「花」がなくなったときにどう立っているか?―「たたずまい」の美学

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こちら鹿児島は桜の季節が過ぎて
黄緑の若芽がどっと芽吹いています。
もはや初夏の風の空氣です。

そういえば、昨日、市内中心部の甲突川沿いで

「桜灯り祭り」

というような名前のお祭りをやっていたんですよね。
桜の木はすっかり「緑の回廊」になっていましたが…。
今年はほんとうに花が早かったんだなあと。

3月4月というのは、やけに樹木に目が行く季節です。

河津桜が満開の頃なので、3月半ば。
近所の学校で、満開の桜の木を見つけました。
(種類は不明!)

濃いピンクの花を全身につけたその木。
きれいなんですが、どうもしっくりこなくて。

というのは、幹は直径10センチもない細い幹。高さは2メートルくらい?
まだまだ細い枝に、
びっしりと、ごってりと大ぶりの花弁の花が鈴なりになっている姿で。

「ううむ。花が咲けば美しい、というものでもないんだなあ…」

と、妙に納得してその場を離れたのですが。

かと思えば、
老木となり、花の勢いはすっかり減ってしまい
わずかな花を見せるのみですが、
でもとても美しく、風情のある木もあります。

幹のこぶ。
大地にぐっと広がる根の張り具合。
足元にむした苔。
…それらすべてが相まって、その木はとても美しい。
ただ、そこにあるだけで美しい。
まさに「たたずまいの美」。

「たたずまい」という言葉に日本人が込めているものは、
「立っている姿」というだけの意味ではありません。

そこに、そのモノの過ごしてきた月日によって刻まれたもの、
それらすべてが加味されたものです。
人であれば、「精神」「あり方」「生き方」込みの言葉。
その人が醸し出す空氣。
その人が作り出す「場」込みの言葉。

世阿弥が語る、父、観阿弥が最後に舞った能の話。

「およそその頃、
物数をばはや初心に譲りて
やすき所を少なすくなと、色へてせしかども
花はいや増しに見えしなり。

これ、まことに得たりし花なるがゆゑに、
能は枝葉も少なく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。
これ、眼(ま)のあたり、老骨に残りし花の証拠なり。」

動きが少なく控えめなその舞は、いよいよ花が咲くように見えた。
まさしく老い木に残る花。
それを観客も称賛したのだそう。

そして、それは「まことに得たりし花」であったがゆえに。
と書いています。
世阿弥は「時分の花」という言葉も書いています。
若いとき、誰でも光り輝くとき、という感じでしょうか。
けれど、それは一過性のもので、「その時限りの花」なのだ、と。

「たたずまい」(佇まい)。

人は、年を重ねれば重ねるほど
若いときには満開の花で隠れていた「たたずまい」というものが
表面に現れ出でてくるのだろうな、と思います。

幹一つになったとき、
いったいどんな姿でそこに立っているのか?
ごまかしようのない「ただ一つの自分」というものが、
そこに立っているのだろうなあ、と思います。

この春。
大きく根を張り、苔むした幹から花の枝をのびやかに伸ばす古木。
数百度目かの萌黄色の若芽をつけ、嬉しそうに枝を揺らす巨樹。
そんな木々を見上げるたびに…

「ああ、佇まいの美しい人になろう!」

と、毎回、とても単純に心からその言葉が出ています。

みなさまも
よき春&新年度をお過ごしください。

 

 

 

「いくつになってもゾーンにはいれる」

 

 

 

今月25日は通っているダンススクールのクリスマス舞踏会があり、

本番を控えて、デモを踊る面々の雰囲氣がだんだん殺氣だって来ています。

(というのは言い過ぎですが^ – ^。

一年のうちで、明らかに独特の雰囲氣を醸し出すこの時期

これはこれで好きなんですが)

 

来年は久しぶりに出ようかな、

と思ったりしているところです。

 

 

 

 

デモンストレーション。

つまり、大勢のお客さんの前で踊る、魅せる、ということなんですが、

デモに出ることの効用はすごくて、

 

①身体が絶対に絞れる(笑)

②表現力のきわに挑める。自分の枠を超える体験が出来る

③②に至るまでの創造のプロセスを自分の心身でガチに楽しめる。

(これがまた楽しい。まさに広大な冒険の旅!)

 

 

 

もうだいぶ前ですが

デモの場で、半秒もない動きを、1分かけて動いているような感覚になった、

3分の曲がとてつもなく長かった、いう話を

たまにセミナーでしたりするのですが、

今日はもう一つ、そんな話を。

 

デモで踊った一人の女性。

その時70代だったと思います。

その方が、翌日教室で、皆に一生懸命訴えているのです。

 

「踊っているときにもう一人の自分がいた!」

 

と。

種目はワルツ。

パートナーと組んでスピンをする、その自分たちの姿を外から見ていた、

踊っているんだけど見えていた、と。

 

 

「それってゾーンですよっ!」

 

 

と、ついその話に食いついてしまいましたが。

言葉は覚えていないんですが、

静かで、安らかな瞬間であった、と。

そんな感覚を一生懸命おっしゃっていたように思います。

 

この方。

もちろんプロでもなく。

ダンスもきっと、ある程度高年になってからお始めになったのでしょう。

 

 

 

この方の「踊ること」への純粋な喜び。

そして、いかに熱心に練習に打ち込んだか。

「うまくやりたい」

そんな思いも吹っ飛んで、ただただ「無」がやってくるくらいに。

 

そんないろいろを想像して

つい、「むぎゅ」とその方を抱きしめたくなるような氣持ちになったの思い出します。

 

 

 

 

人は身体を持っていますが、

この、身体というものを通して、自分のもっとも強い存在のありかとつながる。

日々、夾雑物にかまけ、なかなかアクセスしない、出来ない「そこ」へ!

