「モノの価値は下がっているが、モノにまつわる『物語』の価値は上がっている」

クライアントさんが
家をお造りになるところです。

そのお話をいろいろと聞くのが面白い。

先日は「板」の話。

「板を見に行ってきたんです」

何でも、「足場の板」を見てらした、と。
あの、工事現場などで、足場を組むときに使っている板です。
それの新品ではなく「使用したもの」。
人が乗り、場合によってはペンキやなんかが「ぱあっ」と散っているやつ。

ご自身が足場を組むのではないのです。
新品ではなく、その「使い込まれた」感じがよく
「いい風合いになっている」板を加工して使う人も多いのだと。
確かに…。
ちょっとイメージしてみたのですが
おしゃれなお店の壁や床に、そういう板で細工がしてあったらカッコいいかも。
板に刻まれた時間や足跡(そくせき)が醸し出す空間の風合いに
価値を置く人がいるからこそ、売れているのですね。
すごい。

「いろんなことを皆さん考えるんですねえ!」

いつものことながら感嘆することしきり。
お話は続きます。
家具のこと。
中国からはいってきた古材を使ったソファや棚をお考えだそう。
この方…何でも作る気ですよ。
ええ、知っていましたけれどね。わかっていましたけれど。
今さらながらにその技術や、積み重ねていらした経験。
そしていろいろなものの「土台の仕組み」を瞬時に見とり
自身のものとしてしまう視点とセンスに感嘆です。

「物の価値は下がっていますが、古いものの価値は上がっています」

とその方。
ふっとひらめいて、次のように続けてみました。

「つまり!モノの持つ『物語』の価値が上がっている、という言い方もできるでしょうか」

それから「モノの持つ物語」の話で盛り上がりました。
モノでも、人でも、企業でも
独自の「ストーリー」があると燃えますよね、そうそう、と。
つい共感しちゃいますよね、と。
そして、お互い「お気に入りの(共感している)」企業さんの「ストーリー」の交換などなど。

さて
「物語るセミナー」はわたしの好きなプログラムの一つです。
他者に何かを伝えたいとき。
チームの理念
商品の良さ
絶対実現させたい企画のプレゼン…

伝えることによって
相手に行動を起こしてほしいとき。
(購買、も行動)

そこには
個々人の「物語」があったほうがいい。
何故それをするのか?
あなたのリアルな体験。そこから湧いた思い。
それを、あなただけの、生き生きとした言葉で伝えるのだ。

人はあなたの話が「正しいから」「理路整然としているから」
あなたのいうことを聞こうとするのではない。
協力したくなるのではない。

あなたの人生そのもの。生きてきた姿。
あなただけの言葉。
そこに起こる共感によってのみ、人は初めて心を動かし
それが「真の行動」へとつながるのだ。

と。
自分の中の「物語」を探し、語る、と
そういうセミナーなのですが。
これは、親子や先生と生徒の対話でも一緒ですね。
声高に、正論のみを語る大人のいうことは聞きたくないし、心も動かないものです。
決まっているから。
みんなこうしているから。
普通は…
常識では…

そんな言葉で語られる「世の中のルール」の
思い出せばなんと無味乾燥だったことか。

人を動かす…というか
他者と繋がることでしか、何かを成し遂げ、変化を起こすことはできない今。
「自分は何者であるか」をしっかりと知り
それを適切な言葉とあり方で
そして熱意を持って伝えることが出来る力、
つまり、自らの言葉で、自らの『物語を語る力』は、すべての人にとって
さまざまな場面で必要な「あり方」であると感じます。

ちょっと話がずれたかな?

「時空を超える~にっぽんの『語り』の力」

先日

演劇ワークショップ参加のため東京にいましたが

もう一つ、目的がありました。

それは

「講談の個人レッスンを受ける」。

友人の紹介で急きょ実現。

初の『伝統芸能』の世界です。

粗相があってなならぬ、失礼があってはならぬ…と

先生のために厳選した「俊寛」(喜界島限定黒糖焼酎)と「そらきゅう」片手に

緊張しながらレッスンの場所に向かいました。

前日は演劇ワークショップで

そこにはもちろん、発声なども含まれており。

これらの「演劇」の「方法」のルーツはよくわかりませんが多分

外から(外国から)入ってきたもの。

考えてみると、日本の伝統芸能には特別な「発声練習」なるものは存在しない。

(多分…違っていたらすみません)

そういえば

居合の練習の時も「筋トレ」や「体力つくりのための基礎練習」

といったものはなかったな。

最近行っていないので偉そうには書けませんが。

これらはわたしにとって大変面白く、そして興味深いことです。

さて

初めて生で接する講談の世界は

演台(釈台と言うそう)に座った先生。そして一本の張扇。

声と言葉、ただそれだけによって織りなされる「一大スペクタクル」。

それはまるで合戦場にいるかのような。

映画を見ているような、ハイビジョンの映像を見ているかのような。

目に浮かぶのは色鮮やかな甲冑の列。たなびく旗印。

そして

聞こえるのです。感じるのです。

馬のいななきに、武将が呼ばわる大音声にどっとざわめく周囲の空気…。

これらが、

声とリズムと抑揚、呼吸…それらのみによって表現される。

これはすごい。

一席が終わった時に

自分の体から自然と拍手が沸き起こり。

もう、拍手しないとやってらんないよ、という感じでしょうか。

恐るべし。

いとも簡単に「時空を超える」日本の語りの力。

さて。

なぜこのようなことが起こるのだろう??

