国道を歩きましたが、疲れたので

歩道橋で休んだとき『こちらへ来て』と聞こえました。

後でわかった埋首地の近くです。本当に不思議なことが

あるものです」

 

市川さんの「調査」のお話を聞いていると本当に面白いのです。まさに「捜査は足」!

現地をくまなく歩き、あるときは図書館にこもり…ていねいに、ていねいに今に残るかすかな痕跡をたどって

糸をさがし、つないでいくその作業は本当に根気のいる作業だと感じます。

 

市川さんには合っているんだろうなあ、凄いなあと思うのですが

それだけではない「心」も感じるのです。

かつて生きた人々の行動を、できるだけ克明に今に伝えよう、という強い想い。

 

歴史的な「証拠」の保存はまさに「時間との戦い」です。

刻一刻と「証言者」は減り、残っている建物も、ともすれば「不便なもの」として残念ながら取り壊されていく。

(保全にはやはりお金がかかりますから、公が動かなければ、個人では持ちこたえられなくなっているという

現状のようです)

 

それらを

時間の霧の中にうやむやに消散させはしないぞ

という、静かな情熱を感じます。

 

そういう「無心」な思いで動いている人には、こんな奇跡もおこるんだなあ。

 

人は、自分のことをわかってほしい。

それは、生きている人でも、もう形のなくなってしまった人でも同じなのかも知れません。

そんな人たちの声を、市川さんは聞いている人なのでしょう。

だから、源さんも(と、勝手に思っている)市川さんに語りかけたのかな あ。

 

日野新選組ガイドの会、市川さんのお話でした。

 

 

 

「ここだけタイムスリップ~出水の武家屋敷群」

 

 

今年も残すところあと一日

みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

 

何かと忙しかったこの12月

たくさんの方々と出会い

よき時間をともにすごさせていただいたのですが

そのひとつひとつをじっくりと味わうゆとりのないまま

気がつくと今日、30日を迎えています。

なんと、もったいない…。

 

というわけで

今日はその日々の中から一つ書かせていただきます。

22日、出水のお話です。

 

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「鹿児島県出水市」

冬場、鶴が渡来する地として有名なのですが

この出水に「武家屋敷群」があります。

同じ県内にいながら、一度も訪れたことがなかったのですが
今回、訪れてみてびっくり。

一言で言いますと「ここだけタイムスリップ…??」

 

さて

この武家屋敷群

(正式名称「出水麓伝統的建造物群保存地区」)は

 

 

『面積約44ヘクタールの広さを有し

出水市指定文化財である、出水假屋門・武家門・石垣・生垣や竹添屋敷など4軒の建築物があるほか、伝統的建造物として特定された建造物などがほぼ昔の姿で残っており、当時の面影を今に伝えています。』(出水市HPより)

 

 

 

という土地なのですが
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まあ、ここだけ違う空気が流れているんですね。

こんな感じに、その地区一体が保存地区に指定されており

もちろん、この中に保育園などもあって、普通に

みなさんが生活なさっていらっしゃるのですが

ここだけ、空気が違う。

静寂と言いますか、森閑といいますか。

ほんとうに心地よいのです。

 

 

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これは小学校の門

 

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そして

ふつうにこんな門の家がたくさんあり

その中には人が生活していらっしゃるお家も多い。

 

お庭を見せていただく際に

「○○さあ~ん、みせっくいやいなあ~」

(見せてくださいね~)

 

とガイドさんがお声がけをして

お庭を拝見するのも

とてもアットホームな感じです。

 

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道の突き当たりに

設置してある「魔よけ」の石

石敢当といいましたっけ

「他にもありますから探してみてください~」

とガイドさん

 

そうそう、各家が「生垣」としてつかっている木も

椿もあれば他の木もあり

それに、敷地内にはちょうど「なつみかん」様の大きな黄色い

実をつけた木が多く…

なんでも、平時であっても常に「戦」を視野に置いたしつらえに

やはりなっていたのではないかと。

 

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「竹添邸」

ここは、中まで拝見することができます。

 

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ココで見つけたこんなもの

お菓子をつくる「型」なのだそうですが。

ゆすの木で作ってあるそうでどっしりと重い。

 

