「なぜコンビニの前に座っていてはいけないのか」を子どもになんと説明するか

 

 

 

 

 

 

つい最近、(誰かの記事だったか、動画だったかで)見たのですよね。

 

コンビニ前や駅の構内で、
地面にペタッと座って飲食している子達がいたとして、

「草っぱらなんかでもじかに座る。どうしてここだといけないの?」

と問われたら、なんと答えるか、と。

 

 

で、その記事だったか、動画だったか…に、こういうコメントが。

「コンビニや駅の構内だと、
公衆トイレなどに行って、みんなそのまま歩いているから汚い。
なのでダメ、と子どもには教えています」

 

 

 

本当にその通り。
けれどでは、そこがもし、ピカピカの床で、
絶対に菌やウイルスの入り込む余地のない場所だったら
座ってもいい、

ということになるのかしらん、と。

 

 

 

 

で、わたしの率直な感想は、

「理由が…いるか?」

でした。

 

 

 

 

なんというか。

「理論」。「理屈」。
よく言われる「エビデンスは何ですか?」的な。
それがないものは存在の余地なし、みたいな昨今。

 

 

そんなものは全然「通って」いなくとも、

 

「とにかく良くないの」
「それは美しくないの」

 

という精神はもはや通用しないのかしら、と。
(お天道様が見ているから、的なですね)

 

 

 

 

 

 

 

知人が「今、仏教と神道の本を読んでいます」
と。

 

 

「自分たちはどうも、以前であればあれば自然と
『もらって』(受け継いで)
きたものを上の世代からもらえていないんじゃないか、という感覚があり」

 

 

 

 

ということなんだそうで。
(わたしから見ますと、その方、全くもって、そうは思わないんですけどね)

 

 

 

で、
ご自身の子どもに何を手渡すのか、にあたって、

 

「では、自分で再度見つけるしかないか」

 

と。

 

もらえていない、受け継いでいない、どこかで断絶している、のならば、
自分で知り、取捨選択をし、
自分で再編し直さねばならない、

 

 

 

 

と思ったのだそう。

そのためには知識が必要。

 

 

 

「根っこ」を知ることが。
揺るがぬ「根っこ」。
「真善美の根っこ」を知り直す必要がある、出逢い直す必要がある。

 

 

 

それはなんだろう??
と考え、「仏教」「神道」というものにも触れてみよう、
と思ったんだそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

これまでも何度か書いていますが。

「根っこ」を知らないもの、
根っこと繋がっていないもの、は弱いですね。
(基本・土台・型がないものは、とも言える)

 

 

 

とうとうと流れる時の中で、
自然と形作られてきた「道理」を無視して作ったものは、
どんなに「いい方法だ」と思った仕組みや考え方でも、
数年経つと、目まぐるしく変わる時の中で、
瞬く間に「合わないもの」「使えないもの」になっている感じがします。
(「時代の徒花」で笑いで済めばいいんですけど)

 

 

 

 

 

わたし達は今、大きな渦の中で、
何を信じていいかわからない。
何を支柱として生きていいかわからない。
だから、

 

 

「(有名な)この人が言っている」
「これが流行っている」
「みんながこうしている」
「『成功』している人がこうやっている」

 

 

を追いかけ、
追い求め、
右往左往している。

(この状態、「精神的孤児」という言葉で、以前書きましたが)

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、わたしたちが、
「正しい」「これが当たり前」「ずっとこうしてきた」
と思っていることも、歴史を辿れば、
戦後ほんの80年でできた「常識」であったり、
わずか160年前には全く違っていた、ということも多々あるわけで。

 

 

 

 

 

先に書いた知人が、
「わたしたち日本人を形作ってきたもの」
(自然、風土に自然と育まれてきた文化、価値観、身体観)

 

 

の源流を求めて仏教と神道の本も読んでみよう、と思った(切なる)氣持ち
わかるなあ、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

彼は、感じたのだろうと。
わたしたちが「こうだ」と思い込んできたことは、
案外「そうじゃないものもある」ということに。
ぐらり、足元が揺れ。

 

 

 

 

そして彼はきっと思ったのです。
自分の子どもたちを「孤児」にしたくないと。
デラシネ(根無し草)にしたくない。

 

 

 

 

たとえ世の中がどんなに渦巻いていたとしても、
自分の足で立って。

 

 

他者の作った真実ではない、自分の真実を。
「自分にとっての真の幸せ」を、
(それは自身の心にも身体にも至極自然で心地よく、なおかつ、
世界と自然に調和したものだと思うのですが)

 

 

生きる人になってほしいと思ったのだと思います。

 

 

 

 

 

 

決して色褪せない「根っこ」を。美しさを。
幸せに生き抜く力を、

 

子どもたちの身のうちにすっくと、しなやかに
立ち上げてあげたかったのかなと思います。
(本当に、何よりの宝だと思うんですよね)

 

 

 

 

 

 

※写真は、わたしの部屋の紫陽花です。愛おしきかな😍

 

 

 

 

「どうする家康」。時代考証グッジョブ!(ナンバ走りに萌えた夜)

 

 

 

 

 

 

昨日の「どうする家康」。

女の子(阿月ちゃん)爆走の回。

 

 

 

時代もので走る場面で、100M走の走り(現代の走り方)で
思いっきり全力疾走するのがいつも違和感だったのですが、
昨日はちゃんと「ナンバ走り」でした♪

 

(手を身体の横で上げ下げして、変な走り方だなあと思った人も多いのでは。

ちなみにあれが本当にそのまんま、当時の通りなのか、

もちろんわたしにはわからないのですが)

 

 

 

 

 

 

以前、この「ナンバ走り指導」の方の動画を見て
「ナンバ走り」を習得しようとしたことがあるんですが、なかなか難しくて。
(ナンバの動きを日々の動きに取り入れられると身体が楽で効率的、と聞き)

 

 

 

 

 

 

 

 

(動画はこちら)

https://www.youtube.com/watch?v=G29X8CBlzBs

 

 

 

 

昨日、確かにこの走りでしたよね。

 

 

 

 

子どもたちも、役者さんも頑張ってたなあと。
(こういう細かい考証が地味に嬉しい)

 

 

 

 

 

 

 

*  *  *  *  *

 

 

「日本に「西洋の動き」(運動・体育)が入ってきたのは、
幕末。
幕府によるフランス軍事顧問団の招聘による。

 

 

 

 

