プレゼンは「造花」であってはならない。そこに「息吹」が必要

 

【思いを語って世界を変える〜プレゼンテーションの技術を磨くワークショップ

11月27日・30日】はこちら

 

 

写真は世界産業遺産、鹿児島市の「仙巌園」専属ガイドの中村こず恵さん。

 

 

 

 

先日、仙巌園特別企画「歩いて楽しむ薩摩切子ツアー」に行ってきました。

 

この企画は、(多分)彼女の発案。

彼女がいかに薩摩切子が好きで、勉強をなさっているか、

ガイドの質を高め、いわゆる「ガイド」から

「プロフェッショナル・ストーリーテラー」へ進化しようと

(この名称は私が彼女につけたんですが^ ^)

頑張っていらっしゃる姿を見てきたんですが。

 

今日の60分間のご案内、とても見事でした。

 

 

しっかりとグラウンディングした立ち姿の安定感。

全ての言葉が彼女の「中心」から、

彼女の「肚」としっかりつながって出てくるのです。

つまり…全ての言葉が「覚えました」レベルではなく、

 

「理解し」「納得し」「自分で体感した」

 

生きた言葉として発せられるのです。

なので、私たち参加者の身体の中にしっかりと入ってくる。届く。

 

 

 

 

毎日毎日、この歴史ある美しい庭園の中で呼吸し

キラキラ光る薩摩切子に触れ…

彼女は、きっと、毎日毎日ずっと、嬉しかったのです。

幸せだったのです。

 

その「嬉しさ」を。「感動」を。

自分が感じた「すごい!」「キレイ!」をそのまま私たちに伝えようとした。

純な切子の輝きのように、彼女は「それ」を忘れることなくしっかり身体に秘め、

そことつながって

今日の60分を創り上げた。

 

 

 

 

「伝わる」とは

つまり、そういうことです。

技術と知識と身体技能は必要ですが

根っこに「それ」がないと(彼女における切子の輝き)

美しいだけの造花になってしまいます。

造花には香りもない。柔らかな肌触りもない。

そして何より大切な

「場を震えさせるホンモノの波(振動)」がない。

 

 

 

何より

今日、彼女はきれいでした。

凛として匂い立つ菊花のごとく。

 

 

 

「そのことが好き」「伝えたい!」

という思い、使命。

それこそが、人を輝かせ

その「波長」こそが

「人を巻き込み、魅了する場」を創ります。

 

 

 

「これが自分だ!」という一点を探り当てたとき、エネルギーは爆発する

 

 

 

 

 

「仕事における独自のメソッドの開発」

をテーマにセッションを受けていらっしゃるクライアントさんのセッションでのことなんですが。

 

 

少し身体を動かす時間などとりつつ

お話をお聞きしていたんですが

その中で

 

「思い出したことがあります!」

 

と。

 

それは次のような体験でした。

ひとつは、昔その方が参加した身体のメンテナンスの講座での体験。

 

 

「向こうに向かって、ただ歩いてみて」

と先生に言われ、それでは、と歩いてみた。ただ普通に、まっすぐに。

すると、講師さんがその背中のある一点を「つん」と突いた。

 

 

それは本当に

指で軽く、背中を「とん…」と突いた、だけだったのだそうです。

けれど、その瞬間、電流が走ったように。

「背筋がピン!と伸びたのだ」と。

 

「ものすごく姿勢がよくなって…すべてが変わって、とにかくすごかったんです」

 

と。

 

 

 

もう一つは

その方が受けた声楽の個人レッスンでのこと。

なんでも、外国からいらした有名な先生のレッスンだったらしく

それを受ける機会があったのだそう。

 

レッスンの内容は、「発声、発声」そしてまた「発声」。

基本の発声練習を徹底的に、というもの。

ピアノに合わせて声を出しつつ

先生が、身体の位置を細かく調整してゆく。

 

 

「もっと右肩を上に」

「もう少し」

「少し下げて」

「左足を少し前へ」

「首を左へ」

 

それはそれは細かく、「微調整」の指示が続いたそうで。

そして!

またもや「それ」はやってきたのです!

次の瞬間

 

 

 

「(ドッカ~ン!)」(爆発音)

 

 

 

としか言いようのない、声の爆発!

ご自分でも驚くような、「どっから出てきたの⁉」としか言いようのない

声の奔流。エネルギーの奔流。

…聞いてみたかった!

