「今日はオタクな話なのでー『新選組–幕末の青嵐』」

時代によって、人によって作品の解釈も変わり
役の解釈も変わり
セリフの解釈も変わり、結果、表現が変わる、
という話をハムレットの例の有名なセリフをたとえにしてわかりやすく書いてある一節を
読んだことがあり
面白いな~と思っていたのですが
今日は強いてテーマを見つけるなら、そういう話でしょうか。
いや、そうでもないか。

「朗読カフェ」
というものを知人が開いており
それに、ずいぶんと前から参加してみたかったのでした。

毎月、鹿児島市内のおしゃれなカフェやレストランで開かれるそれは
朗読したい本を持ち寄り皆の前で朗読する、というもの。
参加してみたいな、と思った1年ほど前から「読みたい本」はもう決まっていました。

「新選組 幕末の青嵐   木内昇」

どうせそこか、と思った方もいるかと。
(まあ、そうなんですけれどね)

「歴史小説」というには
あまりにもみずみずしさ全開のこの小説。
語り手が次々と変わっていくのが面白いのです。
次々と起こる事件が、関わったさまざまな人物の目から語られてゆきます。
360度から光を当てられた多面体のよう。
ときは幕末。陰惨な事件も多いわけですが
それでもこの本の世界はなんとも美しい透明度を持って迫ってきます。
まるで、たくさんのカットを持つほど光り輝くダイヤのような。

好きな場面をひとつ、書きます。
沖田総司の死の場面。

沖田の死の場面には、必ずくっついてくるものがあります。
それは『黒猫のエピソード』です。
死の数日前、療養している離れの庭先にやってきた黒猫を沖田が斬ろうとして
斬れずに死んだ、という。
過去、あまたの小説で
そして、映画やドラマで、様々な描かれ方をしてきた有名な場面です。

黒猫が、自分が斬ってきた人間の亡霊に見えて錯乱して死ぬ、ですとか
剣士としての腕を最後に試そうとして果たせなかった、とか…。
とにかく

「ああ、斬れない…!」

と、最後に呟いて倒れる総司は、子ども心にやりきれなく。

「人生とは、こんなふうに終わっていってもいいのだろうか!?」と。
どんなに精一杯生きても、人は報われないのではないか、と。
自分が命を懸けて、極めてきたところのもの。
自分そのものであった世界についに見捨てられる、
こんな人生の終わりがあっていいのだろうか!?と。
今思えばそれは、「世の中」というものや
「自らが生きること」への漠然とした不安を抱かせるに十分な場面でした。

      

「総司が亡くなる数日前、彼はみつにこんなことを言ったのだそうだ。

『姉さん。もうちょっとでまた剣の道が極められそうだ。次の場所に行けそうなんだ。
稽古はしていないけれど、寝ながら考えていたらだんだん見えてきた』

総司は天才ですから稽古なぞしなくたって剣は極められるのかもしれないですね、
とみつが応えると、本当に嬉しそうに笑った。」

この日、庭に来た黒猫を「斬る」と言って外に出た総司は
猫をじっと見つめ、何もせずに戻ってきます。
その翌日も同じく。
そして寝床に戻り、誰にも気づかれることなくそのまま死んでしまう。
死後
彼が寝入る前に興奮して語ったという言葉が、世話をしていた婆やの口から語られます。

「ねえ、婆や。
私は猫を斬らなかったけれど、斬れなかったんじゃないんだ。斬ろうと思えば斬れる。
いつだって斬れるんだ。
確かに、今は万全じゃないから、誰かに踏み込まれたらやられちゃうかもしれないけれど
でももう、そういうことを恐れることもないな。

私はね、一番の剣客を目指していたから、
人と立ち会って勝つことだけをずっと考えてきたんです。
でも、それだけじゃない、って最近わかってきた。
大きい世界に出て、いろんな人と出会って、剣を十分に使って、経験を積んで、
ちゃんと自分には剣があることがわかった。
頭じゃなくて、気持ちと体ではっきりとわかってきたんだよ。
だからもう、争わなくてもよくなった。人と争わなければならないような迷いは、もうないな。
だって自分に自信があるからね。

剣を極めるということは、もう斬らなくてもよくなるということなのかもしれません。
闘わなくたって、相手も自分もわかるということなのかもしれません」

一気に、そして嬉しそうに婆やに語って「安心しきった顔で床に入った」。
それが、この作品の最後の総司の姿。

この場面をはじめて読んだとき、
肩の力がすうっと抜け、言いようのない感慨を覚えたものでした。
あえて言葉にするなら「やっと終わった」という感じ?
やっとこういう総司が出てきた、という感慨といえるかもしれませんし
あるいは
自分の中でずっと留まっていた「何か」が昇華された安堵感だったかもしれません。

とにかく、空を見上げて、なんだか泣きたいような心持ちになったのでした。
総司とともに、自分の中の何かが確かに癒され、光となって
天に昇って行ったかのような気がしたのでした。

「新選組 幕末の青嵐」。
最後は史実通り、もちろんみな死んでしまうのですが
それでも、後に残るのは爽やかな一陣の風と突き抜ける青空と、
そして美しいダイヤの透明感。
こんなふうな世界を、空気を、律動を言葉で構築できる人というのは本当にすごいな、
と思います。

奇しくも、7月19日は新暦で沖田総司の命日。
(この蒸し暑い時期にずっと寝床の中だったとは!沖田さん大変でしたね)
子どもの頃、何度も彼らの人生を追体験し。
そして月日が過ぎ。

この作品を通してやっと、
彼自身の口から
「人生って、それでもすばらしい。生きるって、それでもすばらしいよ!」

と、言ってもらえたような気もし。
いや、それを大人になったわたしは、もはや十分に知っていたのですが
145年前の彼に伝えるすべを持たなかったので。

それを再度しっかりと確認し
そこにともに到達できたことを喜ぶために
「朗読カフェ」にて
皆さんの前で「音」という形で表現してみたくなったのかもしれません。

言葉に込められた響きというものが
そこに込められた祈りや思いというものが
確かに届くものだと、最近とみに実感するので。

「歴史は誰のもの?~東郷平八郎没後80年式典レポート」

 

 

毎年

3月~6月はいつの間にか

 

「古人と語り合う月間」

 

のようになっている感があり

国内をあっちこっちふらふらとしている気がするのですが

(史跡や墓地を巡ったり、いろんな人の「〇〇忌」なるものに参加しているということなんですが)

 

今年は初!