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裏を見ると、なんと…

「嘉永六」の文字

ペリーが来たころではないか…。

いっきに「人が生きていた」実感を感じます。

 

午後

この、出水の武家屋敷をガイドなさっているガイドさん方へのコミュニケーション研修を

させていただいたのですが開口一番、感無量

 

「ここは宝石みたいな土地ですね」

 

まさに、稀有な土地。

こんな一群が、今もあるということ。

そこだけ、タイムスリップしたかのように、ひっそりと、忽然と息づいているこの場所があるということに

心から感謝の気持ちがわいてしまい、そう言いました。

 

中
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さて
日本中のみなさま、どうぞ、鹿児島は出水の地へ

お越しくださいませ。

タイムスリップしに、いらしてくださいませ。

この武家屋敷群の長い歴史をひもとき

(関ヶ原少し前に端を発するらしいですが)

 

ひとときの「時の旅路」にいざなってくださるガイドの方々が

みなさまをお待ちくださっておりますよ!

 

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(マスコット 鶴ノ進くんです→)

 

 

スペイン料理店にてⅠ「150年の石が息づくお店」

 

 

ランチに

スペイン料理のお店に行きました。

 

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鹿児島市田上にある

「La Masia」  

 

 

スペイン料理のお店なれど…

 

庭を入っていくと

 

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先ず目に入るのは              
純和風の「古民家」右矢印

 

屋根がすうと描く曲線が美しい

 

ここは、このレストランをなさっているご家族の「ご自宅」なのです。

そして、その広い敷地の一角にこじんまりとしたレストランがあります。      

 

 

 

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こんなふうに

随所に石の美しい造形が印象的なお店です。

この石

すべて「拾ってきた」ものだというのだからすごい。

 

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お店の中です。

 

これらの石はなんと「石橋」の石。

 

石橋って??という方のために一口メモ。

鹿児島県には「古い石橋」が多く

鹿児島市内自体にも有名な

「甲突川五石橋」(ごせっきょう)とよばれるものがありました。

(過去形です。

残念ながら今はないのです。

五石橋の在りし日の姿を見たい方はコチラ
http://blowinthewind.net/megane/bmegane-gallery9.htm

   

石橋は、古いものでは「嘉永」とか「天明」の建設というものから、昭和の初期までさまざま。

このお店の石は「五石橋」のものではなく、鹿児島の北部、川内というところにかかっていた橋のものだそうです。

 

いつごろ架けられたものかはわからないのですが

もしかしたら、150年くらい前の姿を今にとどめているものかもしれません。

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そういえば

このお店の石たち

わたしたち鹿児島県民(市民かなあ)にとっては

とても懐かしい「どっかでみた表情」で

そこここに、ちょこんと収まっているんですね

 

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そう、いつも見ていた「橋」の名残をしっかりととどめています。

なんとなく…

 

                           

 

 

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窓から外を見上げると

となりの古民家の屋根と空が…

 

ますます「今」を忘れそう。

 

さて

なぜこんなに「石」のことを言うかというと

歴史を持ちつつ、私たちの「生活道路」としてしっかりと生きていた石橋たち。

これら「五石橋」が「撤去される」と決まったとき

 

そうならないように、残してくれるように、と、ささやかですが昔、少しだけ

がんばったことがあったからなのです。

 

写真にもありますが

「西田橋」が取り壊されるという年の暮れ

西田橋の大きな「ぎぼし」にさわりに行ったときのことを思い出します。

 

 

 

 

ほんとうに、ほんとうに美しい橋でした。

大好きな橋でした。

 

江戸末期の、先人の技術の結晶を使い続けていること。

夕暮れのビルの群れの中に、溶け込むように石橋があって、その光景が喩えようもなく美しいこと…。

鹿児島の街に住むもわたしにとってまさに「誇り」ともいえる光景でした

 

古いものが

こうして形を変え、再び蘇って生活の中に息づいていること、本当に嬉しくなります。

 

「古材」

「石」

…よきものを

こうして丁寧に「受け継いで」使っていくことにとても心満たされるものを感じつつ

 

 

「その姿」をとどめて置けなかった石橋

それを守れなかった自分達に、少し悲しいものを感じます。

 

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