 

 

「でも…その時だけだったんです。

あとからどんなに『どうだったっけ…?』と身体を動かしても

あんな声は出ないんです」

 

 

 

 

先のメンテナンスの先生。

そして、声楽の先生。

は、「その人本来の『位置』」「あるべきところ」を見て取ることのできる方、だったのだろうな、

と思います。

 

 

人はもともと生まれたときは「そこ」にいる。

心も、身体も。

子どもを見ているとつくづくそう思います。

そして時は過ぎ…まあ、いろいろ端折って

わたし達は今、すべての場面において再び

「自分として」この世界に立ち、表現することを求められています。

いえ、そうでなくてもいいんですが、それが楽で、一番うまくいく。

そして、「自分である」ことこそが

他者に、世界にもっともいい影響を及ぼすことができる。

 

 

わたしが個人セッションにおいて

そしてセミナー、ワークショップにおいて

テーマは様々違えども、切り口(山の登り口は)違えども

目指すのはすべてそこ、です。

 

 

 

 

11月末プレセミナー。

来年1月より始める「プレゼンテーションの技術を磨くワークショップ」。

 

「情報を伝えた」「いい話をできました」というのはプレゼントは言いません。

それは単なる「説明」という行為に過ぎない。

人が本当に動き、行動が変わるのは「心が動いたとき」。

「他者の深いところに染み入る」「心を動かす」

そんな「場」をつくるための

 

自分の言葉を

自分の身体を

自分の軸を

 

笑いと楽しみの中で創造していく時間です。

 

 

      11月27日(日)13時~ *11月30日(水)18時半~ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プレゼンの肝‐伝わるには「正しさ」よりリズム。何より自分と「身体」の一体感

今、最もチケットの取れない落語家、であるらしい
立川談春が対談で

(落語も)旋律として、音色として聞いていて心地いい、というのがいい。
正しさの外にあるものがある。
内容は伝わっていないかもしれないけれど、気持ちよかったよ、
みたいな風にやるのが好き。
音楽的な要素を大切にしたほうがよい。
落語ひとつでチューニングできそうな気がする」

と言ってていました。
正しさより五感。
リズム。
相手が身体で感じる感覚が大切、ということなのでしょう。

数年前でしたか。
由紀さおりのCDが海外で大ヒットしたことがありました。
曲を聴いた外国の人たちの感想がまさに、そうだったように記憶しています。
「意味はわからないけれど、聞いていて美しい。心地よい」。
母音主体の言葉である日本語の面目躍如、とも思いましたが。

話変わって。
「日本語で『体』というのはかつては『死体』のことだった」。
(能楽師 安田登 「日本人の身体」  より)
以下、要約。

 

「(昔は)生きているからだのことは『身』と言った。
身、とは、身と魂、両方の入ったものを指す言葉で、
昔の日本には『からだ』と『魂』を分けて考える風習はなかった。

この身体を『体』として、心(魂)と切り離し、『体を鍛える』というように
一個のモノのように扱う概念が出来たのは明治から」

 


なのだそう。
そういえば
日本の伝統的な武道、芸は、準備運動もなければ発声練習もないですね。
(詳しくはないので違ったらゴメンナサイ
以前やっていた居合はそうでした。それから先日見学した詩吟も)

 
○○のために身体を鍛える、トレーニングする
という「身体を切り離し、コントロールする。(意に添うように作り変える)」
という発想が
本来日本にはなかったのでしょうね。

 

さらに話変わって。
数か月前。
社交ダンスの著名な指導者のレッスンに出る機会を得ました。
先生いはく

「『ここでこう体を使って…』
とみなさん言いますね。指導者も言いますね。
『使う』という言葉で日本人は力をいれます。頑張ります。
日本人にとって『使う』とは『力を入れる』ということです。
でも、ダンスでは
体を使うとは「抜く」ということです」

 
すごいのは
身体を「使って」前へ前へ踏み出そうとしていたワルツの第一歩。
先生のおっしゃる通り、全身の力をストン、と抜いて
そうですね…まるで地球に身体を預けるようにすると
これまでの2倍、いっきに距離がのびたのです。
驚き。

「使う」という言葉に日本人が込めているイメージがある。
そして、
体は自分の外にあって「使う」もの、だと。
「物」だと、わたしたちは無意識に思っている。

身体は言葉のとおりになりますから。
どんどん切り離されていく。
まさに
「『からだ』の『から』は『殻』。
切り離し、覆い、分離されている、ということ」
そんなことを思いました。

 

さて、タイトル
~「伝わる」ためには「正しさ」よりリズム。何より自分と「身体」の一体感~

 
ここでいう「伝わる」とは
「いい話ですね」で、3日したら忘れてしまうような、頭での理解を指すのではなく。
相手の心身にがっちりと入り込み
細胞を揺るがし、相手の心を揺るがし、人生を変えうる…
そういう状態を「伝わる」と表現しています。
わたしたちが相手に「伝えたい」と思う
その理由は究極すべてこれだと思うのです。

そのために知っておくべきこと、それは
何よりまず一番に相手に伝わるのは

「言葉の内容」よりも「言葉の波長」「語り手の作り出す波長」である。

ということです。
「言葉の内容」で嘘はつけても、「波長」は嘘がつけません。
絶対に。
そして、その「伝わる波」「心地よい波」は
心と身体と声と言葉…全部がつながった状態の人からしか
生まれないものである、ということ。

わたしたちは
「身体とのつながり」を取り戻さなくてはなりません。
身体を震わせ、肚から声が出るとはどういうことか?
言葉と自分の感覚がしっかりと結びつくとはどういうことか?