そんな魂の震えるような感動を味わうために…

そのために身体という入り口があるのだな、と思います。

そして、それこそがコミュニケーションの真髄。

 

 

 

来年は

さらにこの辺りもさらに大いに仕事に取り入れていこう、と今ここまで書いて感じつつ。

(人に読んでもらう前提で書くと考えがまとまるので本当にありがたいことです)

 

 

 

 

「人のプレゼンスはこんなところにも現れるー勧進帳花嫁(^o^)♪」

 

 

 

 

人様の結婚式の写真を見るのが好きで

よく「見せて(^^♪」とお願いすることがあるんですが。

 

先日、不思議な(というか、小氣味よい)ものを見ました。

 

 

 

 

 

 

知人の結婚式の映像。

最後のクライマックス「花嫁の手紙」。

 

 

 

 

 

 

 

手紙を開き、涙ぐみながら読み始める新婦(知人)。

傍らには優しくマイクフォローするだんなさま。

ああ、なんと定番の…そして美しい絵なんだ。

 

 

こちらも見ているだけで「うっ…(涙)」と来そうです。

と。

開始から30秒もたったでしょうか。

 

 

 

…見てない。

やっぱり見てない。

ホントに見てない(笑)

 

 

 

 

 

画面の中の新婦。

途中から手紙を見ていません。

開いてはいるんですが、

まったく目を落とさず、前を向いて「語っている」。

こ、これは…

 

 

 

 

「弁慶かっ!」

 

 

 

 

とつい^^。

 

歌舞伎の演目「勧進帳」。

弁慶が白紙の巻物を「勧進帳」として読み上げ

その機転で義経を助けるというアレ。

(と念のためミニ解説など)

 

まあ、なんと、美しく、かわいらしく、

そして潔く勇ましい花嫁さん(笑)

 

 

 

 

 

 

 

「わたし、手紙はいりません、と言ったんですよ。

いえ、両親に手紙を書くのはいいんですよ。

でも、どうしてそれを人前で読まなくちゃいけないのかな、と思って。

でも、式場の人がどうしても、って。

なので…もう途中から変えちゃったんです」

 

 

 

 

 

 

 

ちなみにこの

 

「(こうしたかったのに)でも、式場の人が…」

 

というのは、

この日(結婚式の写真とビデオを見せてもらった日)

知人から数回聞いた言葉です。

結婚式の準備というものは、多くの人が初めての体験。

 

わたしは、前の仕事が結婚式関係だったので

「そんなものです」

と思うのですが、やはり初めてその世界に触れる人たちにとってはそうではないんですね。

業界の常識はなんとやら、という言葉もありますし。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

画面の中のご新婦様(知人)。

ゆっくりと、でも言いよどむことの一度もなく。

 

お祝いに駆けつけてくださった賓客の皆さんのお名前を

お一人おひとり丁寧に呼び

その方々が自分にどんな影響を与えたのか、

人生において何を受け取ったのかを伝え、

そのお礼をしっかりと述べ。

そして最後にご両親にお礼を伝えて、

堂々と手紙を「読み終え」ました。

お見事。

 

 

 

 

 

 

 

「主人の洋装は、普段使いのスーツなんですよ。タイとチーフを買って♪」

 

と知人。

水玉のチーフとタイがとってもおしゃれで、

言われるまで氣づきませんでした。

 

 

 

 

 

 

天井画に螺鈿細工。

有形文化財を有する施設の、重厚絢爛たる和の座敷での結婚式。

ため息が出るくらいの美しい空間で。

そこここに、もてなす二人のこだわりと心配りが感じられます。

 

 

 

 

 

 

まあつまり…

何に感動したのかと言いますと。

本当にこの人は「ブレがないな」と。

 

自分たちにとって、何が大切か、がいつも、とてもよく分かっている。

そしてそれを迷いなくすっと選べる。

わたしが、この知人が好きで、

とても尊敬しているところは、

まさにこういうところなのですが。

 

 

 

 

 

 

そんな彼女は

あのような場でも、自然と堂々と、水が静かに低きに流れゆくように

 

「そのときもっともありたい自分」

 

でいられるんだな、と。

 

 

 

 

まあ、

正直言いますと、

前職が結婚式の演出業でしたので仕事柄たくさんの花嫁を見てきましたが…

初めて見ました。

「勧進帳花嫁!(笑)」

(しかも、完成度高し!)

 

 

 

 

 

彼女にこの感動を伝えても、きっと

「ええ~、そうですか~?」

と笑いながら不思議そうな顔をするんでしょう。

そんな氣がしてなりません。

 

 

 

 

 