明治以前、日本人には
身体と心を分けるという概念がなかった。
(「カラダ」は死体のことで、
生きているこの身体は「み(身)」と言った。

 

 

 

それから約160年。
生活様式の変化とともに、わたしたち日本人は
「日本人の伝統的身体」「身体技術」
というべきものを忘れ去りつつある。

 

 

そして、
身体は「もの」として扱われ、
「ここを5センチ細く」
と…
自分の身体をモノとして
(商品のように)
「評価する」ようになった。

 

 

 

 

身体と心、精神はつながっている。
身体技術が受け継がれないと、
精神も受け継がれない。
(それを「感じたことがない」「感じられない」わけなので、本質は伝わらない)

 

 

160センチに満たない身体で
40キロのセメント袋(当時は重かった!今は25キロらしい)
を担いで軽々と山道を登っていた父の
腰肚を要とした使い方、腰の座り具合、力の出し方。
足のひかがみ(膝裏)の使い方等々…

弟には受け継がれていない。
(もちろんわたしにも)

 

 

 

 

 

日本人はどこへいくのか?」

 

 

 

 

 

 

*  *  *  *  *

 

 

 

 

昨年春のわたしのセミナー
「日本人の身体と精神と言葉の話
ーわたしたちはどこへ行こうとしているのか?ー」

 

からちょっと抜粋してみました。

 

 

 

 

 

 

「繋がる」ことは強くなることー25回俳句甲子園最優秀句は「鬼の末裔」の句

 

 

 

 

 

先日の仙台育英の日本一に続いて、

「第25回俳句甲子園」の最優秀賞に、岩手の高校生の句が選ばれました。

(東北地方の生徒が一位になるのは、これまた「初」であるらしい)

1280句の頂点。

 

こちらが詳しい記事(岩手日日新聞)

 

 

その句がすごいのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

『草いきれ吸って私は鬼の裔(すえ)』

 

 

 

 

 

 

 

 

裔(すえ)、というのは文字通り「末裔」ということですね。

 

前回の記事、仙台育英優勝の際は、幕末以降の東北の歴史について、

ちらっと引用させてもらいましたが、

 

 

「白河の関を越える」の意味

 

 

 

 

 

この句は、

東北の「蝦夷(えみし)」たちが、中央政府から「鬼」と呼ばれ、

戦い、最終的に討伐された、

はるか彼方の歴史に想いを馳せているわけです。

 

 

 

なんて、なんて力強い句なんだろう、と。

(聞いたとき、ちょっとゾクッとしたんでした)

 

 

 

 

 

 

「わたしは『鬼』の末裔」。

 

 

 

 

 

 

自分たちの「系譜」への誇り。

自分たちの歴史と文化への誇り。

自分たちの祖先がたどり、生き抜いてきた、

いわば「苦渋の歴史」への肯定と誇り。

悲しみと、強さ。

それを自分もしっかりと受け継いでいるのだ、という。

 

 

とにかく、すごい句だなあと。

 

 

 

 

 

 

 

岩手、俳句、そして「草」といえば、芭蕉の有名な句

「夏草やつはものどもが夢のあと」

が思い出されます。

 

 

 

 

 

茂る夏草の中に立って、

むせかえるような草いきれを浴びながら、

芭蕉は往時の兵(つはもの)たちの栄枯盛衰に想いを馳せ、嘆じたわけですが。

(芭蕉が思い浮かべたのは奥州藤原氏や義経のことだったかと)

 

 

 

 

 

この句からは、

かつての歴史に「想いを馳せる」だけではない、

両足をぐんと踏ん張って先祖からの土地にすっくと立って、

「草いきれ」からエネルギーをもらっているような。

力強さと背筋の伸びるような感覚を感じます。

 

 

誇り高い句。

そして思うのです。

繋がることは、強くなること、深くなること、大きくなること、豊かになること、なのだと。

 

 

 

 

 

 

 

ということで、「白河の関の優勝旗越え」につづき、「奥州、来てます!」

のお話でした。

(興味があるのですよね。蝦夷とか、アテルイの話とか。

で、ちょっと盛り上がってしまいました)

 

 

 

 

 

 

「白河の関を越える」の意味

 

 

 

 

 

 

今日から連続2回、歴史話です。

 

 

 

 

先週の高校野球。決勝戦。

仙台育英と下関国際の試合が決まったとき、

 

「長州VS東北勢じゃん!」

 

と、下記マンガのように

(幕末好きの「幕女」の生態を描いた「萌えよ幕末女子!」より)

一人小さく盛り上がっていたんでした。

 

 

 

 

 

 

そして、それは参加している「幕末ファンサイト」

(というFacebookグループがあるんですが)

も同じで、みなさんが節度を持って静かに「盛り上がって」いました。

 

(何せ、150年かそこらのこと。

自分の高祖父、その前…と案外リアルに結びついているわけで)

 

 

 

 

 

 

そこに、東北方面の人たちが色々とアップしてくれていたので、

シェアしてみます。

 

 

 

*  *  *  *

 

 

「白河の関越え」が特別なのは、

 

●「白河以北一山百文(しらかわいほく ひとやまひゃくもん)」

という言葉があったから。

 

戊辰戦争以降、勝った西軍(新政府軍とも言う。薩長土肥ね)に、

「白河より北の地は、一山百文にしかならない価値のない土地ばかり」

と言われ、蔑まれていた。

(うん、これは知ってた)

 

 

 

●東北の新聞「河北新報」の名は、ここから来ている。

(すごいところから名前を持ってきたもんだ。反骨精神)

 

 

 

●東北初の宰相、原敬の号「一山」もここから来ている。

(号にすることで、この言葉に生涯反発心を示していたらしい)

 

 

 

 

そのほか、盛り上がっていたこと。

 

 

●仙台育英には、あの県からもこの県からも選手が来ているから、

これはまさに「奥羽越列藩同盟じゃないか!」と喜んでいる人が。

(さすが、現地の人は詳しい)

 

●仙台育英の創設者は、実は会津の人!会津若松出身の加藤利吉。

(ますます胸熱です✨)

 

●仙台育英の凱旋日が、「白虎隊の日」だったらしい。

(しみじみ感動している人が…)

 

●下関国際の投手「なかい君」が高杉晋作に似ている❗️

(そう言われれば…目元と顔の形、かな?)