鹿児島県内の「〇〇忌」に参加してみました。

今日のかの人は「東郷平八郎」。

日露戦争、日本海海戦の連合艦隊の司令長官。

日本を勝利に導いた方、というくらいの知識しかなく、お恥ずかしいことです。

個人的には明治の華々しいご活躍より

若き日、宮古湾海戦(明治2年、旧幕軍が新政府軍所有のストーンウォールを奪取しようとした戦い)

にも参戦していた、という話の方が萌えるのですが。

 

場所は市内、多賀山公園内、東郷墓地。

そぼ降る雨の中、せっせと坂を上り、馳せ参じた「それ」は、いつも行くものとはだいぶ

いえ、ものすごく…違う雰囲気でした。

何が違うって、「協力者」がすごかった。

なな、なんですか?これは!!

 

いきなり目に入ってきたのはこの光景。

式典開始10分前。はためくZ旗を見守るのは海上自衛隊のみなさん。

そして…

 

 

わかります?

空の彼方からごぉ~っと、来たんです!

あの、狭い多賀山公園上空に向かって飛んできたんです。

 

式典は

「表敬訪問飛行」、なるものからスタート!

規模が違う。何なんだこれは。

 

 

こんなふうに、P-3Cとやらは、会場の真上を飛び去ってゆきました。

初めて見た~(喜)

 

そしてさらに、軍艦旗の掲揚へと続きます。

あの動きは「ささげ、筒」というんでしょうか。

自衛隊の皆さんの美しい動きの一つ一つが場を引き締めます。

 

 

旗がしずしずと上がっていくところ。

銃の先についた「剣」の部分は、動きがおわると

腰の「剣先フォルダー」(なんて呼び名ではないと思いますが)にいちいち収納するんですね。

めったに見られない道具、所作ばかりで、とにかく見ていて飽きません。

 

そして、国歌斉唱。

ちなみに、ここまですべて「生演奏」です。なんと~。

演奏はそう、この式典のためだけにはるばる大型バスに乗って佐世保からきた

「海上自衛隊佐世保音楽隊」のみなさん。

白い制服が眩しい。

生演奏で歌うというのは気持ちのいいものです。

 

そして

式辞、来賓あいさつ…と続き(国会議員さん多数。ほとんどが代理の方でしたが)献花。

 

一般参列者にもお花をくださるとのことで

しっかり献花させていただきました。

一般人は20名くらいでしょうか。

 

わたしがこれまで参加してきたものは、「一般参加者」が数百名、長蛇の列でごった返し、

というものがほとんどなので

ここは「勝った!」と思ったり。

(勝ち負けの意味が分かりませんが)

 

テントの中に進み、自衛隊の女性隊員さんから白い菊の花を受け取り

テーブルに捧げたのち、手を合わせます。

そして、奉納演武。

薬丸自顕流です。東郷元帥も門弟であられたとの説明あり。

どんな練習をするのか、知識としてはあったつもりだったのですが、これまた初めて間近で見…

すごい(というか、怖い)。

 

その、気迫というか、勢いが半端ない。

練習用の横木にだ~っとはしって打ち込み、そのまま体ごと「ばこっ」と体当たりする人も。

横木がばらっとはじけ飛びます。

「猿叫(えんきょう)」もすごい。

(きえぇ~っ!という独特の声ですね)

 

これは…幕末、京の町中で薬丸自顕流なんかにばったり出会ってしまったら

相手は怖かったろうなあと思いました。

強そう。

強そうというか、ある種クレイジーな感じのこの気迫。

(まあ、あの時代はみなある意味クレイジーだったのでこの気迫は大切だったのでしょうね)

 

小技はないので竹刀では負けるかも知れませんが

真剣での戦いには絶対強そうです。

あの勢いで「きえぇ~っ!」と来られたら、もう脳天からばっさりですね。

西南戦争の際、

薬丸自顕流の打ち込みを小銃で受けた兵士が小銃ごと頭蓋骨を叩き割られたという

話も残っているそうで(WIKI情報ですが)

 

他流派の演武も見たことはあるのですが

本当に古人の「命のやり取り」の瞬間の片りんをその姿の奥に感じたのは、これが初めてでした。

恐るべし、薬丸自顕流。

 

1対多数を想定した切り込み。

バタバタ倒れる木がついバタバタ倒れる人に見え…

(東郷元帥式典レポのつもりが、だんだん自顕流レポになってきました)

 

 

そして宴たけなわ

海上自衛隊佐世保音楽隊の皆さんによる演奏披露を経て最後の時間へ。

「軍艦旗奉納」。

 

再び自衛隊の皆さんの手によって、「儀式」として旗が下されてゆきます。

来年は、国旗とともに揚がるといいですね。

(会場は旗を揚げるポールが2本しかないので、やむなく軍艦旗とZ旗のみ揚げました、と

痛恨の思いを主催者がお話しになったので)

 

さて…。

 

「軍艦旗」と「Z旗」。

曇天にはためくこの二つの旗のもと、とても不思議な感覚を味わった時間でした。

 

この式典は61回を迎えます。

ずっと、この鹿児島の地でこの人を愛し、

その心をこのような形で表し続けてきた人たちがいるのだという再確認。

一言でいうと「わたしの知らない世界があった…!!」という驚きなのですが。

 

そして

海軍から自衛隊へ。

形を変えつつも、自分たちの誇りある「源流」として、海上自衛隊の方々に

愛され、尊敬され続けている方なのだという感動。

 

さらには

わたしにとって最もわからない国であるこの「薩摩」の波長の本質の一部分を

少し体でわかったかな、という感覚。

なんというか…薩摩って、こういう感じですよね。やっぱり。

一言でいうと…「萌え要素ゼロ」(笑)

良くも悪くも、です。うまく言えませんが。

なんというか、歴史は誰のもの?~おじさんと偉い人たちのもの、という感じでしょうか。

 

東郷平八郎第61回記念式典」。

とても素晴らしい場でした。

あまり詳しくなかった東郷という人物を身近に感じ、そして

彼をたたえる自衛隊の方々の美しいたたずまいや、多くの人の言葉(式辞ですが)を聞き

また、演奏される国歌その他の曲の響きを体で感じ。

一人の日本人として

また、鹿児島県人として

百年と少し前の、この人の「頑張り」「ゆるがぬ姿」の先につながっている

今の自分たちなのだ、ということを空気とともに体感でき

とてもシンプルな誇りの感情を抱くことができました。

すっと自分の背筋が伸びたようで…嬉しかった。

 

願わくば…

これらの思いが、もっと多くの人に広まりますように。

これからを担う若者たちにも広まりますように、と思うのですが、無理でしょうか。

一般参加「20人」は少なすぎないですか?

これだけのことをやっているのに…

(P-3Cまで飛んでくるのに!)

