清里の街の再生に思うーつまりはわたしたち日本人全員の課題

 

 

 

 

 

今朝ほど清里の街の再生をする人たちの番組を見ていて、
なんだか悲しいやら切ないやらの気持ちになっていたところでした。

 

清里高原がブームになった時、
あそこに一斉に押し寄せていた若者たち
(パステルカラーの服を着て「聖子ちゃんカット」をしていた人たち)
とわたしは大体同じ年代なのだけど。

当時から幕末オタクの神社仏閣好きということもあって、
あの、キッチュな偽物(いかもの)チックな清里の雰囲気に、
なんとなく

 

「恥ずかしいな…」

 

という感慨を持ってみていたのだけど。

 

けれど、そんなわたしですらパステルカラーのものを、
何かしら身につけていたように思うので、
時代?流行り?空氣というものは本当に恐ろしい。

 

 

その番組には、清里の地元の人たちが描かれていたのだけど、
みるからに「本当に難儀だったろうなあ」と想像するに十分で。

 

ブームの時。
外からどっといろんな人たちが入ってきて、
「キッチュな」「イカものな」(言い過ぎ?)
お店をどんどん建てて、人が集まって。
その雰囲氣に乗って、地元の人たちも同じようにして。
「ああすれば儲かるのだ」「乗り遅れるな」と。

 

けれど、ブームが去った途端に、
外から来た人たちはさあっと潮が引いたように清里から去っていき。

 

後は、食い荒らされた土地に、
歯抜けのような空き店舗だらけの街。
その中にぽつねんと取り残された自分の店。

 

辛かったろう。
悲しかったろう。
歯痒かったろう。
絶望したろう。

 

と思うのだ。

 

 

父親からのレストランを引き継いだ一人の男性。
父親の工夫と努力で繁盛していた店を、
ブームに乗って改築し、席数を増やし、
効率優先で多くのお客を捌くために冷凍食品を使うようになり、
そしてブームが去った時、お客も去っていった。
お店は負債を抱え、閉店。

 

今、がんとして加工品を使わず、
パスタ麺を自分で打ち、カフェを続けるその人。
(喉から手が出るほど加工品を使いたいけど、でも使わない、と言っていた)

 

きっと彼は深い後悔の中で、この30年間
「自分とは何か?」「自分はどう生きたかったのか?」
を探し続けてきたのではないかと思え。

 

「清里だからお客が来るんだと思っていた。
でも、そうじゃなくて、いいお店があって、
それがたまたま清里にあった、じゃなきゃいけないんだ」

 

いうのはその人の言葉。

 

 

 

清里(のような、もしかしてあちこちにあるかもしれない街)が再生するとき。

 

今度こそ、その土地に根ざす人たち、一人一人の意思と、知恵と、
まことなる自立の心、
「こうしたい!」
「これが自分たちなんだ!」
「これを大切にするんだ!」
という心からの思いで街が息を吹き返すとき。

 

日本も真の意味で再生していくのではないか?と思える。

 

 

それは結局、
わたしたち一人ひとりの心の中、在り方と無縁ではなく。
(全てはフラクタル)

 

清里の人々だけでなく、
この大きな変化の時、
わたしたち日本人一人一人に、刃のように突きつけられ、
問われている、
大きな「喫緊の課題」なのだろうとも思える。

 

 

 

 

どこへ行く日本人。どっちつかずの日本人。お前は何者?

 

 

 

今日から浴衣を着てみたんですが。(7月の声を聞いた途端、うずうずしてしまい)
半分は趣味、半分は仕事でしょうか。

 

 

 

 

話は飛びますが、
偶然「フットケア」の特集番組を見まして。

 

足の不調(外反母趾や、巻き爪、魚の目、たこ…や何やかやで痛くて歩きづらい)
をどうケアするか、という話と、
予防として、そもそも「そうならない」ための「靴選びや歩き方」、

といった内容だったのですが。

 

 

それを見ていて、思ったことは、

 

「なんだかんだ言っても、わたしたちは『靴』に馴染んでいないし、
『靴で歩く』ことにも扱いにも慣れていないのだな」

 

ということでした。
靴を履き始めて160年(やっと)。
身体なんて、そんなにあっという間に変わるものじゃない。

 

 

一体、何人の日本人が足のため、
身体のための「靴の正しい選び方」「扱い方」をちゃんと、
お味噌汁を作るくらいの「当たり前」レベルで
知っているだろう、出来るだろう、と改めて思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