と考えてみたのですが。

もちろん、演者のすごさなのですが。

一つは「型」なのだと思います。

わたしたちの体に刻まれた共通の「型」。

リズムといっていいかもしれません。

伝統芸能はいわば「タイムカプセル」。

百年、二百年前から基本、変わることなく

わたしたち日本人の体と心を震わせ、感動させてきた

「型」を継承しています。

わたしたちの祖先から今に渡って、細胞に刻み込まれているリズム。

日頃は忘れていても

決して消え去ることのない、遺伝子に組み込まれたリズム。

それらを瞬時によみがえらせる「何か」がある。

美しく格調高い「言葉の力」。

それはもちろん、シェークスピアのセリフなど…

なんでもよいのですが

中でも「日本語の持つ軽快なリズム」が人の体と心をみる間に開き

元気にしていくさまは、いつも見ていて驚くばかりです。

それはまるで

和太鼓を聞くと、その地を揺るがす響きに自然と誰でも体が動いてしまうような…

そんな感じでしょうか。

前出の演劇ワークショップの際

一人の男の子が

「丹田で声を支える、という感覚がわかりません」と。

その子の、上に向かってひょろりと伸びたその肢体はのびやかで。

が、言い方を変えればどことなく「安定していない」。

生まれたときからイスとソファの生活。着物を着ることもほぼなく

見るからに

畳の上で「座す」「立つ」という感覚を(技術を)もはや伝承していない体といったかんじで。

ああ、こういう子こそ、和の伝統を受け継ぐものをやるといいのにな、

と思ったことでした。

それこそ講談や落語、能。書道や華道…和限定ではないですが

薪割りとか(笑)。

話がそれました。
わたしたちの体を開き、心を開き、時空を超え。

わたしたちの中に備わった「エネルギー」を活性化してくれる。

いえ、きっと、誰もが生まれついて持っていた「生きる力」のようなものを

よみがえらせてくれる

そんな気がする

にっぽんの「語りの力」「言葉の力」。

興味は尽きません。

…余談ですけれど

一番嬉しかったのは、講談のレッスンの開始が

静岡茶と最中で「まずは一服」からはじまったことだったかもしれません^^


「ウルトラマンは能面」

もう1年も前のことです。

神社の境内での太鼓の奉納を見ていて

かすかな違和感を感じたことがありました。

あれは、

「奉納」ではなくて、単に神社でやっていただけだったのかもしれませんが。

大中小、さまざまな形のたくさんの太鼓で演じられていたその演奏。

休日ということもあり参詣のお客さん多数見物。

どんな違和感かといいますと

なんといいますか

「バンドのパフォーマンス」といいますか、もしくは「アイドルのショー」といいますか

いや、かすかなんですが

何か、そういうにおいがするような。

言葉にするなら

「どう!見て!みんな!」

という自己表現の場?という感じでしょうか。

なんというんでしょう。

もちろん、太鼓をたたいているのは奏者の方々で

その方々が演奏している場なわけで、確かに皆、それを見て喜んでいるわけで

ですから、まさに自己表現なわけですが。

どうも、「そこ」にすんなり入ることができず、一歩離れたところから客観的に眺めていました。

わたしの中で

神社での演奏=奉納=神様に喜んでいただく。

鍛え鍛え、磨いてきた音と技と、その技がはぐくんだ「心映え」を感謝とともに神様に捧げる行為。

それを通じて神様とつながり、自然とつながるまさに「かみごと」なイメージがあり。

ああいうときに「つながる」べきは自分の中のどこなのだろう?

などなど…

その場でうまく説明しがたいことをいろいろと思っていたのでした。

あくまでも個人的感覚です念のため。

場所が神社でなければ特に感じなかったことかもしれません。

なぜか

「彼」を見て、そのことをふと思い出したのでした。

久しぶりに再会した彼は銀の面に熱い正義の心をおし包み、一人孤独に闘う者。

彼の名は「ウルトラマン」。

子どもの頃以来でした。テレビでまじまじとその雄姿を見たのは。

ウルトラマンって…こんなにかっこよかったっけ?

というのがその時の印象。

腕をやや開き、背筋をまっすぐに伸ばして立つその姿は潔く美しく。

俯けた顔、見上げる顔…ほんの少しの動きなのに、
その表情の語ること語ること。

あるときは愁いを帯び、悲しみに満ち、あるときは静かな怒りに震え…

その造形は全く変わらないというのに、実に様々な表情を見せるのです。

ストイックにしてこんなにも雄弁。

ウルトラマン、これは…能の面ですね。

そして

これらの「感じ」を、ちゃんと子どもの頃にも感じていたことを思いだしました。

ウルトラマンの変わらぬ静かなその表情に

その背中に

彼の千もの喜びを感じ、万もの怒りや悲しみを感じ

共感しまくって見ていたことを思いだしました。

さきの神社のくだりで

「違和感」と書きましたが

奉納うんぬんはおいておき

わたしの見た演奏の雰囲気がどうも「借り着」のように思え

一人で勝手に、妙に恥ずかしくなったのかもしれないな、とも思いました。

大げさに泣き叫ばなくとも

大仰な身振り手振り表情でアピールしなくとも

肩のかすかな動き一つで、秀麗な眉に落ちる一つの影で感じ、察し、共感できる。

そういう文化にどっぷりと浸り

体の中にウルトラマン的能面の美が染みこんだ民族が(笑)

