それはもともと「わたしたちのもの」でもあったのだ

 

 

 

 

 

わたしは「コーチ」という肩書きで仕事をしていますが、

コーチングを勉強し始めた頃。

 

 

当初は、アメリカの「コーチU」のテキストの直訳で、

明らかな文字の間違いに文法の間違い。

訳が「イミフ」なところなど…

 

 

 

 

今思えば、随分と荒削りなマニュアルでした。

けれど、とにかく面白くて、

その「不思議なテキスト」の入った箱を

それこそ宝物のように大切にしていたものでした。

 

 

 

その、わたしの手元に来た「宝物」。

 

 

 

それが実は、

禅をはじめとした東洋思想の影響も

色濃く受けていたものだった、ということを知ったのは

後のこと。

 

 

わたしは

「逆輸入」と言う形で、わたし達の先祖が作り上げ、

人の心に平安をもたらすために世界に広まって行った

珠玉のエッセンスたちと出会っていたわけです。

 

 

 

 

 

コーチングの基本理念は

「全ての答えは、自分の中にある」

と、

わたしの初代メンターコーチはしっかと名刺に書いていましたが、

 

 

 

 

他者とのコミュニケーションは

自分自身とのコミュニケーションの映し鏡。

 

その考え方でいうと、

「わたしたち」の中にも、答えはある。

「日本人であるわたしたち」の伝統文化。

 

 

 

 

 

以前、教えを請うた合氣道の先生が

こんなことをおっしゃっていました。

 

 

「かつて、戦争中に日本人が世界から恐れられたのは、

『肚に重心を持つ人(胆力の人)』だったからだ。

思考(損得)でも、感情に振り回されるでもない、

もっと深いところに根っこを持ち、そこからの『動機』で

動くのが日本人なのだ」

 

 

 

 

 

 

維新から150年。そして戦後73年。

あまりにも大きな生活スタイルの変化とともに、

 

日本人の「あり方」の根幹をなしていた

プレゼンスを形作っていた「身体の叡智(日本人の身体技能)」のいくつかは、

 

確かに、息も絶え絶えとなっているのが正直なところ。

 

 

 

 

あまりにも身近にあるため氣づかぬまま忘れかけている

「わたしたちの身体に刻まれた感覚」にこそ、

 

この激動の時代を生きる「プレゼンス(あり方)」の

種子があると感じています。

 

 

 

 

 

●12月セミナー●

「相手はあなたの言葉の通りになるのではない。

身体の通りになるのだ

ー他者に影響を与えるニッポンのリーダーが知っておくべきコミュケーションのための身体と声の基礎知識ー

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本当にわかるとは「身体でわかる」ということ

 

 

 

 

 

 

その日、クライアントさんのお話を聞いていて、
そのお話を一言で言うと、

「旦那さんが、身体のきつさをわかってくれない」。

この方は今、
人生最大のクリエティブな仕事に向かおうとしていらっしゃるときで、
それは自身の身体を整えることと完全、ガチ、イコールになっている状況の方なのです。

で、ふと思い出したんですが。
少し前に、「認知症を体験できる」装置がある、ということを
テレビでやっていたのです。
アメリカでしたか。

 ●視界が極端に狭まったメガネ。
 ●よく聞こえない(もしくは幻聴が聞こえる)ヘッドセット
 ●手袋をして、普段よりずっと鈍くなった手先の感覚

(だったかな?ちょっとうろ覚えなんですが)
と言ったものを装着し、健康な成人男女が日常生活をする。

日常生活と言っても、ちょっとしたことです。
タンスから服を出す、とか。
で、被験者たちの様子がどうだったかというと。

イライラしたり、
タンスを引っ掻き回しながら、思うようにならない身体に
「なんなのよこれ!」と怒ったり、
中には、情緒不安定になって泣き出す人も。

それをみていて、思ったのです。
ああ、老いるとはこういうことなのだな、と。

昨日できていたことが今日はできなくなる。
意識と乖離して動かなくなっていく身体。
あちこちの痛さが日常になっていく。

それは、不便、と言うことを通り越して、
不安な瞬間も多いことでしょう。
心細くもなったりするでしょう。

お年寄りは身体がそこまで早く動かないから、
体力も筋力も落ちてくるから。

そんなことはわかっています。
みんな知っているわけですが。

 

 

歩調をあわせていくら歩いたとしても、

(あの時、この時を思い出しつつ)

本当にその状態はわかっていなかったのだなと。

 

 

 

 