しかも、若者ゼロ。

それとも、これは式典なので、これでいい、むしろあまりにぎやかにならないほうがいい

内輪だけのもの、という位置づけなのでしょうか。、

 

冒頭に書きました

わたしがよくいく「古人の遺徳をしのぶ」場のいくつかは

エネルギーがこことは全く違います。異質です。

「官」ではなく、完全に「民」のエネルギー。

自然発生的に沸き起こった「しのぼうぜ!」の思いが湧き上がり、膨れ上がり

常に自己増殖を続けています。

それが日本各地で(ゆかりの地で)街おこしのエネルギーや動きとなり。

それぞれが「やりたくてたまらない」から勝手に楽しくやっている。

どちらがよい、悪いではなく、多様な側面や切り口が

ある、ということで。

 

歴史と今をつなぐ、とは

先人たちの優れた知恵、美しき生き方、思いを受け継ぎ、それをできるだけ多くの人で共有し

さらにはしっかりと使い、役立て

生きた形で次の世代の若者たちの「心と体に」しっかりと刻みこむことではないかと思います。

ガラスケースに飾られた「よいお話」ではなく。

 

ここまで書いてきて思ったのですが

鹿児島に足らない努力って、そのあたりなんでしょうか?とにかく…「萌えが足りない」!!

萌え、とは確かにオタク用語ですが、でもその根本は

「みずみずしさ」「若さ」「やわらかさ」「生き生き」という意味です。

 

  岩ばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも   (志貴皇子)

 

なのですから。

 

まとまりませんが!

来年はぜひ、皆さんも行かれてみてください。

めったに触れられないものがたくさんです。

感動します。

 

「日本人としての『プレゼンス』」

 

いよいよソチオリンピックが始まりました。

昨夜は早速に、一番楽しみにしているフィギュアがはじまり、つい夜更かしです。

 

フィギュア団体戦は

演技に加えて、各国のブースでのチームごとの応援がまた楽しいのですよね。

各国の応援の様子を

 

「お国柄ってあるなあ~」

 

と思いながら見ていました。

日本のチームの応援は、わあ~っとはじけるというよりは

みんなでリズムをもって、合わせて、楽しく、という感じで

なんだか、運動会の応援を見ているようで懐かしい。

 

演技にしても

もちろん個人の特徴はあるわけですが、

身のこなし、リズムのとり方など…なんとなく全体的に

その演技の背後に、その国の長い間生きてきた文化や精神性がしっかりと見える気がします。

 

例えば

イタリアのペアの演技など見ていると

あれは、日本人には逆立ちしても無理だろうな、と思うのです。

あの音楽を踊りこなすことも難しいだろうし

あの、小粋な表情や身振り、手振り…うん、日本人にはムリ。

やってもいいけれど、とってつけたようになりそうです。

第一、男性のあの、オールまっ黄色な下半身の衣装からして

あれが似合う日本人はなかなかいないと思うのです。

 

また、

中国のペア。

音楽が胡弓(?)の入ったものであったということもあるのでしょうが

流れるようなつやのある細やかな表現。

その背後には「京劇」の深い伝統をつい感じてしまいます。

 

そうなると

我らが日本の選手たちは

いったい外国の人たちからは、どんな「特徴」を持っていると見ることができるのだろうなあ、と。

自分たちのことは、自分たちではなかなかわからないですもんね。

 

余談ですけれど、わたしは真央ちゃんを見ていると

なんだか最近、武士に見えてしようがない(笑)

凛としてゆるがず、周囲に影響されることもなく

自分のなすべきことを、ただ黙々とやって、結果を出す…いさぎよく、かっこいいなと。

 

さて

「お国柄」というのはつまり「国としてのプレゼンス」ということだと思います。

プレゼンスとは

「外見、そして内面、すべてから自然と醸し出されるその人の『存在感』『あり方』」

 

お友達の

(と言ってみました^^。2度ほどお目にかかり、お時間をご一緒したことがあるだけなんですが)

白駒妃登美さんの最新刊

2月に出たばかりの

「日本人の知らない日本がある~こころに残る現代史~」

          (株式会社KADOKAWA)

 

「2020年東京オリンピックまでに読んでおきたい近、現代史」

 

と帯に銘打たれたこの本には

この「日本」という島国の中で長い間かかって培われてきた

私たち日本人の「プレゼンス」が

血を吐くような危機的な状況の中で

凝縮され、発揮された、まさに、「日本人の魂の発露」のような厳しくも美しい瞬間が

たくさんつづられています。

 

ウズベキスタンの「ナヴォイ劇場」建設に携わった日本人たちの話。

 

1945年。ウズベキスタン。

ソ連軍の捕虜となって、ウズベキスタンで強制労働に従事させられた日本人兵士たち。

過酷な労働時間。

体を維持するにも足りない粗末な食事の中で、命を落とす兵も続出。

そんな中で劇場を造らねばならない兵士たち。

彼らを動かした思いはこうあります。

 

「我々は戦争中に多くの町を破壊した。

今度は誰かのために、新しいものをつくろう。

たとえどんな過酷な状況であろうとも、日本人としての誇りを失わずに

この地に世界一の劇場をつくるんだ」

 

やがて、出来上がった劇場は

威風堂々。それでいて繊細な彫刻のほどこされた外壁や内装。

ウズベキスタンの人たちは大喜びしたのだそうです。

(こういうところが、とても日本人らしいですよね。嬉しくなってしまうところです。

絶対に手を抜かない。たとえ「捕虜」という立場で「やらされている」ことであっても

「つくる」という行為自体への喜びや責任を感じ、それをつい形にしてしまう)

 

そして

この劇場のすごいところは、20年後の「タシケント大地震」で

あたりが瓦礫の山と化す中、他の、日本人が手掛けた建設物とともに

ビクともせずに現状を保っていたというところなのだそう。

ほんとうに、命を懸けて、良い仕事をみなさん、残してくださったのですね。

 

ナヴォイ劇場に掲げられた記念プレートにはこうあるのだそうです。

 

「1945年から1946年にかけて

極東から強制移送された数百名の日本国民が

この、アリシェル・ナヴォイ劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」

 

プレートの作成を指示したカリモフ大統領の

「日本人兵士たちは我々にとって恩人だ。間違っても『捕虜』などと書いてはいけないぞ」

 

という指示の通り

プレートには「日本国民」と刻まれている…。

 

 (「日本人の知らない日本がある~こころに残る現代史」より概要を抜粋)

 

「我々がこのプロジェクトを通して日本人から得たものは

資金援助や技術援助だけではない」

 

と言ったのは平成17年。インドの地下鉄公団の総裁。

 (麻生太郎 「とてつもない日本」 新潮新書 より)

 

「インドでは数時間遅れも日常茶飯事であり

数分の誤差で正確に動いているのは唯一、この地下鉄だけである。

これはすごいことだ」

 

 

日本のODAによってつくられたニューデリーの地下鉄。

日本の技術者によって

「時間通りに集合する」

「時間通りに運行する」

ストップウォ ッチを手に

淡々と、あたりまえのこととしてそれをする日本人技術者たちの姿を目の当たりに見、

訓練を受けたインドの技術者さんたち。

 

「我々がこのプロジェクトを通して日本人から得たものは

資金援助や技術援助だけではない。

 