「あの手の雰囲気(表現)」を格好よく決めるためには

きっとたいそうな修練が必要だな、とも思ったのでした。

(ああいう波長を天性として体に備え持っている人もいるので個人差ありです)

修練が進めば進むほど、いろいろなものがそぎ落とされ、

結局、よりシンプルな表現の形なっていく気もしますが。

修練するということは

自分の身にしっくりくる響きを掘り当て、

それを極みまで高める、ということなのかもしれません。

それはどんな音であれ

りん、と響く、一条のまっすぐな鈴の音ような、突き抜ける響きであり

きっと天と地を結び

人の心を奥深く震わせる響きとなるのでしょう。

どうもうまくまとまらないので削除しようかとも思ったのですが

自戒を込めて、このまま置いておきたいと思います。

「そこにないものを見せ、聞かせ、感じさせる~白石加代子百物語 第三十二夜」

昨夜観た「白石加代子百物語シリーズ 第三十二夜」。

第98話「橋づくし」

第99話「天守物語」

確かに、舞台にいたのは最初から最後まで

たった一人の女優さんだったはずなのに

今朝、思い出してみると

「…そうそう、そこで、天守に登ってきた武士が槍で獅子の目を突いて…」

完全に、頭の中に残った映像は変わってしまっているのに

あたらめておお!と驚いてます。

小袖をまとった美しい姫に

りりしい若侍

白い鷹が空を舞い

そして飛び交う矢玉…

豪華絢爛、多彩な登場人物による物語の世界に、

しっかりといざなわれてしまった

一夜だったのでした。

さて

一人が、大勢の人物をどう演じ分けるのか、なのですが。

衣装が変わるわけでもないですし。

素人の考えですと

「立っている場所を変えたり…あとは声を変えて表情を変える??」

などなど、思うわけですが。

なかなかどうして、それだけ、という単純なものではない。

確かに、ほんとうに豊かな、さまざまな表情の声をお持ちでしたが。

それでも、例えば声優さんのように「全く違う声を出す」ということは

なさっていないように感じました。

ましてや、顔の表情など。

…そのような、「表面に現れる」浅い部分のみで、あの物語をつくり、演じたとしたら

きっと、お客様は10分もしないうちに飽きてしまうんでしょう。

「世界でもっとも表情豊かな人形は、文楽人形である」

先日ボイトレにいったところの先生のお言葉です。

ご存知の通り、文楽人形の表情は変わりません。

でも、それを使う方々によって命を吹き込まれ、

輝くような喜びの表情や

張り裂けんばかりの悲嘆の表情を全身からあふれさせる。

人形を使う方々、演じていらっしゃいますよね。

もちろん、表情にも動きにも、まったく現れませんが。

それでも

その人形の演じている役の「人生」を、全身で生きていらしゃるのが、わかる。

静かに、静かに、深いところで。

能もそうですね。

能面自体の表情は変わらない。

でも、あの、何の動きもない、抑制された表情の中に

わたしたちはたくさんの感情を見、感じます。

一粒の水が水面に紋を描くような静かな動きの中に

瞬間、ものすごく大きな世界のつらなりを感じたりする。

結局

「中身」なのだ。

とその、先生はおっしゃるわけです。

演じる人の、中身。

演技という、表に現れる枝葉。それを地中で支える広大な「根っこ」はちゃんと存在するのか!?と。

それがないと造花にすぎない、と。

そう熱く語ってくださったのですが

昨日はそのことを

あらめて目の前で見、聞き、感じることができた気がしました。

このことは

役者さんに限らず、人前で語り、伝える場面のある方には

みな、共通する大切な部分だといつも感じます。

どんなに手をかけ、準備された文章であり、言葉であっても

それに「命」を通わせない限り相手の中には届かない。

どんなに美しく、流麗な言葉の群れであっても。

どんな正論であっても。

自分で見、聞き、感じている言葉でなければ

相手を自分の見ている世界に(自分がつたえたい、わかってほしいと切望する世界へ)

相手をいざなうことができない。

だから、相手は動かない。

それは…なんとなんと残念なことなのでしょう!!

そういう方々を数多く見ることもあるだけに、もったいないな、と思います。

来月より、また、そのようなことを探求する場をつくる予定でいます。

ご興味あるかた、いらっしゃるかな…?

