りくりゅうペアと、とき放たれたニッポン

 

 

 

 

 

 

フィギュアスケートが好きで、

小さい頃から、放送されるものは見られる範囲でずっと見てきたんですが、

記憶にある男女のペアは、子どもの頃にNHK杯に出た一組と、

数年前の高橋・木原組の二組のみ。

 

 

 

 

昔はフィギュアの放送というとNHK杯しかなかく。

 

そして、ペアもアイスダンスも時間をかけて全部放送していたものでしたが、

いつの間にか男女のシングル競技のみの放送となり、

ペア?アイスダンス?なんですかそれ?

みたいな扱いになって幾年月。

(カップル競技が好きだったのでこれは悲しいことで)

 

 

 

 

 

 

さっき、フィギュア国別対抗のペアのフリー演技を見終わったところです。

三浦瑠来・木原龍一ペア。ロシアに次いで2位。

 

 

終わった時に、

 

「これでやっとつながるな」

 

という言葉がふっと浮かんだんですが、声にすることができず。

出そうとすると、喉の奥が震えて、変な音が出そうで。

つまり、泣きそうで。(なぜだ?)

 

 

 

 

ペアの美しさ。ペアでしか出せない世界。

そこにこそ感動し、やってみたい!と思う若い人たちがこれでやっと、日本にも

たくさん出てくるんじゃないかな、

と。

 

 

 

 

 

 

男女で共に作る表現、というのは、どう考えても

西欧の人たちに一日の長がある氣がします。

わたしは社交ダンスをやっていますが、まあ自分でやっていても

「その動きやるんですか!恥ずかしいんですけど!」と先生に言うことありますし。

(照れるといいますか)

 

 

これまで、日本人のペアというのは、

「二人で組んでスケートの色々な難しい技をやる競技」というレベルから抜け出せなかったように思います。

そこから先の「ストーリが生まれる」「二人の間に世界が紡がれる」

(それが見ている観客にまでを巻き込む)

というところまで、なかなか行かなかった。

 

 

 

けれど、「りくりゅうペア」(三浦りく、木原龍一、略して「りくりゅう」と呼ばれている)

からは、確かに感情が伝わってきました。

彼らが描きたい世界観が伝わってきた。

 

 

 

 

 

町田樹君(元フィギュアスケーターの、現國学院大學助教)いはく、

「日本には、フィギュアのカップル競技が練習する(育つ、だったか?)環境はない」のだそうです。

断言するんだ~、としみじみ。

(けれど、とてもわかる氣もする)

そんな中で、日本のペアの表現の大きな扉を押し開いた三浦・木原ペア、なのでした。

 

 

 

 

 

 

男と女のペア。

 

 

 

社交ダンスをしていて思うのですが、

「二人でつくる」ということは、お互いの「違い」への憧れと尊重、尊敬と賛美そのものなのです。

 

 

女性ならば、男性の美しい筋肉。支えの手の確かな力強さ。身体の軸。

自分だけでは出せない回転に速度を与えてくれる瞬発力。

それらもろもろ全てへの尊敬と賛美と信頼があって、初めてその次の、

「表現の世界」へと入っていける。

 

 

 

 

それら憧憬と賛美の想いは至極当たり前のことで、

わたしたち日本人も実は、持っているそれらの思いを

かつては自然に、喜びと共に発露させることができる民族だったのではないか、

とそんな気がするのです。

 

 

 

 

 

 

 

大好きなアメリカのアイスダンスカップルに「シブタニ兄妹」組がいるんですが、

(お兄ちゃんと妹で組んでいる日系3世のカップル)

初めて彼らの演技を見たとき、

何だか神話の時代の男神(おとこがみ)と女神(おんながみ)を見ているような氣がしたんですよね。

(縄文のヴィーナスや、天岩戸のアメノウズメのエピソードなどを見ているとそんな氣が)

 

 

 

 

 

 

 

長くなっていますが。

 

長いこと、世界に通用する選手が出てこなかったフィギュアスケートのペア。

そしてアイスダンス。

アイスダンスも、小松原美里&尊(たける)組に続いて、

男子シングルから転向した高橋大輔と村元かな組もすごいことになってきています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

声が詰まって、言葉にならなかった感覚を客観的に言葉にするに。

三浦・木原ペアの演技に、

 

 

「やっときたか~。

(これからどんどん、太古の神々の時代の熱い鼓動を。

自然な思いの発露を、普通に、溢れるように表現する若い子たちが日本にも生まれてくる)」 

 

 

 

 

 