 

~~~~~~~~~~

【お知らせ】

 

平成29年9月9日(土)

~自分の物語を見つける~

人生を導くアーキタイプを探すワークショップinみたか井心亭

【詳しくははこちらから】

 

 

 

九月九日は「重陽の節句(菊の節句)」です。

 

わたしたち日本人の生活には「節目」がかかせません。

 

節句。

祭り。

季節ごと、折に触れ、

旬のものをいただき、酒を酌み交わし、

自然の恵みに感謝し、神様に感謝し…

そういった場を昔から大切にしてきました。

 

そうして

日々たまった「氣枯れ」を払い、エネルギーを取り戻す。

そしてまた、元氣にはたらく。

そんなふうに繰り返してきたのが、

わたしたち日本人の暮らしです。

 

さて

 

そんな祭りが少なくなった今

こういった「ワークショップ」の場も、

おおいにその役を果たしているのではないか、

と実はいつも思いながら場を創っています。

 

周囲の人たちと、自然と、場と、

そして何より自分自身と「つながり直す場」。

自分のブレを正し、軸を再確認する場。

エネルギーを満たす場。

これを「祭り」と言わずしてなんとしましょう!

 

 

節句というステキな日の力を借りて

今回のワークショップのテーマは「物語」です。

誰の中にもある「物語」を探求します。

 

日々

生きていれば日々、いろいろなことが起こり

息切れしてしまうこともたまにはありますが

(まさに「氣枯れ」ですね^^)

そこに「意味」を見出すことが出来たなら

わたしたちはずっと楽に進んでいける、と思うのです。

 

「意味」。つまり「物語」。

 

自分は何者か?

今、どこにいて、どこへ行けばいいのか?

どんな未来をつくるのか。

自分の中に脈々と流れる

「あなたは何者であるか?」という物語の話です。

 

詳しくはこちらから。

https://peraichi.com/landing_pages/view/sekku

 

 

 

 

 

「10歳までの言語が『脳の仕組み』=思考力・感性・情緒、をつくる」

 

 

 

 

先日テレビを見ていたら

ものすごくかわいい声で

 

「○○○○(←名前です)。よんさい! りっしゅん!うすい!けいちつ…」

 

と、暗唱がはじまりました。

「けいちつ」が言えてなくて「けいちちゅ」になっているのがカワ(・∀・)イイ!!

 

 

何をしているかというと、

これです。

 

 

 

「にほんごであそぼ」の暗記のコーナー。

「ああ、いいなあ」と思います。

 

 

こんな小さな頃から

これら日本語の美しい語感、そしてそれぞれの漢字が表す意味とイメージを

しっかりとからだに刻み込むとは、なんとよきことかな、と。

 

 

 

 

 

それで思い出したのですが、

以前「英語化は愚民化」(集英社新書 施 光恒)

というなかなかショッキングなタイトルの本を読んだことがあり。

英語の過度な早期教育、学校教育の過度な英語化に

警鐘を鳴らす一冊です。

 

 

以下、抜粋。

 

 

 

=====

 

 

●「言語が我々の知性、感性や世界観を、形作ってきた」

日本語が日本人の考え方や感じ方、日本社会の在り方にまで影響を与えている。

ゆえに日本社会の英語科を進めてしまうことは、

我々が想像する以上に日本社会に与えるダメージは大きい。

究極的には「日本らしさ」や「日本のよさ」「強み」を根底から破壊する危険性をはらんでいる。

 

 

●「日本語や日本文化は『高文脈』の言語であり文化」

日本語は「会話をしている状況」あるいは

「会話の相手の気持ちを適切に読み取っていく力」

いわば「察する力」が要求される。     【文化人類学者エドワード・ホール】

 

(英語の過度な早期教育によって)

日本語の求める

「関係性や反省能力を重視する、柔軟な自己」を形成すればいいのか、

英語の求める

「自己主張の強い、世界の中心としての固定した自己」を作り上げればいいのか、

子どもは当惑するのではないか。

 

 

●「創造性を損なう外国語での思考」

なぜアジアで日本だけが次々とノーベル賞受賞者を出しているのか?と中韓から問われ…

➡母国語で専門書を読むことができる日本の優位性   【ノーベル物理学賞 益川敏英氏】

 

 

●「このままではインド版アントニ・ガウディは永遠に生まれない」

高等教育はほぼ英語で行われるインド。

長年にわたって「インドの諸言語」は現代の科学技術的議論から切り離されてきたために、

「非科学的な考えを表すのにしか向いていない」とされてきた。

その結果、土着の言葉や伝統は、崩れかかった図書館の分厚い本のなかで忘れ去られている。

 

専門教育が英語でしか提供されない環境では、他人のコピーしか作り出せない。

英語化すれば学問の水準があがり、創造性や研究開発力が増すというのは幻想にすぎない。

 

 

●「大学の授業の英語化についての弊害」

各学問分野の最先端の概念が日本語で翻訳、出版されなくなる。

日本語で書かれる学術書も消えていく。

➡日本語は「専門的語彙」を持たない言語となる。

➡知的な思考や議論が日本語では行えなくなる。

高度な議論を行うための語彙を備えた「国語」である日本語が、「現地語」へと退化する。

 

 

 

●「母語での思考こそ創造性の源泉である」

製造業を「擦りあわせ型」と「組合せ型」に分類すると、日本が得意なのは前者。

後者はアップル

思いやり、譲り合い、協調➡擦りあわせ型の製品開発を円滑に進める効果。

譲ることなく議論する姿勢を当然のものとすれば、

「擦り合わせ」の効果は下がり、日本の強みは低下。

やがてどこにでもある「普通の水準のものづくり」に転落していくのでは。

 

英語化の推進が日本の経済力の強化につながるかどうかは疑わしい。

むしろ、創造性やものづくりといった日本の産業の強みを破壊し、

ますます経済を弱体化させてしまうだろう。

 

 

●「知的格差をつくらない日本語の力~日本語の表記システム。『音読み、訓読み』」

外来の抽象的概念を、身近な日常語に結びつける働きを持つ仕組み。

「高級語彙」と日常の言葉にあまり断絶が生まれない日本語。

「知識人」「一般の人々」という仕切りをあまり生じさせず、格差を作り出しにくい平等な言葉。

戦後、GHQの「ローマ字政策」の道を歩まなかったことが戦後日本の発展を支えた。

 

 

 

=====

 

 

 

 

角田忠信 「日本人の脳」(大修館書店)によると。

 

日本語は世界で数少ない「母音主体の言語」であり

そのことが、日本人の独特の脳のしくみを形作る。

 

 

 

虫の声や動物の鳴き声、風の音などの「自然音」。

西欧人は機械音と同じく「雑音」として

「劣位半球」(一般的に右脳/感性担当)で処理するのに対し

日本人は

「言語半球」(一般的に左脳/論理担当)で処理。

 

 

スズムシの声を心地よく聴く。

あれは言葉に準ずるような「意味ある音」として聞いている、ということだったのですね。

そして、それは日本人だけの感覚である、と。

 

 

 

 

その理由を角田さんは

日本語が「単一母音で有意語をなす言語だから」と言っています。

一音の「母音」そのものに意味がある言葉だ、ということ。

(つまりういうことですね➡意・井・胃・医/絵・柄・餌…)

 