それが本当に自分の身体から出てくるときの感覚を
正直言って、大人になったわたしたちは数十年、ほとんどの人が体験していません。

込み入った修行も特別な体験も必要なく
わたしたちは
今ここにある、人間としてのシンプルな「原初の」機能によって
それを体感し、取り戻すことができるのです。
そしてそれはとりもなおさず自分自身の人生の(どこかに置き忘れた)
大切な部分が戻ってくること、とイコールなのです。

 

※タイトルについて
「伝える」場面において、その情報が「正しい」のは大前提です。
「一言一句正確に…」「準備してきたことを全部話さないと」
といった部分にのみに固執するな、ということです^^。

 ●声と言葉を通して「身体と自分自身」のつながりを取り戻す● 
         「声のワークショップ2day*inふくおか」
          9月5日/6日   福岡市 警固神社にて   詳しくはこちらへ
     

「自分を信じる必要すらない~プレゼンに臨むあなたへのことば」

これを書いたのは1か月ほど前です。
あっ!と浮かんで走り書きしたままだったのですが。
少し書き足してアップします。

~~~~~~~~~~~~

今日は、
プレゼンセッションをひと月半ご一緒したクライアントさんの本番の日でした。
職場でなさるプレゼンですので
もちろんわたしは結果を見届けることはできないんですが。


「大丈夫!本当に素敵でしたもん、リハーサル。
わたしは心から安心して、そしてワクワクしています」
とメールを一本お送りしたんですが
後から

「ああ、本当に掛けないといけない声はあれじゃなかったなあ」

とふっと思い。
いえ。
「大丈夫、うまくいきますよ、自信をもって!」
という言葉かけも大切なんですが、最近「うまくいく、いかない」という次元が
そんなに大事かな、とも思うのです。
泉のように涌いてきた言葉はこちら。

「(聴衆の特性から)
もしかしたら、目の前の方々の表情は
あまり変わらないかもしれません。
思ったほど、反応が返ってこないかもしれません。
あなたが送った視線は受け止められないかもしれません。
それは、もしかしたら
あなたを少し、動揺させるかもしれません。

でも、
いいのです。それでもいいのです。
今、それが得られなくても
あなたの声、言葉。心を尽くし、言葉を尽くし手渡す情報…それらがゆっくりと相手に届き
やがてしみこみ。
そしてゆっくりと、相手の中で咀嚼され何かが役立つものとして、残る。

人を変えることはできません。
私たちにできるのは
『それ』を信じ
暖かい水を静かに注ぎ続ける。
それが私たちの仕事、私たちの役割なのです。

そのとき
自分からあふれ出るもの
それは自分という小さな自意識をはるかに超えた何か。

そのときもはやわたしたちは
『自分を信じる』必要すらないのです。

ただただ自然に。
例えば木が木であるように。
ただそこにあればいいのですから」

~~~~~~~

時間にして20分間のプレゼンテーション。
そのために
自分の声と向き合い、身体と向き合い、心と向き合ったひと月半。
その姿は美しく、強く、そして見事でした。
(本当に優しい風情の方でしたが)

技術。
伝わる声、言葉。
一対一のコミュニケーションであっても、一対多であっても
それらはとても大切なのですが
究極、それらを通して何を見つけ
どんな場所にたどり着きたいのかといえば
「自分の軸にしっかりとあり、自然にただそこに存在していられる自分」
という状態である、とそんな風に思えてなりません。

 ●~自分の思いが真に伝わる「声と言葉」を手に入れる~● 
         「声のワークショップ2day*inふくおか」
          9月5日/6日   福岡市 警固神社にて   詳しくはこちらへ
     

