清里の街の再生に思うーつまりはわたしたち日本人全員の課題

 

 

 

 

 

今朝ほど清里の街の再生をする人たちの番組を見ていて、
なんだか悲しいやら切ないやらの気持ちになっていたところでした。

 

清里高原がブームになった時、
あそこに一斉に押し寄せていた若者たち
(パステルカラーの服を着て「聖子ちゃんカット」をしていた人たち)
とわたしは大体同じ年代なのだけど。

当時から幕末オタクの神社仏閣好きということもあって、
あの、キッチュな偽物(いかもの)チックな清里の雰囲気に、
なんとなく

 

「恥ずかしいな…」

 

という感慨を持ってみていたのだけど。

 

けれど、そんなわたしですらパステルカラーのものを、
何かしら身につけていたように思うので、
時代?流行り?空氣というものは本当に恐ろしい。

 

 

その番組には、清里の地元の人たちが描かれていたのだけど、
みるからに「本当に難儀だったろうなあ」と想像するに十分で。

 

ブームの時。
外からどっといろんな人たちが入ってきて、
「キッチュな」「イカものな」(言い過ぎ?)
お店をどんどん建てて、人が集まって。
その雰囲氣に乗って、地元の人たちも同じようにして。
「ああすれば儲かるのだ」「乗り遅れるな」と。

 

けれど、ブームが去った途端に、
外から来た人たちはさあっと潮が引いたように清里から去っていき。

 

後は、食い荒らされた土地に、
歯抜けのような空き店舗だらけの街。
その中にぽつねんと取り残された自分の店。

 

辛かったろう。
悲しかったろう。
歯痒かったろう。
絶望したろう。

 

と思うのだ。

 

 

父親からのレストランを引き継いだ一人の男性。
父親の工夫と努力で繁盛していた店を、
ブームに乗って改築し、席数を増やし、
効率優先で多くのお客を捌くために冷凍食品を使うようになり、
そしてブームが去った時、お客も去っていった。
お店は負債を抱え、閉店。

 

今、がんとして加工品を使わず、
パスタ麺を自分で打ち、カフェを続けるその人。
(喉から手が出るほど加工品を使いたいけど、でも使わない、と言っていた)

 

きっと彼は深い後悔の中で、この30年間
「自分とは何か?」「自分はどう生きたかったのか?」
を探し続けてきたのではないかと思え。

 

「清里だからお客が来るんだと思っていた。
でも、そうじゃなくて、いいお店があって、
それがたまたま清里にあった、じゃなきゃいけないんだ」

 

いうのはその人の言葉。

 

 

 

清里(のような、もしかしてあちこちにあるかもしれない街)が再生するとき。

 

今度こそ、その土地に根ざす人たち、一人一人の意思と、知恵と、
まことなる自立の心、
「こうしたい!」
「これが自分たちなんだ!」
「これを大切にするんだ!」
という心からの思いで街が息を吹き返すとき。

 

日本も真の意味で再生していくのではないか?と思える。

 

 

それは結局、
わたしたち一人ひとりの心の中、在り方と無縁ではなく。
(全てはフラクタル)

 

清里の人々だけでなく、
この大きな変化の時、
わたしたち日本人一人一人に、刃のように突きつけられ、
問われている、
大きな「喫緊の課題」なのだろうとも思える。

 

 

 

 

どこへ行く日本人。どっちつかずの日本人。お前は何者?

 

 

 

今日から浴衣を着てみたんですが。(7月の声を聞いた途端、うずうずしてしまい)
半分は趣味、半分は仕事でしょうか。

 

 

 

 

話は飛びますが、
偶然「フットケア」の特集番組を見まして。

 

足の不調(外反母趾や、巻き爪、魚の目、たこ…や何やかやで痛くて歩きづらい)
をどうケアするか、という話と、
予防として、そもそも「そうならない」ための「靴選びや歩き方」、

といった内容だったのですが。

 

 

それを見ていて、思ったことは、

 

「なんだかんだ言っても、わたしたちは『靴』に馴染んでいないし、
『靴で歩く』ことにも扱いにも慣れていないのだな」

 

ということでした。
靴を履き始めて160年(やっと)。
身体なんて、そんなにあっという間に変わるものじゃない。

 

 

一体、何人の日本人が足のため、
身体のための「靴の正しい選び方」「扱い方」をちゃんと、
お味噌汁を作るくらいの「当たり前」レベルで
知っているだろう、出来るだろう、と改めて思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