というような予感。

喜び、でしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 《追伸》

今、学校でヒップホップが必修科目になっているようですが、

カップルのダンスをこそやればいいのに、と思います。

 

そこから学べる能力、得られるもの、培える力は、それこそ山のようにある。

自分対自分、自分対相手、自分対「場」のコミュニケーションの能力が、全部一気に鍛えられます。

 

書くと恐ろしく長くなるので、今日はここらでやめておきますが。

 

 

 

 

 

家庭内プレゼン合戦

 

 

 

 

新年あけましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

5日からセッションを開始しました。

 

 

 

新年初回「土台の構築」のことをおっしゃる方が多く、

(形としては経済のことだったり、住居のことだったりするんですが)

 

 

「みんなそういう時期が来ているのかなあ」

 

 

と。

(以前書きましたが、同時多発的に、同じことをテーマとする方々が出てくるのは

よくあることで、その度に「みんなで一緒に進んでいる」不思議な嬉しさと一体感を持つわけで)

 

 

 

 

 

 

 

そんな中。

「このセッションが終わったら行ってきます!(家族旅行に)」

という方も。

 

旅の行程の話になり、あちこちのスキー場の話や宿泊施設の話など聞いていたんですが、

たくさんの候補地といくつもの行程の話の後、

 

 

「とにかく、とりあえず出発して、最終的には鳥栖までに決めます」

 

 

と。

 

 

「ジャンクションですね!」(わたし)

 

 

 

 

 

話をまとめると、鹿児島から高速に乗って北上、そして。

 

・鳥栖ジャンクションから右折派→クライアントさんと長男さん

(湯布院・大分・サファリパークなどなど)

・鳥栖ジャンクションから左折派→奥さんと次男さん

(ハウステンボスなどなど)

 

 

 

 

ということらしいのです。

鳥栖まで3時間。その3時間で「家族会議」を開くらしく。

 

「車内プレゼン合戦ですね!」

 

とつい盛り上がってしまったんですが「いいですね。それ、やります」とクライアントさん。

 

 

 

 

 

 

なんでも、

 

・言葉と論理のご本人&長男さん。

・感情&感覚の奥さんと次男さん。

 

であるらしく、いつも、判断材料を提供するのは自分と長男。

けれど最終的には奥さんと次男さんが決めている(というか、そっちの方の意見が通っている)

氣がする!んだそう。

 

 

いい取り合わせだなあと思いました。

 

 

 

 

 

 

長男さんは、

どんなに完璧でも何か通じない「理屈」の先にある「伝える力」を知るでしょうし、

 

次男さんは、

伝えるとはどういうことか、根拠とは何か、情報を集めるとはどういうことか、

伝わるように言葉を選ぶとはどういうことか、という「プレゼンの基本」を知るでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

「自分の考えを言葉で表現する」

ということの出発点は家庭から始まります。

 

 

自分は今こんな状態だ。

こういう理由でこれが欲しい。

今、こういう氣持ちになっている。

だから、こうしたい。こうして欲しい。

 

 

一見簡単なようでいて、これができる子は案外多くなかったりします。

(いえ、わたしたち大人でさえ、できないこともあ多々あるんじゃあないでしょうか)

 

 

 

 

自分の思考を見つめる。伝わる言葉にする。

自分の感情を見つめる。伝わる言葉にする。

 

 

 

 

この力は、一生を通して必要な力です。

そして、この作業は、まずは大人の適切な問いかけによって、始まります。

 

待つ。

問いかける。

答えを待つ。

問いかける。

この繰り返し。

 

 

 

 

 

全てを周りの大人が察して、寝転んでいても欲しいものが出てきていた。

先回りして全てがお膳立てされた環境で大きくなったんだろうなー、というような子(と若者)も

見てきましたが、

(なんかね、色々と大変ですよね。大人になると)

 

 

 

 

 

 

 

さて、我がクライアントさん一家の「車内プレゼン合戦」。

 

「夕方、どちらに曲ったかの写真をお送りします!」

の言葉とともに、出発して行かれ。

無事、見事な美景の写真が夕刻、送られてきました。

 

 

 

 

結局どこの写真だったか??