 

 

 

*  *  *  *

 

 

 

わたし自身、幕末は特に好きなので、

百五十年前の戊辰戦争の東軍と西軍の戦いで、

東軍がどんな思いをしたか、「知っている」つもりだったんですが、

 

 

 

それでも、鹿児島生まれの鹿児島育ち。

「肌感覚」ではわかることのできない感情。

長いこと、さまざまな出来事があって、

その瞬間瞬間にさまざまな思いを味わい、

それの連続で今がある、東北の人たちの思いというものがあるということを、

知った今回でした。

 

 

やはり、そこでずっと生きていきた人たちの「生の声」というものを知る、聞くということは、大切ですね。

 

 

 

 

 

 

 

ということで。

 

 

仙台育英高校の皆さん、優勝本当におめでとうございます。

長い間の思い叶って白河の関を超えた優勝旗、

本当によかったです❗️

 

宮城の皆さん。

東北の皆さん、本当におめでとうございます。

 

 

 

下関国際高校の皆さん、準優勝おめでとうございます。

熱い試合を見せてくれて本当にありがとう。

あ~、

今年の甲子園は熱かったです。

 

 

 

 

薩摩の歴女コーチ、中村公子の「幕末を舞台とした作品を作りたいクリエーターのための薩摩ことば講座」

 

というものを作ったのですけれどね。

 

(下記をクリックすると、上のページに飛んで、聴くことができます)

https://www.facebook.com/100000890699129/videos/922053405158505/

 

 

 

 

 

きっかけは、

Facebook上の知人(歴史漫画家でイラストレーターさん)から、

 

「西南戦争のこういう場面で薩軍の兵士にこういう意味のことを喋らせたいんだけど、

薩摩ことばではどのように言いますか?

セリフと、イントネーションを教えてください」

 

 

とお願いされたことで。

 

 

 

 

 

上の動画(音声のみですけれど)でも話していますが、

「鹿児島弁」というのは本当に難しい。

 

 

幕末もののドラマでは必ずといっていいほど出てくる言葉ですが、

実は、完璧に使いこなせている俳優さんはとても少ない。

(他の県の人は氣づかない&どうでもいいところでしょうけど、

鹿児島県民にとっては「冷める」こと甚だしい)

 

 

 

 

そんなこんなで、上記を作るに至ったわけなのです。

(ただイントネーションを録音して渡すのでは面白くないので、

「番組風」にしてみたのでした)

 

 

 

 

 

 

で、ついでにFacebookにアップしてみたところ、これが、意外と評判がいい。

しかも、鹿児島県民に。

 

 

「ウケる〜」

「最高〜!」

 

 

などと言いながら、みんな、総じて妙に「上機嫌」で、

「次回作を待つ!」

 

 

といった反応。

(真面目な語学番組を装いつつ、

薩摩ことばをいわゆる「ディスる」ようなニュアンスも結構入ってしまっている氣もするんですが。

明らかにそこも含めて「喜んでいる」感じが)

 

 

 

 

 

 

日頃、あまりにも当たり前にそこにある、どっぷりと浸っている

「自分たちの言語」を客観的に、

 

「外から見る」

 

機会というのは、なかなかに面白かったり、嬉しかったりするものなのかもしれない、

と思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

「あなたたちとは、このようなものなのだ」。

「あなたたちとは、このような存在なのだ」。

 

 

 

言葉や文化に関して触れる、論じるということは、

つまり「自分とは(自分たちとは)何者か?」

という、土台(ルーツ)に直面するということでもあります。

 

 

 

 

 

鹿児島弁。

明らかに、国中の、どこの言葉ともあまりに違いすぎる、奇々怪界なイントネーション。

多用される「詰まる音」。

速度も速い。(とても早口な言語だと思います)

 

 

 

 

 

この言葉ができたプロセス。

この言葉を生み出すに至った風土。

民族性。

(なんというか、暑苦しいんですよね無駄に。繊細さを感じないと言いますか。

それに、南国だからか?真ん中に火を吹く山があるからか?

身体の中から湧き出るようなリズムも感じます)

 

 

 

 

そんなものを、この言葉に向き合うと、想像し、

また、しみじみと感じてしまいます。

 

そして、そんなことを思いつつ「切り取った」この言葉の断片を、

わたしの知人の鹿児島県民たちも、総じてお気に召したようで。

(どうしてでしょうねえ・笑)

 

 

 

 

 