まとまりなく終わっていきますが

今日はこれにて。

「一瞬で人に変化を起こす人~アナ雪を歌いながら気づいたこと」

昔、少しの間ですが、競技ダンスをやっていたことがあります。
そのとき、なんだかわからないけれど
ふっと、動きがよくなるときがありました。
何度練習しても勘にこなかった動きが
突然以前よりよくなる。体が動くようになる。キレが出てくる。
そういうときは、だいたい練習に飽きてプロのDVDを見まくった後でした。

ああ、見ているだけでもうまくなるんだなあ…。
と、人の体の不思議を思ったのでしたが。

さて
先日、ショッピングモールから出ようとしたら
もうそれはそれは

「美しい」

なんて言葉では形容できないくらいにキラキラと光るエネルギーの歌声がばん!と
耳に入ってきて
そのままふら~っと、歌声の方に引き寄せられて歩いて行ってしまいました。
曲は「アナ雪」の英語ヴァージョン。

モール内の特設会場でミニライブが行われていたのでした。
歌っていたのは

「fumika」さん

という女性の歌い手さん。
(この歌の方です。よろしければどうぞ。泣かないでね^^)

なんでしょう、あれは。
まず、ものすごくベタな感想ですが
(プロの歌い手さんにはなはだ失礼な感想ですが)

あんなにすごい歌声を生で聞いたのは初めてです。
こういう人が、本当に上手い、っていうんだなあ…としみじみと思いながら聞きました。
上手さもさることながら
目と耳と心を魅かれたのはその『響き』。
無駄なく、余すところなく全身を使って増幅された声という響きが
こちらの体の中にまでビンビンと入ってくるのです。

ああ、この人は今、思いっきり「生きて」いる
歌うということを全身が喜んでいる

あの声は、細胞の一つ一つ、すべてでもって創りだしている声ですね。
その細胞の響きが、彼女の「喜び」とともに
空気振動でもってがんがん伝わってくる感じ。
そしてこちらの細胞を直撃するのです。
その声、そして全身でもって会場中の空気を響かせるその姿。

160センチくらいに見えた身長も
客席に入って歌うその姿を間近で見ると、どう見ても私より小さい。
そして、ウエストはどう見ても56センチ台…あまりにも小さな、華奢なその体。
驚きました。この体のどこから、この「響き」が出てくるのだ!?と。

こんなにも
「自分自身の響き」を奏でている人の状態を。
場を良質なエネルギーで満たし、渦まで起こしている状態というものを
久しぶりに見たのでした。

さて
(ここからが本題です)
帰りの車の中。
なんだかもう、もう黙ってはいられないわけです(笑)
従って…歌いました。それはそれはでっかい声で!「アナと雪の女王」。
わたしの好きな母音の美しい日本語ヴァージョンの方。
fumikaさんの声を出す姿を思い描きながら。
すると…

どうみても!今までより声が出ているのです。
音域も、声の大きさも、張りも…息を押し出す強さ自体が
そりゃ、すごくうまい!というわけではないですが
でも、1,3倍くらいには広がっている。
「体の響く部分の面積がいつもよりぐんと増えている」感じ。
そして何より
そうやって、体を大きく響かせて声を出していることの「喜び」を、「快感」を体がしっかりと感じている。
なんてなんて気持ちいい。

「ミラーニューロン」というの、ありますね。
相手の動きを、自分もあたかもやっているように感じるという。
fumikaさんが歌っている間
わたしの脳も、自分があたかも同じことをできていると感じ、
細胞はそのとおりに動いていてくれたのでしょうか。

わたしには
fumikaさんのあの瞬間の在り方が体に染みこんだのだ、と思えました。
体中の細胞が生きている(歌っている)喜びを震えるように奏で、
鳴り響いているあの状態に
自分の細胞が共鳴し、ボカッと頭を殴られたように揺り起こされたのだ、と。
彼女は本当に歌うことが好き。
「こんなにもわたしだよ!これがわたしだよ!」
と…。
自分を余すところなく表現出来ている、彼女の歓び自体に
わたしの体が共鳴したのだと。
そして、この体もそうしたくてたまらなくなったのだと。

と、このように。
突然歌がうまくなった(笑)わたしですが。

思いは続きます。
例えばわたしの仕事でも、いえ、何の表現(仕事)であっても
周りに影響を与えるには
何よりまず、しっかりと自分自身としてただそこにあること、
ただ全身で文字通り「生きている喜びを歌う」ことだな、と。

コンテンツの力、内容ももちろん大切です。
でも、そこの力のみにたよったのでは、わたしの仕事の場合

「いい話でしたね」

で終わってしまう。
真に相手を、その場を「変容」を起こす場とすることはできない。
だからみずみずしくありたい。いつも、必ず自分の持って生まれた響きを存分に奏で、
100%自分として場に立っていたい。歓びとともに。
また、そうすることが人の前に立つものとしての責任であろう、と。

体に残る感覚を味わいながらあらためてそんなことを確認しました。
え~と、fumikaさん、ありがとうございます。

「人をひきつけ、場を引き込む語り手は何が違うのか?」

 

 

 

 

 

3ページある台詞の、どこだったか。

ある部分を発した次の瞬間に、それは起こりました。

 

 

 

「カタカタカタ…」

 

 

 

 

 

 

身体が揺れ始め。

 

 

 

ぐっと開いて立っていた、その右足の

膝から下がカ、カ、カ…と、速い速度で揺れているのです。

つまり、震えている。

その震えは、体を伝い右半身へと。

右手に持った台詞の紙が揺れているので確かです。

 

 

 

 

 

先日行った東京、「発声と呼吸のワークショップ」。

台詞を渡され、3日目の最後の「発表」の場。

 

 

圧倒的な声量のいる歌舞伎のセリフについていこうとムリしてしまい

だんだんのどが痛くなり、声もつぶれはじめ

意味なくあった自信も張りのない風船みたいにしぼみかけ…。

 