で、
ふと思い出したのですが。

 

相当昔の話なんですが、何かの番組で、
「オードリー・ヘプバーン」の問題が出ていて、その問題が、確か

 

「オードリーが小さい頃、足が綺麗にちゃんと成長するように親ががやったことは?」

 

というような問題だったのです。
で、いくつか選択肢があって、
答えは「足首まである編み上げ靴を、紐を締めてしっかりと履かせる」
だったように覚えています。

 

 

今思えば、向こうの人たちにとって、そういうのは、
至極当たり前のことなんだろうなあと。

 

 

 

 

 

で、日本人なのですが。

 

 

では、草履や下駄を履き、畳や板の間で「座して」暮らすことで
昔からご先祖が馴染んできた、

 

「身体の使い方」

 

は身体にちゃんと息づいているか?というと、
それももう、ない。

 

 

 

そして、今の若い子たちは「蹲踞(そんきょ)」ができず、
丹田の場所がわからず(こういう役者の卵の子に会ったことがある)、
浴衣の帯をウエストで結び(男の子です)
腰を立てて姿勢をキープできず。

 

しかも衝撃だったのは
10代から「尿もれ」を起こしている女の子がいると。
(骨盤底筋が弱いのが原因らしいのですが、
これは、和式の生活をしていればごくごく自然に鍛えられてきたものなのだそう)

 

 

 

 

で。
「どこへ行く日本人」
「どうする日本人」

 

と思ってしまったわけなのでした。
もう「和」は捨ててしまった。
どっちつかずで何者でもなくなってしまうんじゃないか?と。

 

 

フラフラと。
あっちへいき、こっちへいき、何が正しいのか?
何を軸にしたらいいか、とても深いところでわかっていないというか、
なくなってしまっている。
その精神も、「よって立つ『よすが』がない」感じ。

 

 

それらは、こういったところにも
(生活様式、身体の使い方が伝承されていないところにも)
その原因はあるのではないか??
とずっと以前から思っているのです。

 

身体の軸と精神の軸はしっかりと繋がっているわけですから。

 

 

そんなことを考えつつ、浴衣でここに座っている今。
(近所の人と、カフェの店員さんから
「何かお稽古ですかっ😃!」と声をかけられつつ)

 

 

 

 

それにしても。
「和のよそほひ」って、背中を丸めようがないなあ、と
(下腹が定まって楽だよなあと)。

 

それに、下腹で楽に全身を支えられるので
(帯で下腹をきゅっと締めてますんで)
肩に余計な力が入らなくて、大変よろしい。肩こり防止に。

 

 

 

 

日本人の中心は「肚」なんだなと。
頭(思考)と、胸(感情)と、肚(意思・精神)。
最終的には、腑に落とし、決断し、
そして「肚からの声」で伝えるのが日本人だったんだろうなと。

 

そんなことをつらつらと思っているところです。

 

 

 

西郷隆盛→「のちに鹿児島土産のフリー素材になる男」(楽しい人物紹介)

 

 

 

 

鹿児島は磯街道沿い。

島津の殿様の別邸、仙巌園で開催中の「だんドーン」原画展に行ってきました。
(写真は会場でアンケートに答えるともらえるオリジナルポストカードです)

 

よくよく考えてみれば、今につながる警察の土台を作った人。
すごいことだよなあ、
と思うのですけど、なのに鹿児島では語られることのたいそう少ない郷土の偉人。

そして、明確に、明らかに「嫌い」と公言する人もいる、という薩摩の偉人。
それが「川路利良」。

 

(一応書いておきますと、
「だんドーン」はその川路が主人公の漫画。作者は「ハコヅメ」の泰三子。

この方、鹿児島出身ではないかという噂がある)

 

 

さらに鹿児島以外の人のために書いておくと、

川路が鹿児島で「嫌われキャラ」なのは、

「西郷どんを殺そうとした男」

「故郷に弓引いた男」

ということになっているから、なのです。(西南戦争の際のあれこれでですね)

 

 

 

わたしが川路利良を意識したのは、
東京で歴史イベントに参加した際、そこで【川路の大ファン❣️】
という人に会ったからで、その人が書いた、

 

「サムライたちの警視庁」

 

という本がとても面白かったからなのです。
(明治初期、警察機構の黎明期にお巡りさんになった
サムライたちの経歴、お墓を網羅した珠玉の一冊)

 

 