それはわたしだけの内緒なのです。

 

 

 

 

 

 

(※写真は甥っ子たちに送った年賀状です。滅多に会わないので、ここらで爪痕を残しておこうと、

頑張って鬼滅の絵を描いてみたんでした)

 

 

子どもは大人が思っている5倍は「わかっていて」「見えていて」「出来る」

 

 

 

 

「声のワークショップ*リハビリ♪」

 

 

 

なるものを5月末からやっています。

 

 

ご時世で、セミナーを休んで約3ヶ月。

研修業務も休み。

身体が鈍るなあと思い、トレーニング方々始めたのですが、

一人でやるよりは、と思い、

 

 

「来たい人来てね」

 

 

と声をかけ、密とやらにならぬよう30畳の大広間に少人数で…とやっているのですが。

 

 

 

 

 

 

で、

その第2回に、小2の女の子がやってきました。

 

 

高校生より下はセミナーをやったことがないので、

「おう、小さい!」

となんだか物珍しい可愛い生き物を見るような感じもあり。
 

基本、「お子様の扱い」というのもはわからないので、

いつも通りだったんですが、そう言いながらも観察するに、

 

 

 

 

「すべての活動において、なんら遜色ない」
「一度の説明でスルリと理解し、参加してくる」
「リズム感、文章の波に乗ってくる感覚はむしろ大人よりいい」

 

 

 

 

しかも。

 

 

一つの作品を、「どう読むか?」と…
つまり、どこをどうばらけ、または一緒に声に出す、
などなど…その場で軽く、いわば
「演出プラン」をみんなで出し合いながら、
サクッと作っていくんですが、

 

 

明らかに、彼女がぽそっと呟く「プラン」をみんなでやってみると
「いい」。
「しっくりくる」。
「盛り上がる」。

 

 

 

 

 

 

 

私が持っていったものは流石に漢字だらけで、
(またもや講談を持っていった^^)
紙に「ふりがな」を書き込む余白すらなかったので、
この日はやらなかったんですが、

 

 

 

きっと彼女は、
「読み仮名」さえ書ければ、
とっても楽しんでくれたろう、
(見てみたかったな。残念だったな)

と思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何度かブログにも書き、
熱く語っていますが、

 

 

 

「子どもを見くびるな」
「子どもにこそ本物を」
「口当たりのいい(大人が勝手に「子どもにはわからないだろう」と改変した)紛い物ではなく、

噛みごたえのある良質のものを」

 

 

 

 

 

 

子どもは、
私たちが思っているよりずっと、
「見えている」
「知っている(知識ではなくても、身体が知っている)」
そして
「出来る」

のです。

 

 

 

 

 

(思い出せば、教員の頃、生徒をみていてもそうでした。
いつもはるか予想を超えて、創造し始める。
任せれば任せるほど生き生きと、すごい力で成長していく。

 

 

 

 

だからこそ、私たちの仕事は、

「未だ世に出る前の、目の前の、なんでも吸収してしまう
若木たちに、どれだけ、

 

『自分の心身でちゃんと生きて、

体感してきた(ココ大事)本物を提示できるか』

 

 

であった、

し、今もそうだ、と思うのです。単なる知識ではなくてですね)

 

 

 

 

 

 

*   *   *

 

 

※私の「リハビリ」に付き合ってもらっているという形なので、

参加料は無料なんですが、一つだけ持ってこないといけないものがあり、

それは、

 

「自分が声に出して読みたいもの、語りたいもの」

 

 

氣張ったものを持ってこなくても、

例えば好きなお店のコースメニューでも、家電の取説でもOKよとお伝えしているんですが。

 

 

 

 

 

この日は、下記の「お題」が集まりました。

 

 

《この日のお題》

①いるか
「ことばあそびうた」より
谷川俊太郎 詩
瀬川康男 絵
福音館書店

 

②そうだ村の村長さん
阪田寛夫
「しゃべる詩あそぶ詩きこえる詩」より
はせみつこ 編
飯野和好 絵
冨山房

 

③わらべうた
♪ほ ほ ほたるこい
♪ほたるこい
譜「にほんのわらべうた④楽譜とCD」より
近藤信子
福音館書店

 

④「Happiness」(ハピネス) 嵐

 

⑤【ちょっと一息】
「みるなの座敷」(ご参加者演じる「素話」)

 

⑤風の又三郎より一部
「声に出して読みたい日本語」より
斎藤孝
草思社

 

 

 

「今、一致しているか?」と自分に問おうーコミュニケーションにおける安心感・信頼感とは

 

 

 

◆「声は「越ゆ」ー志を届ける声と言葉と表現を磨くワークショップ」

https://peraichi.com/landing_pages/view/arumoni

 

 

 

 

 

 

一昨日、知人から聞いた話なんですが。

 

 

 

お子さんの通う中学校の校長先生が、

朝礼で全校生徒を相手に「じゃんけん大会」をするんだそう。

 