相手は某有名劇団の研究生だったという男の子。

向かい合って立つこと10メートル。

そもそもどうしてあたしが弁慶なのよ、

体格から見てもどうみてもあんたでしょう、若者よ、

と思いつつ…

そんなこんなで始まった「勧進帳」、弁慶と富樫の掛け合いの場面。

 

 

 

 

とても、新鮮でした。

自分が震えている。

 

 

 

こういうの、久しぶりだ。

人前に立って、緊張で…怖さで震えるなんて。

 

 

 

そのまま、

カタカタと震える右足をそのままに

最後の一言まで、出し終えました。

最後などはもう、語る、というより「うなる」といったほうがいいような。

(そうやれ、といわれてやっているわけで、決して自分のオリジナルで出せる表現じゃない)

めったに出しませんね、ああいう声。

 

 

 

 

 

 

 

ワークショップのすべてが終了し

その日は懇親会に出席しそのまま帰途へ。

 

 

 

 

翌日

多摩川沿いの桜の木の下で、

昨日の体験を自分の中で思い出し、反芻していました。

そして、気づきました。

あれは、緊張の震えじゃない。怖かったんじゃない。

いや、確かに始めはもう逃げ帰りたいくらいに緊張していたけれど。

あれは…

あれは…

 

 

「歓び」だ、と。

 

 

ある瞬間、リミッターが振り切れ

細胞が「バチバチっ」と音を立ててはじける。

「何か」が広がり、あふれる瞬間。

 

 

つきものが落ちたように

 

 

心配も、不安も、「うまくやろう」という山っ気も…

すべてがふっ飛んでしまって、ただ「自分」しか残らないあの感覚。

 

あとはもう

楽器のように共鳴する一個のからだ。

自分の喉からのびやかに、まっすぐに広がってゆく母音の響き。

 

美しい言の葉、ひとつひとつの音とリズム、間、それらすべてを

自分のこの身一つでもって

この世の中に波として押し出してゆくだけ。

それは、人がすべて生まれついて備えているもっとも原初の機能。

 

 

 

そのすべてに、身体中が、

全細胞が、歓んでいたのだと。

歓喜と快感のあまり、身体がガタガタと震えていたのだと。

そう思い至りました。

 

 

 

あの感覚を一言で、ひっくるめて言うならば

こんなにも、自分自身でいられる

いや

「自分自身でいる事」しか求められない場に立っていられることの幸せ。

といった感じでしょうか。

 

 

「人を魅了し、場を魅了する語り手は何が違うのか?」

3日間の体験を通してふたたび確認したことは

先ほど書いた

 

 

「波として押し出す力」

 

 

の違い、なのかなと思います。

立てることができる波の大きさ、広さ、強さの違い、です。

 

小さい、か細い波しか立てられない人もいるし

立っているだけでもはやしんしんと、波が伝わってくる人もいる。

 

また、波の質も人によって違います。

声が大きいから、届く波を立てられるかといったらそれだけでもない。

あんまりざんぶと荒い波を投げつけ

受け取る方をガードに走らせている人もいますし。

 

 

波の強さ、大きさ、広さの強弱、それから「質」

 

 

それらを自由自在に「場と一体となって」操れる…というとちょっと語弊がありますね。

場と一体となって生き物のように自由自在に出せる「身体」を持った人

ということでしょうか。

「身体」と書きましたが

ここは、身体技能と、心の状態の両方がかかわってくる部分です。

 

 

 

「波」の要素は、思いつくところで

わかりやすい部分でいうと「呼吸」と「声」。

 

それから、「言葉の咀嚼力」そして「イメージする力」。

さらに、身体レベルでも気持ちのレベルでも「すっきりしている」といったところでしょうか。

 

余計な感情や信念、思い込みがついていない。

楽器を想像してもらえればわかりますが

ヒビや錆などは、その楽器が朗々と鳴ることを妨げます。

 

 

 

「勧進帳」。

 

 

 

20数名が同じ場面をやったわけですが

もう、その「醸し出す世界」が全く違うわけで、これは面白いことでした。

 

たくさんの「波」のパターン。

そして「波」とその人の雰囲気との関係等々を見て、

自分の耳で聞き、肌で感じ

なおかつプロの役者さんの解説という裏付けを聴くことができたことは

たくさんの納得を得た時間となりました。

 

 

さて

今日も、漠然とした体験記のまま終わってゆこうとしていますが。

もう少し、この学び、進めていこうと思っています。

自分自身の「生」の感覚そのものをとぎすますために。

そしてセッションにて、セミナーにて、お目にかかる「あなた」のために。

 

稲穂から時間をかけて、やがて妙なる酒の一滴ができるように

わたしが出会うみなさんにとって

口に入れやすい、滋養に満ちたエッセンスとして届けられるように。

そう願っているところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人を動かす話し方のできる人は「物語れる」人である

19年前

阪神淡路大震災の後に生まれた

人々を勇気づけるための歌が、今は福島で歌い継がれている。

という番組を朝やっていました。

もちろん、その歌は神戸でも子どもたちによってずっと歌い継がれているわけですが

今、音楽を教える先生たちの若年化が進み

震災の記憶がほとんどない先生たちが

この歌をどのように子どもたちに教えたらよいか、悩んでいる。

ということも出ていました。

心を込めて歌ってほしい。

いつも歌う「今月の歌」とは違うのだから。

思いが聞く人に伝わるように。

そう願う先生たち。

でも、どうやったら??