むしろ最も影響を受けたのは

働くことについての価値観、労働の美徳だ。

労働に関する自分たちの価値観が、根底から覆された。

 

日本の文化そのものが、最大のプレゼントだった。

 

今、インドでは、この地下鉄を

『ベスト・アンバサダー』(最高の大使)と呼んでいる」

 

 

…何と、なんと嬉しい言葉なのでしょう。

 

「プレゼンス」とは

特別な行為や思考ではない。

ほんとうに、自分たちでは気づかない「普通に」「あたりまえにやってしまう」もの。

つまり

「細胞に、血となり肉となって、自然に染み込んでいる思考や行動』」なのだと思います。

だからこそ、

特別でないからこそ、

「よそゆき」でないからこそ

 

真に苦しいとき

危機が迫った時にも

ちゃんと発揮されるもの、なのだと思います。

震災の時の日本人しかり。

 

そして

私たちの先輩たちが

「ここぞ」というときに発揮した「民族としての特質」は

世界の人々を感動させ、尊敬されるものであったのだ、ということは

今を生きる私たちにとって、とても嬉しく誇らしいことなのではないでしょうか。

 

そしてまた

それを「引き継ぐ者」としての

矜持や責任をあらためて抱かせるものなのではないでしょうか。

それは

個々人のレベルを超えた

いかに生きるか、のしっかりとした「指針」「核」になってくれるものだと思います。

 

わたし自身

こういったこと

(わたしたちの先輩の「美しい姿」の面を)

ほとんど知らずに長いこと過ごしてきました。

今、自らの目で「情報を見直す」たくさんの機会を通して

バランスを取ってこの「日本という国」の姿を知ることが出来ていることを

本当によかったと思っています。

それは、

自分とは何か、を模索し始め

自分のよいところを発見し、認め

自分らしく、自分に誇りを持って生き始めることができるようになったプロセスと

しっかりと重なっている気がするからです。

 

わたしにとって

「自分自身の真の姿に目覚める旅」

「日本という国がまんべんなく照らされてゆく旅(自分が知らなかった日本の素晴らしい面に気づく旅)」

と無縁ではないと感じます。

 

自分自身で生きることを味わい、謳歌し

日本人であることの喜びを心から味わい、謳歌出来ている

この人生を、とても嬉しく感じています。

 

話が大きく広がってしまいました。

ソチ五輪。

各国の演技ももちろんですが

そこここから垣間見える

それぞれの国の誇りと矜持のあふれる表情やあり方そのものを味わえるいろいろな場面。

そんなところにも大きな醍醐味を感じつつ

観戦を楽しみにしているところです。

 

 

「私をお墓に連れてって♪」

 

春の研修、怒涛の波が終わり
ちょっと間が空いたので
旅に出てきました。
ま、旅といっても東京ですが。

もろもろの用を済ませ
会いたい人に会い、行きたいところに行き
最後の日。
ふと、鹿児島にいるときに、この人の終焉の地に行ってみたいなあ、と思っていたのを
思い出しました。

 

暗殺の舞台となった紀尾井坂。
それから、お墓はどこだっけ?
と調べてみると「青山霊園」。

「霊園のどこだろ…すぐ見つかるかな」

と思っていたんですが。
幸運にも、前日に知り合った「幕末・明治期偉人のお墓のエキスパート」
(とわたしが勝手に名づけました)
久保さんが、霊園を案内してくださることとなり
東京、最後の一日は、さんさんと降り注ぐ太陽の下
「霊園デート」としゃれ込むこととなったのでした。

結果、案内していただいてほんとによかった。
水先案内人がいなければ
多分一日、広大な霊園の中でわたしは路頭に迷っていたんではないでしょうか。
きっと飲み水も底をつき、疲れ果て
誰のものとも分からない巨大な墓石に寄りかかり
呆然と天を仰ぐことになっていたかもしれません。
と、
いうくらい青山霊園は広かった。

おかげで
約2時間という短時間で、効率よく、
それはたくさんのお墓にお参りすることができたのでした。

さあ
ここからは「THE お墓 TIMI」です。
延々と墓石の写真。単なる自己満足の画面が続きます。
(これでも、一部です)
何がすごいって、この石の下にみなさんいるんですよ。
ちゃんとこの下に眠ってらっしゃるんですよ。
すごくないですか!?

さて、はじまりはじまり。

有村次左衛門。
桜田門外の変、薩摩より唯一の参加にして
大老井伊直助の首を挙げた次左衛門。
鹿児島の護国神社に祀られている方、名簿の第一番目は確かこの方だったような。
うろ覚えですが。

川路良利。
先日、研修の際、鹿児島県警本部前の彼の像に大いに助けてもらったため、
恩義に感じてたところでした。

黒田清隆。
この人というと、いつも思い出すのは榎本武揚らの助命嘆願のために
なったという「丸坊主」の写真。

 

初代文部大臣、森有礼。
学生の頃、この人のレポートを書いて以来の対面です。
お懐かしい。

大河ドラマでも活躍中。
会津藩、秋月悌次郎。
明治になってからは、熊本の第五高等学校で先生をしていたことがあるのですよね。
親近感。
その時のエピソードなど…会津検定のときにたくさん本を読んだんですが
今や、うろ覚え。
やっぱり付け焼刃はダメですね。

 

長州藩。
周布政之助。
あまり詳しくないんですが、なんとなく好きな人。

旧幕臣、大鳥圭介。
戊辰戦争での
「また負けてしまったよ~(あっはっは)」
のイメージが真っ先に浮かんできます。
どこでこのイメージがついたんでしょう。

新選組隊士、
というより、御陵衛士と呼んだほうが
ご本人は本意なことでしょう。
篠原泰之進のお墓。
(相当感動。つい叫んでしまいました)
それにしても、薩摩、長州勢のお墓と比べて
なんとその小さいこと…。

佐賀藩
鍋島家11代当主、鍋島直大だったかな?のお墓。
土饅頭の形のお墓は始めて見ました。
(「右側の石碑ではなく、左側の土の山がお墓ですから!」と案内者、久保さんの念押し)
幕末の佐賀藩といえば「アームストロング砲」!しか思い出せない私です。
それにしても
お殿様たちのお墓だけあって、
隣の黒田家のお墓とともに、その面積の広いこと広いこと!
風格漂うお墓(というより小さな神社みたい)でした。

「フルベッキ写真」のフルベッキのお墓。
こんなところで出会えるとは…。

そしてこちらが

 

今回の目的
大久保利通のお墓です。
殿様である鍋島さまや黒田家の墓所ほどはありませんが
墓碑銘を刻んだ巨大な石を中心に
利通の墓石と、奥さんの満寿さんの墓石が向かい合って立つ
広大な敷地の墓所となっていました。
この墓石も、大きいのですよ。写真だとそう見えませんが。