そのじゃんけん大会にはルールがあって、

勝っても負けても生徒は、

 

「いえーい!」

 

 

と大声で言わなければならない。

 

負けた子も、とにかく

「いえーい!」

と叫んでから、座る。

 

全身全霊で、飛び上がって、「いえーい!」と言う。

言わせたい。

 

それが、校長先生の意図だそうで。

 

 

 

 

全身から出てくる喜び、嬉しさ、感動、楽しさ、ある時はがっかり

それらと、

 

自分の「声」「身体」そして「言葉」。

全てが一致している。

それらを、存分に、思いっきり全身で表現する。

 

 

 

思えば、そんなふうに最後に在ったのはいつかなあ、と思います。

皆さんはいかがですか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、子どもでさえ、

「そうでないとき」が、結構あるように思います。

 

(わたし自身でいえば、本当に「そう」だったのは、

小2か小3のはじめくらいまでだったような。

 

大人になってからは、固まった心と身体をほぐし、

自分の本当の声と言葉を取り戻す旅)

 

 

 

 

 

 

自分の身体の奥底から、しっかりと湧いてくる声。

 

誰のものでもない。

自分の身体感覚、感情、快不快、価値観、自分の軸…それらとしっかりと結びついた言葉。

 

 

 

 

 

 

 

それらがある人は強いなあ、と思います。

極端な話、どこででも、何があっても生きていける。

そんな氣がします。

 

 

 

 

 

 

声はその人の生命のエネルギーそのもの。

言葉はその人の意識、無意識含めた心、そして精神活動そのもの。

 

 

 

「自分の声」「自分の言葉」で世界に向けて真実、発することのできる人は、

(この、真実、というところに力を込めてみました)

そうですね…

 

 

例えていえば、モデルさんの世界なんかだと、

 

 

 

 

「無地の白のTシャツとデニムでぼんやり立っているだけなのに、

存在感ありまくりで、メチャクチャかっこいいモデルさん」

 

 

 

 

みたいな感じ、でしょうか。

 

飾ってもかっこいいけど、

何もなくても、身一つで完全にイケている。

 

風が吹くようにスッキリとそこに立っていて、

存在感と影響力が、もうダダ漏れになっている。

 

 

 

 

逆に、どんなに飾っても、何かしっくりこない。

あざとくみえる。嘘っぽい。

イタイ。

変な感じが伝わってくる。

(ましてや白Tだけなんて、全く通用しない)

 

そんな人もいたりするわけですし。

 

 

 

(妙な例えでかえってわかりにくくなったかもですが)

 

 

 

 

 

 

 

意図(何をしたいのか、何を伝えたいのか?)

と身体の状態と言葉が「一致している」。

それはコミュニケーションにおける絶対条件です。

 

 

 

どんな笑顔、きれいな言葉、耳障りのいい言葉、

美しい、かっこいい(と自分が思って出す)声で語っても、

一致感なきところに相手の安心感なし。信頼なし。

感動なし。

(けれど、この、一致していない人や状態を、

とてもよく見かけるのです)

 

 

 

 

 

 

 

「今、わたしは一致しているか?」

 

 

 

 

 

 

コミュニケーションの出発点として、

(1対1であれ1対他であれ)

たくさんの資料を準備することより、

どんないいことを言おうかと考えるより、

 

 

 

いえ、それと同時に、と言っておきましょう。

私たちは常に、自分自身に問いかける必要があるのです。

 

 

 

 

 

「演じる」ことの効用はー演劇が及ぼす力

 

 

 

 

 

姪が参加している劇団の公演を見に行ったのです。

 

 

見たもの聞いたものは自分に移ってくるので、

基本、表現活動は自分が「これはいい」と確信したものだけ見るようにしているんですが、

今回はやはり「身内」ということで。

 

 

 

 

わたし自身も、20代、地元の劇団で、この姪のように

お芝居をしていた時期があるんですが、

公演を見ながら、しみじみと、

 

 

 

「お芝居っていうのは、エネルギーがいるよなあ」

「昔は、これだけの体力とエネルギーが自分の中にもあったんだよなあ」

 

 

と、そんなことを思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

本題は「演劇が人に及ぼす効用」について。

 

 

 

 

 

私自身、

演劇経験を通して、

大げさにいうと『人生変わった』感覚があり、

 

教員時代は、

その『効果』も意図して、子どもたちと、

中学生にしては結構高難度な舞台を作っていました。

 

 

 

 

人って、本当にどこまでもどこまでも伸びていく。

限界がない。

そして、何者にもなってゆく、

 

ということを毎回実感していたものでした。

(ああいうのを「生きていると感じる瞬間」というんでしょう)

 

 

 

 

 

 

人前では耳まで赤くなる。

顔すらあげられない、

つっかえつっかえ喋るような子が。

 

 

 

やがて、腹の底から朗々と、

響き渡る声を出すようになる。

その、まっすぐ前を見る目に、宿る光の強いこと!