で、
ふと思い出したのですが。

 

相当昔の話なんですが、何かの番組で、
「オードリー・ヘプバーン」の問題が出ていて、その問題が、確か

 

「オードリーが小さい頃、足が綺麗にちゃんと成長するように親ががやったことは?」

 

というような問題だったのです。
で、いくつか選択肢があって、
答えは「足首まである編み上げ靴を、紐を締めてしっかりと履かせる」
だったように覚えています。

 

 

今思えば、向こうの人たちにとって、そういうのは、
至極当たり前のことなんだろうなあと。

 

 

 

 

 

で、日本人なのですが。

 

 

では、草履や下駄を履き、畳や板の間で「座して」暮らすことで
昔からご先祖が馴染んできた、

 

「身体の使い方」

 

は身体にちゃんと息づいているか?というと、
それももう、ない。

 

 

 

そして、今の若い子たちは「蹲踞(そんきょ)」ができず、
丹田の場所がわからず(こういう役者の卵の子に会ったことがある)、
浴衣の帯をウエストで結び(男の子です)
腰を立てて姿勢をキープできず。

 

しかも衝撃だったのは
10代から「尿もれ」を起こしている女の子がいると。
(骨盤底筋が弱いのが原因らしいのですが、
これは、和式の生活をしていればごくごく自然に鍛えられてきたものなのだそう)

 

 

 

 

で。
「どこへ行く日本人」
「どうする日本人」

 

と思ってしまったわけなのでした。
もう「和」は捨ててしまった。
どっちつかずで何者でもなくなってしまうんじゃないか?と。

 

 

フラフラと。
あっちへいき、こっちへいき、何が正しいのか?
何を軸にしたらいいか、とても深いところでわかっていないというか、
なくなってしまっている。
その精神も、「よって立つ『よすが』がない」感じ。

 

 

それらは、こういったところにも
(生活様式、身体の使い方が伝承されていないところにも)
その原因はあるのではないか??
とずっと以前から思っているのです。

 

身体の軸と精神の軸はしっかりと繋がっているわけですから。

 

 

そんなことを考えつつ、浴衣でここに座っている今。
(近所の人と、カフェの店員さんから
「何かお稽古ですかっ😃!」と声をかけられつつ)

 

 

 

 

それにしても。
「和のよそほひ」って、背中を丸めようがないなあ、と
(下腹が定まって楽だよなあと)。

 

それに、下腹で楽に全身を支えられるので
(帯で下腹をきゅっと締めてますんで)
肩に余計な力が入らなくて、大変よろしい。肩こり防止に。

 

 

 

 

日本人の中心は「肚」なんだなと。
頭(思考)と、胸(感情)と、肚(意思・精神)。
最終的には、腑に落とし、決断し、
そして「肚からの声」で伝えるのが日本人だったんだろうなと。

 

そんなことをつらつらと思っているところです。

 

 

 

自分の中心から動くと、最も自然に力が発揮できる

 

 

 

 

2週間ほど前、ちょっと動くと途端に首がバリバリと痛くなることが数回あり、

考えた挙句、

 

「重い荷物を腕だけで持ち上げようとする」

 

のが原因だなあ、と気づきまして。

 

 

筋力の衰えに反して(筋力が落ちているのも問題ですが!)

持ち歩く荷物の重さは変わっていないもんなあと。

 

 

そうなると「腕から動く」のをやめる必要がある。

腕の力のみに頼るのをやめて、

 

「中心から動く」。

 

「古武道の身体の使い方を介護に活かす」

的な番組で見た知識を思い出しながら、

臍の下。丹田と呼ばれるあたりから動く。そこを意識して、連動して動く。

を意識しているのだけど、

そうするとだいぶよいのです。楽になった。

(今やすっかり首は元気です)

 

 

 

ここで思い出しているのですが。

 

ダンスを踊る際に、

「腕を動かす」「足を動かす」というような意識の踊り方だと、

一見、派手に上手に踊れているように見えても、

バタバタした素人くさいダンスになってしまうのです。

 

 

身体の中心に落ちた一滴の水。

その波紋が同心円状に全身に広がっていくような感覚で動くといい。

 

身体の中心で起こった静かな揺れが、

指先、足先までしんしんと広がっていくような動き。

 

そして、自分の手、足を通り越して、

空間全体に「わんわん…」と広がっていくようなイメージで動くと、とても美しい。

 