その方が、
「鹿児島行った!皆与志から鹿児島中心部まで、
川路が毎日歩いていた道を自分も歩いてみた!」

と嬉しそうに言ったわけで。
(何キロあるか忘れたけれど、ゆうに10キロは超えている結構な距離。

 

歴史の好きな人って、それくらいサクッとやってしまうんですよね。
ちなみにわたしの夢も「旧暦の6月5日に、新選組と同じ重さの装備を背負って、
四条から三条池田屋まで走りたい」です)

 

 

さて。
鹿児島の幕末〜明治史というもの。
わたしにとって身近にありすぎて、
しかも結構感情が絡んでしまっており。

 

と言っても大した感情ではないんですが。

 

子どもの頃、父親や周りのおじさん連が西郷どんが好きすぎて、
色々と押し付けられすぎて、
なんだかもう「いい加減にしろ」な感じでして。

 

わたしにとって、西郷や大久保といった「有名どころ」は、
残念なことに、学校の副読本の暗い色の表紙に象徴される、
自分を縛り付けていた、ままならぬ、なんとも言えない
「鹿児島的なるもの」。
固定され、動かない閉塞感と言ったような感覚と
しっかりと結びついてしまっている。

 

 

話戻って。

そういう感じなので、何度本を読んでも、大河ドラマを見ても、
西郷どんが何をして、どういう人だったのか、
理解できないという…。
(知識としては知っているんですけどね、もちろん。
リアルな人間としての姿が立ち上がってこない)

 

で、この「だんドーン」。

…立ち上がってきております!

 

 

きっと、世の中には怒る人もたくさんいるんだろうなあ。
「西郷隆盛。後に鹿児島土産のフリー素材になる男」
ですもんね。(西郷どんの説明が)

 

けれど、
わたしにとってはなんだか(やっと)風が轟々と吹き抜けて、
厚い雲が取り払われるような感じを感じており。

 

 

そして、この風が、
長い間固まっていた鹿児島の「何か」にも変化をもたらすんじゃないか、
と密かに思ったりもしているところです。
(少なくとも、川路を知る人が増えるだろう、
そして、「川路いいよね!」という人も増えるかなと)

 

結構いいバランスなんじゃないか、と思ったりしているところなのです。

 

 

 

なまはげの社会適応

 

 

 

 

秋田で仕事をしていた姪からのお土産が届き、
スモーキーで味わい深いいぶりがっこや

 

「かき飴」
(牡蠣エキス入りの飴。甘いのに海産物の味もちゃんとする😳)

 

など、
南国人からすると大変珍しいものがたくさん入っていたのだけど、
その中でも見た目のインパクト大(だい)!だったのが、

 

『なまはげのおくりもの✨✨』

 

という秋田のお米で作ったサブレで、
ふわっと軽いお味で大変美味しかったのですが、

 

 

偶然にもその日の夜、
「なまはげの社会適応化」
というのを番組でやっており、
なまはげサブレの興奮も相まって、興味深く見たのでした。

 

 

 

「泣く子はいねが〜👹」

と、大晦日の夜、家を回り、
子どもに大きなトラウマを残す「ナマハゲ」。
(確かに、映像に残る昔のナマハゲは激しい!これは子どもは怖いだろうなあと😊)

 

これが、時代とともに、今風にいうと
「コンプライアンス遵守(笑)」

な言動に変わり、
(入り口でインターホンを押し「はいってもいいですか?」と聞き、
靴を脱いで揃えて上がり、そこから「泣く子は…」とナマハゲモードに入る^^)

担い手不足に伴って、外国人のナマハゲが生まれ、

 

さらにはコロナによって、
「窓越し、ガラス越しのナマハゲ訪問」

 

に至る、という…
まさに、社会適応化の「歴史」。

 

 

 

お笑い芸人さんの番組なので、
その「変遷」につい笑ってしまうのだけど、
その向こうにはどうにかして「ナマハゲ文化」を伝承したい、
しなければ、という男鹿半島の大人たちの願いと工夫がひしひしと垣間見え。

 

 

サブレの袋のインパクトある可愛らしいナマハゲを見ながら、
「こんな苦労と歴史があったのか…」
と、色々と感じ入ってしまいました。

 

 

 

ここでふと思い出したのは、長崎くんち。
たった2年休んだだけで(コロナで)
「伝承」が危うくなってしまった町がある、という話を思い出し。
(知識と技術を「つなぐ」ために大変な苦労をすることとなった人たちの話を見たんでした)

 

 