本当にわかる、ということは、
自身の身体感覚で、肌感覚でわかる、ということなのだ、と

しみじみ思いました。

そして、
本当にわかる、と言うことが
「身体でわかる」
ということである以上、

わたしたちは、本当の意味で、

その人のことをわかることは出来ない。
本当には、相手のことを理解することは出来ない。

そのことを謙虚に知っておくことが大切です。

お年寄りや、妊婦さんと言った、身体のことだけでなく、
育った環境、地域の違い、文化や風習の違い…
すべてにおいて、
これは当てはまります。

そしてだからこそ、
わたしたちには「想像力」というものが備わっている。
そして、言葉というものが備わっている。

コミュニケーションと想像力。
その二つを駆使して、
埋まることのない溝を埋める努力をする。

埋まることは永遠にない、ということを
ちゃんとわかって。
その上で、努力する。

この、
「決して埋まらない、ということをわかって」
というところがキモだな、
と思うことです。

(ミスコミュニケーションの最大の原因の一つは
「相手も自分と同じように見て聞いて感じているだろう」
という無意識の思い込み&期待なのです)

*  *  *

日本人がジョブズの真似をして
「なんだか怪しいプレゼン」になる理由の一つは、
そもそも、欧米人と日本人の「身体」が違うから。

骨格も、身体に刻まれたリズムも、全部違う。
形だけを真似ても、本当に「猿真似」になってしまう。

外からのプレゼンスキルも大切にしつつ、
日本の伝統文化と日本人の身体性を軸に
「コミュニケーション力」ことに「プレゼン力」を磨くセミナーです。

日本人の身に沿った、あなたの身に沿った自然な「存在感(プレゼンス)」。
それは、もともとわたしたちの中にしっかり備わっています。

「相手はあなたの言葉の通りになるのではない。身体の通りになるのだ
ー他者に影響を与えるニッポンのリーダーが知っておくべき
コミュニケーションのための身体と声の基礎知識ー

https://peraichi.com/landing_pages/view/nippon-jin

 

 

 

(先輩たちの美しい笑顔!)

 

 

キーワードは自立と健全な相互依存ー社交ダンスに見る創造的な会話のための要素

 

 

 

 

 

社交ダンスを結構長いことやっています。

唐突に、無性に、小さい頃踊るのが好きだったことを思い出して、
よし!何か始めよう!といくつかダンスの体験に行きました。
(ジャズダンスとか)

一番性にあったのが社交ダンスで、「とてもゆるい趣味」の範疇で
休み休み続けつつ、今に至っています。

社交ダンスは二人で踊ります。
男性をリーダー、女性をパートナーと呼びます。

基本、すべての動きはリーダーである男性からの「きっかけ」で始まります。
フロアでの踊りの方向など、全体を見て、舵をとるのも男性の役割です。
なので、男性は女性の三倍練習が必要、と言われます。

わたしは「待てない」「自分でやりたがる」性格なもので、
いつもリーダーからのきっかけを待たずに動いてしまい、

「まだ何もやってません」
「一人で勝手に動かない」

とリーダー(わたしの場合は先生です)から叱られるタイプで、
そのあたり、
ダンス=性格矯正の場、とわたしが呼んでいるゆえんです。

で。
リーダーのリードが上手いと、
女性は初心者でも、ある程度「いい感じにカッコよく踊っている二人」に見えます。
女性は、自分がとても上手に踊れているような氣分になる。
完全に勘違いします(笑)

リーダーの絶妙な「合いの手」の力を借りてくるっと回転する。
道筋を外れそうになるとその前にリーダーがさっと引き戻してくれる。

決めのポーズも、
リーダーの身体能力のおかげで、まるで自分で決めたみたいに
「スパん!」とかっこよく、それはそれは氣持ちよく決められる。

 

実際は、それだけの速度も、
速度に持ちこたえられるだけの筋肉も体幹も自分にはなかったりするわけですが、
うまいリーダーというのは、そういったことを、
一切パートナーに感じさせないのです。

なので…本当に、踊れている感があって氣持ちいい。

 

でも、
リーダーは、その分、相当力技でリードしているんだろうな、と
先生のレッスンを側から見ていて思ったりするわけです。

経験の浅い人は、そもそも軸が弱かったり、
自分で立てていなかったりもするので、
(本当に立てていないんじゃなく、ダンスで必要な自立、ということです)

きっと、
リーダーに寄りかかったり、
不必要なところでリーダーに全体重をかけたりと、
リーダーに力を過分に使わせていることは間違いないのです。
(もちろん私も)

なので、
先生は疲れないかなあ〜、
レッスンだからいいけれど、
自分のガチな踊りが毎日これだったらストレスたまるだろうなあ、
と思うわけです。

ちなみに、
リーダーがそこまで上手くない時のダンスもまた大変です。

常にロープが絡まっていて、
途中で引き戻されるような不自由感を味わう感じ?でしょうか。
「今じゃない感満載の合図」に「吹っ飛ばされそうな強い合図」やらまあ色々。

または、
手をつないでいるのに、
いるのかいないのかわからなかったりする人も(笑)