 

(わたしが教員だった頃の教え子さんでこういう動きをする人がいましてね。

肩先をピクン、と動かしただけなのに、

場の空気を一瞬にして変えるような彼女のダンスを今でも思い出します。

微かな動きの中に、

彼女の中心から湧き出る『律動の強さと純粋さ』を感じたものでした)

 

 

 

 

そして。

これは身体の動きに限ったことだけではなく。

(と言いますか、一時が万事。共通している)

 

 

語るということ。

言葉で伝えるということも全く同じなのです。

 

 

自分の中心で起こった振動。(思い。感情。意図)

自分の中心で発生する、

純粋な「最初の一滴」を常に捉え、

そことのつながりを保って、そこから言葉を発するといい。

 

 

自分の「最初の一滴」から生まれた振動が、

同心円状に外にしんしんと広がっていくように、

声を出し、言葉が出せるととてもいい。

 

 

そこには余計な飾りなど発生する余地は全くなく。

 

「どう言おう?」

 

も、

 

「かっこよく言おう」

「いいふうに言おう」

「ウケないといけない」

「面白くないといけない」

 

も何も存在しない。

 

 

 

そういうふうに、

「本当の言葉」

「自分の中心としっかりと繋がった言葉」

「その瞬間、その場で、その相手との間にしか生まれない、鮮度100%の言葉」

 

を出している人や場面に出会うと、本当に心動かされます。

 

 

 

「立て板に水」とか、「話すのが上手いよね」

などとは全く次元を異にする語り手。

 

そんな人が、いるものです。

(そして、実は誰でもそういう言葉を持ち合わせている)

 

 

 

ちなみに。

わたしは先に書いたダンスの上手い教え子さんの語る様子も好きでした。

ゆっくりと、時間をかけて、言葉を探し出すように話すときの視線。

自分の中に深く降りて、

最もしっくりくる言葉を丁寧に捕えようとするその雰囲気が。

 

 

 

 

 

もしも。

 

言葉が「一語いくら」と値段がついているものであったら、

一瞬たりとも、一語たりとも無駄に使うことはできない。

みんな、自分の「真の意図」を最も表現できるものを、

探して探して、厳選して選び出すだろうなあ、と思います。

 

 

 

 

そして、

実はそれくらい意識して言葉を使ってもよいのでは、とも思っています。

 

言葉は確かにただですし、

湯水のように溢れるようにダダ漏れさせても誰も何も言わないし、

いくらだって走らせることができる。

 

 

けれど、

「自分の中心と繋がっていない言葉」

は人に届かない時代に、これからますますなっていくように思います。

 

 

届かないどころか、

自分の人生に対して。

自分の大切な人たちの幸せに対して。

早晩しっぺ返しが来るような氣すらするのです。

 

人は結局自分の物語を表現するしかない。(それが一番強く周囲に響き渡り、人の心に届いていく)

 

 

 

最近、

①宮崎駿は自分のために(自分を解き放つために)アニメを作っている。
②久石譲いはく「ドメスティックでいいから真剣に掘り下げたものが、かえってインターナショナル」

ということに少し感動してですね。

 

 

 

まず①について。

 

その番組では「君たちはどう生きるか」の制作を通して、
2018年に死去した「パクさん(高畑勲)」への
宮崎駿の断ち難い、憧憬、愛情、おそれ、呪縛、…等々、

 

一言では言葉にすることのできない、山ほどの想いへの対峙と、
それをなんとか超えようとしているプロセスが描かれていました。
(作品内に「これはパクさん」と、
位置付けているキャラが出てくるのですよね◁わたしは見ていないけど)

 

 

 

 

 

それを見て、

 

「ああ、この人は、何より誰より、まず自分を癒すために、
アニメを作っているんだな。
自分の心的旅路を作品にしているんだな。
作ることを通して、昇華し、癒されようと(もしくは次へ行こうと)しているんだな」

 

と思ったのでした。

 

 

 

 

そして、それでいい(ものすごく、いい)と。

 

 

 

世の中のすべての創作活動というものは、
畢竟そういうもの…
というか、その要素がないものは、
他者の心に響くものにはなり得ないのでは?と。

 

 

一人が旅をする。
周囲は、その「旅」を共にし、追体験することを通して、
そこから自分自身にとって必要なものを獲、
感じ取って癒され、成長する。

そこに必要なのは、ただ、掛け値なしの
「クリエイター」自身の本気の旅、自分自身の旅のプロセスなのだ、と。
それだけが、真の響きを放ち、
周囲を巻き込める可能性を持つのでは、と。

 

 

 

そして②。

久石譲いはく「ドメスティックでいいから真剣に掘り下げたものが、かえってインターナショナル」

 

 

ドメスティック(domestic)は
「家族的な」とか「自国の、国内の」意。
(わたしはドメスティックとバイレンスをくっつけて、妙な覚え方をしていました!)