そしてこれは他の国の言葉にはない特徴だそうで。

一音だけで意味を成す、という単語はごく少数の例外を除いて西欧の言葉には存在しない。

 

そんなわけで、日本人の脳は、「母音」に対して特殊な反応を示す。

母音に近い「自然音」にも。

こんなふうに。

 

 

(角田さん「の本にあった図を簡単にしてみました。

図は「西欧人」「日本人」と分けていますが

日本以外はミクロネシア諸島の言語を除いて、すべて「子音優位」の言語らしいので

この図はほぼ「日本語対その他の言語」の図、ということになるかと)

 

 

 

 

 

つまり…

雨の降り方を何百もの言い方で使い分け

風鈴の音を愛で

静寂の中、茶室で釜の湯の沸く音に耳を傾け

(湯の沸く「「チリチリ…」という音を「松風」と呼びます、と教えてくれたのはお茶に詳しい友)

鹿威しの「かっぽ~ん」に背筋を正し

ウグイスの「初音」を聞いた!と喜び…

 

わたしたちの生活に普通にあふれる

この、音と対話するかのような繊細な感覚。

「遊び心」は

「至福感」は

日本語で育った脳の特徴、ということだったのですね。

 

 

 

 

「古池や 蛙飛び込む 水の音」

 

 

 

 

この句の静寂。

一瞬の中の永遠を感じられるのも

日本語脳ならでは、ということで。

そして、この「日本語脳」こそが、

先に抜粋であげたように「ものづくり日本」はじめ、

「日本らしさ」や「日本のよさ」「強み」~まさに「和の文化」を作り上げている、と。

 

 

 

 

 

 

さて

本文中、

民族音楽学者の小泉文夫氏と角田さんの対談で

オペラなど、西洋音楽は4~5歳からの早期教育が必須だが、

専門の技術が全部身に着いてしまってから、ある年代から違和感を持つようになる、

という話が出てきます。

 

「そうすると(早期に始めると)、日本人でなくなっちゃうわけですね」by角田さん

「そうなんですよ。(笑)それが今までの日本人の理想像だったわけですね。

理想像を追っているのだけれども、結局は違和感と言いますか…」by小泉さん

 

 

 

 

 

「言語はそれを使う人の『精神構造』を造る」。(by 角田さん)

そして、それを左右するのは「10歳までの言語」なのだそう。

 

 

 

 

 

人生、寄って立つ「精神構造」があやふやになることの危うさ

(脳の中がどこの国の人間でもなくなってしまうことの危うさ=アイデンティティの危うさ)は

黒川伊保子「なぜ日本語は美しいか」(集英社新書)

でも述べられています。

 

 

「外国語の過度な早期教育、学校教育の外国語学習の強化」の弊害は

言葉を発する土台。

つまり一つの言語による精神構造(思考力・感性・情緒)、

が確立されなければならない時期に

ほかの言語に過度に触れることで

それらが育たなくなる(混乱する)恐れがある、ということ。

 

いくつかの本を読んで理解したのは、そういうことです。

 

 

 

 

 

 

 

英語を早くからやってちゃんと話せるように。

ネイティブと同じ発音に。

話せないのは恥ずかしい。

 

 

…わたしたちは、思えば、世代をまたいでずっと「英語コンプレックス」に

さいなまれてきたのかもしれません。

が、

考えてみれば「英語を世界共通語にします」というのも

「人間」(西欧諸国の)がつくったルールですし。

いつまで、その土俵の上で「より上を!」をどこまで目指すのか。

上とはどこか?

ネイティブと同じになること?

 

それは、圧倒的少数である母音優位の「日本語脳」である限り、絶対にムリ、なのでしょう。

そして

完璧になろう、とすればするほど根本から(脳の中から)

「日本人」であることをやめないいといけない、

ということ、になる。

(書いていてなんだか不思議な氣分になってきました)

 

 

 

 

 

 

もろもろ書いてみましたが。

実は、わたし、英会話教室に通う、というのがこの数年の悲願でして^^。

今より話せるようになりたい、

たくさんの国の人たちと語ってみたい、

日本の文化のこと、他国の文化のこと、それこそ、こんな「脳」の話などなど…

たくさん語り合ってみたい!と結構な強さで願っています。

 

 

 

が。

我が子が小さかったとして、

上記のような「危うさ」を内包しつつ

英語圏の人たちと「完全に肩を並べなければ」と

「英語脳」を子どもに埋め込むか?というのは大いに考えるところです。

虫の声をノイズとしか感じない大人に我が子がなる、

というのはちょっと…。

 

学校がそういう教育方針だったら、

「ち、ちょっといったん待って!」と言ってしまうかもしれません。

 

 

 

これから、(もしかして)世界を股にかけて活躍するかもしれないが

でも、この日本の国をベースとし、ここをふるさととし、心のよりどころとして生きていく子。

先祖の血を受け継ぎ、多くの先人たちの思いを受け継ぎ、これからこの国をつくっていく子。

 

世界に羽ばたくならなおのこと、

まずなにより、「日本人」としての「土台」を

しっかりと体得してほしい、と思うことだろうなと。

 

 

 

 

 

思うのです。

何のために言葉はあるのか。

何のために言葉は生まれてきたのか。

ビジネスのため?

グローバルに活躍するため?

それも大事ですが。

 

 

 

 

まず、何といっても

人は、

最も身近な、愛する人と氣持ちをかわし、分かり合うために言葉を使うのです。

同じものを見て共感し、響きあい、感動を分かちあうために言葉を使うのです。

 

自分の胸の内に渦巻く思いを

自分のからだの感覚としっかりとつながって

余すところなく、存分に、感情をのせて表現し、大切な人に、そして世界に伝えるために

言葉を使うのです。

そのために言葉は生まれた。

 

 

 

そして

言葉の深さは「その人が感知できる、触れることが出来る世界の深さ」です。

言葉=思考力。

言葉の量と質と深さの分だけ、人は自分自身を知ることが出来ます。

世界を知るこ
とが出来ます。

 

 

 

 

言葉と「自分」の、そんな確固たる「つながり」を

まずは子どもに与えてあげること。

それがまず、一番大切なことである、と感じました。

 

 

 

 

 

そんな「言葉と自分との真の回路」を

しっかりとつなげられるのは10歳まで。

 

 

 

 

外国語を学ぶこと、

コミュニケーションツールを増やすことに、まったくもってやぶさかではないのですが

自分のバックボーンとなる国、土地、風土、文化、人々との

「つながり」をまずはいかにしっかりとからだの中に結ばせるか、

 

 

 

というところを

忘れてはならない、ということを。

 

 

 

 

話がやっと戻りますが、

「りっしゅん、うすい、けいちつ…」

を聞きながら思い出して、

そして

画面の中の嬉しそうな子どもの顔を見て、

嬉しくなっていたところです。

 

 

 

 

 

 

 

豊かなコミュニケーションのためには五感を磨く

 

 

4月、鹿児島のいちき串木野市

5月、東京の三鷹市と

「身体と五感」をテーマとしたワークショップをやってきましたが

さらにブラッシュアップさせつつ、6月はまた、格別な会場で開催することとなりました。

 

 

旧島津氏玉里邸庭園。

 

 

 