「朗誦のすゝめ」―日本語のエネルギーを次代へ手渡せる大人になる

結構古い記事ですが
子どものころの運動会の歌の「がっかり体験」について書いたことがあります。
少し変えて再掲。

――― * ――― * ―――

小学生のころ、運動会のたびに開会式で全員で歌う歌がありました。

昔のことなので、もちろん題名などは覚えていないのですが
旋律はハッキリ、歌詞はぼんやりと覚えています。
~みそらは高く
 我が意気上がる
 平和日本の友情かたく
 運動場は競いの庭ぞ
 鍛え鍛えし健児の手並み
 たゆまずおそれずわれらの心
 正々堂々~
うろおぼえなんですが。
小2?小3?くらいまで歌っていたような記憶があります。
子ども心に、この歌を歌うと、誇らしいような、背筋がぴん、と
伸びるような心持になったものでした。
特に好きだったのは
「鍛え鍛えし健児の手並み
たゆまずおそれずわれらの心」のところ。
そのメロディとも相まって、なんでしょう、あの感じは…
そう、つまり、これらの言葉を口にするのがとても心地よかったのです。
8歳児が
「き~たえ~き~たえしけんじのて~なみ~ た~ゆまずおそれぬわれらが~こ~こ~ろ」
意味は分かっていなかったことは確かなので
今思うと、ちょっと笑えますが。
でも、
言葉の「かっこいい感じ」、その言葉の響きが自らの心と身体に与える影響は
ちゃんと感じていました。わかっていました。
そして、それを「美しい」「誇らしい」と感じる感覚も
ちゃんと持ち合わせていました。
秋の髙空に吸い込まれていくようなあのまっすぐな感覚が懐かしい。
やがて
わたしにとって「ゆゆしき」出来事が起こります。
運動会の歌が変更になったのです。
新しい歌は、わたしのテンションを下げに下げ、何ともプライドを傷つけるものでした(笑)。
ひと言でいうと「とてもお子様チック」。
「そらに~みどりにぃ~あたらしい~
き~ぼうがおこる~わぁ~きあがる~」
子ども心にもっとも腹立たしかったのは次の一節。
「げ~んきに~はくしゅ~
『チャチャチャ♪ チャチャチャ♪』」

 
そして、こう続きます。
「きょうは楽しいうんどうか~い
むね~をぐ~んとはって、さあいこお~♪」
手を胸の右上と左下で「チャチャチャ」と小さく叩く振付けもご丁寧についており。
こんなの恥ずかしくてできるか!と思っていたものでした。
『あの凛とした世界はどこへ行った。
美しい言の葉を口に上らせるあの瞬間の細胞の震えるような喜びはどこへ行った!』
当時のわたしに語る言葉を持たせたら
きっとそう言ったと思います。
(この歌が悪い、ということではなく、わたしに合わなかったということです。あしからず)
今、論語の素読を復活させている小学校があるそうです
なんとすてきな。

わたし自身の体の中に
幼いころに本を通して、そして「日本語の力」を愛する数々の先生方との出会いによって
声を出し、体に刻んだ「美しき日本語」の名文たちが生きています。
それは理屈を超えて
人生のあらゆる場面でわたしを助け、導き、あるときは鼓舞してくれる
リズムになっています。

「子どもには難しいだろう」「意味が分からないだろう」ではなく。
お手軽な、咀嚼しやすい口当たりの良いもののみを与えるのではなく。
すべてを驚くほど柔軟に吸収し
それを人生を生きる力に変えてゆく、土台をつくるあの時期にこそ
硬い、中身の詰まった噛みごたえのある「本物」を口にさせてあげてほしい、と感じます。
言葉にかぎらず、なんでも。

――― * ――― * ―――

再掲終わり。
今日のタイトル

「日本語のエネルギーを次の世代へ手渡せる大人になる」

は、今年のわたしのワークショップに新しく加わったテーマの一つです。
母音を主体とした言葉であるという日本語の個性。
「a i  u  e  o」を高らかに歌い上げる、身体の開放感を感じさせる伸びやかな言葉。
これらはわたしたち日本人の民族としての能力と感性を形作るものとなっています。
わたしたちの精神活動の土台をつくるもの、
それが母国語です。

祝詞にはじまり(祝詞は文学ではありませんが)
日本の文学は古来「朗誦すること」…声に出して表現することにより、
より深く味わうことを織り込んでつくられています。
日本人は言葉の持つ「波動」「リズム」が
身体と精神に実際に及ぼす影響をよく知っていた民族であり
それを実際に活用してきたということです。

言葉は意思伝達の「道具」のみの役割を持つものではありません。
その意味のみならず「形」「語感」「波長」…
目で見て、耳で聞いて、響きを肌で感じて…そのすべてをもって
わたしたちの細胞に影響を与え、心身を鼓舞し、変化をもたらします。

誰もがこの身にしっかりと持っている
それらを愛し、味わい、高らかに歌い上げる「喜び」を呼び覚ます。
そんな時間をますますイメージしつつ、やってゆきたいと思っています。
その身に取り込む食べ物とまったく同じだけの重要性をもって
わたしたちの細胞は
「美しい言葉の響き」に鳴り響くことを欲しているのです。

と、小2の頃のわたしは言いたかったのだろうなと
思うわけ
です。

「相手をリラックスさせるには、まず自分の身体がリラックスしていること」

数日前に
1年半ぶりに写真を撮ってみました。

今回のカメラマンさんにお会いするのは三度目。
一度目は酒宴にて。
二回目は自身のイベントの模様を資料として撮影してもらったのですが
このときは自分がイベントを切り盛りするのに忙しく。
彼女が撮影するのをちゃんと見るのは今回が初めてです。
といいますか…

カメラマンさんとの相性は、はやり自分が被写体になってみてわかるんだなあ
とつくづく思った時間でした。

「はい、ここに座ってください。はい…そんな感じで」

炎天下。
なんでこんなに暑くなったかな~、とちょっと後悔したくなるようなまぶしい青空のもと
撮影ははじまりました。

「いいですね~。ステキです。じゃ、わたし、少し離れたところから撮りますから」

そういって彼女は大きなカメラ片手に10メートルほど離れた位置に移動し
すっとカメラを構えたのですが。
その瞬間…

(これは、撮ってもらってる場合じゃないぞ!)