 

 

番組では、久石譲が、世界各国の有名なオーケストラで指揮をし、
シンフォニーや、そしてもちろん、宮崎アニメの曲が、
大喝采を浴び、受け取られている様子が映し出されていました。

 

 

どこか懐かしい、わたしたち日本人にとって
心揺さぶられるような数々の楽曲が、
こんなふうにたくさんの国の人たちに
熱狂的に受け入れられているなんて。
(正直、涙が出るくらい胸がキュッとしてしまった)

 

ニューイヤーコンサートで毎年見る、
ウィーン楽友協会の絢爛たるホールで鳴り響く
「となりのトトロ」を聴きながら、
とても誇らしく思うと同時に、少し「うるっと」き。
(そして、なんだかちょっとクスッと笑える感じ)

 

 

先の言葉。
これは、久石譲の「宮崎駿のつくる世界」についての言葉なのだけど、
久石譲の曲自体が、まさに、自分の中に湧き上がる
「ドメスティック」
な部分を、追及して今に至っているのだろうなあと。

広く、でもない。
万人に受け入れられるか、でもない。
世界はどんなのが好みなんだろう?
どんなものが受け入れられるんだろう、でもない。
自分の中に湧き上がる、ただ一つの響き。

 

繰り返し、繰り返し、自分に力を与えづつける、決して枯れない泉。
魂に刻まれたもの。細胞の記憶。

 

そこを探究し、追及し、
それが今、世界の、多くの人の心を震わせている。

 

 

 

さて。
というこの2つの話を、
少し前、クライアントさんとしたところだったのです。
「何を他者に伝えるか?」
について。

 

(ですので、自分の中から真に湧いてくる、断ち難い思い、
最も興味あること、最も伝えたいことを伝えればいいのでは!と
お伝えしてみたところでした)

 

 

今この瞬間、
「何を伝えるか?」
「自分とは何か?」
「これから自分は何を表現するのか?」

 

で迷っている人がいたら、
よろしければこの話、何かの糧にしてください。

 

 

 

(絵は、想像だけで描いてみたトトロ。似ているけど何かが違う…。
こういうのを「これじゃない感」というんでしょうか)

 

ここらで「人の話を聞く」という「超基本」について振り返っておこうじゃないかー私たちは本当に「聞いて」いるか?聞けているか?

 

 

 

数日前、会話をしていて「聞かれてないなあ」とモヤモヤすることがあり、

すっかり元気がなくなってしまったので、

(わかりきっていることですが「聞かれてない」「受け取ってもらってない」

という感覚は結構「来ますよね」心に)

 

 

 

みんなで再確認しましょう‼️

 

 

 

まず、前提として、
「コミュニケーションはキャッチボール」。

 

よく聞きます、知ってます、と思ったあなた。
この「キャッチボール」が本当には「出来ていない」こと、結構多いのです。

 

以下、
わたしが研修で実際にボールを使ってやる
「コミュニケーションはキャッチボール」のエクササイズを、言葉で書いてみます。

 

 

 

 

さて、「心地よいキャッチボール」のルールとは。

 

 

❶心地よい速度の(受け取りやすい)ボールが
❷一回に一個、こちらに飛んでくる

 

 

当たり前ですね。
当たり前なんですが、ボールを「言葉」に置き換えると。

 

「ものすごい速さのボールが」
「一度に2〜3個飛んでくる」

 

ようなキャッチボールを平気でやっている人がいたりします。
(ボールだと、そんなことしたら「何かの特訓か??」ですけど、
「言葉」だと平気でやってしまったりする)

 

 

 

 

さらに。
心地よいキャッチボールのルールは続く。

 

 

❸自分が投げたボールを「相手が受け取った」ということがちゃんとわかる

 

 

これも当たり前ですね。けれど、これを言葉に置き換えると、

「反応がない
(うなづきがない、相槌がない、目が合わない、受け取ったよというメールがない…)」

とても「不安になる」やり取り、溢れているんじゃないでしょうか。
さらに。

 