 

 

 

 

さて、

演劇のもうひとつの効用なんですが、

それは、

『セリフがあること』。

(何じゃそりゃ、当たり前、と言われそうですが)

 

 

 

『自分のものではない、他者の言葉で他者の人生を生きる』

 

 

 

 

これがとてもいいところ(大切なところ)。

前に書いた、

『人の変化』

 

 

 

それがなぜ起きるかというと、

『大きな声を出す訓練をしたから』。

ただそれだけではないのです。

 

 

 

 

●『他者の言葉、他者の人生に仮託して、自分の感情を解放する』

●『他者の言葉、他者の人生に仮託して、自分も知らなかった、

  自分の内なる能力にアクセスする』

 

 

 

 

 

優れたストーリーと、優れた『言葉』を持つ演劇では、

これが起こります。

演者を、1人では越えることができなかった、

そもそも、その存在すら知らなかったような(未知の)世界へ、枠の外へ、

いとも簡単に連れてゆく。

 

 

 

 

それが、優れた脚本と、優れた演劇が持つ力です。

身体、精神の両方とも

「枠を超え、はるか先へ行く」ことができる。

 

 

 

 

ここまで書いて、

日本でももっと、

演劇を取り入れた授業やビシネスセミナーが盛んになってもいいのにな、

とつくづく思います。

 

 

 

「知識」「分析」「判断」「思考」…

そういったものを超えた(包括した)

感覚こそが、これから必要とされる時代が来る、

 

と、そう思います。

 

 

 

 

12月ですが、

地元でやる関連ワークショップ。

 

https://peraichi.com/landing_pages/view/arumoni

人は私たちの言葉ではなく、私たちの出す「音」を聞いている

 

 

 

 

 

というのは、今、心地の悪い響きで発せられた言葉を聞いて、

それに「刺された」ので、

(比喩ではない。いつも心臓のあたりが痛くなる)書いているわけですが。

 

 

 

言葉を聞いていないというのも言い過ぎで、聞いてはいるんですが。

でも、「言葉の内容」と「音」。

どちらがより根元的に、深いところで相手に影響を与えるか、というと「音」です。

響き。

 

 

 

 

 

 

 

理由は、

言葉の内容は頭(意識)で捉えるが、

音は身体(無意識)で捉える、から。

 

 

 

 

 

私たちは、どんな言葉を発するか、以前に、

自分がどんな音(音色/おんしょく)でもってその言葉を発しているか。

どんな波長でもってその言葉を発しているか。

 

 

 

自分の出している「音」にもっと敏感になり、

繊細になり、注意を払う必要があります。

音には意識的、無意識的に感情や意図が入る。

 

 

 

「こんなときはどう言ったらいいですか?」

 

 

 

などとよく聞かれますが、言うこと以前に、

「出す音を少し繊細に、

(とか、柔らかく、とかエネルギーを入れて、とか、どどんと!…)

すればいいんじゃないの?」

 

 

 

などなど、思うことがよくあります。

文言を(表皮部分を)変えてうまくいけばラクではありますが。

(問題の本質はそこにはないんですが)

 

 

 

 

 

 

「(例え言葉がどんな言葉であっても)

傷つけるような『音』を出していなければ傷つかない。

音に、摩擦のエネルギーや荒さがないから」

 

 

 

といったのは並木良和さんですが、本当にその通りだな、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

もう一つ、大切なのは何より大切なのは、

「言葉の内容」と「音」を100%一致させること。

 

 

 

私がしょっちゅう言っている氣がする

「言葉と自分を一致させる」

ということなんですが。

これが一致していないと氣持ち悪いことおびただしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

目の前の人は、生身の人間です。

頭でどんなに「いい内容喋ってるんだけどね」と理解したとしても、

 

 

 

身体は嘘をつけない。

言ってることと出してる音にズレがあるなあ〜、

ということをちゃんと身体は(無意識は)キャッチする。

 

「あれ、なんかわかんないけど氣持ち悪いなあ」ということになる。

 

自分にとって「共振」しない音には身体も心も開かない。

 

 

 

 

 

 

 