【玉里邸庭園】 (鹿児島市玉里町)
島津家27代当主。島津斉興によって、天保6年(1835年)に造られた大名庭園。
明治10年、西南の役によって焼失。島津久光によって同12年、再建。

その後、太平洋戦争により再び焼失するが、茶室・長屋門・黒門が残る。

 

 

 

という来歴の庭園です。

当時の平面図を見ると、敷地内に部屋数20はくだらない広大なお屋敷とともに

現存する回遊式庭園、そしてお茶室があったことがうかがえます。

 

屋敷も残っていたら

磯地区の島津家別邸・仙巌園に勝るとも劣らない史跡になっていただろうな…

と思うのですが

先ほども書いた通り、現存するのは茶室、入り口の黒門、そしてお屋敷跡に建てられた

鹿児島女子高の裏の長屋門のみ。

 

 

 

そして

6月のワークショップはこのお茶室にて行います。

 

他者とのコミュニケーションの力の本質は自分自身の中におこる様々な感覚に氣づく

繊細なセンサーからはじまります。

先人たちが、自分自身と語らい、草木や風や水と語らうために作った空間で

その場の力を存分に借りて行う

ここでしかできない唯一無二のワークショップです。

 

詳しくはこちらをご覧ください。


☆彡  ☆彡    ☆彡 ☆彡 ☆彡

 

 

【日時】
6月24日(土) 10時〜16時

 

【所】
旧島津氏玉里邸庭園 茶室  ( 鹿児島市玉里町27)

 

【受講費】
14,800円
 ※お二人以上でお申し込みの場合 1名12,800円
 

 

 

詳細・お申し込みはこちらへ

 

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「他者とのコミュニケーション」

「身体とのコミュニケーション」

を通して「自分自身のとのコミュニケーション」を深めることを意識的に体験する場、

自分の本質を発見し、再確認し、さらに、それを存分に発揮して生きるためのエネルギーをそれぞれの中に呼び起こすためのワークショップです。

 

 

◆身体を使ったシンプルなコミュニケーションのワークを通して

 眠っていた身体感覚を目覚めさせます。

 

◆深い氣づき、発見に欠かせない「五感を使ったさまざまな学び」を体験します。座学では味わえない、和の時間と空間ならではの体験です。

 

◆自分の本質(発揮する能力のタイプ)を、「メタファー(喩え)」を使ったワークを通して発見します。数値化やテストの結果ではない、自然の中ならではの物語性あふれるワークを通して「自分自身」を探求します。

そして参加者全員で「自分自身への承認とエール」という宝物を持って帰ります。

 

 

【こんな方に】

 

・日頃忙しく、自分を振り返る暇がない。

・とにかくリラックスしたい。

・のんびりしたい。

・自分にたまにはご褒美の時間をあげたい。

・なんとなく進む道を迷っている。

・自分って何者?と最近思う。

・日常から切り離された、「非日常の空間」で遊びたい。

・最近「呼んだのに氣づかなかったね」と言われることがある。

・部屋に人が入ってきたのに氣づかないことがある。

・街中で歩いていて人とぶつかることがある。

(上記3つはつまり、コミュニケーション力の土台である「身体センサー」が鈍ってきているということです)

・エネルギーやモチベーションを上げたい。

・みんなで楽しみたい。

・知識偏重、思考重視の毎日を送っており、なんだかバランス

が悪いと感じている。

 

 

身体レベルでわかると、「それ」は生き方にも適用できる

 

 

 

 

 

鹿児島に帰ってきて

今のダンス教室にまた通い始めてから

今年でちょうど12年が過ぎたことに氣づいたのは昨日。

 

「…一回り!!」

 

と感無量。

 

 

 

そんな節目の今年。

あらためて基本からやり直しています。

やり直してみると、いかに自分の身体をしっかりと使っていなかったか、が

言葉通り、身に染みてわかる日々。

 

 

 

 

先生より、以前からよく指摘されていることなのですが

わたしの動きの特徴は

 

 

「自分で『動かそうとする』」

「『頑張って』やろうとする」

 

 

社交ダンスは

男性からのリードがないと動けない(はず)のダンスなんですが

…待ちません。

これらすべて、わたしの「生き方の癖」に直結しています。

ダンス、という制限のある動きの世界の中で、いつも自分というものを

たいそうしっかり見せつけられてしまいます。

 

 

 

 

 

先生曰く

「ダンスは、力を抜くところからはじまる」

と。

 

 

「自分で動かす」のではないのです。

「力で、作為的に何かをする」のではなく

 

「反動を使って」

「重力に任せて」

 

自然と足が前に出るに任せる。

 

 

そのためには

まずは必ず、身体の一部分の力を「抜く」ことが、初動になります。

 

 

 

「ゆるめる」がスタート。

「ゆるむ」ことからすべてがはじまる。

(これら、何においても共通することな氣がしますが)

 

 

 

「ゆるめて」

「任せて」

 

 

 

そうすると、身体のセンサーがやっとひらく。

身体の重さを感じて

床の存在を足の裏がしっかと感知する。

 

相手と握った手。

その手のわずかな接触点から伝わってくる、

相手の身体の中心に起こる「かすかな動きの波」。

その「波」を自分の身体に移して、初めて自分も動き出す。

そうして、はじめて「社交ダンス」になる。

 

 

そうやって踊るダンスは

二人でしかつくれない「場」をつくり

その波は周囲に伝わって…

見る人の身体に同じ波を伝播し

踊り手と観客は「同じ世界」を体験することができます。

 

 

 

 

 

 

さて、

先ほども書きましたが、わたしの生き方において

 

「ゆるめる」

「任せる」

 

これは2大テーマで

「それが出来ていたらもっとこれまで楽に生きてきたでしょう」

という部分なのですが。

 

でも

それでも、ずいぶんと上手になったところである氣はするのです。

そして、その「上達」に、

ダンスにおける現実の「力を抜く」「ゆるめる」「相手にゆだねる」

という身体訓練が役立っていることは

想像に難くありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「声(聲)」の語源は「越ゆ」。

 

だという説がある、と。

ある能楽師さんの本で読み、

美しいと思いました。

 

 

 

 

 

わたしは

ご参加のみなさんに声をだしてもらう、身体を動かしてもらう、という場面が

とても多い研修やワークショップをしますが

 

 

声が「越えて」いくと

(自分が自分に設定していた

「どうせこんなもの」や「もともと出ないし」「小さいし」を越えたとき)

いつも

100%、その人の「心」ももはや「越えて」います。

新しい地平に立っています。

 

 

 

 

ああ、これが自由ってことなのか。

ああ、これが自分のことば、ってことなのか。

ああ、これが「伝える」ってことなのか。

「伝わる」ってことなのか。

 

 

 

それを

言葉だけではなく

頭ではなく

概念だけでなく

 

「身体」でわかった。

細胞全部で感じた。

 

その瞬間の人というものを見るのが好きでなりません。

その人の人生をずっと助け、発動し続ける「真の力」に目覚めた瞬間を