 

❹投げたボールが相手から自分の手元に返ってくる

 

 

この❹までを完了して、初めて「コミュニケーションが完了した」
ということになります。
ここまでをやって、一つのコミュニケーションが終わる。

 

 

「相手にボールを返さない」
「もらったボールを一人持ちし続ける」

 

 

そんなキャッチボールは「ありえない」わけですが、
これが言葉だと、ある。とてもある。ものすごくある。

 

 

「返事が返ってこない」

 

 

というわかりやすいものから、
あなたが一生懸命話した内容に対して、

 

 

「へえ〜、そうなんだ」

 

 

の一言で、

 

 

⚫︎「ところでさあ」とあとは自分の話に持ってかれる…
⚫︎「それってこうなんじゃないの」
と断定される、判断される、ジャッジされる、
欲してもいない(合ってもいない)「答え」を返される、などなど。
(ああ、なんて悲しい)

 

 

 

 

 

 

さて。
心地よいキャッチボールのルール。

 

 

❶心地よい速度の(受け取りやすい)ボールが
❷一回に一個、こちらに飛んでくる
❸自分が投げたボールを「相手が受け取った」ということがちゃんとわかる
❹投げたボールが相手から自分の手元に返ってくる

 

 

 

 

ボールを「言葉」に置き換えて、
自分が毎日、どんなふうに、どんな速度で、どんな投げ方で
「言葉というボールを」相手に向かって発しているか、
そして、どんなふうに受け取り、相手に返しているか。
双方にとっての快適な「リズム」はあるか?

 

 

改めて、「イメージして」みてください。

 

 

あなたと大切な人との対話において、
きっと、大いに発見するところがあるのではと思います。

 

「コミュニケーションはキャッチボール」

 

 

このことが、しっかりと「身体で」実感出来ていると、
コミュニケーションというものが、
「なんて言えば…」
とか、
「どんな言葉を使えば…」

 

以前のものであって、
表面的なハウツーのみでは成り立たないものだということが、
よくわかるのではないかと思います。

 

 

 

メイドカフェはなぜ人気なのか?ーそれはつまり『参加の喜び』

 

 

 

 

外国の観光客がどのように日本を楽しんでいるか?
という特集をよく目にするようになりました。
こんなところが外国の人は新鮮!感動!というもろもろの特集。

 

で、メイドカフェを楽しむ外国人観光客、というのがあったのだけど。

 

 

 

ものすごくたどたどしく、
英語のカンペを一生懸命「読む」メイドさん。
完全な「日本語発音」なのが逆にすがすがしい。

で、その「たどたどしい導き」にちゃんと乗っかって、

 

 

「萌え萌えキュ〜ん❤︎」

 

 

など言ったりして、女性男性、結構な年齢の方も含めて
みんなポーズを取ったりしている。

 

 

 

 

よっぽどの人でない限り、
心中「ぷっ…」と吹きつつも、
しようがないなあ、とぼやきつつも、
「乗って」しまうんじゃないかなあ、と。

 

で、わたしも実は、一度くらいは体験してみたい、
と思っているメイドカフェなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

メイドカフェの楽しさは。

 

 

 

①非日常の空間
②参加の喜び
③自分も動く(声を出す。身体を動かす。五感が動く)

 

 

 

この①と②は完全に連動していて、
①の空間がしっかり作れていて、演出ができていて、
お客さんが没入できると②の「参加してみようかな」に至る。

 

 

 

そして、③こそとても大事。
③には、自己表現、そしてそれへの承認・賞賛、
さらにはみんなで共鳴、共振しあう…

 

 

 

とにかく「人が幸せを感じるコミュニケーションの瞬間」の
真髄が全て詰まっている。

 

 

 

 

 

 

 

と…

 

この三点ではないか、と思います。
そしてこれは、多くの観光地、
これまた話が広がりますが、
わたしの仕事(研修やセミナー)でも基本は同じよねと、

 

いつもながらに思うのです。

 

 

 

「見て綺麗だった」
「いい話を聞いてよかった」

 

 

 

だけでなく。

②と③があると抜群に「満足度」&「感動の度合い」が上がる。
ここまできて初めて、
「また行きたい」「また参加したい」につながる。

 

 

 

 

 

 

 