例えばプレゼンとは、つまりは

自分の出す音でもって、目の前の人と場を共振させる、ということ、なのです。

そして、その第一条件は、

「使う言葉と自分の出す音の一致感」。

 

 

 

 

 

 

 

つらつら思い返せば、

私の身近なコミュニケーション巧者・プレゼン巧者は

(世間一般にいう声の良い人、や「立て板に水」の人ではなく、心から信頼できる巧者たち)

例外なく、私にとって「言・音一致」の人たちです。

 

 

 

 

 

 

そして、

そのこの上ない一致感、しっくり感の上に立って、

「豊かに、自分の表現したいことに沿って自身の音を自由自在に使える人」

 

 

という感じでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

すごいものを見た!ー背中で語る男たち

 

 

 

 

瞬時に「背中の貴公子」!と命名してしまったんですけど。

 

 

 

知人から誘っていただいた日舞の公演。

当日ぽかっと時間が空き、急遽見に行ったのですが、

そこですごいものを見ました。

 

 

 

 

その公演は、鳴り物も全部生演奏で、

唄、三味線、鼓、笛…もう本当にすごくて

(Eテレ「古典への招待」でいつも見ている通り←書いていて悲しい。所詮テレビなのです)

 

知人の踊りもまあ!美しくて、

そのことも書きたいんですが、今日はさらに滅多に見られないものについて。

 

 

 

 

 

 

それは、これ↓(下記写真参照)黒の紋付と袴の人。

「後見さん」と言うそうです。

 

(写真は資料です。お借りしました)

 

 

 

 

 

 

踊り手のサポートをする人。

刻々と変わっていく小道具を舞台上で渡し、取り替え、

衣装のラインをこまめに整え…

「引き抜き」と言われる衣装の舞台上での早変わりを執り行う人。

 

 

 

 

常に、踊り手に意識を注ぎ、

踊り手が最高の美しさで踊れるように存在する人。

 

 

 

踊りの流れも、

そして、

観客がその世界にどっぷりと浸ることも決して妨げてはならない。

 

 

 

 

 

そこにいるけれど、いない人。

それが「後見さん」なのです。

 

 

 

 

 

このお役目。

踊りと、場面の進行と…ものすごくタイミングを要する複雑な仕事なのですが、

決して踊り手を、

 

 

 

「ガン見」

 

 

 

してはならない。

なぜなら影だから。

正面を向いて座っていることは愚か、

くいっと顔を向けて舞い手を見ることすらしない。

 

 

 

そこに自身の存在があってはならないのです。

 

 

 

 

 

 

したがって、後見さんは、

 

「背中で」

 

踊り手を、見る。

舞台奥。

客席に背を向けてしん…と端座し、

まっすぐに伸びた背筋、やや首をうつむかせ、面をかすかに斜めに傾け…

 

 

 

 

 

背中で。

そして全身で、全神経を集中させて、舞い手と、舞台全体を

「見て、聞いて、感じ取って」

いるのです。

 

 

その姿は美しい。

後ろを向いているのに、その人の背中から出た「意識」が

舞台上に張り巡らされているのが見えるような氣がしました。

 

 

 

 

 

 

そして、そんな舞台上の踊り手と後見さんに、

なぜか私の口から飛び出てしまったのは…

 

 

「君ら…オスカルとアンドレかっ!」

 

(古い。古すぎる)

 

 

 

 

 

影なのに美しい。

影の役割をこんなにもまっすぐに全うしている、その姿は美しい。

 

 

 

 

 

ちなみに、

舞台上で使い終わった衣装や小道具を、

曲の途中で袖に持っていったりもするのですが、

当然、「スタスタ」とフツーに歩いて荷物を持ってはけることなどしない。

客席に背中を向け、ススス…と、

「なきもの」として持って、去っていきます。

 

 

 

 

 

 

さて。

本当に、滅多に見ることができない「すごいもの」を見てしまったのですが。

いろんなところで、

 

 

 

「部下が動かない」

「学生が動かない」

 

 

 

 

と言う「困りごと」を聞く日々。

 

 

 

 

「一度後見さんの訓練をしたら、

みんな恐ろしく『氣づけて、即、身体が動く人』になるだろう」

 

 

 

 

 

と思ったのでした。

(まあ、そんなことのために来られても、

日舞の世界の方々、迷惑なだけですけどね^^)

 

 

 

 

 

 

[追伸1]

「背中の感覚を磨く」と言うのは、私もとても大切にしている部分で、

若者セミナーや表現系ワークショップでは必ず取り入れているんですが、

今回さらに「やっぱりそうか」と確信を持ちました。

 