鹿児島の人も、そうでない人も。

幕末好きも、そうでない人も。

興味ある方はぜひ、お聴きください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

史跡は息をしている~鹿児島市鶴丸城「御楼門」復元に思う

~~~ワークショップのご案内~~~

 

「人とスムーズに会話するには?」

「上手に人と付き合うには?」

 

よく聞かれる質問です。

ハウツー的な回答はきっといろいろあるのでしょうが、

いわゆる「円滑なコミュニケーション」の根っこには「身体のセンス」の有り無し、が

しっかりと横たわっています。

 

「sense(感覚)」=ある物事への感度のよさ。

 

目には見えないけれど、人と人、集団の間に流れている「何か」。

それを含めたコミュニケーション空間をわたしたちは「場」と呼び

「場を読む」「場の空氣」などと表してきました。

 

大切なのは、それは決して頭で捉えられるものではない、ということです。

それらは「身体のセンサー」の役割です。

 

 

情報過多。

ともすれば飲み込まれがちな、変化の大きく速いこの時代。

今、私たちが大切にすべきは、どうもそのあたりにあるように思えてなりません。

 

思考のみではなく「身体の感覚」を磨く。揺り起こす。

頭だけではなく、身体全身で世界とかかわる。

そこにこそ、リラックスした、そして何より人間らしい、自分らしいあり方、

生き方の種もあることでしょう。

 

 

●「春を言祝ぐ聲のワークショップinきよらの杜」  4月23日 鹿児島・いちき串木野市

 詳しくはこちらへ

●「身体が目覚める、五感が目覚める~自分とつながるワークショップinみたか井心亭」

 詳しくはこちらへ                             5月13日 東京・三鷹市

 

 

 

 

 

桜の季節。

毎年楽しみにしている鹿児島市の歴史資料館「黎明館」~旧鶴丸城、

の桜の古木たち。

石垣の外から見ただけなのですが

あきらかに本数が減っている。

 

「御楼門」の復元にともなって

切られたのだろう、と想像するわけです。

 

 

 

石垣に向かって左側。

県立図書館と黎明館をつなぐ階段の横に

古い石の階段があったのですが

昨日見てみると、取り外され、薄グレーのセメントの跡も鮮やかに

塗りつぶされ、平面になっていました。

そして正面。

 

 

すっきりさっぱり、しらじらとした石の色がやけに目立つ。

ここは

西南戦争の弾の痕跡に時間とともに折り重なった苔の陰影が美しく。

「重ねてきた年月」の息遣いに

当時をしのびつつ

しみじみとした心持で立つ場所だったんですが。

 

 

ふと浮かんできた言葉は

 

 

 

「ああ、

死んだな」

 

 

 

ちゃんと「生きていた」「呼吸をしていた」生きた城跡が

「テーマパーク」になり下がったかのような

そんな感覚を瞬間、感じました。

よくできたテーマパーク。

 

USJのハリーポッターの街は

それはそれはよくできているらしいけれど(行ってみたいですが)

でも、「生きた街」ではない。

書き割りの、「張りぼて」の街。

そしてきっと、一回行けばもう「行きたい」とは思わない。

映画村も同じ。

 

 

なんだかそんな感じでしょうか。

 

 

 

 

史跡は

単なる「昔のものが古くなってそこに残っているもの」

ではなくて、生きています。生きて呼吸をしています。

 

一日一日を経ながら

風を受け、雨を受け、その時その時を生きる人たちの足跡をその身に刻み

喜びや思いを見に刻み

そして、時代の風を受けながら

瞬間瞬間を生きて、今の姿になっています。

 

 

決して、それが出来た瞬間で「時が止まっている」わけではない、ということです。

これまでの時間、プロセス、すべてをひっくるめて

「史跡」となっているのだ、と言えばよい、でしょうか。

 

 

 

 

少し前に

「色彩復元師」という仕事をしている方の番組を見ました。

 

数百年前の寺社仏閣の壁画や絵画の色、形を復元するために

毎日野に出て草花を写生し、「身体に草花を刻み込む」。

(というような言い方をなさっていました)

そして

「線や形ではない、当時の人の『心』が描けなければ意味がない」

 

と。

一本の線に「心」を見ようとする。

 

 

それを今に「再現する」こと=当時の人たちの「思い」を今に伝え、再現することの

意味を一心に受け、

そうして

朽ちた文化財から地を這うように「痕跡」を見つける

祈りのような仕事の様子が描かれていました。

 

 

 

 

 

「時間の重み」に手を入れ、手を加える

ということは、それだけの重さと責任、そして繊細過ぎるくらいに繊細な「センス」が伴う、

ということなのです。

 

 

来年は維新150年。

「御楼門」。

どのように復元されるのか。

ある意味

鹿児島の「文化的なセンス」が、外に向かって明確になる

(試される)といってもいいでしょう。

 

 

 

 image

 

 

 

「今日はオタクな話なのでー『新選組–幕末の青嵐』」

時代によって、人によって作品の解釈も変わり
役の解釈も変わり
セリフの解釈も変わり、結果、表現が変わる、
という話をハムレットの例の有名なセリフをたとえにしてわかりやすく書いてある一節を
読んだことがあり
面白いな~と思っていたのですが
今日は強いてテーマを見つけるなら、そういう話でしょうか。
いや、そうでもないか。

「朗読カフェ」
というものを知人が開いており
それに、ずいぶんと前から参加してみたかったのでした。

毎月、鹿児島市内のおしゃれなカフェやレストランで開かれるそれは
朗読したい本を持ち寄り皆の前で朗読する、というもの。
参加してみたいな、と思った1年ほど前から「読みたい本」はもう決まっていました。

「新選組 幕末の青嵐   木内昇」

どうせそこか、と思った方もいるかと。
(まあ、そうなんですけれどね)

「歴史小説」というには
あまりにもみずみずしさ全開のこの小説。
語り手が次々と変わっていくのが面白いのです。
次々と起こる事件が、関わったさまざまな人物の目から語られてゆきます。
360度から光を当てられた多面体のよう。
ときは幕末。陰惨な事件も多いわけですが
それでもこの本の世界はなんとも美しい透明度を持って迫ってきます。
まるで、たくさんのカットを持つほど光り輝くダイヤのような。

好きな場面をひとつ、書きます。
沖田総司の死の場面。

沖田の死の場面には、必ずくっついてくるものがあります。
それは『黒猫のエピソード』です。
死の数日前、療養している離れの庭先にやってきた黒猫を沖田が斬ろうとして
斬れずに死んだ、という。
過去、あまたの小説で
そして、映画やドラマで、様々な描かれ方をしてきた有名な場面です。