先日福岡から知人がやって来、
仙巌園にご案内したのだけれど。

 

 

(島津の殿様の別邸。庭園と御殿が美しい)

 

 

 

 

そんな中、一番楽しそうにしていた瞬間は明らかに、
「四半的」の体験コーナーだったなあ、と。
(薩摩の伝統遊戯。座って弓を射る遊びがあるのです)

 

 

 

 

もう(わたしも知人も)「きゃあきゃあ」言ってましたよ。
スタッフさんとの会話も心地よくて。
(この方もわたしたちとの時間を楽しんでくれているんだな〜、
の感がしんしんと伝わってきて)

 

ますます盛り上がってしまって、
近くで見ていた年配のご婦人二人連れまで
弓に引きずり込んでしまいました。
(小さく売り上げに貢献です♪)

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに。

 

このコロナの3年間を機に、
鹿児島一番の名所の一つである、いわゆる超老舗の「仙巌園」が、
元々あった「非日常」に加えて、
②と③を兼ね備えた場所にものすごい勢いで「脱皮」したことは確かなのです。

 

(以前は地元民にとっては、
遠方から誰か来たときに連れていく場所。
小学校の遠足以降「10年に一度」足を運べばいい場所、
というような位置付けだったように思います。

 

そして、スタッフの人たちと何か会話を交わしたという覚えもあまりない)

 

 

 

 

 

この「脱皮」の様子をつぶさに見ていたこちらとしては、
とても興味深く、
そのプロセスを注視し続けているわけなのですが。

(もちろん、すごいなあ、嬉しいなあ、と思いつつ。
なんにせよ、いろんなお客様を自信を持って、かつ何度も
「連れて行きたい」と思える場所が出来たというのは嬉しく、ありがたい)

 

 

 

 

 

人が動く。
世の中が動く。
堰を切ったように。

 

 

 

 

 

そんなこの春から初夏に向けて、
この雑感が参考になる方々がいましたら幸いです。

 

 

 

 

 

 

(写真は弓をつがえる知人です。これは五射目。凛々しいでしょう??
スタッフさんのお声がけ(と素敵な励まし!)で、
どんどん姿かたち(&心)が変化していくんですよねえ)

 

 

 

マスク解禁→世界を表す声と言葉と表情を取り戻す。いや、以前よりずっと豊かに生き生きと。

 

 

 

 

3ヶ月ぶりに訪れたカフェのバイトの女の子の「言葉数」と表情が
とても豊かになっていました。

 

 

3ヶ月前は慣れていなかったのか、硬い表情で、お茶を置いて、

「こちら、紅茶になります」
(それはもはや紅茶であって、「ならない」のよ、

それ以上変身しないのよ(笑)と思いつつ聞いていましたが)

 

という言葉を投げかけて去るだけだったのですが、

今日は(やや噛みつつも)
「もう少し茶葉を蒸らしてからお召し上がりください」
&
目が合うとはにかむ目元、というおまけがついてきた。
かわいい…。

 

で、幸せを感じているところです。

 

 

 

 

 

朝ドラの少し前の回で、言葉にまつわるこんな場面が。

 

広辞苑を見ていた中学生の女の子が、
「こんなにたくさんの言葉、いらんやん」
と。

「中学行ったらな、みんなに合わせて、

 

かわいい。
ヤバい。
キモい。

 

のどれかを言っておけばそれで済むねん」

 

 

 

 

それに対して、
主人公の旦那さん(歌人)が、

「たくさんの言葉は自分の気持ちにぴったりのものを見つけるためにあるんやで」

と。

 

 

 

 

 

言葉の数=世界に目を向けることができる広さと深さ、精密さ、
を表している、とつくづく思います。
言葉はまさに「絵の具」。

 

目に見えるもの、聞こえるもの、感じるもの…
決まったほんの数色で塗り固めてしまうにはもったいないくらいに、
世の中はたくさんの色で溢れている。

 

 

 

 

と、どうしてこういうことを書いているかというと、
「伝える力が伸びる!12歳までに知っておきたい語彙力図鑑」
を読んでいるからなのですが。

 

「かわいい」を他の表現で言い換える。
「やばい」を他の表現で言い換える。

 

今これを読んでる方、いくつくらいの表現に
言い換えることができるでしょう?
(大人でも戸惑うと思うのです)

 

 

 

 

 