それを子どもたちに伝えられる?

震災をまったく知らないこの子たちに。

自分自身の中に

その「記憶」自体が薄い先生たちは悩むわけです。

通り一遍の、うすっぺらなものになってしなうのではないか、と。

悩んだ一人の若い先生は

先輩の先生の授業を見学に行きます。

震災時、もはや先生をしていた、という先輩ですね。

その先輩がまず初めにやったことは

歌わせることでも、何でもありませんでした。

「指導」ではなかった。

「先生のクラスにいた、ミズエちゃんっていう子がね…」

自分の「体験」を。

自分だけの「ストーリー」を語ることでした。

19年前、自分がその目で見、その耳で聞き、その肌で感じた、

まさに自分に起こった出来事を「物語る」。

「説明する」のではなく「物語る」。

その時の思いを、感情を、自分の言葉で語る。

それは、単なる「頭での理解」を超えて

自らの細胞に刻まれた、消えることのない、「波動」を伝える、ということなのです。

丁寧に、丁寧に、時間をかけて「語る」先生。

それをじっと聞く子どもたち。

見学の後、若い先生は実家に帰ります。

そして自分の震災時の唯一の記憶であった

「父と共に見た、赤く燃える夜空」と「それをみた父親の反応」という記憶を

父親に話を聞くことで補い、膨らませ、当時の父親の思いとともに自分の中に満たし

それを子どもたちの前で話します。

「いつも、冷静なお父さんの声が震えとったんよ…」

と。

彼だけの体験。彼の心の底から感じた「19年前の、あの日の思い」を

言葉にするのです。

さて

今、リーダーのためのプレゼンスセミナーの準備をしていますが

この世に「プレゼンス」の良しあしと無縁の人は存在しないと思うのです。

リーダーとは、人に影響を与え、人を導く立場にあるすべての人のことですから。

企業のリーダーだけでなく

子どもにとって、お母さんはリーダー。

先生ももちろん、リーダー。

人を動かすということは

「いい話ですね」「もっともな話ですね」を超えたものを、その場で作り出す、ということです。

人は、あなたの話が「正しい」から動くのではありません。

人は、あなたの話が「うまい」から動くのではありません。

理解を

納得を

それらを超えた「心の動く何か」。

それがあったときに、人ははじめて動きます。

大きく言えば「人生を変えよう」とします。

言葉

表情

他の誰のマネでもない、掛け値のない自分のそれらすべてでもって

自分だけのストーリーを語りましょう。

あなたの前の多くの人たちが待っているのは

あなたの「物語」なのですから。

「半沢直樹の『体』」

金曜日

大阪の知人からこんなメールが届きました。

「ただ今東京です!

明日からのアジアマスターズ柔道大会に出るためで

先ほど計量はパスしました!

計量終わって、達成感に包まれています(笑)」

そうそう

この知人はなんだか、柔道がすごいんですよね。

(詳細は覚えていないのですが)

春に出会った時の「飲み会」で、本筋の他にその話でも盛り上がっていたのでした。

メールを見て、いいなあ~、と思いました。

自分の体の中に

ゆるぎない「技」が染みこみ、組み込まれているんだろうな。

仕事やプライベートとは別に

その「技」を存分に発揮できるこういう世界を持っているのがとてもうらやましい。

頭を介さず、自分の体の存在を直に感じて

対話できる時間を生活の中で持っている。

しかも、この方のようなレベルになると、それはとても質のいいものなんでしょう。

自分の体への信頼や万能感を存分に体感できる時間。

そんな体験をずっと人生の中でキープしていることが

とてもすごい。

こういう時間って

生きていくうえでとても大切なところだと思うのですよね。

こういう感覚がある人は、日々の生活の中で何があっても

根っこのところでぶれない。ちゃんと立っていられる気がします。

簡単に言うと

踏ん張れる体を持っている人は心も踏ん張れる。

腰が据わっている人は心もぶれにくい。

半沢直樹。

昨日最終回でしたけれど

剣道のシーンを見ながら

全編を通して貫かれている

半沢の鋼のようにしなやかな強靭なあり方は、

彼のあの「身体のあり方」と無関係ではないのではないか

とふと思いました。

彼の体自体が「筋を通す」「まっすぐである」「あきらめない」という体験を

しっかりと知っている。

(そうすると、同じく剣道をやっていながら、あの同僚の「近藤さん」の心の弱さはどうなんだ?