黒猫が、自分が斬ってきた人間の亡霊に見えて錯乱して死ぬ、ですとか
剣士としての腕を最後に試そうとして果たせなかった、とか…。
とにかく

「ああ、斬れない…!」

と、最後に呟いて倒れる総司は、子ども心にやりきれなく。

「人生とは、こんなふうに終わっていってもいいのだろうか!?」と。
どんなに精一杯生きても、人は報われないのではないか、と。
自分が命を懸けて、極めてきたところのもの。
自分そのものであった世界についに見捨てられる、
こんな人生の終わりがあっていいのだろうか!?と。
今思えばそれは、「世の中」というものや
「自らが生きること」への漠然とした不安を抱かせるに十分な場面でした。

      

「総司が亡くなる数日前、彼はみつにこんなことを言ったのだそうだ。

『姉さん。もうちょっとでまた剣の道が極められそうだ。次の場所に行けそうなんだ。
稽古はしていないけれど、寝ながら考えていたらだんだん見えてきた』

総司は天才ですから稽古なぞしなくたって剣は極められるのかもしれないですね、
とみつが応えると、本当に嬉しそうに笑った。」

この日、庭に来た黒猫を「斬る」と言って外に出た総司は
猫をじっと見つめ、何もせずに戻ってきます。
その翌日も同じく。
そして寝床に戻り、誰にも気づかれることなくそのまま死んでしまう。
死後
彼が寝入る前に興奮して語ったという言葉が、世話をしていた婆やの口から語られます。

「ねえ、婆や。
私は猫を斬らなかったけれど、斬れなかったんじゃないんだ。斬ろうと思えば斬れる。
いつだって斬れるんだ。
確かに、今は万全じゃないから、誰かに踏み込まれたらやられちゃうかもしれないけれど
でももう、そういうことを恐れることもないな。

私はね、一番の剣客を目指していたから、
人と立ち会って勝つことだけをずっと考えてきたんです。
でも、それだけじゃない、って最近わかってきた。
大きい世界に出て、いろんな人と出会って、剣を十分に使って、経験を積んで、
ちゃんと自分には剣があることがわかった。
頭じゃなくて、気持ちと体ではっきりとわかってきたんだよ。
だからもう、争わなくてもよくなった。人と争わなければならないような迷いは、もうないな。
だって自分に自信があるからね。

剣を極めるということは、もう斬らなくてもよくなるということなのかもしれません。
闘わなくたって、相手も自分もわかるということなのかもしれません」

一気に、そして嬉しそうに婆やに語って「安心しきった顔で床に入った」。
それが、この作品の最後の総司の姿。

この場面をはじめて読んだとき、
肩の力がすうっと抜け、言いようのない感慨を覚えたものでした。
あえて言葉にするなら「やっと終わった」という感じ?
やっとこういう総司が出てきた、という感慨といえるかもしれませんし
あるいは
自分の中でずっと留まっていた「何か」が昇華された安堵感だったかもしれません。

とにかく、空を見上げて、なんだか泣きたいような心持ちになったのでした。
総司とともに、自分の中の何かが確かに癒され、光となって
天に昇って行ったかのような気がしたのでした。

「新選組 幕末の青嵐」。
最後は史実通り、もちろんみな死んでしまうのですが
それでも、後に残るのは爽やかな一陣の風と突き抜ける青空と、
そして美しいダイヤの透明感。
こんなふうな世界を、空気を、律動を言葉で構築できる人というのは本当にすごいな、
と思います。

奇しくも、7月19日は新暦で沖田総司の命日。
(この蒸し暑い時期にずっと寝床の中だったとは!沖田さん大変でしたね)
子どもの頃、何度も彼らの人生を追体験し。
そして月日が過ぎ。

この作品を通してやっと、
彼自身の口から
「人生って、それでもすばらしい。生きるって、それでもすばらしいよ!」

と、言ってもらえたような気もし。
いや、それを大人になったわたしは、もはや十分に知っていたのですが
145年前の彼に伝えるすべを持たなかったので。

それを再度しっかりと確認し
そこにともに到達できたことを喜ぶために
「朗読カフェ」にて
皆さんの前で「音」という形で表現してみたくなったのかもしれません。

言葉に込められた響きというものが
そこに込められた祈りや思いというものが
確かに届くものだと、最近とみに実感するので。

「歴史は誰のもの?~東郷平八郎没後80年式典レポート」

 

 

毎年

3月~6月はいつの間にか

 

「古人と語り合う月間」

 

のようになっている感があり

国内をあっちこっちふらふらとしている気がするのですが

(史跡や墓地を巡ったり、いろんな人の「〇〇忌」なるものに参加しているということなんですが)

 

今年は初!

鹿児島県内の「〇〇忌」に参加してみました。

今日のかの人は「東郷平八郎」。

日露戦争、日本海海戦の連合艦隊の司令長官。

日本を勝利に導いた方、というくらいの知識しかなく、お恥ずかしいことです。

個人的には明治の華々しいご活躍より

若き日、宮古湾海戦(明治2年、旧幕軍が新政府軍所有のストーンウォールを奪取しようとした戦い)

にも参戦していた、という話の方が萌えるのですが。

 

場所は市内、多賀山公園内、東郷墓地。

そぼ降る雨の中、せっせと坂を上り、馳せ参じた「それ」は、いつも行くものとはだいぶ

いえ、ものすごく…違う雰囲気でした。

何が違うって、「協力者」がすごかった。

なな、なんですか?これは!!

 

いきなり目に入ってきたのはこの光景。

式典開始10分前。はためくZ旗を見守るのは海上自衛隊のみなさん。

そして…

 

 

わかります?

空の彼方からごぉ~っと、来たんです!

あの、狭い多賀山公園上空に向かって飛んできたんです。

 

式典は

「表敬訪問飛行」、なるものからスタート!

規模が違う。何なんだこれは。

 

 

こんなふうに、P-3Cとやらは、会場の真上を飛び去ってゆきました。

初めて見た~(喜)

 

そしてさらに、軍艦旗の掲揚へと続きます。

あの動きは「ささげ、筒」というんでしょうか。

自衛隊の皆さんの美しい動きの一つ一つが場を引き締めます。

 

 

旗がしずしずと上がっていくところ。

銃の先についた「剣」の部分は、動きがおわると

腰の「剣先フォルダー」(なんて呼び名ではないと思いますが)にいちいち収納するんですね。

めったに見られない道具、所作ばかりで、とにかく見ていて飽きません。

 

そして、国歌斉唱。

ちなみに、ここまですべて「生演奏」です。なんと~。

演奏はそう、この式典のためだけにはるばる大型バスに乗って佐世保からきた

「海上自衛隊佐世保音楽隊」のみなさん。

白い制服が眩しい。

生演奏で歌うというのは気持ちのいいものです。

 

そして

式辞、来賓あいさつ…と続き(国会議員さん多数。ほとんどが代理の方でしたが)献花。

 

一般参列者にもお花をくださるとのことで

しっかり献花させていただきました。

一般人は20名くらいでしょうか。

 