こと、「感情」に関して。
今、自分の中で何が起こっているのか、
しっかりと「感じる」ことができ、
なおかつ、それをなるべくピッタリくる言葉で表現できた方がいい。
多くの言葉があった方がいい。

 

自分の中で何が起こっているのか。
自分が何を感じているのかがわからない。
または、のっぺりと一色で塗り固められた、記号化したような言葉でしか感知できない、

というのはなかなかに生きづらい。

 

(色々と弊害が起きます。まあ、人生迷いますよね。

感情は自分の魂の声の出発点であり、人生を指し示すセンサーであり、

一生大切に持ち歩く羅針盤だからです)

 

 

 

子どもの場合は、大人が丁寧に、

「聞いてあげて」
「受け止めて」あげ、

適切な問いを「問いかけて」あげることによって「自分の感情を言葉にする力」
が身につきます。
答えが返ってくるのをゆっくりと待つ。

 

 

 

 

大人の場合は、
今から自分自身で自分の感情を聞いてあげることをやっていけばいい。
(わたしも、そっちのくちです。大人になってから自分で癖づけたクチ)

 

 

専門家の手を借りるのもいい。
わたしも、これまでずいぶん助けてもらいましたし、
他者の「そのプロセス」をお手伝いもしてきました。
(一人でやるより早いし楽なのです)

 

 

 

 

 

 

さて。今日は春分です。

マスクも外れて一週間。
(元々「任意」だったと思うんですが、
けれど「解禁!」という言葉がやっぱりしっくりきます)

 

 

 

わたし達は、再び言葉を取り戻さなくてはならない、と思います。
豊かな表情を取り戻さなくてはならない。
この美しい世界を表現する言葉と、表情と、身体能力を取り戻さなくてはならない。

 

 

 

この3年間が、わたしたちの、そして特に若い人たち、子どもたちの
その身体に=無意識層に、
刻み込んだであろう影響を思うと、この先が予想もできないのですが。

 

 

 

 

 

世界は美しい場所だと。
そして、その世界で存分に自分を知り、自分を愛し、
自分の本質を表現していいのだと。

 

大きな声を存分にあげ、湧くままに踊り、
自分の響きを全身で表現するために、
わたし達は生まれてきたのだと。

 

 

 

そして、一人一人の「それ」こそが世界へのギフトなんだと。

 

 

 

わたしたち大人は、
声を大にして、そう再び彼らに伝えなければならない。
何より「その姿」を生きて見せねばならない。

 

そう思います。

 

 

 

 

 

「考えをまとめてから話す」「考えがまとまったら話す」はもう古い

 

最近思い始めた『20年後』にどんな姿で立っていたいか(同年の方々、どうですか?)

 

 

 

 

 

伝統料理を発掘、継承している人たちの活動を取材した番組があったのです。
その土地の女性たち(80代,70代)を中心に、料理をする様子が出ていたんですが、
それを見ていて、

 

 

「80代と70代って…こんなに違うのか」

 

 

とびっくりしたんでした。
何が違うかと言いますと、立ち振る舞いやコメントが、

 

 

 

「テレビ向け」

 

 

 

かどうか、という一点で。

 

 

 

 

 

 

 

 

その番組に出ていた70代の方のコメントや振る舞いは、
完全に「テレビでよく見るやつ」。

 

 

例えば…
「◯◯(食材の名前)の声をよーく聞くんですよ〜」とか、
「子育てもそうでしょう〜?」などなど。

(確かにそうなんでしょうけど、どうも、その人が「いつも使っている」言葉には聞こえず。

それに食材の声を聞くって、もはや使い古された表現にも感じるのですよね)

 

 

 

 

食材を混ぜるレポーターに、甲高い声で
「そうそう〜♪上手上手〜♪」と言いながら5本の指をぱあっと広げて、満面の笑みで、
顔の前でパチパチと手を叩く仕草。

 

若い女の子のタレントさんがよくやるのを見ますけど。
(何というか…ちょっとそぐわなく感じたのですよね)

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしの中で、70代80代というのは
人生の年輪を重ねた、尊敬すべき「人生の先輩」であり、

酸いも甘いも噛み分けた、なんというか…
しっかりと軸を持って、大地に根を張った大木のような、
というイメージがあり。
(イメージというより願望、期待、願い?)