で、いつも思うのは、
これはコミュニケーションも同じだなと。

ダンスも。
会話も。

完全に自立できている二人が、同じだけの力を出してやるときに、
楽しく、そして美しいのだな、と。

さらには、
そんな関係から、初めて化学変化が起こり
新しいものが生まれる。

二人の間に、意図した表現の「場」が生まれ、「空間」が生まれ、
世界が生まれ、
それがフロアの隅から隅まで見る間に広がって、
観客をぐん、と巻き込むような。

そんなダンスは、
二人の間に舞い踊る風が吹くように。
自由自在に自立し、それぞれが自身の力で存分に表現できる、
そんなペアの間からしか生まれません。

会話も同じで、
感動、閃き、新しいアイデアやエネルギーの爆発。
そんなものが生まれる瞬間というのは、
(コミュニケーションの醍醐味の一つはそこにある、と思うのですが)

会話の量、
言葉の量、質、
発信と受信のバランス
アイデアの量

全てにおいて、
お互いが完全に自立して、同じ熱量で積極的にその場に関わり、
惜しげなく技を出し合う。
自由自在にその場を楽しめる。

そんな時に生まれるんだなと感じます。

コミュニケーションにおいて。
1対1での、そしてチームでの会話の場面において。

「今、自分が及ぼしている影響は?」
「今、相手にとって、この場にとって、自分はどんな役割を果たしているか?」
「このコミュニケーションがプラスのものとなるために、今自分ができることは?」
「バランスはどうだろう?」

ダンスのメタファー。

コミュニケーション力を高める、という観点ににおいて、
自分自身を俯瞰して見てみる時の視点の一つになれば幸いです。

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リーダーよ、物語を語れ—あなたの物語を待っている人がいる—

 

 

 

 

 

コーチングのセッションが一区切りついたクライアントさんに

振り返りシートと一緒に送る手紙があります。

 

 

 

「古今東西、旅人はみな、旅の記録を書きました。

古くは奥の細道、東方見聞録、土佐日記…。

 

旅は、記録された瞬間、物語となります。

そして、これからの自分にとっての、

さらには旅するすべての旅人達にとっての『ガイドブック』『地図』となるのです。

 

きっと、あなたにも、大好きな旅の話があるのではないでしょうか。

 

 

どうぞ、あなたの旅を振り返ってみてください。

どう歩き、何を見、何を感じたのか。

 

いくつかの山や谷を通して、どんな自分と出会い、

そして、どんな自分に氣づいたのか。

岩戸が開き、どんな自分を開花させたのか。

 

 

旅とは、得たものだけではなく、そのプロセスそのものが貴重かつ、大切な財産。

 

これからのあなたの人生を鼓舞すると同時に、

あなたの旅の過程に氣づき、学び、発見し、

助けられるであろう全ての人のためのものなのです

 

 

さあ、あなたの物語を言葉にしてみてください」

 

 

 

 

 

 

 

だいぶ前ですが、

リーダ向けの「物語を語る研修」の様子を番組で見たことがあります。

対象はNPOの代表者。

 

 

「人が集まらない」

「メンバーがバラバラ」

「いまいちやっていることが伝わらない」

 

 

そういった「悩み」を持つ代表たちに、講師が問いかけます。

 

 

「あなた方は、自分の物語を語ったことがありますか?」

 

 

外国人のふっくら体型の講師さんでしたが、彼が優しく問いかける。

そうすると、なんと、ほとんどの人が

 

 

「ない」

 

 

と。

 

 

「自分の体験なんてたいしたことはない。」

「自分のことを言うのは恥ずかしい」

「個人的なことを言うのはあまりよくないこと」

 

 

みな一様にそんな思いを持っていた。

なので、自分たちのやっていること、やりたいことを伝えるのに、

 

「こんなことをします、こういういいことがあります」

 

と「説明」する。

数値を。項目を。

 

 

 

 

 

 

 

人よ、物語を語れ、と思います。

特に、人を導く立場にある人は、語って欲しいと思います。

 

というと、

何か特別な特別な立場にある人を思い浮かべがちですが、

人は全て「誰かにとっての灯台」であり、「導く人」なのです。

もちろん、あなたも。

 

 

 

 

 

 

 

 

物語には、たくさんの力があります。

正論のみでは伝わらない、たくさんのものを内包しています。

 

 

相手の身構えた意識。

判断、判別しなければ、という「意識のガード」。

反発という心のよろい。

それらをするりと超えて、相手の心の中に

するりと入って行くのが「物語」です。

 

 