わたしがこれまで参加してきたものは、「一般参加者」が数百名、長蛇の列でごった返し、

というものがほとんどなので

ここは「勝った!」と思ったり。

(勝ち負けの意味が分かりませんが)

 

テントの中に進み、自衛隊の女性隊員さんから白い菊の花を受け取り

テーブルに捧げたのち、手を合わせます。

そして、奉納演武。

薬丸自顕流です。東郷元帥も門弟であられたとの説明あり。

どんな練習をするのか、知識としてはあったつもりだったのですが、これまた初めて間近で見…

すごい(というか、怖い)。

 

その、気迫というか、勢いが半端ない。

練習用の横木にだ~っとはしって打ち込み、そのまま体ごと「ばこっ」と体当たりする人も。

横木がばらっとはじけ飛びます。

「猿叫(えんきょう)」もすごい。

(きえぇ~っ!という独特の声ですね)

 

これは…幕末、京の町中で薬丸自顕流なんかにばったり出会ってしまったら

相手は怖かったろうなあと思いました。

強そう。

強そうというか、ある種クレイジーな感じのこの気迫。

(まあ、あの時代はみなある意味クレイジーだったのでこの気迫は大切だったのでしょうね)

 

小技はないので竹刀では負けるかも知れませんが

真剣での戦いには絶対強そうです。

あの勢いで「きえぇ~っ!」と来られたら、もう脳天からばっさりですね。

西南戦争の際、

薬丸自顕流の打ち込みを小銃で受けた兵士が小銃ごと頭蓋骨を叩き割られたという

話も残っているそうで(WIKI情報ですが)

 

他流派の演武も見たことはあるのですが

本当に古人の「命のやり取り」の瞬間の片りんをその姿の奥に感じたのは、これが初めてでした。

恐るべし、薬丸自顕流。

 

1対多数を想定した切り込み。

バタバタ倒れる木がついバタバタ倒れる人に見え…

(東郷元帥式典レポのつもりが、だんだん自顕流レポになってきました)

 

 

そして宴たけなわ

海上自衛隊佐世保音楽隊の皆さんによる演奏披露を経て最後の時間へ。

「軍艦旗奉納」。

 

再び自衛隊の皆さんの手によって、「儀式」として旗が下されてゆきます。

来年は、国旗とともに揚がるといいですね。

(会場は旗を揚げるポールが2本しかないので、やむなく軍艦旗とZ旗のみ揚げました、と

痛恨の思いを主催者がお話しになったので)

 

さて…。

 

「軍艦旗」と「Z旗」。

曇天にはためくこの二つの旗のもと、とても不思議な感覚を味わった時間でした。

 

この式典は61回を迎えます。

ずっと、この鹿児島の地でこの人を愛し、

その心をこのような形で表し続けてきた人たちがいるのだという再確認。

一言でいうと「わたしの知らない世界があった…!!」という驚きなのですが。

 

そして

海軍から自衛隊へ。

形を変えつつも、自分たちの誇りある「源流」として、海上自衛隊の方々に

愛され、尊敬され続けている方なのだという感動。

 

さらには

わたしにとって最もわからない国であるこの「薩摩」の波長の本質の一部分を

少し体でわかったかな、という感覚。

なんというか…薩摩って、こういう感じですよね。やっぱり。

一言でいうと…「萌え要素ゼロ」(笑)

良くも悪くも、です。うまく言えませんが。

なんというか、歴史は誰のもの?~おじさんと偉い人たちのもの、という感じでしょうか。

 

東郷平八郎第61回記念式典」。

とても素晴らしい場でした。

あまり詳しくなかった東郷という人物を身近に感じ、そして

彼をたたえる自衛隊の方々の美しいたたずまいや、多くの人の言葉(式辞ですが)を聞き

また、演奏される国歌その他の曲の響きを体で感じ。

一人の日本人として

また、鹿児島県人として

百年と少し前の、この人の「頑張り」「ゆるがぬ姿」の先につながっている

今の自分たちなのだ、ということを空気とともに体感でき

とてもシンプルな誇りの感情を抱くことができました。

すっと自分の背筋が伸びたようで…嬉しかった。

 

願わくば…

これらの思いが、もっと多くの人に広まりますように。

これからを担う若者たちにも広まりますように、と思うのですが、無理でしょうか。

一般参加「20人」は少なすぎないですか?

これだけのことをやっているのに…

(P-3Cまで飛んでくるのに!)

しかも、若者ゼロ。

それとも、これは式典なので、これでいい、むしろあまりにぎやかにならないほうがいい

内輪だけのもの、という位置づけなのでしょうか。、

 

冒頭に書きました

わたしがよくいく「古人の遺徳をしのぶ」場のいくつかは

エネルギーがこことは全く違います。異質です。

「官」ではなく、完全に「民」のエネルギー。

自然発生的に沸き起こった「しのぼうぜ!」の思いが湧き上がり、膨れ上がり

常に自己増殖を続けています。

それが日本各地で(ゆかりの地で)街おこしのエネルギーや動きとなり。

それぞれが「やりたくてたまらない」から勝手に楽しくやっている。

どちらがよい、悪いではなく、多様な側面や切り口が

ある、ということで。

 

歴史と今をつなぐ、とは

先人たちの優れた知恵、美しき生き方、思いを受け継ぎ、それをできるだけ多くの人で共有し

さらにはしっかりと使い、役立て

生きた形で次の世代の若者たちの「心と体に」しっかりと刻みこむことではないかと思います。

ガラスケースに飾られた「よいお話」ではなく。

 

ここまで書いてきて思ったのですが

鹿児島に足らない努力って、そのあたりなんでしょうか?とにかく…「萌えが足りない」!!

萌え、とは確かにオタク用語ですが、でもその根本は

「みずみずしさ」「若さ」「やわらかさ」「生き生き」という意味です。

 

  岩ばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる春に なりにけるかも   (志貴皇子)

 

なのですから。

 

まとまりませんが!

来年はぜひ、皆さんも行かれてみてください。

めったに触れられないものがたくさんです。

感動します。

 

「日本人としての『プレゼンス』」

 

いよいよソチオリンピックが始まりました。

昨夜は早速に、一番楽しみにしているフィギュアがはじまり、つい夜更かしです。

 

フィギュア団体戦は

演技に加えて、各国のブースでのチームごとの応援がまた楽しいのですよね。

各国の応援の様子を

 

「お国柄ってあるなあ~」

 

と思いながら見ていました。

日本のチームの応援は、わあ~っとはじけるというよりは

みんなでリズムをもって、合わせて、楽しく、という感じで

なんだか、運動会の応援を見ているようで懐かしい。

 

演技にしても

もちろん個人の特徴はあるわけですが、

身のこなし、リズムのとり方など…なんとなく全体的に

その演技の背後に、その国の長い間生きてきた文化や精神性がしっかりと見える気がします。

 

例えば

イタリアのペアの演技など見ていると