左横には
暗殺時の御者だった若者の小さなお墓と、さらには馬車を曳いていた馬のお墓も。
鹿児島市の高見橋、生家跡地を向いて立つ
大久保の像。
風を受けてしっかと立つ大久保の姿をうつした
凛然とした像なんですが
その彼の足元にも、馬のレリーフが小さく刻んであります。
大久保、馬を大切にしていたんでしょうか。

わたしにとって
あまりにも身近で、小さいころから慣れ親しんできた
「偉人」大久保利通。
鹿児島では
子どものころから、西郷どんと共にあまりにも
うっとおしいくらい「プッシュ」されてきたその存在に
どうも客観的にその存在をはかることができないでいたのですが。

お墓に手を合わせ
墓標を見、そこにぐるりと刻まれた碑文に触れ
そしてあまりに立派な墓所の広さ、その大きさを肌で実感し。

幕府を倒して10年。
確かにそのとき、この国の頂点に立ち
すべてを背負って、走っていたのはこの人だったのだと
やっと実感したのでした。

「やっと10年」
まだまだこれからやらねばならぬことが山ほどある。
そんな中で命を落とすのは、どんなに無念だったことでしょう。

甲突川沿い。
彼の生家跡の大きな木々の下は、夏は涼しく、良い風が吹きます。
彼が生まれたときからそこにあったであろう
太い木々が今も木陰をつくって、ひととき、暑さを忘れます。
そこからはじまった彼の人生。
私の中で、やっとひと段落したような気分になりました。

おまけ。

東芝の創業者
「からくり儀右衛門」こと田中久重のお墓(これは墓石ではありません)
べっこう細工師の家に生まれながら
からくり人形から始まってからくり時計、無尽灯、万年時計、蒸気機関…
「東洋のエジソン」とも呼ばれたらしいです。
この方、「JIN」に出てきていましたよね。
仁先生が、未来から持ってきた豆電球を久重に渡す。
久重は「必ずこのような素晴らしいものを作って見せる」と誓う、
というような場面だったような。

激動の時代に
自分の本質(興味、関心)を存分に発揮し
「技術者魂」でもって世に貢献し、あらたしい道を切り開いていった田中さん。
侍だけでなく
こういう人も大好きです。

「日本を愛する乙女たち♪」

今朝
家の近くの小さな美容院から
一人のお年寄りが出てきました。

小柄な女性を包むのは黒の留袖と銀の帯。
何より美しかったのは、その表情でした。
右手で裾をさりげなく抑え
伏し目がちに、背筋を伸ばし歩いてゆくその表情には
つつましさの中にも嬉しさと、そして静かな誇らしさと…
そんな、言葉には出来ないたくさんの思いが溢れているように見えました。

すれ違った瞬間の光景でしたが
とても美しいものを見た気がしました。
きっと、大切な人の晴れの日なのでしょうね。
そして、和の正装とはいいものだな~、
姿かたちだけでなくわたしたち日本人の「あり方」の美しさを引き出すものだな、とも思えたのでした。

さて、本題です。
あちこち歴旅をして回っていますと
たくさんのお友達ができます。

 

わたしの行く場所や歴史のイベントは
とにかく年齢層が幅広いことが多く、場合によっては70代から10代までが「わっさ~」っと
一堂に会しています。実に壮観です。

和気藹々…
年齢も性別も仕事もなにもかもうっちゃって
語る姿を見ていると
「みんな、目が…目が…輝いてるよっ!」
と嬉しく思うわけです。

 

なので
年若いお友達もたくさんできます。
そして仕事柄か
そういう若い人たちを見るとつい寄って行き、ヒアリングしたくなるのは悪い癖です。

「ねえねえ、今日はどうしてここに??」

聞くと
興味を持ち、好きになったきっかけはほんとうに様々なのです。
昨年でしたか。
ある歴史イベントで

「古高命!」
(古高俊太郎です)

という、あまり見かけない女の子に会いましたが
聞けば、
『携帯ゲーム』の古高俊太郎がかっこよかった、というのがそのきっかけでした。
古高俊太郎といえば
「土蔵で拷問」
がすぐに思い浮かぶんですが、彼女曰はく

「その、拷問のシーンが、萌え~♪」

だったそうで(笑)。
件の携帯ゲームを見せてもらいましたが
それはそれはイケメンの古高俊太郎がカッコよく吊るされていましたっけ。
きっかけはそこですが、彼女がそこから読んでいる歴史関係の本は半端なく。

そういえば、さらに昔
「母成峠に行って来ました」
と切々と語ってくれた人がいましたが…確か埼玉の人でしたか。
彼女もきっかけは「ゲーム」でした。
が、その彼女がその旅に込めた思いや、母成峠で感じた感覚を聴くにつけ

「ゲームがきっかけで…そこまで行く!?」

と、その感受性の繊細さに「すごいな…」と思ったのでした。

さて
きっかけは何でもいいのです。
彼女たちは、彼女たちなりの出会い方で「先人たち」と出会い
その人生に触れ
彼らの足跡を追うことを始めます。

そして中には
自分なりの方法で踏み込み、世界を広げ
先人たちの残した思いやその根っこにある文化や精神を真剣に学び、汲み取ろうと…。
はては、彼らが残したものから繋がる「現在」について
思いをはせる子も少なくはありません。
「今、自分たちはちゃんと生きてるだろうか??」と
そんなことを、彼女らは案外真剣に考えてたりするのです。

「あなた達が築こうと思い描いていた日本とは違っているかもしれない、ごめんなさい。
でも、1日1日を必死に生きているから見守っていてくださいね。」

って思ってそこにいましたよ~、
と、ある旅先での湧き出づる思いを熱く文字にしてくれた女の子。

既成の概念ではなく
自分の感性と直観にしたがってそれらを追い求める彼らのエネルギーは
とても純粋なものに感じられます。
なんというか…自然発生的に生まれてくるそういうものって
強いな、と思います。
言葉足らずでうまく書けないんですが。

そして。
そんな友達の一人が
このたび赤ちゃんを産みました。
男の子です。
その子は、親の願いがこもった雄々しく美しい字を名前にもらいました。
彼女は凛、としてこういいます。

「日本男児として勇ましく育ち、世のため、人のために働いてくれますように!」

世のため。人のために…。
彼女からのメールを見て、なんというか、ワクワクしました。
こんなに真っ直ぐに言うんだな。
宣言するんだな。
彼女たちが育てる子どもたちは、どんな子に育つんだろう。
そう思いました。

学校の歴史の授業では手渡されることのなかった
日本人の生き様の美しさを、誇りを、矜持を「新しい形」で受け継いだ母親たち。
彼女たちが育てる子どもたちは
きっと、先人たちの存在に自然に感謝し
今の自分達よりずっとしっかり
自分の土台であるところの
この「日本」という国の根っこと繋がった
大人として育ってゆくのじゃないかな、と。