だからこそ、昔から人は、

物語に教訓や学びを織り込み、語ってきました。

わかりやすいところでは、

「あの川にはカッパが出るから夜行くんじゃないよ〜」とか(笑)

 

 

 

https://ameblo.jp/businesskouko/entry-11751300988.html?frm=theme

(参考:阪神大震災を「本当に」伝えるために

    〜等身大の言葉で語れる「自分の物語」を探した若い先生の話〜)

 

 

 

 

 

古今東西。

ストーリーが、困難な状況、相入れがたい状況を越えて、

人の心をつなぎ、状況を乗り越えた事例は

枚挙にいとまがありません。

 

人を最終的に繋ぐのは、

正論ではなく、通り一遍の一般的な言葉の羅列でもなく。

「ストーリー」なのです。

 

 

 

 

人は、あなたのいうことが正しいからあなたのいうことを聞くのではない。

心から、人が熱量を持って動くとき。

そこにあるのは「共感」「共鳴」「感動」です。

 

 

 

 

正論をぶちかますより。

いえ、それも大切です。それに加えて!

ぜひ、あなたの体験を語ってください。

あなたの人生を語ってください。

あなたの喜びを。あなたのわくわくを。あなたの悲しみを。

 

 

 

 

コミュニケーションによって

人をコントロールすることはできない。

 

 

けれど、

あなたの心からの体験。

あなたの物語。

そこから生まれたあなたの感情。願い。

 

 

そこには、相手の心のガードを外し、

飛び越え、心に届き、

「変化を起こしうる」。

可能性があるのです。

 

 

 

 

 

 

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「傷こそ自分」「傷を愛せよ」

 

 

 

 

新しく買った机が家にきたその日に、傷をつけてしまい、

ものすごく落ち込んだ、という話を昔、書いたことがあるのですが。

 

 

 

3ヶ月くらい探してやっと巡り合ったその机は、

カリモクの女性用の家具で、少し背の低いもので、

一目で氣に入り、袖机も一緒に購入しました。

 

 

待ちに待った配達の日。

組み立ててもらってさあ部屋へ!という時に

廊下の壁で角を「ザリザリ」と擦ってしまい!

 

その時のショックといったらなく、

そのまま夕方までふて寝してしまったくらいでした。

 

 

 

 

 

 

…という、懐かしい出来事を久しぶりに思い出したのは、

テレビでこんなものを見たからで。

 

それは、

外国人が日本に「金継ぎ」を学びにやってくる、という場面。

 

 

 

「西洋だと、壊れたところを完璧に治してわからないようにするのに、

金継ぎは壊れた部分を隠さず、美しく見せるとことがすごい」

 

 

 

とその人。

 

壊れたものを継ぐ、という作業を、芸術にまで昇華させている「金継ぎ」。

傷があることが、価値を高め、

その器の一個の個性として、器を際立たせている。

http://makezine.jp/blog/2015/08/kintsugi-japanese-art-recognizing-beauty-broken-things.html

 

 

 

 

その外国人は、その「金継ぎ」の世界観と、

自分自身の人生を重ね合わせ、

日本へやって来た。

 

 

「僕はこれまでに会社を10個潰しているんだ」

 

 

その上、骨折までしてどん底の時に、

ネットで金継ぎを見つけ、

 

 

 

「壊れても美しく生まれ変わる金継ぎを見て、

自分もまたやれる、と思った」

 

 

 

のだそう。

 

 

「傷を修復するだけでなく、

このお皿の中に、美しい風景を作り出してください」

 

 

という指導者の言葉に感激しながら、

壊れた器の補正部分にヤスリをかける様子は無心。

やがて、

器の欠けを満月に見立てた、美しい作品を作り上げていました。

それは、世界に一つしかない器。

 

 

 

 

 

 

 

さて。

私の机なんですが。

 

空も茜色に染まる頃、やっと起き出して、

ホームセンターへ行き「家具補修の筆ペンセット」を買い、

家に帰って、その小さな傷を丁寧に塗り始め。

 

 

 

色を混ぜ、

確認しながら重ねて塗り、

乾かしてもう一回塗り、

その上に透明なニスを塗り…

 

とやっているうちに、

この机のことが、愛おしくてたまらなくなっていました(笑)

いえ。

傷がなかった時よりも、

さらに愛着がわくと言いますか。

 

これはわたしだけの机だ!