そう。
言葉にするなら、そんなふうに言いたくなるくらいのちょっとした衝動が^^。

(だれか、誰かカメラもってこ~い!あれを、あれを撮らなくては…!)

そう呼ばわりたくなりました。
つまりそれくらい、彼女の姿は美しかった…!
何が美しいって
カメラを構える風情が美しいのです。

柳のようにしなやかに力の抜けた上半身。
正直、彼女がカメラを構えた瞬間、そこだけふわ~っと風が吹いたような
そんな感じさえしました。この暑いのに。
あれは、長いこと大きなカメラを扱ってきたことから
自然と体得した体の使い方なのでしょうか。
あの重さを腕で支えていては、きっと長時間もちません。
従って、彼女は「腰」を要(かなめ)として全ての動きを行っているのです。

動きが、腰からはじまる。
そこから起こった波紋がゆっくりと手足に広がる感じ。
従って、カメラを持った一つ一つの動きが空気をゆったりと動かすように
何とも優雅なのです。
そう、カメラを持った彼女は、まるで空気を身にまとって歩いているのです。

初めて会った酒宴の席では
あまり話せなかったこともあり、こういう雰囲気は全く感じなかったのですが。
とするとやはりこれは「撮影のときの彼女のモード」か??
…仕事から身についた理にかなった動き、といいましょうか。
そうだとしたら、それは何と美しいのでしょう。

農家である姉夫婦を見ていても、同じように感じることがあります。
ムリと無駄のない、最も理にかなった動き。
「そのことのプロ」だからこそ生まれる美しさ。
(素人ではああはいきません。一時間で腰痛と筋肉痛です)

目の前のこの年若い女性が醸し出す
この、ゆったりしたしなやかな…野を行く野生動物のような動きは
彼女がカメラの世界に取り組んできた、まさにその姿勢と軌跡をあらわしているのだろうな、
とそんなことも思ったのでした。
(合間にお話を聞いてみると
とにかく小さい頃から「カメラがおもちゃ」という環境で育ったのだそう)

さて
表題の「リラックス」についてですが
(ここがメインのはずが、付け足しになってしまいました)

「は~い、リラックスして」
「笑って」

といくら言われても、プロじゃあるまいし…
そんなに「リラックスして」「いい笑顔で」わらえるものじゃないのです。
「元気に笑って」
などと言われてもその「元気に笑う」という世界を体験したことがない人にはわからない。
まず、相手が「元気」という自分のリソースににアクセスできる状態を作らなくては。

その人の中の、本人も知らない自分。
一人では到達できない、開けない部分を開いてあげ
知らなかった世界に連れて行ける力こそがプロであり
「場をコントロールする責任者」の仕事です。
オーケストラの指揮者と一緒、でしょうか。
カメラマンさんだけに限らず、このような場面を持つ多くの方がきっといらっしゃると思います。
最も身近なところでは例えば…「親」。

そして、その時に覚えておいてほしいのが
相手にまず伝わるのは
あなたの言葉ではなく、あなたの「身体の状態」だ、ということ。

さて
この日の撮影なのですが
ガジュマルの木の影から顔を出してみたり、空に向かって飛んでみたりと…
まるでアイドルPVみたいなことまでしてしまっている自分のデータを見て
今ちょっと赤面している自分が。

つまり、それくらいリラックスして楽しかった、ということなのでした。

わたしの撮ったこの日の最高の一枚。
株式会社pegasus 福永さん

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 自分の軸を明確にし、それに沿って生きることをサポートします。
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文章には、あなたの「命が刻むリズム」が表れる