なくなってしまう(途絶えてしまう)ということは、
食であっても風習であっても、「モノや行事がなくなったね」では終わらない。

 

とても多くの、たくさんのもの…
つまり、そこに込められ、先人たちが大切にし、なんとか繋いできた、
「心」「価値観」「精神性」までもがもはや伝わることのない、
失われたもの、になってしまうということなのだ、
(だからこんなに努力しているのだ)

 

と、そのくんちの番組を見た時に、強く感じたのでした。

 

 

 

さて。
これから、ナマハゲにどんな将来が待ち構えているのか?
それは分かりませんが、
それでも。

 

これからもナマハゲに幸あれ!
男鹿半島の皆さんに幸あれ!
日本&世界中の、
「自分たちの土地の伝統、文化、風習」を大切に守り伝え、育て続けるすべての人たち
(つまりわたしたち一人一人の中にあるその心とDNAに)
幸あれ!

 

と心から思ったのでした。

「効率」と対極にある「存在するだけでいい」

 

 

 

 

高齢の方がよく口にする言葉に、

 

 

「子どもに(周りに)迷惑をかけたくない」

 

 

 

というものがあるように思うけれど(そして、わたし自身もどこかでそう思っている自分を発見するけれど)
その根っこには、

「役に立たなければならない」
(役に立たないならいる価値がない)

という観念があるよなあ、
と、クライアントさんと話していて思ったのです。

 

 

役に立つか、立たないか。
効率的か、非効率的か。
正しいか、正しくないか。

わたしたちは、ずっと長いこと、
これらの軸を中心に据えて生きてきており、
なんとかして、

 

「役に立つものであろう」
「効率的であろう」
「正しくあろう」

 

 

と。
一生懸命にそっちの方向へ行こうとしていたように思います。
そういうものであろうとしていたように思います。
そして、(世間的に)逆の側にある状態は、

 

 

「見ないようにし」
「非難し」
「排除し」

てきた。

 

けれどもう、その軸から離れていいときがやってきたんだな、
と最近特に、そういうふうに思います。

 

 

 

 

 

 

つい最近、
知り合いに「江戸時代の長屋のたぬき男の話」というのを
書いて送ったんですが。

 

 

 

「長屋にたぬきが大好きな男が住んでいて、
自分の部屋の中にたくさんのたぬきを飼っていた。
匂いもするし…で、同じ長屋の人々は
『困った困った』と思っていた。

 

ある日、長屋が(もしくはそのたぬき男の部屋が?)
火事になったかで、
たぬきが全部死んでしまう。
男はたぬきがいなくなって、すっかり元気がなくなってしまう。

 

すると、長屋の住民がお金を出し合って、
たぬきを買ってあげた」

 

 

 

元々、日本人というものは、そういうものだったんだろうな、と思います。
「多様性」なんて言葉をわざわざ使わなくとも、
様々なものを「ありのままの姿」で大きく包み込み、
みんなでわしゃわしゃと、助け合ってげんきに生きていく、
そういう土壌をはじめから持っていたのだ、と。

とにかく、その際、生きる上での中心軸は、

 

「役に立つか?」
「効率的か?」
「正しいか?」

 

ではなかったことは確かなのです。

 

 

 

 

 

話戻って。
思うに大家族で生活することが少なくなって久しいので、

「上手に周りに頼り、家族や周囲に委ねて身を任せつつ、
人生をゆったりと全うしていくお年寄り」

のモデルがもはや身近にいないんだなあ、と、そういうことも思いつつ。

 

 

記憶の奥底にかすかに残る祖母の姿を思い出しながら、

 

 

(あれを「愛」と言わずになんというんだろう、と思うのです。
わたしが「無条件の愛」という言葉で唯一、思い出すのは、
部屋にちょこんと、ただ座っていたばあちゃんの姿です。
ばあちゃんのふところの温かさです)

 

 

 

これからいい時代になるなあ、と改めて思うところです。
何ってわけではないんですが、
このような話のできる人、響きあえる人、
共感できる人が身近にどんどん増えている、ということを感じ。

 

 

 

このようなつながりを新たな(いえ、本来あるべき)軸として、
やっていこう、動いていこう、という人たちの思いを、
あちこちで感じている最近です。

 

 

(写真は正月二日の鹿児島は城山からの眺め)

 

 

伯母の葬儀で思う、儀式や祭祀の大切さー「プロセスを踏む(体験する)」ということの大切さ

 

 

 

 

 