 

[追伸2]

この体験を通して、一つ思うところがあったのですが…

つまり、「こんなに後見さんが美しくていいのか?」

「こんなに後見さんに、ある意味目が行ってしまっていいのか?」という。

 

後日、Eテレで、ものすごく「枯れた」後見さんの「後見ぶり」をみて、

「なるほど〜」と思いました。

つまり、先日の「後見さん」の役の方にも、もしかしたら、

もっと先の世界があるのかもしれないと。

 

 

 

 

(美しい男性の話①「腰から動く男はかっこいい」はこちら)

https://ameblo.jp/businesskouko/entry-12492381046.html

 

 

 

三脈をとる〜身体はすごい(全てを知っている)という話、でしょうか

 

 

 

三月くらい前のことなんですが、

飛行機の中で、2歳くらいの女の子が泣き止まなかったことがあったのです。
離陸した直後から、結構な大きな声で泣きじゃくっている。ず〜っと。

 

 

 

「怖いよお〜、怖いよお〜、降りようよお〜、早く降りようよお〜」

 

 

 

 

 

若いお父さんはほとほと困り果て、
席を立ってトイレ前であやしたりするんですが、泣き止まない、
どころかますますひどくなる。
もはや引きつけ寸前。

 

 

 

で、
こっちはと言いますと、大変ですね、どころじゃなく、

 

 

「こ、怖いよ〜!!!(涙)」

 

 

なにこれ。
この、まだ半分天に足を突っ込んでるような子どもがこんなに泣くなんて!
こ、恐い…こっちこそ「怖いよ〜」だよ!

 

 

 

(頭の中には、小さい頃「怖い話特集本」で読んだ、
子どもだけに何かが見えた話とか、
子どもがあまりに泣くので、旅人を泊めなかったろところ、
その男は殺人犯でした…

 

みたいな話がグルグル)

 

 

 

 

で、必死にとりましたよ。
「三脈」。

 

 

(…だ、大丈夫だ、脈は合ってる。
いや、今さら飛行機ん中で「合わない」っていわれても、
もはやどうしようもないんだけど…
合ってる。大丈夫!この飛行機は無事だ!)

 

 

 

 

泣き声鳴り響く機内で自分の脈を測り続けること数十分。
飛行機は無事滑走路に着陸。

 

 

 

 

降りてから、同乗者に、
「あの子、ずっと泣いてたね…つい脈とっちゃったよ」
(意味わかんないだろうな、と思いつつ)

 

 

 

とボソッと言ったところ、

 

「自分も」。

 

と言われ、

 

あれ、なんでこの人三脈知ってんの?
あ、私が震災後に教えたんだった、
などなど思いながら…

 

 

 

 

怖いのは自分だけじゃなかった、
とちょっと安心したんでした。

 

 

 

 

 

ここまで読んだ方。

心配性〜、と笑うかもしれませんが…

 

 

本当に本当にあの時は怖かったんです!?

 

 

 

 

 

●三脈の法●
https://blogs.itmedia.co.jp/nagaichika/2013/…/post-2ff8.html
この記事に出てくる甲野善紀さんは私も尊敬している古武術家です。

 

 

なお、三脈のどこがずれているかで、

どんなトラブルの可能性があるかがわかる(という説がある)らしく、

日常やビジネスの決断、判断シーンで活用している人もいるようです。
興味ある方は、「三脈・決断」等で調べてみてください。

 

 

 

それをするのがあなたでなければならない理由

 

 

 

 

知人から「家の近所で摘んできたマルベリー」というものをもらい、

 

「ソースにすると美味しいですよ♪」

 

とのことで、今煮ています。

 

 

 

 

 

知人は「ベニシアさん」みたいな人で、

とても丁寧に「手をかけた」生活をしている人で、才能だな✨✨✨といつも思います。

 

 

 

 

「意識せず自然にやってしまうこと。
自分にとってはとても普通で、
息をするのと同じくらいにやってしまう行動や思考のパターン」
→「才能」

 

 

 

この知人の家に入ると、
入った瞬間から空氣が違う。
パタン、と外界と遮断され、静かで落ち着いた、
苔むすみずみずしい深緑の静寂に入って行くような感じ?
(あくまでもわたしの体感)

 

 

 

 

 

 

そして、ここで出される一つ一つのお菓子がまた☺️(喜)

 

 

知人の出すお茶
(美しい茶器で、中国茶を出してくれます)
と、お菓子を味わっていつも実感することは、

 