見た氣がするのです。

 

 

 

 

 

 

氣づくと受験シーズン。

私の周りでも、受験や進路にまつわるいくつものドラマが繰り広げられていました。

 

「軸をもって」

「集中して」

「粘り強く」

「ふらふらするな」「ハラを据えろ」

などなど…

 

たとえば

言葉で子どもたちに「在り方」を示唆(説教?)

なさった方も、もしかしていらっしゃったかもしれませんが。

 

 

 

身体ができないことを、精神はできない。

身体が知らない感覚を、「在り方」において体現することは絶対にできない。

そう考えると

子どもたちの「身体感覚」を培い、鍛錬しておくことは

とても重要、と感じます。

 

 

 

 

(話は飛びますが

学校の授業に導入されたダンス。

ヒップホップのほかに社交ダンスもあれば

子どもたちの「コミュニケーション力&コミュニケーションに必要な身体感覚」

さらに大いに鍛えられるのではないか、と思うのですが。

いえいえ、もともとはそんなことをしなくても、

遊びの中で自然に鍛えられていたんですが)

 

人を動かす話し方のできる人は「物語れる」人である

 

※この記事は、震災に寄せた2014年の記事の再掲です。

 

 

 

 

19年前

阪神淡路大震災の後に生まれた

人々を勇気づけるための歌が、今は福島で歌い継がれている。

という番組を朝やっていました。

 

 

もちろん、その歌は神戸でも子どもたちによってずっと歌い継がれているわけですが

 

 

今、音楽を教える先生たちの若年化が進み

震災の記憶がほとんどない先生たちが

この歌をどのように子どもたちに教えたらよいか、悩んでいる。

ということも出ていました。

 

 

 

 

 

 

 

心を込めて歌ってほしい。

 

 

いつも歌う「今月の歌」とは違うのだから。

思いが聞く人に伝わるように。

そう願う先生たち。

でも、どうやったら??

それを子どもたちに伝えられる?

震災をまったく知らないこの子たちに。

 

 

自分自身の中に

その「記憶」自体が薄い先生たちは悩むわけです。

通り一遍の、うすっぺらなものになってしなうのではないか、と。

 

 

 

 

 

 

 

悩んだ一人の若い先生は

先輩の先生の授業を見学に行きます。

震災時、もはや先生をしていた、という先輩ですね。

その先輩がまず初めにやったことは

歌わせることでも、何でもありませんでした。

「指導」ではなかった。

 

 

 

 

 

 

「先生のクラスにいた、ミズエちゃんっていう子がね…」

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の「体験」を。

 

 

自分だけの「ストーリー」を語ることでした。

19年前、自分がその目で見、その耳で聞き、その肌で感じた、

まさに自分に起こった出来事を「物語る」。

「説明する」のではなく「物語る」。

 

その時の思いを、感情を、自分の言葉で語る。

 

それは、単なる「頭での理解」を超えて

自らの細胞に刻まれた、消えることのない、「波動」を伝える、ということなのです。

丁寧に、丁寧に、時間をかけて「語る」先生。

それをじっと聞く子どもたち。

 

 

 

 

 

 

 

  

見学の後、若い先生は実家に帰ります。

 

 

 

 

そして自分の震災時の唯一の記憶であった

「父と共に見た、赤く燃える夜空」と「それをみた父親の反応」という記憶を

父親に話を聞くことで補い、膨らませ、当時の父親の思いとともに自分の中に満たし

それを子どもたちの前で話します。

 

 

「いつも、冷静なお父さんの声が震えとったんよ…」

 

 

と。

 

 

彼だけの体験。彼の心の底から感じた「19年前の、あの日の思い」を

言葉にするのです。

 

 

 

 

 

 

 

さて

今、リーダーのためのプレゼンスセミナーの準備をしていますが

この世に「プレゼンス」の良しあしと無縁の人は存在しないと思うのです。

リーダーとは、人に影響を与え、人を導く立場にあるすべての人のことですから。

 

 

企業のリーダーだけでなく

 

子どもにとって、お母さんはリーダー。

先生ももちろん、リーダー。

 

 

 

 

 

 

人を動かすということは

 

 

「いい話ですね」「もっともな話ですね」を超えたものを、その場で作り出す、ということです。

人は、あなたの話が「正しい」から動くのではありません。

人は、あなたの話が「うまい」から動くのではありません。

理解を

納得を

それらを超えた「心の動く何か」。

それがあったときに、人ははじめて動きます。

大きく言えば「人生を変えよう」とします。

 

 

 

 

 

言葉

表情

他の誰のマネでもない、掛け値のない自分のそれらすべてでもって

自分だけのストーリーを語りましょう。

あなたの前の多くの人たちが待っているのは

あなたの「物語」なのですから。

 

 

 

 

 

「思いを語って世界を変える

 ~プレゼンテーションの技術を磨くワークショップ」

 

「情報を伝達する」という世界を超え

 「相手の心を動かし、行動を変え、変容に導く」プレゼンテーションのためのスキルを磨くワークショップです。
 

人がみな持つ「恒常性維持機能(変わらないでおこう、という機能)」を軽やかに超えて、深く聴き手の無意識レベルにまで届き、あなたの大切な人たちを変化へと導く可能性を高めるためのプレゼンテーションの力を

「身体」

「言葉」

「コンテンツの構造」

の3つの視点から磨きます。

 

◆平成29年◆  

2月12日/2月26日/3月12日/3月26日 (全日日曜日)  詳しくはこちらへ

 

人はあなたの言葉よりも先にあなたが発している身体情報を受け取っている

「思いを語って世界を変える

 ~プレゼンテーションの技術を磨くワークショップ」

 

「情報を伝達する」という世界を超え

 「相手の心を動かし、行動を変え、変容に導く」プレゼンテーションのためのスキルを磨くワークショップです。
 

人がみな持つ「恒常性維持機能(変わらないでおこう、という機能)」を軽やかに超えて、深く聴き手の無意識レベルにまで届き、あなたの大切な人たちを変化へと導く可能性を高めるためのプレゼンテーションの力を

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◆平成29年◆  

2月12日/2月26日/3月12日/3月26日 (全日日曜日)   詳しくはこちらへ

 

 

 

人は、
「言葉」の情報よりも、その言葉を話す人の「身体情報」を先に受け取ります。

面接で
「はじめの数秒で決まる」
「会場に入ってきた瞬間に決まる」

と言われるのはそういうわけです。
(厳密には入ってきた瞬間に聴衆は話者の意識の情報も受け取っているのですが、

まあ今日はシンプルに)

 

 

 

人には「無意識」なる部分が存在し、それは意識の何千倍もの力を持っている。

人の人生を左右するのは無意識!

(わたしは1対2000、と習いました。2000が無意識ですね)

というのはご存知の話。

さらに、意識と無意識の「管轄」は下記のように分けられます。

 

 

・意識→思考(頭・言葉)