たかが
マンガにアニメにゲーム。
けれどされど、なのです。きっと。
昨今
戦国・幕末ともに歴史に関する
マンガ、ゲームにアニメと、とてもたくさんあるように思いますが
「日本人の集合無意識」というようなものがあるとすれば
これらもまた
それらの発露のような気がしてなりません。

「目覚めよ、日本の心」

それを
若い彼女らは何の掛け値もなく
どん、と受け取っているような気がしてならないのでした。

 

「日本の異分子『薩摩』」

先日
鹿児島市内のホテルで行われた
「鹿児島で日本の歴史を知る」

というテーマのシンポジウムに行ってきました。
「九州新幹線全線開業経済効果最大化プロジェクト」
という大きな看板の下がった事業の一環とか。
参加者は約300人。会場にひしめき合う人、人。
会場の色合いは「グレー」。
(スーツ姿が多かった、ということです)
観光に携わる方々の多いシンポジウムでした。

基調講演とパネルディスカッションのコーディネイターは
「逆説の日本史」の井沢元彦さん。

「薩摩は常に日本の中の異分子。異分子として活性化させる役割を担ってきた」

という視点を軸に、その
「異分子ぶり」
を神話の時代から明治まで、さまざまな角度からひもとく、という講演で
薩摩は農耕民族(大和)に追いやられた縄文人(狩猟民族)の
名残の文化を色濃く残している、ですとか
とても興味深いお話が盛りだくさん、でした。

例えば
鹿児島独特の教育システム「郷中教育」などは
狩猟民の学習の方法である、と。
(異年齢集団の中で、年長者のやり方を見て覚えていくという学び方)

そして
「血」や「肉」に対する考え方。

聞けば聞けば
思い当たることばかりで思わず笑ってしまいました。
わたしの家では小さいころ、お正月やお盆や、それから大切な来客があった時など
必ずと言っていいほど、家で飼っていた鶏を殺して(つぶして、と言ってました)
皆に供していたものでしたが
(来客にはしゃいで、家の裏にわ~い♪と走って行くと
白目をむいた鶏が、首から血を流してぶら~ん、と下がってましたっけ)

これなどは日本全体から見ると結構特異な風習なのだそう。
知らなかった…。
どこもそうだと思っていました。
狩猟民族の文化なのだそうです。

血や肉を「けがれ」とする「農耕文化」に対して
狩猟文化はそれを「神からいただいた聖なるもの」として扱っていたと。
東北だとドラマ「アテルイ伝」に出てきた「蝦夷」(えみし)たちがそれにあたるそうです。
そういえば
わたしの実家の地域にはばっちりあります。
史跡「熊襲(くまそ)穴」!
東北の蝦夷。九州の熊襲。
どちらも「征伐」された「原住民」。

何だか…どんどん記憶がよみがえってきました。
うちには所有の山があり、なおかつ父のお友達もなんだか同好の士?が多く
イノシシの肉、シカの肉…頻繁ではないですが
たまに食卓に乗っていたような。
そういえば、うちにはイノシシの頭蓋骨がありましたっけ。
父が「珍しい」と飾っていたんですが。
イノシシの肉、ハチの子、キツネやタヌキのはく製、何かの毛皮…
「またもって帰ってきた~」と思いながら
楽しさ半分、怖いもの見たさ半分で父に付き合ったものでした。

それからそれから…
干したマムシ!
S字型にうねうねっと湾曲した干からびたマムシが
太い串に刺されて台所の壁に「乾燥センブリ」と一緒にオブジェ化してましたっけ…。
うげ。
嫌なもんまで思い出してしまった(涙)
あれは怖かった。
とても怖かった。

父はその頃公務員でしたので
単なる「趣味」かと思っていましたが
今考えると、あれは全部父の身についた暮らしの「技」でした。多分。
井沢さん的に言うと、どう見ても思いっきり
「狩猟民族」の末裔としての風習。
そして、それを自分が全く受け継いでいない、というか
好きではなかったことも思い出します。


それらは消そうったって消しようがないくらい
わたしの血肉に刻み込まれていることも確かです。
(マムシはさすがに刻み込まれていませんが!)

今回は、思いもよらず
遠い遠い悠久の昔からの自分のルーツを垣間見ることができて
とても新鮮な驚きを感じています。
この発見、今のところ「だから何?」という感じなのですが
少し自分の中で遊ばせておこうかなあと思っているところです。
何か、新しい発見や気づきにつながったり
ふつふつと面白い何かが醸成されてくるような気がしています。

さて、このシンポジウム。

「いつの時代も日本の異分子であった薩摩」

がこれから、どんな個性を、特徴を発揮して躍動してゆけるのか
この国に影響を与えてゆけるのか、ということがテーマだったのですが

集まった300人の「縄文人の血を受け継ぐ人々」の中に
どんな波紋を投げかけたのか
皆さんの中で何が醸成されてくるのか
何だかとても楽しみです。
決して

「薩摩の気骨、才能(異分子パワー)は西南戦争で死に絶えた」
(と、パネリストのお一人がおっしゃってました)

なんてことで
あってほしくはないものです。

「日本人ブランド」

 

ひさしぶりに

大泣きしながら本を読みました。カフェで。

 

「人生に悩んだら『日本史』に聞こう~幸せの種は歴史の中にある」 

                  (白駒妃登美&ひすいこたろう  祥伝社)

 

白駒妃登美(しらこま ひとみ)さんとは

一度だけお目にかかったことがあります。

妃登美さんが鹿児島にいらした際、市内の史跡をちょこっと案内させていただいたことがあるのです。

島津斉彬公が祀られている照国神社。

西郷隆盛をはじめ、西南の役で亡くなった西郷軍のお墓がある南洲神社。

 

ま、「案内」と、言っても

ずっとずっと妃登美さんのほうが詳しくていらっしゃいましたけれどね(笑)。

 

私も歴史が好きで

特に幕末~明治は外せないのですが

その中で、どうも「薩摩の歴史」が苦手です。薩摩人でありながら。

 

小さいころに学校で、

郷土教育資料「薩摩の偉人達」をさんざん読まされたからか

父親が西郷隆盛大好きだったからか

とにかく、小さいころからあまりに身近に、空気のようにそこにあったので

客観的にそのすごさ、素晴らしさ、魅力をを感じることができないでいたのです。

西郷さんも大久保利通も、その存在は「近所のおじさん」。

どうもきらめかない。ときめかない。

もしくは

まるで「道徳の本」を読んでいるような感覚で。

(「いい人、すごい人ですね~」で終わり)

 

幕末の薩摩の動きを頭に入れようと思ったら、会津藩とか、あっちのほうの年表に

頭の中で変換して照らし合わせていました。

 