 

と。

 

 

 

 

 

 

 

「傷こそお前」

「傷こそ個性」

「不完全なところをこそ愛せ」

「傷こそ、愛せ」

 

そう、娘に言ったのは幸田露伴。

ドラマの中での話です。

この時は、「短所」ってことだなあと思って見ていましたが。

 

 

 

欠点も含め、

これまでの人生で、

何か辛いこと、傷ついたことがあったなら。

それこそが、自分という個性の輝きになっている。

 

 

それは、

今のあなたであるために、きっと何か、必要なことだったのだ。

 

今日もし何か、辛いことがあったなら。

それは必ず、あなたという人間のさらなる輝き、深みのためにあったのだ。

 

 

 

 

 

その傷まで含めて、

あなたという人間なのだ。

 

あなたの魅力は。

あなたの輝きは、

あなたのその深い眼差しは。

あなたの声に満ちる響きは。

 

その傷があるからこそなのだ。

 

 

 

 

と。

わたし自身、

今はこの言葉を、そんな風に思うようにしています。

 

 

なぜって。

わたしたちは金継ぎを生み出した民族なんですから。

 

 

 

 

指導には「褒める」と「厳しくする」の二択しかないという認識

 

 

 

コーチングというものに出会って15年。

業界(?)の中ではすっかり当たり前。もはや空氣なことでも、

外の世界に触れて、

「え、未だに…?」

 

と思うことが数々あります。

 

 

 

 

大坂なおみ選手の全米オープン優勝。

メンタルの成長を支えた!と,

若きドイツのコーチ、サーシャ・バイン氏が話題になっていました。

試合中の大坂選手への声掛け。

椅子にかける大坂選手の前に膝をつき、

 

 

「何にイライラしているんだい?」

「僕に何かできることがあるかい?」

「聞きたいことある?それともアドバイス?」

「うまく行っていると思うよ。君は1セットとったんだ」

「ナオミならできるよ」

 

 

視線を揃えてペース&リード。

現状を言語化させ、自身で整理させ。

選択はするのはあくまでも本人。

うまくいっていないところではなく、できているところに意識を集中させる。

心からの期待を伝える。

 

 

 

これら全てコーチングのスキルでもあるのですが、

テレビのコメンテーターや解説者のコメントによると。

 

 

 

「優しい~❤︎」

「こんなイケメンにこんな距離でこんな風に言われたら、誰でも言われた通りにやっちゃいますね」

「コーチは、言葉だけで説得して(説得ってなんじゃい、と思うわたし)大坂選手を導いたんですよ」

「これからは、厳しくいうのではなく、こんな風に優しく言ったほうがいい」

「持ち上げても慢心する人もいるから、大坂選手にはこれがあっていた、ということ」

 

 

 

バインコーチがやっていることの「本質」をわかっている、

突いているコメンテーターは、今日見たいくつかの番組において、

一人もいませんでした。

スポーツの解説者や、過去の有名プレイヤーも、誰も。

(この人たち、スポーツの専門家でしょうに、とそのことにも驚き)

 

 

 

「褒めて伸ばす」か「厳しく叱る」か。

その二つで話は進み。

 

で、

未だ、いまだ…指導には、その二つしかないのか!?

二者択一ですか!

と驚いたわけなのでした。

さらには、

「褒める」の中に「選手を持ち上げる」というニュアンスまで入っている。

(壮大なる誤解です)

 

 

 

 

声を大にして言いますが、

コーチングは「褒めて伸ばすコミュニケーション」ではありません。

それは、あくまでもほんの小さな一側面であって、

そうですね…

フンだけを観てゾウの全体像を語るくらいに的外れです。

ましてや相手を持ち上げるものなどではない。

 

言葉はや雰囲氣は穏やかでも、

伝えねばならないことを厳然と伝える場面は多々あります。

 

 

 

 

 

「コーチング」と呼ばれるコミュニケーションスキル。

コミュニケーションのあり方の「本質」は。

 

 

「自分の持つほんとうの力に軽やかにつながり、

 自由自在かつ存分に発揮して自分らしく人生を生きる。表現する。

 そのためのアクセスの回路を、その人自身の中に作るプロセス」

 

 

と、今日はそんな風に言ってみましょうか。

 

アクセスすることを妨げる思い癖や価値観を手放し、

新しい回路を作り、繰り返し体験し、定着させる。

その人に最もあった方法で。

 

 

ちなみに「コーチング」なんて横文字で呼ばなくとも、
それをやれている名リーダーは昔からたくさんいた。

 

 

 

 

何より大切なのは、

「コートに」最終的に立つのは選手である、ということ。

その時、そこにコーチはいてあげられない。

 

であればこそ、

いついかなる時も、選手が自分でそれができるように、

選手の身体に根ざした、染み込んだ「使える叡智」となるように。

 

 

毎日毎日の言葉の選択、声かけ、

ボディメッセージ、

そして、自身の存在のあり方そのもので、

瞬間瞬間コーチは「それ」を表現し続ける。

 

 

 

「世界は素晴らしい。

 人間は素晴らしい。

 人は、自分自身を生きるために生まれてきた。

 君には出来るよ。

 さあ、行こう」

 