文章を書いて、誰かに託した際に

とても「口うるさい人」になってしまい、我ながら恥ずかしいな、と思うことがあります。

自分の打った句読点。

改行

間…

細かいひとつにまでこだわってしまい
掲載時に違いでもあればつい「直してください」と言ってしまうから、なのです。

半角分のずれも許しません、みたいな。

何をこだわっているかというと

結局「リズム」なのだ、ということに気づきました。

「ライブ」な感じをなるべく伝えたい。

熱熱の、この体に湧き出でたリズムをそのままに…

と。

その瞬間、自分の中に生まれた「伝えたい」は、言葉だけでおさまる問題ではない、と

なんとなく思っているから、なのでしょう。

言葉の「内容」だけでは人は動かない。

それがどんなに立派な内容であっても。

あなたにとって「正しい」ことであっても。

言葉はもちろんのこと、言葉と言葉の間、行間に生まれる空気、間合い・・・そういったものも

含めての「表現」であると、そうあきらかに思っています。

「人は、あなたの話した言葉のとおりになるのではない。

あなたのその瞬間の体のとおりになるのだ(あなたが『体から発しているもの』の通りになるのだ)」

これは

プレゼンスはじめ、全般的にコミュニケーション力を扱うセミナーで

よく受講生さんにお伝えする言葉です。

わたしが言ったのではなく、確か竹内敏晴さんの言葉かと。

この「体から発しているもの」をあらわす一つが

文章の場合「リズム」である気がしています。

魅力的な場をつくる語り手。

人をひきつけ、場を一瞬にしてつかむ発信者に共通していることは

「リズム」

をもっている。

多くの語り手を見て、体験的にそう感じます。

「こういうリズムがいい」「このリズムが正解」というものはもちろんなく。

例えば

落語家さんが同じ題材を語ったとしても

誰一人、同じリズム、同じ口調で語る方はいませんし。

それぞれが、完全に「その方の世界(リズム)」を持っている。

その人が持っている固有のリズム。

その人の体、細胞に刻まれた…いわば、「自分のいのちが刻む音」と言ってもいいでしょうか。

それを自然に、止めることなく溢れさせることができる人はステキです。

体の奥から沸き起こる自分の「リズム」を捉え、

それをしっかりと、増幅させ。

増幅した「自分のリズム」は、もはや勝手にあふれ出ていきます。

泉からあふれでる清水のように。

そして、自然と周囲を豊かに潤します。

これは文章も同じ。

静かなさざ波のように始まり、次第に大きな流れとなり、うねりとなって押し寄せ

そして再び静かに引いていく波のように。

またあるときは

ラヴェルのボレロのように最高潮までぐんと高まり…

そしてトン!と唐突に落ちる幕。

あとに残るは深淵たる余韻・・・。

といった感じに。

自分のリズムを聴き

自分のリズムを知り

そして、それを目の前の白い紙の上に(PCの画面に)あふれさせることのできる力。

そんなものが必要なのかな、と思います。

そして

自分のリズム、をとらえるためには、たくさんの「経験」が必要なのだろう、と思います。

多くの文章に触れ、美しい言葉に触れること。つまり、しっかりとまずは「型」を学ぶこと

「型破りとは型のある人がやるから型破り。型のない人がやったら、それは形無し。」

…これは、先代の勘三郎さんの言葉でしたっけ?

「声のワークショップ」で文語文や講談の台本を扱うのも、そんな意図があるかもしれません。

話は飛びますが、そのワークショップ終了の方々の中から

「声と言葉と表現力」の場であったにもかかわらず

  

「書く文章が変わった」

「自分の記事を読んだみんなの反応が違う」

「ブログのお客様の反応が変わった」

「ブログ告知で、あっという間にセミナーが満席になるようになった」

という現象が起こるのはとても嬉しいことであり

こうやって考察してみるに、「むべなるかな」という気もするのです。

彼らは、数か月のプロセスを経て

「自分の持って生まれた命のリズム」をあふれさせることの快感を知り

そうすることに「許可」を出した。

そして、その、「自分のリズムを瞬時に出せる」よう

いつでもアクセスできるよう

回路を太くすることを鍛錬した、ということなのかな、と思います。

一事が万事。

自分のリズム。

自分の命が刻む、あなただけの脈動。

それに乗って生きている人は、すべてにおいて魅力的です。

✿写真は、「声のワークショップ」であるお一人が使った台本です。

ゴシック体の印刷のものをご自身で手書きで書き直し

さらに、間合い、抑揚…徹底的に書き込んで「型」を体に染みこませ。

自分独自の表現になるまで体に沿わせる鍛錬をした、この方のプロセスが滲み出す台本です。

面白いのは

なんだか謡?の台本っぽくなっている、ということ。

きっと、意図せずそうなっていらっしゃるのでしょうね。

「『カチャーシー』とは『かき混ぜる』というイミらしい」

知人が「琉球國祭り太鼓」、つまり「エイサー」のチームに入っています。
誘われて行ってきました。

いつもは招かれて
あちこちのお祭りでたたいているという彼女たち。
青空の下、にぎやかにやっているのでしょうが
昨日は自主公演ということで、ホールにて。
四角い箱の中、観客はつくりつけの椅子におとなしく腰を掛け。

さて

結論から言うと、つまりあの方々は
「場を温め」「場を揺り動かし」「爆発させる」専門家、なのですね^ ^。
(写真一枚目。お客さんは大人しく客席に→数十分後「混沌*\(^o^)/*」)

これがこんなに。

この「温め力」と「かき混ぜ力」。
セミナー講師には必須のものです。

セミナーの場合はこれに加えて「収束力」というか
「昇華力」
(混沌から生まれたエネルギーを一段上の新たなるものに生まれ変わらせる力)も
必要でしょうか。

もちろんこれは、わたしのようなセミナー講師に限らず、
「他者に影響を与え、変化と成長を促す」
ことをこいねがいつつ仕事にしている人にはきっと、共通することなのでしょう。
そしてそれは、ある程度「テクニック」とも言えるのですが、
最後はそこではないものに寄るのです。
(あれ?結局言っていることが前回のフィギュアスケートの記事の時とおんなじですね?)