ということになりますが、そこはドラマなのでまあ…)

体の状態と心の状態は密接に関わっている、というお話です。

「コミュニケーション」という観点から多くの人を見て思うことですが

体が硬い人、固まっている人で「コミュニケーション上手」って

いないですし。

先のわたしの知人のように

スポーツをやっている人は、そのスポーツへの知識ももちろん大切なのでしょうが

体に刻み込まれた「モノ」こそが

最後はどんなときでも彼を導き、助けているのだろうな、と思います。

プロとアマの境はそのあたりにある気もします。

試合に臨み

いつも平常心でいられるときばかりではないでしょう。

そんな中、心がどんな状況であっても

体に深く刻みこまれた「ゆるがぬもの」がハイパフォーマンスができる状態に

すぐに戻してくれる。

即、連れて行ってくれる。つなげてくれる。

それがいつも、正確にできるのがプロなんだろうなと。

それは

わたしたちでも同じなのでしょう。日々の生活の場面において

わたしたちを導いてくれる「体の状態」「体に刻まれた、体の知恵」を

持っているほどよい。

そして、それは何か特殊な動きや訓練をするということではないのです。

話が戻りますが

先日の斉藤孝講演会で「子供の反応が鈍かった」と書きましたが

そこで見た光景にとどまらず

子供・若者たちの体からそういったものが抜け落ちているように感じます。

「まっすぐに座れない」

「腰を立てていられない」

他にも

「リズムに乗れない」

「足腰がふらつく」

などなど…。

セミナーで、ちょっとしたコミュニケーションに関するゲームをするとすぐにわかります。

拍手を合わせられない若者

押し相撲が上手に出来ない若者

今までどんな生活をしてきたの??

と言いたくなることがたまに。

これらは体だけの問題ではありません。

体と心はイコール。表現力、コミュニケーション力などと直結してきます。

そして、体の知恵は生きるための知恵。

これから長い人生を彼らが生きていくうえでの「心の在り方」を支える根っこの

「身体体験」がない、ということが

どれだけ脆弱なものであることか。

口で100万遍

「頑張れ」「もっと粘り強く」などなど子供に言っても。

「団結」「調和」「共鳴」の大切さを言っても。

それを「体が」体験し、体がそれが「どんな感覚なのか」を知っていない限り

頭で想像したものでしかない。

先週金は、月一の若者セミナー。

たった3時間という短い時間のセミナーでも

「体」を変えると、若者たちは面白いくらいに変わります。

体が動きだす。

そして、心が動き出す。精神が活発に動き出す。

場が熱を帯び

創造のエネルギーをぐん、と出し始めます。

それを見ているとただただ

「ああ、これまで機会がなかったんだな」

「眠っていただけだったんだな。(冷凍マンモスみたい)」

「きっと、待っていたんだな」

と思うのです。

解き放たれた彼らの体の細胞にひとつひとつが

表現の、創造の喜びを歌い上げているのを感じるのです。

短い時間の中でその状態を「なんとか、体に刻みつけられたら」と思います。

たった3時間の出会いの中の体験ではあるけれど

それでもこれから彼らが落ち込んだ時

今日の、この体の感覚を、状態を思い出してくれたらと。

きっと、彼らの軌道を変え

心を上向かせるための「体の記憶」にきっとなってくれるのではないかと。

まとまりませんが

今日はこんなところで。

今日はこれから、まったく負のプログラムの組み込まれていない「純な体」を見てきます。

(赤ちゃんということです)

「教員はパフォーマー」

思えば
学生の時、いちおう教員になるための勉強をしたわけですが
「どうやって、どのように人前に立つか」という講義はなかったのですよね。
一度も。

「何を教えるか」
の勉強は(いちおう)ありましたが。
「どう伝えるか」はなかった、ということです。
今はどうなんでしょう。
あるのでしょうか。

わたしが教員であった頃
「どのように」生徒の前に立つか、
つまり、学ぶという「場の空気」をどのように創るか、という「言葉では表現しづらい」
しかし、最も大切なことは完全に

「個人芸」「見よう見まね」「なんとなく」

という「経験値」の世界でした。
ですから、「場の空気」を作って
ぐ~っと、はじめの数分で生徒の心をひきつけ、場を温め
生徒のレセプターをぐいっと開き
「学び、吸収する」という生徒の頭と体の状態をつくる、ということが
体感的にできるセンスをもともと持った先生はいいんですが
そうでない先生は
はっきりと「差」が生まれる、という現象が起きていたように感じます。

目の前に40人の子どもがいるのに
1メートル圏内くらいにしか届かない意識の輪の中で黙々としゃべる方ですとか。
無駄に声が大きくて
(話し手の意識自体が荒く拡散していて、細かく配れていないということ)
生徒の頭の上を言葉が一緒くたになって、だーっと滑って行く方とか。

どちらも「一人一人の子ども」の発する、リアルな瞬間瞬間の状態を察知できない、という
残念なセンサー、ということかと。

前々回の記事
「勝負の決め手はプレゼンだった」
にも通じるところなのですが
言っている内容に加えて
特に子どもの場合、場の波動がダイナミックに動いていたほうがより染み込みやすい。
静と動、発散と収束。

それらを効果的に演出するには、その場をつくる者の「開いた体」が必要です。
場の状況を瞬時にとらえるセンサー(五感)
とらえた状況を、生徒の状態に応じて臨機応変に変形させることができる瞬発力が必要。
声の出し方、表情などなど…表現力の練磨はいわずもがな。
魅了する場、をつくるためには必須の項目。

と、いうようなことを
数日前のセッションで、クライアントさんと話していました。
日々20代の若者相手に奮闘なさっている仕事の方なのですが。その方が次のようなことを語ってくださいました。