伯母が亡くなり、葬儀に参列してきたんですが。
一つ一つの儀式。
「手順」を踏みながら、「ああ、これはまさに生きている人間のためのものだなあ」と
あたらめて思ったのです。

 

 

(ちなみに、子どもだった頃
わたしに一番「かわいい」をたくさん言ってくれたのは
確かにこの伯母だったような、と改めて思い出しつつ)

 

 

お経を聞き、
(また、お坊さんは声がいいので、全身に響くんですよね)
お焼香をし、
そして、お棺の中に花を添え、
出棺の儀式があり、

そしてまた、火葬場での一幕があり。
何度も祈り、何度も手を合わせ。

 

 

そのプロセスを通して、
少しづつ、少しづつ、生きている者たちが
「この人は次の世界に旅立つんだ」
ということを身体レベルで「わかり」「受け止めて」いく。

 

悲しみと共にだんだんと「あきらめて」いく。
俗世から次第に離れていく、彼の人を見て、感じている。

 

そのプロセスが、
あの、段階を踏んだ様々な「行動」なんだなあ…と。

 

 

 

弔いの儀式というものは、
故人を新たなる世界へ送り出す場であると同時に、
参列する人間にとっても「死と再生」のプロセスを踏むものなのだな、
と思います。
生と死の境まで行き、そして再び戻ってくる旅。

 

火葬を待つ間、
出された仕出し弁当を黙々と食べながら、
ふと「際(きわ)」から「今」に。
「隠り世」から「こっち側」に帰ってきた感じがものすごくしたのですよね。
まるで長い旅から帰ってきたような?

 

 

ああ、生きてるんだなあ、と。
大きなガラス窓の向こうの、
雲ひとつない秋晴れの高い空を見ながら思いました。
空がほんとうに美しかった。

 

 

 

 

 

 

伯母との別れは悲しかったですが、
そんなふうに悲しみや辛さもあるこの世界を
一生懸命に生きるわたしたちには、
だからこそ「儀式」「まつり」が必要なのだな、と思います。

 

なんといましょうか。
「魂」とか、「存在そのもの」とか自分の心の柔らかいところ。
純粋なる喜び、哀しみ。
生(せい)の実感。そんな、日頃忙しくて、
すっかり忘れ果てている部分や感覚にアクセスし、味わう時間。
哀しみが昇華し、生きるエネルギーに変わる時間。

 

 

 

 

日頃の地面を這っているような近視眼的な視野の世界ではない、
自分が過ごしてきた時間や、
人生全体を俯瞰して見直すような、そんな時間。
命や志のつながりを脈々と実感するような時間。
非日常。異空間。

 

 

 

 

 

 

それを、儀式や祭祀、祭りというものは果たすのだろうな、と思います。
お葬式だけでなく、結婚式、結納の儀、卒業式、入学式…
そんなものも同じく。
土地土地のお祭りも。

 

儀式、祭祀、祭りは人にとって再生の場なのだ、と思います。
再び新たなるエネルギーで生き始めるための大切な時間。
まさに「ヒーローズジャーニー」。

 

旅立って、そして変容して帰ってくる英雄の「小さな旅」なのです。

 

 

 

 

今日は何というわけではないんですが。

 

効率、といったものとは全く別のところで、
人が人として生きるに、とても大切な時間がある、
(わたしたちの心と魂を再生する仕組み、
癒し、再び復活するための仕組みというものが、
わたしたちの伝統風習には、ちゃんと昔から組み込まれているのだなと)

と思ったのでした。

 

 

大切にしたいものだと思います。

 

 

 

ふと『予祝』してみた9月1日の朝ー今年の年末、どこで何していたい?

 

 

 

 

春のお花見が古来より秋の豊作の「予祝」であった、
ということを以前書いたことがありますが。

 

 

「いや〜。こんなに実ったねえ。神様、ありがとう!」

 

 

と。
花を稲穂に見立てて前もって祝ってしまう。
喜んでしまう。
喜びを先に味わってしまう。
それによって「豊作」を現実にする。
(引き寄せる、ってやつでしょうか)

 

 

 

 

 

NLP(神経言語プログラミング)の講座の後、
受講のみんなで、

 

 

「ヒーローインタビュー」

 

 

なるワークを(一杯ひっかけて)やった覚えがあります。
自分の夢に対して「もはや成った」ものとして、
インタビューを受ける。

 

 

そして、その氣になって答えまくる。
周りも盛り上げまくる。
「○○さん、すごいですねえ!
どうやってこれを実現したんですか??」
と。
喋っているうちに、本当にそうなる氣がするから不思議です。
(あの時の夢、叶えた人もいるんじゃあないかしら?)