・無意識→感覚・感情(身体)

 

 

わたしたちは身体から伝わってくる情報を察知する「センサー」のほうが

格段に

段違いに

爆発的に

優れている、ということ、です。

 

ですので

どれだけ文章を作りこみ
美しい文言、理路整然とした文章で固めても

それを発する自分自身の土台(ホンネ)がそことかけ離れていたり、

自信がなかったりすると、

(心の状態と身体はしっかりとつながっていますので)

聞き手はしっかりとそっちのほうを受け取る、というわけです。

 

一対一の会話でも、一対多のプレゼンのような場面でも

それは全く同じです。

そしてこの「不一致感」は聞き手に「なんだかわからないけれどなんだかへん」という

「違和感、不安感、不快感」を抱かせる。

残念。もうそこで受容器は閉じてしまいます。

 

 

 

 

 

ちなみに下の写真は山口美佐子さんとおっしゃる方。

円ブリオ鹿児島の初代代表をなさっていました。

(ただいまカフェにてプレゼン中)

 

 

「緊張する」「声が通らない…」「滑舌が…」とご本人はいろいろおっしゃいますが

この方は「ブレ」がありません。

1000人の前でもサクサクと話してしまう。

「伝えたい」という思いと

この方はバーバル&ノンバーバルメッセージがとても一致しているのです。

(バーバル=言葉)

身体にあふれる感覚と感情をしっかりと感じながら

そこと直結した言葉と表情を使う方。

かといって

大げさでもなく、わざとらしいわけでもなく「そのときの等身大」なのです。

 

 

 

入念な準備はしつつ、「それ(原稿)」にはとらわれず、こだわらず。

自由自在に、聴衆という「場」とともに動いていく。

ご自身と他者への信頼が根っこのところである方、なのでしょう。

この方の言葉は、一言一言が「生きている」といつも感じます。
「言葉」を超えて存在で「聞かせる」方。

しっかりと大地から立ち上がっている木のような自然な立ち姿が印象的です。

 

 

 

「立て板に水」の「うまいしゃべり」

「心に響く」「共感する」語り、というのは

別物だなあ、とこの方を見ているといつも思うのです。

この方の周りにはいつもこの方を「応援したい」という人であふれています。

 

 

 

 

今日は

「人はあなたの言葉よりも先にあなたから発している身体情報を受け取っている」ということ。

なので

「言葉と自分の身体から発するメッセージを一致させる」ことが大事

ということをお話ししました。

 

 

もしあなたが人前で緊張する方であったなら…

それを隠していいかっこをしてみるより

「緊張しています!」と言いながら

フルフル震えながら聴衆の前に立っておく。

そのドキドキを味わっておく。

そのほうがいい、ということ、ですね^^

 

今の自分で、ただそこにいてみる。

そこから、目の前の世界は開けてきます。

 

 

☆彡       ☆彡       ☆彡 

 

 

「思いを語って世界を変える~プレゼンレーションの技術を磨くワークショップ 全4回」

~予告~

【第一回 「プレゼンス」とは『場』への影響力~場に開かれた身体をつくる」】

・名プレゼンターは人ではなく「場」に対して語る
・他者と共鳴できる身体のために~遊びを通して共鳴の身体感覚を磨く
・声は自分の意識の広がりそのもの~表現者として声の可動域を広げる
・「聞き手はあなたの言葉の通りになるのではない、あなたの身体のとおりになるのだ」

 ~身体感覚と言葉を結びつける

 

 

 

大切な人の心に消えない灯りをともしたくはないか-心動かすプレゼンに必要な要素とは

「思いを語って世界を変える

 ~プレゼンテーションの技術を磨くワークショップ」

 

「情報を伝達する」という世界を超え

 「相手の心を動かし、行動を変え、変容に導く」プレゼンテーションのためのスキルを磨くワークショップです。
 

人がみな持つ「恒常性維持機能(変わらないでおこう、という機能)」を軽やかに超えて、深く聴き手の無意識レベルにまで届き、あなたの大切な人たちを変化へと導く可能性を高めるためのプレゼンテーションの力を

「身体」

「言葉」

「コンテンツの構造」

の3つの視点から磨きます。

 

◆平成29年◆  

2月12日 / 2月26日 / 3月12日 / 3月26日 (全日日曜日) 

                詳しくはこちらへ

 

 

 

「思いを語って世界を変える~プレゼンテーションの技術を磨くワークショップ」体験会。

おかげさまで満員御礼(を超える)方々がいらしてくださり

大変盛況に終えることができました。

 

 

 

テーマは

 

「情報を伝達する」というレベルを超え
「相手の心を動かし、行動を変え、変容に導く」プレゼン テーション。

 

その技術を

 

「身体」

「言葉」

「コンテンツの構造」

 

の3つの視点からひもとく、というもの。

 

受講の方々の感想を通してこの記事をお読みのみなさんも

少しご体験ください。

 

 

「自分のコンプレックスが強く、自信のなさのためにいつも想いが相手に届く前に

霧散していました。

でも、今、私自身の中に、どうしても伝えたいことがあることに氣づきました。

『私が伝える』。

ほかの誰でもない、あなたが伝えるのを待っている人がいる、

という言葉に勇氣をもらいました。

ありがとうございます」

     (40代女性 セミナープランナー)

 

 

この方は、声のエクササイズを通してお氣づきになったのでしょう。

ああ、今、霧散しているのは自分の「声」だけではないのだ、と。

自分の身体を使って発せられる「声」。

その声の状態や届き具合にはその人の「心の状態」までがしっかりと現れます。

 

 

 

 

「あっという間の3時間でした。

中村さんのワークショップは、本当に引き込まれるような『プレゼンテーション』でした。

今回は『無意識』と『五感』。

そして『つながり』というワードが印象に残りました。

まずは、五感をもっと意識して生活していきたいと思います。

ざっくりとした感覚で生きているなあと改めて思いました。

また、これからも継続して学んでいけたらと思います」

      (30代女性  福祉関係)

 

 

 

知識は。

頭での理解はすぐに忘れていきます。

「タメになる話だったね」で、一日後は三分の一も残っていないのが人の記憶です。

(エビングハウスの忘却曲線、ですね)

 

 

でも

「プレゼンの技術を磨くワークショップ」なるものに、わざわざ集う方々は

それではすまない。

 

「本当に伝えたい大切なこと」

を持っていらっしゃる。

「人の人生をプラスの方向に変えたい」

くらいは、意識的にせよ、無意識的にせよ、

必ず思っていらっしゃる。

(人を変えることはもちろんできませんが、

でもわたしたちは最善を願い、目指して

自分の『最高』を手渡す努力を選ぶことは自由なのです)

 

 

 

そのためには

「聞き手の感情(とそれにくっついている身体感覚)」までを

動かす必要があります。

 

思考ではなく、「感情」。

 

ここが大事です。

相手の頭(意識)を超えて、深く身体レベル(無意識レベル)にまで

しんしんと染み入り、響き、影響を与える必要が。

 

そのためのキーワードのひとつが

「聞き手の五感に訴える言葉(と表現)」。

 

語彙力