 

と。

それは、

「優しくいう」とか「褒める」とか、そんな浅薄なレベルの関わりではない。

 

 

 

 

コーチがコートに入れなかった今回の大会。

大坂選手は、きっと自分の中にもはや生きているコーチの問いかけを繰り返しながら、

冷静さを保ち、自分を信じ、戦ったのでしょう。

そして勝った。

 

 

 

 

 

 

テレビで言っていた

「バインコーチ、巧みな言葉で勇気付け♪」「魔法の言葉♪」。

とやら。

 

 

 

 

 

それは、魔法でも何でもなく、

あなたにも、誰にでもできるものなのです。

 

その覚悟さえあれば。

(セミナー等で「わかっちゃいるけど出来ないんですよねえ〜」

という方が結構いらしゃるので、あえて言ってみました(笑))

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先人たちも案外きっとそんなものだったんだろう―大人の矜持とやせ我慢

 

 

 

耳鼻咽喉科の待合室から、

 

 

「診察室からこの世の終わりのような泣き声が聞こえてくる。

きっとさっきの女の子。

頑張れ!と密かに応援中」

 

とフェイスブックにアップしたところ、

年若い一人の友人がこんなことをコメントしてくれました。

 

 

 

「前、歯医者に行ったとき、

待合室で向かい側に座った母親が、

怖がる子どもに

『ほら、あのお兄ちゃんは全然怖くなさそうだよ。だから大丈夫』

と諭してて、

(ゴメン、お兄ちゃんも実はめっちゃビビッてるんだ…)

って内心ドキドキでした。

 

とりあえず、あの子どものために、

どんなに痛くても、戻ってくるときは笑顔で戻ってこようと、頑張りました」

 

 

 

素敵だなあと。

まだお父さんでもない、こんなに若い人でも、

いざ、という時には、

 

「大人の矜持」

そして

「大人の責任」

 

 

というものがちゃんと立ち上がってくるんだなあ、と。

 

 

 

 

 

で、

ふっとクライアントさんがおっしゃっていたことを思い出したんですが。

カートや自転車といったスポーツの話。

 

「コーナーを回って、目の前に誰もいない、と分かった瞬間に心が折れる」

 

と。

誰かがいる、

追いつける、と思って走るのと、ひとり行かないといけない、

というのとでは、心の持ち方が全く違うのだそう。

 

誰もいないと、見る間にタイムが下がって、

後続集団に飲み込まれたりするのだそう。

 

 

 

「自転車なんかでもそうで、

一人で走るより、3人以上で走った方が絶対タイムがいいんです。

誰かがいた方がいいんです。なによりラクです」

 

 

 

風よけ、という理由ではなく、

なんですって。

もうほんとうにそれは、人生と一緒ですね、

と頭の中で呟きながら、続きを聞きます。

 

 

 

 

「沿道の応援なんかもそうで、あったほうが絶対に頑張れる。

特に子どもたちの応援がいるときなんか…もう、すごく力が出ます。

そこだけ急に早くなるくらい。

 

みんな、直前までぐだぐだのヘロヘロ。

でも

子どもたちの前だけでは、

シャン!として手を振って、声援に応えるんです。

後ろから見ると『知ってるぞ(笑)』(←さっきまでぐだぐだだった癖に^^)

って思うんですけどね」

 

 

 

 

 

それを聞いて、

なんてなんて美しくて、

そしてホッとする話だろう、と思ったのでした。

 

 

 

 

 

「大人」と呼ばれる年齢になって久しく、

ちゃんとしなければ、

成果を出さなければ、

結果を残さなければ、

と。

 

これでいいのか自分!?

と日々自分の不甲斐なさにガックリし。

 

まるで何もできていないような。

何の価値も無いような。

何ものも生みだせていないような。

そんなふうに感じる日。

それでも、半歩を踏み出さなければならない日。

 

 

 

 

 

もしかして、

父も母もじいちゃんもばあちゃんも…そしてたくさんの先人たちも、

案外そんなものだったんでは、とふと思えたのでした。

 

 

震える足を踏みしめつつ。

もうダメかも自分、と思いつつ。

それでも、

 

 

「ここだけは!」

「今だけは!」

「この子たちの前だけでは!」

 

 

 

自分の中の「矜持」を。

自分の中の「美しさ」「かっこよさ」を表現する。

ぐだぐだになりながら。

 

 

そして、

そんな、たくさんの「一人」の「一日」が積み重なって、

今のわたしたちの生活がある。暮らしがある。

そして歴史がある。

 

…もう、心からのありがとう、しかありません。

 

 

 

 

描きながら、

今、少し元氣をなくしている方などに

読んでいただけたら嬉しいなと思っています。

 

 

さて。

年若い、繊細な友人のコメントに、結構感動しつつ、

「…大人って案外多分、そんなものだから!(だから大丈夫よ^ – ^)」

と、種明かししたいような氣分にもなったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

追伸

友人の中に生まれた感情を

「大人の矜持」「責任」と書きましたが、

もっと質の違うもの…

無意識の「願い」とか、「より良きものを手渡す」

といったような、もっと大きなものなんじゃないか、

 

と、書き終わってから思い至っています。

 

 

(最近氣になる戸隠。行きたい!)