あれは、日本人には逆立ちしても無理だろうな、と思うのです。

あの音楽を踊りこなすことも難しいだろうし

あの、小粋な表情や身振り、手振り…うん、日本人にはムリ。

やってもいいけれど、とってつけたようになりそうです。

第一、男性のあの、オールまっ黄色な下半身の衣装からして

あれが似合う日本人はなかなかいないと思うのです。

 

また、

中国のペア。

音楽が胡弓(?)の入ったものであったということもあるのでしょうが

流れるようなつやのある細やかな表現。

その背後には「京劇」の深い伝統をつい感じてしまいます。

 

そうなると

我らが日本の選手たちは

いったい外国の人たちからは、どんな「特徴」を持っていると見ることができるのだろうなあ、と。

自分たちのことは、自分たちではなかなかわからないですもんね。

 

余談ですけれど、わたしは真央ちゃんを見ていると

なんだか最近、武士に見えてしようがない(笑)

凛としてゆるがず、周囲に影響されることもなく

自分のなすべきことを、ただ黙々とやって、結果を出す…いさぎよく、かっこいいなと。

 

さて

「お国柄」というのはつまり「国としてのプレゼンス」ということだと思います。

プレゼンスとは

「外見、そして内面、すべてから自然と醸し出されるその人の『存在感』『あり方』」

 

お友達の

(と言ってみました^^。2度ほどお目にかかり、お時間をご一緒したことがあるだけなんですが)

白駒妃登美さんの最新刊

2月に出たばかりの

「日本人の知らない日本がある~こころに残る現代史~」

          (株式会社KADOKAWA)

 

「2020年東京オリンピックまでに読んでおきたい近、現代史」

 

と帯に銘打たれたこの本には

この「日本」という島国の中で長い間かかって培われてきた

私たち日本人の「プレゼンス」が

血を吐くような危機的な状況の中で

凝縮され、発揮された、まさに、「日本人の魂の発露」のような厳しくも美しい瞬間が

たくさんつづられています。

 

ウズベキスタンの「ナヴォイ劇場」建設に携わった日本人たちの話。

 

1945年。ウズベキスタン。

ソ連軍の捕虜となって、ウズベキスタンで強制労働に従事させられた日本人兵士たち。

過酷な労働時間。

体を維持するにも足りない粗末な食事の中で、命を落とす兵も続出。

そんな中で劇場を造らねばならない兵士たち。

彼らを動かした思いはこうあります。

 

「我々は戦争中に多くの町を破壊した。

今度は誰かのために、新しいものをつくろう。

たとえどんな過酷な状況であろうとも、日本人としての誇りを失わずに

この地に世界一の劇場をつくるんだ」

 

やがて、出来上がった劇場は

威風堂々。それでいて繊細な彫刻のほどこされた外壁や内装。

ウズベキスタンの人たちは大喜びしたのだそうです。

(こういうところが、とても日本人らしいですよね。嬉しくなってしまうところです。

絶対に手を抜かない。たとえ「捕虜」という立場で「やらされている」ことであっても

「つくる」という行為自体への喜びや責任を感じ、それをつい形にしてしまう)

 

そして

この劇場のすごいところは、20年後の「タシケント大地震」で

あたりが瓦礫の山と化す中、他の、日本人が手掛けた建設物とともに

ビクともせずに現状を保っていたというところなのだそう。

ほんとうに、命を懸けて、良い仕事をみなさん、残してくださったのですね。

 

ナヴォイ劇場に掲げられた記念プレートにはこうあるのだそうです。

 

「1945年から1946年にかけて

極東から強制移送された数百名の日本国民が

この、アリシェル・ナヴォイ劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」

 

プレートの作成を指示したカリモフ大統領の

「日本人兵士たちは我々にとって恩人だ。間違っても『捕虜』などと書いてはいけないぞ」

 

という指示の通り

プレートには「日本国民」と刻まれている…。

 

 (「日本人の知らない日本がある~こころに残る現代史」より概要を抜粋)

 

「我々がこのプロジェクトを通して日本人から得たものは

資金援助や技術援助だけではない」

 

と言ったのは平成17年。インドの地下鉄公団の総裁。

 (麻生太郎 「とてつもない日本」 新潮新書 より)

 

「インドでは数時間遅れも日常茶飯事であり

数分の誤差で正確に動いているのは唯一、この地下鉄だけである。

これはすごいことだ」

 

 

日本のODAによってつくられたニューデリーの地下鉄。

日本の技術者によって

「時間通りに集合する」

「時間通りに運行する」

ストップウォ ッチを手に

淡々と、あたりまえのこととしてそれをする日本人技術者たちの姿を目の当たりに見、

訓練を受けたインドの技術者さんたち。

 

「我々がこのプロジェクトを通して日本人から得たものは

資金援助や技術援助だけではない。

 

むしろ最も影響を受けたのは

働くことについての価値観、労働の美徳だ。

労働に関する自分たちの価値観が、根底から覆された。

 

日本の文化そのものが、最大のプレゼントだった。

 

今、インドでは、この地下鉄を

『ベスト・アンバサダー』(最高の大使)と呼んでいる」

 

 

…何と、なんと嬉しい言葉なのでしょう。

 

「プレゼンス」とは

特別な行為や思考ではない。

ほんとうに、自分たちでは気づかない「普通に」「あたりまえにやってしまう」もの。

つまり

「細胞に、血となり肉となって、自然に染み込んでいる思考や行動』」なのだと思います。

だからこそ、

特別でないからこそ、

「よそゆき」でないからこそ

 

真に苦しいとき

危機が迫った時にも

ちゃんと発揮されるもの、なのだと思います。

震災の時の日本人しかり。

 

そして

私たちの先輩たちが

「ここぞ」というときに発揮した「民族としての特質」は

世界の人々を感動させ、尊敬されるものであったのだ、ということは

今を生きる私たちにとって、とても嬉しく誇らしいことなのではないでしょうか。

 

そしてまた

それを「引き継ぐ者」としての

矜持や責任をあらためて抱かせるものなのではないでしょうか。

それは

個々人のレベルを超えた

いかに生きるか、のしっかりとした「指針」「核」になってくれるものだと思います。

 

わたし自身

こういったこと

(わたしたちの先輩の「美しい姿」の面を)

ほとんど知らずに長いこと過ごしてきました。

今、自らの目で「情報を見直す」たくさんの機会を通して

バランスを取ってこの「日本という国」の姿を知ることが出来ていることを

本当によかったと思っています。

それは、

自分とは何か、を模索し始め

自分のよいところを発見し、認め

自分らしく、自分に誇りを持って生き始めることができるようになったプロセスと