 

 

なかなかに楽しい時間でした。

 

 

未来を描く。そこへ行く。
もはや「成った」場所から、今を見てみる。
NLPやコーチングにも「予祝」視点は満載です。

 

 

 

 

 

 

で。
ふと今年の年末に「飛んで」みた9月1日の朝。
浮かんだのは、心やすい友たちとどこかの座敷で飲んでいる様子でした。(忘年会?)

 

10人くらいのその場所はぎゅうぎゅうで。
(もっと広い場所でやりなさいよと思いつつ)

 

 

わたしはあまり飲みに行かないので、

 

 

「おや、これはこれは…」

 

 

 

と思いつつ見ていますと、
みんなで「今年の自分の10大ニュース」なるものを
発表し合っていました。

 

 

「わたしはどんなニュースを発表しているのかしら??」

 

 

と思っていたら、
まあ、結構なことを言っていましたよ(笑)
とっても嬉しそう。

 

 

そして、みんなから
「おおお〜!(どよめき)おめでとう!よかったねっ!」
と渦のような祝福を浴びていました。

 

これは…熱い(場所が狭いからそもそも暑いのよ!と思いつつ)
ちょっと恥ずかしい。
そして、なんと氣持ちのいい。

 

 

 

 

 

さて。
興味ある人は、やってみられては?
と思いここに書いているわけです。

 

 

ポイントは、
⭐️リアルに想像する

 

です。

 

・温度(何度、ではなく、暑い、肌寒い、など)
・質感(肌触り)
・音(声、言葉、生活音…どんな音が聞こえている?)
・におい
・周囲(場所の様子、人の表情)
そして、
・自分の「感情」と「身体の状態」(ここ大事)

 

 

 

もしかして、「それ」が。

 

いえ、もしくははるかにイメージを超えた「素晴らしい場面」が、
年末、あなたにやってくるかもしれません。

 

なにせ…
先人たちもずっとやってきた
わたしたちにとってある意味王道の方法ですし!

 

 

 

《追伸》

※もう一つ、大切なことは
「心身ともにいい状態」を作ってから想像する(未来へ飛んでみる)ということです。

くれぐれも、なんだか落ち込んでいる時、身体がぼやっとだるい時…
などにやらないように。

 

試しに続けて2回やってみたんですが、
(1回目ー普通の状態/2回目ー深呼吸&心地いいことを考えて、リラックスした状態)

 

 

1回目と2回目、予想通り出てくる想像が全く違いました。
2回目の方が大きく大きく広がっていました。世界が。

 

どうぞ、自分をいい状態にしてからやってみてください。

 

 

 

「なぜコンビニの前に座っていてはいけないのか」を子どもになんと説明するか

 

 

 

 

 

 

つい最近、(誰かの記事だったか、動画だったかで)見たのですよね。

 

コンビニ前や駅の構内で、
地面にペタッと座って飲食している子達がいたとして、

「草っぱらなんかでもじかに座る。どうしてここだといけないの?」

と問われたら、なんと答えるか、と。

 

 

で、その記事だったか、動画だったか…に、こういうコメントが。

「コンビニや駅の構内だと、
公衆トイレなどに行って、みんなそのまま歩いているから汚い。
なのでダメ、と子どもには教えています」

 

 

 

本当にその通り。
けれどでは、そこがもし、ピカピカの床で、
絶対に菌やウイルスの入り込む余地のない場所だったら
座ってもいい、

ということになるのかしらん、と。

 

 

 

 

で、わたしの率直な感想は、

「理由が…いるか?」

でした。

 

 

 

 

なんというか。

「理論」。「理屈」。
よく言われる「エビデンスは何ですか?」的な。
それがないものは存在の余地なし、みたいな昨今。

 

 

そんなものは全然「通って」いなくとも、

 

「とにかく良くないの」
「それは美しくないの」

 

という精神はもはや通用しないのかしら、と。
(お天道様が見ているから、的なですね)

 

 

 

 

 

 

 

知人が「今、仏教と神道の本を読んでいます」
と。

 

 

「自分たちはどうも、以前であればあれば自然と
『もらって』(受け継いで)
きたものを上の世代からもらえていないんじゃないか、という感覚があり」

 

 

 

 

ということなんだそうで。
(わたしから見ますと、その方、全くもって、そうは思わないんですけどね)

 