 

 

人の個性は変わらない(だからあきらめて自分を生きろ!)

 

 

 

先日、教員だったころの生徒さんたちと会うことがあったんですが。

(現在彼らは30代)

 

 

中学生男子の、意味のない会話の感じってわかります?

やけにうるさくて、

中身はなくて、

妙に笑える…

 

 

教員だった頃は、まるで(いい意味)宇宙人を見るような氣持ちで、

彼らの発するそんなエネルギーの中にいたものでしたが、

(人間だ、自分と同じだ、と思うから腹が立つわけで^^)

 

お酒も入って、完全に「そこ」に戻っている彼らを見ながら

 

 

 

…恐ろしいほど、変わってない(唖然)。

 

 

 

「人の個性は変わらない」。

それをしみじみと再確認して帰ってきました。

わたしとしては、人の本質は、と言った方がやっぱりしっくりくるんですが。

 

性格、というよりは

もとのもと、その人の核、魂が発している空氣・リズム・律動…というかんじでしょうか。

その子の出している微細な振動・波動の質。

(これが一番しっくりきます)

 

 

楽器で言うならば、

ティンパニーの子はずっとティンパニーです。

フルートの子はずっとフルート。

奏でる音色、

周囲と響き合う音色や音の強さ、質はずっと同じ。

 

 

 

 

 

中学の頃、よくある、

「将来に何になりたいの?」という質問。

それを書く用紙に、家業の商売を書いた子。

 

 

先日のその酒席に、

どこのアーティスト!?という感じの格好でふわ~っとやってきたその子は、

全く違う職業についていました。

でも、その仕事は、自由で風が吹くような彼女の質にとてもあっており。

 

わたしの中で、妙に腑に落ちたというか、安心感というか、納得感。

 

 

 

ああ、結局、

自分にとって一番無理のない、自分でいられる、

(そして自分の特徴を発揮できる)

道をちゃんとみつけて、選だんだな、と。

 

わたしはそこに立ち会うことはできなかったけれど、

自分で考えて、ちゃんと頑張ったんだなあ、と。

 

 

 

 

 

さて、世の親御さん方。

 

子どもの本質は変わりません。

もし、もしも、こう生きてほしい、こうなってほしい、という

(親御さん都合の)願いをもってらっしゃる方があるとしたら

…さあ、(いい意味で)あきらめて(笑)!

 

子どもの持って生まれた質を見極め、

生かし、最大限に発揮して生きる道を拓いてあげること。

親の仕事はそれだけです。

 

 

 

 

そして、

今、もし、少しだけ人生迷っている若い人たちがいるとしたら。

 

答えは、外にはありません。

答えはあなたの中に。

 

 

 

あなたの好きなもの。

愛してやまないモノ。

好きな感覚。

いつまでも味わっていたい感覚。

心ふるわせる細胞の響き。

それらすべてに、あなたの生きる道が示されています。

 

 

だから…あなたも、いい意味あきらめて(笑)!

あなたはあなたにしかなれないのですから。

というか、

そのために生まれてきたんですから。

 

 

 

 

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子どもと世界を繋ぐ「つなぎ目」をつくるのが大人の役目

 

 

 

クライアントさん(男性)のお子さん(男の子・3歳)
は、おしゃべり。
クライアントさんいはく

「ず~っとしゃべってます(笑)」。

とにかく、たいそう言語能力が発達している、と。
「やりたい理由」「やらない理由」を
順序立てて並べて、言葉で幼稚園の先生を説得するのだそうで、

「とても理路整然としていて、反論できません(笑)」
(by 幼稚園の先生)