それにしても…
なんと楽しいんでしょう!
人の細胞が温まって、熱をどん!と出す瞬間を見るのは。
昨日のメモに「人にはやはり祭りが必要だ!」と熱く書いているのを見つけています。

そして

最後にもう一つ。
人の細胞に火をつけることが出来る。
その瞬間の「その人」は本当に純で清らかで光り輝く表情をしている、ということ。
邪念があると、あれは出来ないのです。
人の細胞に火をつけるなんてことは。

うまくやろう
よく見せよう
わたしが…

なんというか、そんなもろもろのあれやこれやを遥か通り越して
その表情は「無心」。

昨日のエイサーチームの皆様。本当に美しかった。
あれが、神様が場におりてきている(神様とつながっている)瞬間、
ということなんでしょうね。

神が降りたつ表現の場にて
はじめてエネルギーは龍のようにうなりをあげ
浄化や再生や創造や…
そんなことを起こすのだろうなあ、と。
そう思いました。

あなたの思いを止めてはいけない。それはあなただけのものではないのだから

以前、コミュニケーションスキルアップセミナーによくいらしてくださっていた男性から

メッセージが届いたのは数日前。


「こんにちは。

Facebookにも上げましたが

今日、また自分のことを『そのままでよい』と言ってくれた人に出会いました。

昼からうれしくて号泣でした。

しかも、その人は『何度でもあきらめずに言うから』とまで。

愛があります。

自分は幸せ者です。

死んだばあちゃんからの、最期の一生モノのプレゼントだとも思ってます。

何となくまた、先生を思い出して報告しました」

以前も

友人が落ち込んでいた時に、夜中に電話をかけてきてくれ

1時間以上かけて「あなたはそのままでよい」と言ってくれた、と

メッセージをくださったことがありました。

この方の一生懸命な、真摯な姿が

周りのそういった優しい人たちをひきつけるのだろうな~と思いつつ

読み進めると、一番最後に

「(Facebookの記事は)恥ずかしいので閉じました」

と。

気持ち、わかるなあ~。

Facebook、わたしもいまだに慣れませんので。

このメッセージを確認したのは出先にて。

家に帰ってから何気なくFacebookを開けると、ざっと流れるニュースフィードの記事。

そして一番に目に飛び込んできたのは先の彼の記事でした。

表現は違いますが

まさにさっき、彼がわたしに書いてくれたことが、彼のモノローグとして綴られていました。

記事、閉じた、と言っていたのに…

と思いつつ即、読みました。

『…何度も何度も言ってくれていたのに

受け取らなかったのは俺。

ごめん。ほんとうにごめんなさい…』

そのモノローグは

彼の感動、魂の震えがそのまま溢れ出た美しい旋律の様な波でもって

わたしの中に入ってきました。

先の「メッセージ」とはまた違う、生の波動。彼の瞬間のそのままの響き。

彼に返事を書きました。

「Facebook。

偶然にもあなたの記事が開けた途端に目に飛び込んできました。

今、思うのは…

一人に起こったことは

それを書きたい!伝えたい!と思ったときに

必ず、それを必要としている他の人がいるのだ、ということ。

そして今回、わたしは明らかにその一人、だったようです。

記事を見てあれは、私にも掛けられている言葉だ、と思いました。

誰かが、何者かがわたしに伝えたいメッセージを

あなたの言葉を借りてわたしにも見せてくれたのだ、と。

とても癒され、そして勇気が出ました。

すべてあなたと…表面の状況は違えど深いところで同じ経験をきっとしていました。

そして

私の周りにいる『何者か』もずっとわたしにああ言ってくれていたのだなあと思いました。

記事は閉じた、とおっしゃいましたね。

私のI padのFacebookはたまに記事の訂正や変更の反映が遅れることがあるのです。

これを神の配剤と言わずしてなんと言いましょうか!