 

 

で、
ご自身の子どもに何を手渡すのか、にあたって、

 

「では、自分で再度見つけるしかないか」

 

と。

 

もらえていない、受け継いでいない、どこかで断絶している、のならば、
自分で知り、取捨選択をし、
自分で再編し直さねばならない、

 

 

 

 

と思ったのだそう。

そのためには知識が必要。

 

 

 

「根っこ」を知ることが。
揺るがぬ「根っこ」。
「真善美の根っこ」を知り直す必要がある、出逢い直す必要がある。

 

 

 

それはなんだろう??
と考え、「仏教」「神道」というものにも触れてみよう、
と思ったんだそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

これまでも何度か書いていますが。

「根っこ」を知らないもの、
根っこと繋がっていないもの、は弱いですね。
(基本・土台・型がないものは、とも言える)

 

 

 

とうとうと流れる時の中で、
自然と形作られてきた「道理」を無視して作ったものは、
どんなに「いい方法だ」と思った仕組みや考え方でも、
数年経つと、目まぐるしく変わる時の中で、
瞬く間に「合わないもの」「使えないもの」になっている感じがします。
(「時代の徒花」で笑いで済めばいいんですけど)

 

 

 

 

 

わたし達は今、大きな渦の中で、
何を信じていいかわからない。
何を支柱として生きていいかわからない。
だから、

 

 

「(有名な)この人が言っている」
「これが流行っている」
「みんながこうしている」
「『成功』している人がこうやっている」

 

 

を追いかけ、
追い求め、
右往左往している。

(この状態、「精神的孤児」という言葉で、以前書きましたが)

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、わたしたちが、
「正しい」「これが当たり前」「ずっとこうしてきた」
と思っていることも、歴史を辿れば、
戦後ほんの80年でできた「常識」であったり、
わずか160年前には全く違っていた、ということも多々あるわけで。

 

 

 

 

 

先に書いた知人が、
「わたしたち日本人を形作ってきたもの」
(自然、風土に自然と育まれてきた文化、価値観、身体観)

 

 

の源流を求めて仏教と神道の本も読んでみよう、と思った(切なる)氣持ち
わかるなあ、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

彼は、感じたのだろうと。
わたしたちが「こうだ」と思い込んできたことは、
案外「そうじゃないものもある」ということに。
ぐらり、足元が揺れ。

 

 

 

 

そして彼はきっと思ったのです。
自分の子どもたちを「孤児」にしたくないと。
デラシネ(根無し草)にしたくない。

 

 

 

 

たとえ世の中がどんなに渦巻いていたとしても、
自分の足で立って。

 

 

他者の作った真実ではない、自分の真実を。
「自分にとっての真の幸せ」を、
(それは自身の心にも身体にも至極自然で心地よく、なおかつ、
世界と自然に調和したものだと思うのですが)

 

 

生きる人になってほしいと思ったのだと思います。

 

 

 

 

 

 

決して色褪せない「根っこ」を。美しさを。
幸せに生き抜く力を、

 

子どもたちの身のうちにすっくと、しなやかに
立ち上げてあげたかったのかなと思います。
(本当に、何よりの宝だと思うんですよね)

 

 

 

 

 

 

※写真は、わたしの部屋の紫陽花です。愛おしきかな😍

 

 

 

 

「どうする家康」。時代考証グッジョブ!(ナンバ走りに萌えた夜)

 

 

 

 

 

 

昨日の「どうする家康」。

女の子(阿月ちゃん)爆走の回。

 

 

 

時代もので走る場面で、100M走の走り(現代の走り方)で
思いっきり全力疾走するのがいつも違和感だったのですが、
昨日はちゃんと「ナンバ走り」でした♪

 

(手を身体の横で上げ下げして、変な走り方だなあと思った人も多いのでは。

ちなみにあれが本当にそのまんま、当時の通りなのか、

もちろんわたしにはわからないのですが)

 

 

 

 

 

 

以前、この「ナンバ走り指導」の方の動画を見て
「ナンバ走り」を習得しようとしたことがあるんですが、なかなか難しくて。
(ナンバの動きを日々の動きに取り入れられると身体が楽で効率的、と聞き)

 

 

 

 

 

 

 

 

(動画はこちら)

https://www.youtube.com/watch?v=G29X8CBlzBs

 

 

 

 

昨日、確かにこの走りでしたよね。

 

 

 

 

子どもたちも、役者さんも頑張ってたなあと。
(こういう細かい考証が地味に嬉しい)