そんなクライアントさんが今、探しているのが
「身体を使って遊びながら言葉を学ぶ場所」。

「うるさい」とひとくくりにせず、
この言語能力を伸ばしてあげたい、と思っていらっしゃる。
すごいです…。

「でも、そういうところって、英語の幼児教育のところしかないんですよね」
と。
まずは「日本語の力をしっかりと」とのことで。

なので、本をご紹介。
1冊は
谷川俊太郎の「ことばあそびうた」。
もう一冊は
斎藤孝の「子ども版 声に出して読みたい日本語」。

どちらも絵本なのですが、
絵も楽しくて、なにより
言葉がよい。
(わたしが声に出して実証済み)
美しい。
いいリズムです。

声に出していると身体の底から楽しくなる言葉とリズムが満載で、
日本語の魅力が体感できます。

クライアントさんからお礼のメールが来ました。

「最近、子どもの感情の起伏が激しく、泣きわめいたり。
度を超すと、それを表す言葉が見つからなくて、ただ悲しいとう様子になったり。

言ってしまえば『わがまま』なのですが、それだけでぶった切ってしまうのも
どうなのかなと思ったり。

今の氣持ちを表す言葉がわからないというのは、
つらいかなあと。

教えていただいた本を読んで、
言葉(日本語)を知ってゆくことは、
とても役立つような氣がしています」

話が飛びますが、
この方。
お子さんが生まれたときに、記念として、
ご自分のものとお揃いで、誂えたものがあります。

それは「包丁」。

特注で誂えたそれは、
子どもの手で使えるサイズのものながら、
鍛冶屋さんの手打ちでつくられた一品。

「そうそう、昨日、はじめてあの包丁を持って
料理を作りました!
もう卵も割れます。
豆腐を切って、出汁をとって、一緒に味噌汁を作りました」

私がこのクライアントさんについて思うのは、

「世界と子どもをつなく『回路』を
出来うる限りたくさんつくってあげようとしている」

ということ。

3歳ということもあってか、
それが、「知識」ではなく、
わたしから見て、子どもの身体レベルに刻まれるであろう、
リアルな「生きる力」レベルであることが面白い
(そして、とても素晴らしく、すごいことだ)
と思えます。

言葉ということで言えば。

「言葉を知らない」=その人にとっては、その概念(世界)自体が存在しない。

ということになります。

身体感覚としっかり結びついて使える言葉の分だけ、
人は世界を繊細に、細やかに「見て、聞いて、感じて」
生きてゆくことが出来るのです。

自分の感情をていねいに言い表す言葉が
いくつ、音楽のように自然に身体に染みついているか、なんて
これはもう、
幸せで安定した大人になる力、他者と良い関係を築く力と直結しています。

(ですから、クライアントさんの中には、個人セッションの場で
感情をさぐり、言語化しながら、「それ」を開発しなおしている方も
多くいらっしゃいます)

「子どもと世界を繋ぐ『つなぎ目』をつくるのが大人の役目」。

回路の数。質。
それによって、その子が大人になったとき「見えている世界」は決まる
=「住む世界」は変わる。

感知できるものが、その人の人生に「存在するもの」となる。

このクライアントさんのお子さん。
たくさんの回路を通して、
それはそれは生き生きと、豊かに世界とつながっていく氣がしてなりません。

そして、それこそがつまりは
「コミュニケーションの力」。

コミュニケーション力とは、つまりは共鳴・共振の力。

他者と。
環境と。
自然と。
先祖と。
文化、歴史と。

とつながり、分かり合える力、ということであり、

そして、それらはすべ最終的に、
幸福に生きる人すべてが持っている、

「自分自身としっかりとつながる力」

に還ってくるものなのです。
(だからこそ、より美しいもの、やさしいものに

世界はあふれていてほしい、と思うことです)

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受け取ることで他者が幸せになる

 

 

 

この間。

 

道ですれ違った高齢の女性の荷物を持って、目的地付近までお供をして、

勇氣を出して声をかけてよかったなあ〜とすっきりした氣分になっていたのですが、

 

 

 

そのあとお茶を飲みながら

青空に雲を見ていたら、ふっと、

 

「あの方は、わたしの申し出を(わざわざ)受けてくださったんじゃないだろうか」

 

と、そんな氣がしてきました。

 

 

(城山ホテル鹿児島のカフェ。鹿児島市内を見下ろす山の上で、ただでさえ氣持ちのいい場所ですが、

「ブラタモリ」でここが鶴丸城の郭の跡と知って以来、ますますぼんやり坐っているのが楽しくなりました)

 

 

 

 

確かに荷物は多かったけれど。

そして、確かに休み休み歩いてらっしゃいましたが。

「あらあら、見かねたのね。まあまあ」

 

 

と、そうおっしゃっていましたっけ。

 

 

 

 

役に立った、立たなかったとか、

実際どうだったとか、そういうことはどうでもよく、

目的地までの少しの時間、

わたしはとても楽しくて、しかも氣分がよかった。

道すがらの少しの間の会話もなんとも嬉しく。

 

 

 

受け取ってもらうことで、

こんなにも幸せになる。

 

受け取ることで、人を幸せにする道もある。

と、

知ってはいるわけですが、

今日はみぞおちのあたりから、

温かい温度を伴って実感でした。

 

 

 

 

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