しっかりと重なっている気がするからです。

 

わたしにとって

「自分自身の真の姿に目覚める旅」

「日本という国がまんべんなく照らされてゆく旅(自分が知らなかった日本の素晴らしい面に気づく旅)」

と無縁ではないと感じます。

 

自分自身で生きることを味わい、謳歌し

日本人であることの喜びを心から味わい、謳歌出来ている

この人生を、とても嬉しく感じています。

 

話が大きく広がってしまいました。

ソチ五輪。

各国の演技ももちろんですが

そこここから垣間見える

それぞれの国の誇りと矜持のあふれる表情やあり方そのものを味わえるいろいろな場面。

そんなところにも大きな醍醐味を感じつつ

観戦を楽しみにしているところです。

 

 

「私をお墓に連れてって♪」

 

春の研修、怒涛の波が終わり
ちょっと間が空いたので
旅に出てきました。
ま、旅といっても東京ですが。

もろもろの用を済ませ
会いたい人に会い、行きたいところに行き
最後の日。
ふと、鹿児島にいるときに、この人の終焉の地に行ってみたいなあ、と思っていたのを
思い出しました。

 

暗殺の舞台となった紀尾井坂。
それから、お墓はどこだっけ?
と調べてみると「青山霊園」。

「霊園のどこだろ…すぐ見つかるかな」

と思っていたんですが。
幸運にも、前日に知り合った「幕末・明治期偉人のお墓のエキスパート」
(とわたしが勝手に名づけました)
久保さんが、霊園を案内してくださることとなり
東京、最後の一日は、さんさんと降り注ぐ太陽の下
「霊園デート」としゃれ込むこととなったのでした。

結果、案内していただいてほんとによかった。
水先案内人がいなければ
多分一日、広大な霊園の中でわたしは路頭に迷っていたんではないでしょうか。
きっと飲み水も底をつき、疲れ果て
誰のものとも分からない巨大な墓石に寄りかかり
呆然と天を仰ぐことになっていたかもしれません。
と、
いうくらい青山霊園は広かった。

おかげで
約2時間という短時間で、効率よく、
それはたくさんのお墓にお参りすることができたのでした。

さあ
ここからは「THE お墓 TIMI」です。
延々と墓石の写真。単なる自己満足の画面が続きます。
(これでも、一部です)
何がすごいって、この石の下にみなさんいるんですよ。
ちゃんとこの下に眠ってらっしゃるんですよ。
すごくないですか!?

さて、はじまりはじまり。

有村次左衛門。
桜田門外の変、薩摩より唯一の参加にして
大老井伊直助の首を挙げた次左衛門。
鹿児島の護国神社に祀られている方、名簿の第一番目は確かこの方だったような。
うろ覚えですが。

川路良利。
先日、研修の際、鹿児島県警本部前の彼の像に大いに助けてもらったため、
恩義に感じてたところでした。

黒田清隆。
この人というと、いつも思い出すのは榎本武揚らの助命嘆願のために
なったという「丸坊主」の写真。

 

初代文部大臣、森有礼。
学生の頃、この人のレポートを書いて以来の対面です。
お懐かしい。

大河ドラマでも活躍中。
会津藩、秋月悌次郎。
明治になってからは、熊本の第五高等学校で先生をしていたことがあるのですよね。
親近感。
その時のエピソードなど…会津検定のときにたくさん本を読んだんですが
今や、うろ覚え。
やっぱり付け焼刃はダメですね。

 

長州藩。
周布政之助。
あまり詳しくないんですが、なんとなく好きな人。

旧幕臣、大鳥圭介。
戊辰戦争での
「また負けてしまったよ~(あっはっは)」
のイメージが真っ先に浮かんできます。
どこでこのイメージがついたんでしょう。

新選組隊士、
というより、御陵衛士と呼んだほうが
ご本人は本意なことでしょう。
篠原泰之進のお墓。
(相当感動。つい叫んでしまいました)
それにしても、薩摩、長州勢のお墓と比べて
なんとその小さいこと…。

佐賀藩
鍋島家11代当主、鍋島直大だったかな?のお墓。
土饅頭の形のお墓は始めて見ました。
(「右側の石碑ではなく、左側の土の山がお墓ですから!」と案内者、久保さんの念押し)
幕末の佐賀藩といえば「アームストロング砲」!しか思い出せない私です。
それにしても
お殿様たちのお墓だけあって、
隣の黒田家のお墓とともに、その面積の広いこと広いこと!
風格漂うお墓(というより小さな神社みたい)でした。

「フルベッキ写真」のフルベッキのお墓。
こんなところで出会えるとは…。

そしてこちらが

 

今回の目的
大久保利通のお墓です。
殿様である鍋島さまや黒田家の墓所ほどはありませんが
墓碑銘を刻んだ巨大な石を中心に
利通の墓石と、奥さんの満寿さんの墓石が向かい合って立つ
広大な敷地の墓所となっていました。
この墓石も、大きいのですよ。写真だとそう見えませんが。

左横には
暗殺時の御者だった若者の小さなお墓と、さらには馬車を曳いていた馬のお墓も。
鹿児島市の高見橋、生家跡地を向いて立つ
大久保の像。
風を受けてしっかと立つ大久保の姿をうつした
凛然とした像なんですが
その彼の足元にも、馬のレリーフが小さく刻んであります。
大久保、馬を大切にしていたんでしょうか。

わたしにとって
あまりにも身近で、小さいころから慣れ親しんできた
「偉人」大久保利通。
鹿児島では
子どものころから、西郷どんと共にあまりにも
うっとおしいくらい「プッシュ」されてきたその存在に
どうも客観的にその存在をはかることができないでいたのですが。

お墓に手を合わせ
墓標を見、そこにぐるりと刻まれた碑文に触れ
そしてあまりに立派な墓所の広さ、その大きさを肌で実感し。

幕府を倒して10年。
確かにそのとき、この国の頂点に立ち
すべてを背負って、走っていたのはこの人だったのだと
やっと実感したのでした。

「やっと10年」
まだまだこれからやらねばならぬことが山ほどある。
そんな中で命を落とすのは、どんなに無念だったことでしょう。

甲突川沿い。
彼の生家跡の大きな木々の下は、夏は涼しく、良い風が吹きます。
彼が生まれたときからそこにあったであろう
太い木々が今も木陰をつくって、ひととき、暑さを忘れます。
そこからはじまった彼の人生。
私の中で、やっとひと段落したような気分になりました。

おまけ。

東芝の創業者
「からくり儀右衛門」こと田中久重のお墓(これは墓石ではありません)
べっこう細工師の家に生まれながら
からくり人形から始まってからくり時計、無尽灯、万年時計、蒸気機関…
「東洋のエジソン」とも呼ばれたらしいです。
この方、「JIN」に出てきていましたよね。
仁先生が、未来から持ってきた豆電球を久重に渡す。
久重は「必ずこのような素晴らしいものを作って見せる」と誓う、
というような場面だったような。

激動の時代に
自分の本質(興味、関心)を存分に発揮し
「技術者魂」でもって世に貢献し、あらたしい道を切り開いていった田中さん。
侍だけでなく
こういう人も大好きです。

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