本当にありがとうございました」

彼からは

「お恥ずかしい…号泣のあとに勢いで書いたんですが、すごく照れくさくなってですね。

先生と共有できて何よりです」

とちょっと恥ずかしそうなお返事が届きました。

さて…

Facebook上の彼のその記事は

ニュースフィードを探しても、もうどこにも見当たりません。

もちろん、彼のページに行ってもありません。

ですから、正確にここに書き写すことさえできないのです。

残っているのは、その染み入るような彼の喜びの感覚と

わたしの中に最も刻み込まれた先の三行の言葉のみ。

あの瞬間、あの時だけのものだったのです。

わたしの反応の悪いI padが起こしてくれた…いえいえ、神様が起こしてくれた

瞬間の奇跡。




彼へのメッセージの締めくくりを書いて

この記事も締めくくりたいと思います。

「記事からはとても素敵な波長が伝わってきましたよ。

その瞬間にしか出せない波長です。

わたしは、言葉もですが、その波長を受け取って癒されたのですよ!

だからありがとう、といったのです。

勇気を出してアップしてくれてありがとう。と。

そして神様にも。

それを見せてくれてありがとう、です^o^」

あなたの思いを止めてはいけない。

表現したい!と思ったらしなければならない。

それは、きっと誰かがあなたの言葉を、あなたの体験を、

…そこで震えたあなたの魂の波動を必要としている、ということなのだから。

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「クリスマスに思う~沖永良部の百合の物語~」

先日とある懇親会で
沖永良部島の方とお話しする機会がありました。
沖永良部島の基幹産業は「花卉」。
温暖な気候を生かしたえらぶゆり、フリージアなどの栽培が盛んです。
県内の島なので、もちろんそのことは知っていたのですが。
感動したのは
沖永良部のユリ「誕生の話」。

「えらぶゆりの伝説

明治31年、
沖永良部、喜美留字の沖でイギリス船が難破した。
岸にやっとたどり着き、弱っていたイギリス人を伊地知季道という人が家に連れ帰り
丁寧にもてなした。

ようやく元気になったイギリス人は島内を散歩するようになり
山に自生している白ユリを見つけた。
イギリス人は
『この花は英国ではクリスマスになくてはならない花である。
植えつけて増やしておいてほしい。必ず買いに来るから』
といって帰国した。

自分の山に宝があるとも知らず、ユリを雑草だと思い引き抜いて捨てていたが
それを拾い集め、人の見えないところに丁寧に植えた。

その翌々年
助けられたイギリス人が大船を喜美留沖に泊めた。
その人こそ、横浜山手百番地に事務所を置くユリ商人、アイザック・ハンティングであった。
ハンティングは、命を助けてくれた礼をすると同時に
ユリの球根すべてを3000円で買い取った。
卵が1コ、5厘もしなかった時代。
これがえらぶユリの始まりである」

えらぶユリが、「宝」として再発見され
産業として栽培されはじめた出発点の物語。

沖永良部のユリは知っていたけれど。
そして
世界にユリはたくさんあるけれど
この物語をまとった瞬間、沖永良部のユリはわたしにとって特別なものとなりました。

目の前にたくさんのユリがあったら
きっと、「えらぶユリ」を買ってしまうと思うのです。
全く条件の同じものが2つ、目の前にあったら
人は『物語』のある方を必ず選びますから。
人は感情を心地よく動かしてくれる体験をいつも求めているのですから。

わたしにとって「えらぶユリ」は
100年前の数奇な出会いの物語に触れ
明治の人たちの驚きや感動、そして頑張り…「雑草」を世界に通用する花として
売り出し始めた時代の躍動感を感じさせてくれるものとなりました。
なんて素敵な物語を持っている花なんでしょう!

そして問題は
この物語を島の方々の他はほとんど知らない、ということなのです。
島のサイトにも載っていない。
島の方々にとってはあまりにも
「昔から普通に聞いてきた」
話であり、特別なものではないのです。
それはまるで
「ユリを雑草だと思い捨てていた」
明治の方々と同じです。

そして、こういうことは
沖永良部だけでなく、あちこちで起こっていることなのです。
土地でも、企業でも、そして個人の中においても。
「そこにあるもの、ずっと持っているものの価値を、自分ではわからない」。

「このお話、外に知らしめたほうがいいですよ。絶対!」

と、熱く語ってしまいました。
その方は沖永良部の鹿児島事務所の方でしたので
「早速に!」
とおっしゃってくださり
しかも、参考文献までお送りくださった、というわけなのです。
その文献を見ながら、今この文章を書いています。

昨日はクリスマスでした。
我が「沖永良部ユリ」は、いったいいくつのクリスマスを彩ったことでしょう。
華やかに、高貴に、そして気高く。
そして、その「はじまり」は
昔々、沖永良部とイギリスの出会いから始まっているのです。
ヒトにも、モノにも、そして土地にも歴史があります。
歴史とは、教科書で学ぶ項目や年号ではありません。
確実に、今のわたしたちにしっかりと繋がっているものです。
そして、
それらはいつまでも、
今を生きる私たちに「勇気と力と叡智とひらめき」を与え続けるものなのです。
そして、人はそういう『物語』をいつも求めています。

沖永良部のユリの「物語」でした。

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