 

 

「人の土台が、表に現れる」

 

 

 

ということ。

 

 

レシピがあって、材料を混ぜる。
誰でもできるシンプルなものであっても、きっとものすごく違いが出る。

 

その材料と材料を「つなぐもの」「間にあるもの」が
いきなり大きい話ですが、

 

 

 

「その人の在り方」

 

 

 

なんだろうなと。

知人のお菓子やお茶は、そういう味なのです。

お菓子を味わっているのではなく、

お菓子を通して、その知人の静寂や満ち足りた感覚や、

穏やかな時間や…そんなものを

 

 

「おすそ分け」

 

 

してもらい、自分の中にもらっている氣分になります。

(実際、そのあととても癒されたり、元氣が出るので、

「いただいている」ということになると思うんですが)

 

 

 

 

 

 

 

話を戻して。

そして、その「差異」こそが、その人の個性であり

 

 

「それをするのが、その人でなければならない理由」

 

 

 

なんだろうな、
と思います。なんの仕事でもそうなんだろうなと。

 

 

 

 

 

 

 

この知人の在り方、
毎日の過ごし方にとても憧れているところです。

 

 

 

 

 

「美しき校歌、金足農(祝!準優勝)」

 

 

金足農業高校の選手の皆さん、準優勝おめでとうございます。

 

わたしは鹿児島在住なので、今大会、一回戦で鹿児島実業が金足農校に敗れ、

それ以来応援していたのですが。

下記の文章は一回戦が終わった翌日にフェイスブックにアップした文章です。

 

 

❉       ❉        ❉

 

《(鹿実に勝った)金足農の校歌が美しいなあと思いまして》

 

 

うましき郷  我が金足
霜しろく  土こそ凍れ

見よ  草の芽に  日のめぐみ

 

農はこれ  たぐひなき愛
日輪の  たぐひなき愛

 

おおげにや  この愛
いざやいざ  共に承けて

 

やがて来む  文化の黎明(あさけ)
この道に  われら拓かむ
われら  われら 拓かむ

 

 

 

「霜しろく 土こそ凍れ」
って、南国の校歌ではまず歌えないですね。
(当たり前ですが^ – ^)

ああ、
そんなところでこの生徒さんたちは生きているんだなあ。
だからこそ
太陽の恵みを「愛」と
高らか歌いきるんだなあとそんなことを思いました。

 

 

格調高い言葉に、特に若い頃にたくさん巡り会える人は幸せだ、
と思います。
それは、その人の無意識層に染み込み、その人の人生を助けるものとなるからです。

 

 

❉     ❉     ❉

 

この日以来、

各試合を見る時には、試合はまあ、見るとして

どちらかというと、終わった後の各校の校歌を一生懸命聞くようになりました。

おかげさまで、

 

「校歌に使われる言葉ベスト20」

 

が書けるくらい^^。

 

 

見た限り、

やっぱり、金足農校の歌詞が一番うつくしい…といいますか、好みでした。

 

 

何が好みかと言いますと、

金足農の校歌は

 

「実際に使う人の身体感覚と結びついて発せられる言葉」。

 

という感じ。

聞いていて、その言葉の向こうに、その人たちの生活、息遣いが感じられる。

「農はこれ かぎりなき愛」

のところなどもう…

土に生きてきた秋田の先人たちの思いも含め、

しっかりとこちらに伝わってくる、という感じでしょうか。

さすが、農業高校!

身体を動かし、触れ合い、体験する、ということが学びの中心ですものね。

 

 

 

 

わたしの出身校(小・中・高校)の校歌を思い出しても、

結構「パターン化」されているのですよね。

並んでいる言葉自体は美しいんですが、あまり実体がないと言いますか。

そこに、身体を震わせるようなしっくり感があまりない。

 

 

山がそそりたったり

平野をみはるかしたり

うるわしかったり

ひかりがあったり

しているんですけれどね。

(やはり普通科などだと、どうしても言葉が抽象的になりがちなのでしょうか)

 

 

 

 

金足農が勝ち進むたびに、

「またあの美しい校歌が聞けるかな♪」

 

という思いもあって、ますます楽しみに応援していた今回。

 

 

 

 

今日、あの美しい校歌を聞くことは残念ながら出来ませんでしたが、

彼らの身体と心と精神を培い、

今日、ここまで連れてきてくれた

「うましき郷」に。

 

彼らを育んだ土と日輪の恵みのあふれる北の大地に

満面の笑顔で凱旋してね、と思うことです。

 

 

 

 

 

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