何より「世界の事象を細かく見て取り、言葉で表現する」

といった力が必要になります。

が…

 

練習すればできるようになる、といった類のものです。

 

「あなたが見ているその世界に、その氣持ちに聴衆をいざなうのだ」

 

と。

そうなれたら最高のプレゼンですね。

 

 

 

長くなってきました。

(長文大好きなのでつい)

ほかにも書きたいことが山積なのですが

次回にゆずって最後に一つ。

 

 

 

「楽しかったです。あっという間でした。

声や記述のワークの先にある『我は何者か?』という深いテーマで引っかかりました。

これは自分でつきつめねば、です。

うっすら気づきつつ、避けていたところを氣づかせていただき、ありがとうございます」

       (40代 女性 セミナーコーディネイター)

      

 

「伝える」ことはとてもクリエイティブな作業。

芸術やスポーツと同じく

こうすれば必ずだれでもこうなります、という「ハウツー」はあるようでない。

自分自身の「プレゼンス(存在感・影響力)」

をしっかり開発する、というところに最後は行き着くわけです。

 

 

 

 

 

さて

「伝える」ということ。

世の中にはたくさんの手段があります。

その中で

「言葉を紡ぎ、それを自身の身体を通して伝える」

ことを選んだあなたへ。

 

 

これは

とても楽しく、そしてエキサイティングな行為です。

何の道具もなくても

誰でも、生まれ持った声と言葉でいかようにでも、自由自在に表現できる。

そして

あなたの声と言葉が人を勇氣づけ、あるときは未来をひらく。

あるときは、一生消えない「あたたかい源泉
」を大切な人の心の中に

刻むことができる。

 

そして何より、真剣に伝えることを通して

わたしたちは自分の本来の響きに氣づきます。

それでなければ「伝わらないのだ」ということに氣づくのです。

 

 

 

それら、心躍る世界を探求するワークショップ、本篇がスタートします。

 

「思いを語って世界を変える

~プレゼンレーションの技術を磨くワークショップ 全4回」 平成29年2月スタート

 ◆◆◆詳しくはこちらから◆◆◆

 

 

 

 

 

 

こどもの身体のセンサーを鍛えよ(でないとスタバで着替える子になっちゃうぞ)

 

 

【思いを語って世界を変える〜プレゼンテーションの技術を磨くワークショップ

 

 

11月27日・30日】はこちら

 

 

 

 

写真は鹿児島市の城山遊歩道。全長2キロ。

 

 

早朝。

広い遊歩道の落ち葉を、

わずか1時間半でこんなにきれいにしてしまうその技術に

ついお声がけしてしまいました。

 

 

 

この方は基本「ブロー」(風でブワッと飛ばすやつ)

は使わないのだそう。

 

(数分前、それを使って豪快に吹き飛ばしていらっしゃる方がいたので

お聞きしてみたのです)

 

 

竹ぼうきでザッザッ。その動きが軽快で!

ブローを使わない訳は

「観光の方々にうるさいから」。

 

 

 

 

 

で、思い出したんですが…

去年、聖武天皇陵に行った際、

誰もいなかったのでやったー!静かに語り合える!(聖武天皇と)。

 

と思ったら、この「ブロー係」の方がやってきて、

大変残念な思いをしたのでした…。

 

 

 

 

 

 

 

話戻って。

ブローを使う際も

 

「お客様が来たら止める」

「道具は見えるところに置かない」

 

と、細かな取り決めがあるそうで、この方々の気配り…

 

「空間への配慮」

「その場がお客様にとって何であるのか」

(非日常であり、まさに旅、である)ということ

 

をしっかり理解され、

身体でちゃんと「演出」なさっていることに

ますます嬉しくなりました。

 

 

 

 

 

鹿児島市内の景観美しい有名観光地の売店で

スタッフさんたちの世間話が賑やかで

(しかも、売店の端から端へ)

 

「ここはあなたたちの茶の間じゃないのよっ!」

 

と突っ込みたくなったことがあります。

いちいち氣になる自分も自分なんですが…。

 

 

 

 

 

 

 

その場、その空間に合った

(広さ、意図、文脈、すべてにおいて)

 

「意識の使い方」

「身体の使い方」(身のこなし)

 

があり、それを自然と体現している人を見ると、

とにかくとても嬉しくなります。

それらは例えようもなく「美」である、と感じます。

 

 

 

 

 

で、この話と並行して書きたいのが一つ。

 

昨日、

スターバックスでお茶を飲んでいたところ、

席で着替えている女子学生がいた

という話。

 

スカートから上着まで、そりゃあもう見事に!!

いつも教室でああやって着替えているんでしょうね…。

みんなでわいわいしながら。

 

 

 

 

 

最近

「公の場ので身のこなしと、私的な場での身のこなし」

 

の話が、

医療系専門学校の先生をなさっているクライアントさんとの間で

話題になっていたのでした。

学生さんが、とにかく「それが出来ない」と言うのです。
もう、敬語がつかえないとか以前の問題、と。

 

 

実習先で、患者さんに接するとき腰を落とせない。

(上から見下ろして語る、ということですね)

「落として」と指示されるとヤンキー座りで落とす。

 

頭では彼らもわかっているんでしょう。

でも「身体に刻みこまれて」いないので動けないのです。

 

立ち姿、挨拶の声の大きさ、表情、立ち居振る舞い…

公の場での身体の張り、

緊張感の保ち方(まさに身のこなし)というのは

慣れ、日頃からの積み重ねですもんね。

 

 

 

 

 

「場に対する心身のセンサー」が発達していない。

 

「公共の場」という概念がない、というか

意識を広げられない子が増えているのはセミナーでも感じます。

意識の及ぶ範囲が自分の半径50センチで止まっている子。

 

 

 

「気配り」

 

 

 

なるものをして生活をする場面がない、ということなのでしょう。

身体の感覚(場に対するセンス)が、

本当に磨かれていない。

 

なので、「コミュニケーション力アップのための研修を」

の対象が若年層な場合は

必ずこの力を開発できるプロフラムを組み入れます。

 

 

身体感覚を、揺り動かし、それを使わずには成立しないあれこれ。

もう本当に「会話力が」以前の問題。

これらなくして会話も人間関係もあったものじゃないだろう!

と思うのです。

 

 

 

 

ちなみに、少し横道にそれますが

昔の子どもたちがみんなで普通にやっていたような遊び。

(はないちもんめ、とか陣取り鬼、ハンカチ落とし、だるまさんが転んだ、などなど…)

 

 

ああいうものを小さいころ、普通にやっていれば、

こういう感覚の土台は築かれているのですけれどね。

 

 

 

 

 

 

さて

20代の若者たちの「それ」までも鍛えなければならない

我がクライアントさん。

相当大変らしいです。

 

 

 

※話は大きく戻って、作業をなさっていたのはシルバー人材センターの方。

写真、載っけていいよ〜、と快くOKしてくださいました。

 

 

 

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