 

 

 

 

 

 

 

*  *  *  *  *

 

 

「日本に「西洋の動き」(運動・体育)が入ってきたのは、
幕末。
幕府によるフランス軍事顧問団の招聘による。

 

 

 

 

明治以前、日本人には
身体と心を分けるという概念がなかった。
(「カラダ」は死体のことで、
生きているこの身体は「み(身)」と言った。

 

 

 

それから約160年。
生活様式の変化とともに、わたしたち日本人は
「日本人の伝統的身体」「身体技術」
というべきものを忘れ去りつつある。

 

 

そして、
身体は「もの」として扱われ、
「ここを5センチ細く」
と…
自分の身体をモノとして
(商品のように)
「評価する」ようになった。

 

 

 

 

身体と心、精神はつながっている。
身体技術が受け継がれないと、
精神も受け継がれない。
(それを「感じたことがない」「感じられない」わけなので、本質は伝わらない)

 

 

160センチに満たない身体で
40キロのセメント袋(当時は重かった!今は25キロらしい)
を担いで軽々と山道を登っていた父の
腰肚を要とした使い方、腰の座り具合、力の出し方。
足のひかがみ(膝裏)の使い方等々…

弟には受け継がれていない。
(もちろんわたしにも)

 

 

 

 

 

日本人はどこへいくのか?」

 

 

 

 

 

 

*  *  *  *  *

 

 

 

 

昨年春のわたしのセミナー
「日本人の身体と精神と言葉の話
ーわたしたちはどこへ行こうとしているのか?ー」

 

からちょっと抜粋してみました。

 

 

 

 

 

 

「繋がる」ことは強くなることー25回俳句甲子園最優秀句は「鬼の末裔」の句

 

 

 

 

 

先日の仙台育英の日本一に続いて、

「第25回俳句甲子園」の最優秀賞に、岩手の高校生の句が選ばれました。

(東北地方の生徒が一位になるのは、これまた「初」であるらしい)

1280句の頂点。

 

こちらが詳しい記事(岩手日日新聞)

 

 

その句がすごいのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

『草いきれ吸って私は鬼の裔(すえ)』

 

 

 

 

 

 

 

 

裔(すえ)、というのは文字通り「末裔」ということですね。

 

前回の記事、仙台育英優勝の際は、幕末以降の東北の歴史について、

ちらっと引用させてもらいましたが、

 

 

「白河の関を越える」の意味

 

 

 

 

 

この句は、

東北の「蝦夷(えみし)」たちが、中央政府から「鬼」と呼ばれ、

戦い、最終的に討伐された、

はるか彼方の歴史に想いを馳せているわけです。

 

 

 

なんて、なんて力強い句なんだろう、と。

(聞いたとき、ちょっとゾクッとしたんでした)

 

 

 

 

 

 

「わたしは『鬼』の末裔」。

 

 

 

 

 

 

自分たちの「系譜」への誇り。

自分たちの歴史と文化への誇り。

自分たちの祖先がたどり、生き抜いてきた、

いわば「苦渋の歴史」への肯定と誇り。

悲しみと、強さ。

それを自分もしっかりと受け継いでいるのだ、という。

 

 

とにかく、すごい句だなあと。

 

 

 

 

 

 

 

岩手、俳句、そして「草」といえば、芭蕉の有名な句

「夏草やつはものどもが夢のあと」

が思い出されます。

 

 

 

 

 

茂る夏草の中に立って、

むせかえるような草いきれを浴びながら、

芭蕉は往時の兵(つはもの)たちの栄枯盛衰に想いを馳せ、嘆じたわけですが。

(芭蕉が思い浮かべたのは奥州藤原氏や義経のことだったかと)

 

 

 

 

 

この句からは、

かつての歴史に「想いを馳せる」だけではない、

両足をぐんと踏ん張って先祖からの土地にすっくと立って、

「草いきれ」からエネルギーをもらっているような。

力強さと背筋の伸びるような感覚を感じます。

 

 

誇り高い句。

そして思うのです。

繋がることは、強くなること、深くなること、大きくなること、豊かになること、なのだと。

 

 

 

 

 

 

 

ということで、「白河の関の優勝旗越え」につづき、「奥州、来てます!」

のお話でした。

(興味があるのですよね。蝦夷とか、アテルイの話とか。

で、ちょっと盛り上がってしまいました)

 

 

 

 

 

 

アーカイブ
Copyright © Communication Works All Rights Reserved.