「最近、テレビで女優の高畑なんとかさんが話していたんですが
保護者参加型の授業参観の時に、自分が『先生、わかりません!』とか
どんどん発言するものだから、息子さんが嫌がっていた、と。
高畑さんいはく、
『先生も、自分と同じ、パフォーマーのはずなのに、授業が面白くない。残念だ』と」

言葉は違ったと思うのですが
上記のような感じの内容でした。

「先生はパフォーマー」

なんとステキな言葉だろう、と思いました。
そう定義した瞬間に、何をしなければならないのか、何をすべきなのか、の認識が
ガラリと変わります。

「自分はパフォーマー」。
そう、先生が意識したら、「教える」という行為はもっともっと
なんというか…平面的でない、すごいものになりそうです。
教職課程に「大道芸パフォーマンス」体験など
入れてもいいんじゃないかな、
絶対鍛えられるのに

とその方と話しながら本気で思ったのでした。

さて
というようなことに関するセミナーをやらないか、という話が出ています。

遥か昔、教員になりたての頃初めて生徒の前に立ったときに、
学校で習ったことがなにも役に立たないことに愕然としたあの日(笑)。
 (あくまでも、私の場合ですので念のため)

実習とは違い
自由奔放に、本気で向かってくる固まり。細胞分裂の「バチバチっ」という音まで聞こえてきそうな漲るエネルギーの集団という「うごめく生き物」の前に
自分の無力さを感じたあの日。

しょうもない授業もたくさんしつつ少しづつ、
彼らからもらったたくさんのギフトの上に多くの体験を積み重ね
今、「伝える」ことを専門の仕事としています。
 

時はたち
今思うのは
 今の自分に見えること、感じること、わかることを伝えかえしてみることが彼らへの何よりの恩返しかなあということなのです。

「そこにないものを見せる力」

クライアントさんからセッションの後で絵をいただきました。
セッション中に見た、というか、「体感した」イメージを描いて送ってくださったのですが。
見たとたん

「うわ~、質感」

という言葉が頭の中にふわっと。
絵の中の世界が、目だけではなく、皮膚感覚で感じられる、
触った感じが伝わってくる絵だな~、といううことなんですが。

長い髪の女の子が、大きな光る水晶のような石を
両手に抱えている、というその絵。
その宝石に映りこむ女の子の笑顔がかわいらしい。

女の子の髪の質感。
ふわりとしてやわらかく、ゆるやかな巻き毛は手に心地よさそう。
長いガウンのような着衣が肌に心地よく触れる感じや
きゅっと抱きしめる宝石の
澄み切ったすがすがしい硬質の肌触り。
何よりこの女の子のやわらかさが、みずみずしさがなんともかわいらしくて
ついきゅっと抱きしめたくなる。

きっと、そんなに時間をかけて描いた絵ではないと思うのですが
そこから伝わってくる「質感」がちゃんと、ある。
ものすごく、ある。

「『本当に伝わる』とはどういうことか」

をセミナーでお伝えします。
言葉が聞ここえる、声が聞こえる=「伝わる」」ことではないのだ、と。
本当に人の体の奥まで入り込み
人の心を揺り動かす「伝え方」とはどうすることであり、どう「ある」ということなのか。

「伝える」「伝わる」ということ…表現するということは
言葉であっても、何であってもその本質は「同じ」なのだなあ、とつくづく感じます。

彼女の絵から感じることは
「そのとき、本当に、彼女はそこにいた」のだということ。
「頭の中のイメージ」ではあっても
彼女にとっては実際に全身で自分が見、聞き、体で感じていたものであったのだということ。
まさに彼女は「そのときそこにいた」。

自分を容易にその状態に持って行ける力。
この力がある人は、プレゼンであってもとても優れたプレゼンをします。
言葉が上滑りすることなく(←滑っている人、結構多いです^^)
確実に聴衆の中に「入って行く」語りをすることができます。
そう、「話す」というよりは「語る」。

その人の深い根っ子から出てくる。
伝えたいところの本質とつながって、まさに「その場所から」
出てくる、その言葉の力強さと説得力。
それは
言い換えるならば

「見えないものをその場で聴衆に見せ、
聞こえない音を聞かせ、
そこにない空気をその肌に感じさせることのできる力」

この力は存外簡単に磨くことができます。
わずか数分でその人の表現がいとも簡単に変わるのを見るのは
とても面白く、またいつも鳥肌ものです。

さて

彼女の一枚の絵から
これまでの彼女の旅の過程や
今、彼女が到達した場所~ゆるぎのない喜び、自分自身への信頼…
そんなものを一瞬にして感じ。
その旅の道すがらに自分もいられたということが
とても幸せに思えました。

ちなみにこの方は
「語彙が少ない」などなど…自分の「話し方」についての心配をたまにおっしゃるのですが
(そりゃ、少ないよりも多い方がよいものだと思いますが)

わたしから見れば
それよりももっと次元の深い
小手先ではない本当の「伝える」ための力をしっかりと開発なさった
(もともとあったものを、掘り出し、磨き、自分自身でそれを認めた)
と感じます。

そしてきっと
この力でこの方は、自分ならではの言葉と表現の方法で
これからも、さらに多くの人たちに、たくさんの影響を
与えてゆかれるのだろうと思うのです。

自分ならではのリズム
あり方
方法で。
それが何より。
それこそが、この世の中への何よりのギフトであり貢献だと
心からそう思います。

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