 

 

 

で、
はたと氣づいてしまったのでした。

 

「そうだよなあ…70代といえば、もはや『テレビの洗礼』真っ盛りの中で育っているわけだもんなあ」

 

と。

 

 

 

 

何がいいか。
何がかっこいいということか。
何が受け入れられるか。
どうあるのが幸せか。

 

物心ついた頃から、それは全部、「テレビが決めてきた世代」の走り。

 

 

 

 

 

 

 

その後、この会を立ち上げた
80代の女性のインタビューがあったのですが、
こちらはもう…低めの声でゆっくりと静かに話されるその感じに、
「自分の芯」から話をされる感じを受け。

きっと、テレビであろうが、誰であろうが、
この佇まいで、この声で、この言葉なんだろうなあと。
(枝振りの良い古木のようなかっこよさを感じたことでした)

 

 

 

 

 

 

 

 

たった10年のことで、
こんなにも違ってくるのか??

 

と。
日本という国の何か、歩んできた道の縮図を見てしまったような氣になったんですが。

 

 

 

 

 

さて。
70代と80代では…と書きましたが、
80代だからいい、90代だからすごい、ということではなく、
若いとダメ、ということでもなく。
多分に「個人差」だよなあと思いつつ。

 

 

 

それでも、ちょっとびっくりしてしまったので書いてみました。
(それに、言葉や所作に関して、わたし自身の「好み」が大いに入っているので悪しからず、なんですが)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、
わたしがこの場面を見た瞬間、浮かんできた言葉を真正直に書きますと、

 

「ああ、70代もダメだなこりゃ〜」。

 

(誠に誤解を招きそうな言葉です。

「先達だと思ってたのに!」「頼れる先輩だと思ってたのに!」「自分たちと一緒かよ〜」

というショックが言わせた言葉ということで、大目に見てください。
くれぐれも世代ではなく、個人差ですし。わたしの「好み」の話ですし)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

 

最近、「これからどんなふうに歳を重ねていくか」。
もみじが紅葉するように、身体も心も、さらに成熟していったその先に。

 

 

 

自分は、どんな姿で立ち続けるか。
立ち続けていられるか。
立ち続けていたいのか。

 

ということを、たまにですが考えるようになりました。

 

若い時にはただ、そこにあるだけで美しい。
溢れる生氣。
細胞から放っておいても発するみずみずしいエネルギー。
若いときは、誰だってそこにいるだけで、目を引く魅力に溢れている。

 

 

 

 

 

 

けれど。
これからますます「ごまかしのきかない」年代に入っていくなあ、と思います。

 

花が落ち、
深い深紅の紅葉のその後、

木の幹、枝…それらがただ厳然と、そこにある。

なんの飾りもなく、否応なしに晒されるとき。

 

そんな時、自分はどんな太さの幹を持ち、どんな枝ぶりでそこに立っているのだろうか。
過ごした時間が作り出した根の形が、幹が、枝ぶりが、
願わくばしっかりと自分の魅力になるような…

 

 

 

 

 

そんな時間を過ごしたいし、そういう姿でありたい、
(し、次の世代の前にそういう姿で立っていたい)
と思うのですれけどね。

 

 

 

 

 

 

 

*  *  *  *  *

 

※これはどこの桜でしたか。
ちょっとすごすぎる例を貼ってしまいました。

 

 

高畑淳子の声に毎朝背中を押される最近

 

 

 

 

 

「おうよ^^」
「よかよか^^」
「よかよかぁ〜^0^」
「やってみんね!」
「失敗は悪かこっちゃなか!」

 

 

 

 

毎朝、日本中のみんなが言って欲しい言葉、
かけて欲しい言葉を連呼し、出勤前の人々を勇氣づける高畑淳子。

 

 

 

 

 

 

ちなみに、「声」だと思うんですよね。

舞台をしっかりやっている女優さんだけあって、
その声の出どころが、しっかりと身体と結びついている。
『肚から出る声』のどっしり感。安心感。安定感。

 

土地、自然、たくさんの人生経験との結びつきが、
このおばあちゃんはあるんだろうなあ、ということをしっかりと感じさせる、その声。

 

暖かく、どっしりと背中を支え、かつ押してくれる、その「声」。

 

 

 

 

 

 

 

 

肚から出る声は相手の肚に届き。
胸から出る声は相手の胸に。
頭から出る声は相手の頭に届く。

 

 

肚は存在。
胸は感情。
頭は思考。

 

 

 

絶対の安心感、信頼を醸し、行動、を支えるのは、「肚」の声。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎朝「さすが〜!」と思って見ておりますよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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