さて

そんなわたしに、あらためて薩摩の魅力に目を開かせるきっかけを作ってくれたのが

白駒妃登美さんです。

目を輝かせて南洲神社でお汁粉(だったか?)を食べながら

よく響くアルトの声で

「西郷隆盛の逸話」をいきいきと語ってくださいました。

 

郷土教育教材ではなく

その人を心から愛する人の口から語られるストーリーは

同じ話であっても、こんなにも変わるものなのか。

血肉の通ったものとなるのか、と感じた瞬間でした。

その時はじめてわたしは「西郷ドン、かわいい…かも♪」と思ったのです。

 

さて

その白駒さんが「日本人のDNA」について書いたのがこの本。

わたしたちの先を生きたたくさんの「先輩」(とあえて呼びましょう)たちが

どのようにクリエイティブに、元気に、粋に、豊かに、そして美しく、まっすぐに

「日本人らしく」生きたのかが書かれています。

豊臣秀吉

伊能忠敬

島津斉彬

北里柴三郎

小栗上野介

そして、その「日本人らしさ」が

どれだけ外国を含めた周囲の人たちの心を打ち、尊敬を勝ち得

人々との絆を深め

それが今に続いているのか。

 

「私は、航空会社に勤務していた頃、仕事や旅行で海外のさまざまな街を訪れましたが、

そのたびに、『日本人ブランド』を感じていました。

『日本人だから』という理由だけで、

信用してもらえたり、とても親切にしていただきました。

それは、先人たちの素晴らしい生き方に、世界中の人々が共感してくれていることから

きていたと思います。」   (by妃登美さん)

 

本文通中に紹介されている詩人クローデルの言葉。

(大正10年から昭和2年まで駐日フランス大使を務めた人だそう)

 

「日本人は貧しい。しかし高貴だ。

世界でただ一つ、どうしても生き残ってほしい民族を挙げるとしたらそれは日本人だ」

 

こう言わしめた私たちの先人たち。 

そして、私たちの中に、その遺伝子はあるはずなのです。確実に。

先人の残してくれた「遺産」を

使っていくだけでなく

それを受け継ぎ、現代に生きる日本人として

日々

その生き方を今こそ「発信」していかなければならないのだろう

と感じています。

 

心ふるえる先人たちの生きざまは

どうぞ本にて!出会ってください!

 

「妙教寺の砲弾」

 

先日行った妙教寺の事を書きます。

 

妙教寺は1868年の鳥羽伏見の戦いの際

新政府軍と幕府軍の戦の中で「弾丸雨のごとくあつまる」中で

その姿を今に残しているお寺です。

 

当時の就職さんの手記や

お寺に飛び込んできた砲弾が壁をぶち抜き、まっすぐ柱をぶちぬいたその跡が

そのままに残っています。

 

中村公子のコーチングna日々♪

これは

そのときの砲弾。

レプリカではありません。本物です。

大砲は四斤山砲。

 

「仏式四斤山砲」

山岳地帯に適した大砲で

分解すれば馬2頭で運べるというところが

当時、山道が多く、道路事情があまりよくなかった日本に

適していたのだそう。

(と、「武器と防具・幕末編」に書いてありました)

 

「四斤山砲」って

名前はよく聞くけれど、本当に使っていたんだなあ…(感動)

ざらっとした鉄の感触。重いです。

(約4キロ)

当たり前ですけれど、前出の本に載っていた『四斤山砲の砲弾』

の図と全く同じです。

 

中村公子のコーチングna日々♪

 

これは

境内の梵鐘にあたった銃の弾。

 

きっと、カンカンといい音をたてたことでしょうね。

もっとも当時の住職さんは

「鍋を頭にかぶって」お寺を守るということになったらしいですが。

 

このとき、ご住職は三十三歳。

後世に語り継ごうと、このようなものをお作りになりました。

弾が打ち抜いた柱の補強材の裏に刻んだ「その時」の記録。

柱の傷が他者の目に触れるたび、必ずこの記録も共に目に触れるという工夫をなさったのです。

 

中村公子のコーチングna日々♪

 

「明治元年正月四日幕軍は官軍を小橋の畔に拒ぐ。

銃丸雨の如くことごとくこの寺に集まる。

障壁什器一としてあたらざるなし。

犬猫驚き走り身のおく所なし。

中に巨砲ありて勢迅雷の如く、天地に響動す。

その丸は鐘の如し。

誤ってこの柱を洞ぬき、玄関の屋隅をおかしやぶって止む。

人来り伝え観るに驚き以って胆を破る。

その後此の柱は新造を加えず、全く其の跡を存ち

以って後世伝説の証とする。

嗚呼、危うかりし哉。    妙教寺日祥誌るす」

 

「嗚呼、危うかりし哉」

の一言に、ご住職のため息が聞こえてきそうな気がします。

そして、毎年お墓参りをするようにと言い残された。

 

このあたりには

道すがらに墓石というか、慰霊碑が点在しています。

それはそのまま、敗走する幕軍と追う新政府軍の戦いの道筋をあらわしています。

当時は、累々たる屍の列、だったのでしょう。

 

ちなみに以前、「首はどこへ行った」 で書いた

新選組の井上源三郎の甥、泰助くん十二歳が、おじの源三郎さんの首と刀を持って敗走したのも

このあたりになります。

新選組が陣を張ったと伝えられる千両松から「首を埋めた」とつたえられるうどんやさん

(当時は欣浄寺というお寺)まで確認してみると結構な距離です。

この距離を、走ったのか…首を抱えて。

さて

妙教寺のご住職さんは戦の時代から数えて四代目。

幼いころは、冬のさ中、点在する墓所を徒歩で墓参させられるのが嫌でたまらなかったそうです。

(鳥羽伏見の戦いは新暦でいうと2月のはじめくらいになります)

 

そうおっしゃるお声を聞きながらつい

 

「ありがとうございます」

 

と。

 

残してくれている人たち、語り継いでくれている人たちがいるから

こうして思いを馳せることができる。

手にとって、肌で感じることが出来る。

 

それらを通して

忘れないこと。

そこから知ること、学ぶこと。

精一杯生きて、それぞれ何かを残そうとしてくれた人たちに、その思いに感謝すること。

そしてそれを今に生かすこと。

それが、何より「彼ら」が喜ぶこと、報われることな気がしました。

 

歴代のご住職さん

そして、多くの、あちこちで「語り継ぎ、受け継いで」下さっている方々

本当にありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「龍馬の坂道」

 

中村公子のコーチングna日々♪
がですね

あるのですよ。

 

先週

所用で実家に帰り

「霧島市牧園」にある

 

「龍馬公園」

と今回名称の変わった「塩浸温泉」にたちよりました。

なぜかというと

ここに

 

 

「この世の外」という名称の

(龍馬が手紙で、霧島のことをそう書いたらしい)

 

 

とてもとてもかわいらしい「プチ大河ドラマ館」が

できたからなのです。

(塩浸温泉は、龍馬が湯治をした温泉です

今も、その源泉から出る温泉に入ることが出来ます)

 

さて

その「やかた」の話はさておき、今日は以前から気になっていた

その「やかた」の背後に切り立つ深々とした山にある「道」の話です。

 

今、この温泉の前を通っている国道226号線は、もちろん幕末はなかったものなのですが

この、温泉の背後の山。小さい頃からここを通るたびに見上げてきたこの山は、見るからに「古そう」で

この景色は、絶対に150年前から変わっていないだろうな…という感じの山なのです。

露出した岩盤とうっそうとした木々の間を、ほそい坂道が上に向かって

ジグザグに走っています。

 

ためしに上ってみました。

(この町の町民として生を受け約40年…いつも前は通っていましたが、上ってみるのは初です)

 

中村公子のコーチングna日々♪

この石段の上には

小さなふるい祠があります。

「天保九年」と書いてあるようにも読めるんですが…

(自信はないので信じないように)

 

それはそれは風情のある坂道です。

 

下の温泉に戻ってから

「霧島龍馬会」の池田さんとおっしゃる方にお尋ねしてみました。

 

すると、この道をとおって

龍馬とお龍さんが

「犬養の滝」だったかに行ったのだそうです。(和気神社だったかな?)当時はこれしか道がなかったそうなので。

 

へえ、すごい。

そんな道、地元民なのに知りませんでした。一度もあるいたことすらない。

(なんてもったいない)

 

この温泉に二人がいた時期は結構長かったので

この坂道を、二人は頻繁にあるいたのではないか、と思うのですよね。

 

中村公子のコーチングna日々♪

龍馬目線で

温泉を見下ろすと、こう。

 

さて

この、龍馬とお龍さんがとおった道

今は通れないのですって!

途中でゆきどまっているらしい。

もったいない。なんてもったいない。

 

「土佐の龍馬脱藩の道」みたいに

なりますよきっと!開通させてくださいな!

 

と、龍馬会の池田さんに熱くお願いしてみました。

 

 

みなさま

鹿児島での龍馬の足跡を追われる場合は

塩浸温泉、一番のみどころはこの「裏山に続く坂道」ですから。

ぜひ、お見逃しなく!

 

この、古式ゆかしい坂道の風情をぜひ、味わってくださいね。

 

「龍馬夢枕に立つの話」

 

 

松平定知氏の講演を聴きに行きました。

テーマは「龍馬の新婚旅行」。

 

研修でお世話になっている新聞社の販売局のとある方から

「先生、確か幕末がお好きでしたよね」

という丁寧なメールとともに、お知らせをいただいたのです。

最近お目にかかっていなかったのですが、こうして覚えていて

メールをくださるそのお気持ちに感動しつつも

 

「この方まで知っていらっしゃるなんて、わたし、そんなに『幕末幕末』って騒いでいるのかなあ…」

 

とちょっと恥ずかしい思いをしつつ^^;

でも、楽しみに今日を迎えたのでした。

 

「歴史秘話ヒストリア」も好きですが「そのとき歴史は動いた」も好きでしたので

「うわあ~松平さん、本物だあ」と俗なことを喜びつつ、講演ははじまりました。

 

さて

確かに幕末は好きなのですが、そんなに系統立てて知識を得ているわけでもなく

龍馬のことは詳しくないので、とても興味深くお話を聞きました。

(松平さんがお話しになると、ものすごく複雑なつながりのあれやこれやが

なんでもないことのように紐解かれる感じがするのが不思議です。

そう、まるで「そのとき歴史は動いた」を見ているよう)

 

そして、その中で「へえ~!」と思ったのが

「龍馬。夢枕に立つ」のお話。

これは有名なお話なのですね。

以下、松平さんのお話。

(正確には「司馬遼太郎によると」ということですが)

 

「明治人は、龍馬を知らなかった。明治37年までは。

 

当時、日本人は「恐露病」であった。

そして明治37年2月、ロシアとの国交断絶の御前会議。

 

2月6日、昭憲皇太后の夢枕に、白装束の武士が立ち

『私は坂本龍馬と申すもの。今から三十数年前、奮闘したものにて

身は死んでしまったが、魂は日本を守る』

と言った。

皇太后は側近の香川敬三に

(←この人は確か、近藤勇を捕らえた人ではなかったですか??偉くなったんですね【中村注】)

『坂本龍馬を知っているか』と尋ねた。

 

翌、2月7日も、また同じ夢を見た皇太后は再度『龍馬のことを知りたい』と香川敬三に言った。

香川は宮内大臣の田中光顕(元陸援隊副隊長)にこのことを伝えた。

田中光顕は龍馬の写真を渡した。

皇太后はその写真を見て「この人だ」と言った。

 

この出来事は『皇后の奇夢』として新聞に載った。

わが国には守護神がいるぞ!ということになり、盛り上がった。

おりしも、東郷平八郎がバルチック艦隊を破り、龍馬人気は湧き上がり、そのまま龍馬伝まで続く」

 

 

龍馬、すごい!!そんなにニッポン国のことを!

なんだか龍馬のキャラではないような気もしますが…。

 

そしてさらにこの話は

「薩長土肥」の中で圧倒的に多い勢力の薩長に対抗する田中光顕(土佐)の

「起死回生」の作り話である、との話もあると続きます。

田中さんは昭和まで生きた方で、死ぬまで「あの話は本当だ」と言っていたらしいですが。

 

 

歴史とは面白いものですね。

上のお話の真偽さておいて

歴史とは

私たちが知らないところで、いろいろな、いろいろなことがたくさんあって

そして、最終的に、誰かが意図して表面に表出させて「表現」しているものを

私たちは「歴史」として受け取っているんだろうなあと、そんなことを思いました。

(はい、これをわが国の「歴史」としますのでよろしく!みたいに)

松平さんもおっしゃっていました。

「勝者の歴史」が累々と続いていく。勝者が自分たちの正義を残すのであり、正誤を論じるのは意味がない、と。

 

さて

最後に「うわあ、この方は本当に歴史が好きなんだなあ」と感じた言葉を(ざっとですけど)。

 

 

「今日の話には、私見が入っているが

歴史とは、そういう見方でよいのではないか。

エビデンスを並べつつも類推する。既成の歴史を自分の中に近づける。

歴史は無機物ではない。数字と出来事を知ることが歴史好きということなのではない。

 

歴史とは、斬れば血の流れる人間の汗や、喜びや、悲しみであり

人がどうその歴史に対峙したかなのだ」

 

さりげなくエンディングにはいり

ぐん、とリズムが高まっていく最後の2行

その静かに熱い語り口調の、あの独特のリズムについ乗せられて

「そうそう、そうなんだよね!」と周りよりもちょっと熱い拍手をしてしまったことでした。

 

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