「声と生き方の関係」

声を聞けば
だいたいのことがわかります。
いえ
頭を通りぬける余計な情報がないだけに
その人の「本質的な多くの情報」をすっと、あやまたず感じることができる気がしています。

先ほどまで、
もうすぐ始まるプロジェクトの打ち合わせをしており
その流れで、
企画の中心となる方のプレゼンを短くコーチングさせていただいたんですが

この方は声量十分。
勢いのある張りのある声で、その勢いの通りの元気な「語り」をなさいます。
部屋の、そして広い会場のどこにいても
この方の声が「聞こえない」ということはまずないでしょう。
けれど、

今日聞いて感じたのは
「聞こえるけれど、届かない」。

5メートル前に座るわたしの耳に、声はしっかりと聞こえるのです。
大きいくらい。
でも、その「話していること」は体の中に入ってこない。
私の体の50センチくらい前でストン、と止まってしまう。
…なる~。
この方らしい。そうかそうか。
でも、
これでは、メンバーの「心」は動かないかも。
「共感」「感動」は起きない。
「ああそうですか」「いいこと言ってますね」的な
頭での理解で終わってしまうでしょう。

この方の立場上
ず~っと「ぐっ」とふんばって、時には強く、皆の前に立って
「旗を振り続けてきた」その長い長い時間と、その陰に隠れた「思い」を
感じつつ。

「わたしの胸部にご自身の声がすぅと染み入って
そのままゆっくりと、体を抜けてここまで(と、具体的距離を示し)
届くように声を出してください。出すんじゃなくて、丁寧に『届ける』んです」


ジェスチャーを添えてお願いしました。
すると、さすがです。慣れていらっしゃる。
瞬間、「あ!」と納得。
声のトーンが変わり、話す速さが変わり、視線の配り方
手を動かす速さまでが変化。ゆっくりと、やわらかく。

先ほどと、同じことを話しているのに
もう、その「言葉が体に入ってくる」度合いは格段の差です。

無理に熱いシャワーを浴びせられそうな先ほどの感じから
ぬるめのお湯に、ゆっくりと、じっくりと浸かって
細胞の隅々まで暖かさが染み入るのを待つような、そんな声と意識に
変化していました。
「ああ、届き始めたな」と実感。
ここまでわずか5分。
人の「イメージ力」とはすごいものです。

声の出し方を変えることによって
この方の「その場をどう作るか」「どう作れば、もっともメンバーのためによいのか」
という意識までが
体感覚レベルで変化したのが感じられました。

声の出し方には、
大きくざっくりと言うと、その人の「生き方の癖」が刻まれている、と感じます。
思考パターン、ビリーフ(こうだと信じていること)
…それら、その人がずっと続けてきた
「生きるための戦略」があり
そのパターンにあった体の使い方、筋肉の使い方が体に染みつきます。
そして、声は、体という骨と筋肉の集合体を使って出すわけですから
声にはその「癖」が色濃く出てくる、と感じるのです。

ですので
逆から言えば「声を開発する」ことで
自分の中に隠れているけれど、(ちゃんとあるけれど)
まだ現れていない(育っていない)特質を開花させることができます。

わたしがこれまで出会った「声が出ていない」人は
たいてい
軸が弱い、芯が弱い、自分を信じていない、自分に規制をかけている…
などの状態にいらした気がします。
が、「自分の本当の声」が出始めると
自然といろんな「軸」が合わせて太くなってくる。
不思議ですが。

また
「強さ」「やわらかさ」「自由さ」…
もう自分にあるけれど、もっとそれを発揮したい、という「性質」があるときに
声の表現力を伸ばすと、だいたいにおいてそれらも
もっと大きく開発されます。
自分の殻、限界を超えるのに、「声を開発する」というのは
良い手だなと思うのです。

これら
何か裏付けがあるかというと(何か研究結果があるとか?)
わたし自信の経験の結果なのですが。

さて
今月から、セミナー講師の卵さんや
「表現」で悩んでいる方(人から「怖い」と言われるんです~、とおっしゃてました^^)
と一緒に月2回
「声を開発するワークショップ」をすることとなりました。
やることはお芝居の練習みたいなものなんですが。

声は「響き」。
ヴァイオリンがそのボディを響かせて、美しい音色を奏でるように
本来声が出ない人などいない。
人も、「自分本来の声」を美しく鳴り響かせることができて当たり前。
声は、自分の本質と自分をつなぐ、開く回路になり得る。

と、そういう七面倒くさいことは置いておいても
とにかく声を出すのは気持ちのいいものです。
体も心も単純に、とてもヨロコブことだと感じます。
何より自分がそれがとても好きなのです。

どんな「共鳴現象」が起きるのか。
期待に静かに胸を膨らませているところです。

「自分の言葉で語る」

以前
トークライブショーに行きました!ということで
「世界一の庭師 石原和幸さん」
のことをここに書いたことがありましたが

この方が出演なさった
「課外授業 ようこそ先輩」
を見て感じたことなど少し。

この日、石原さんが小学生たちに提示したテーマは
「死ぬほど人を喜ばせる」こと。
具体的には
「自分が本当に、心からそうしたい」
と思う人に、メッセージを添えた自作の花束を贈る、という授業です。

石原さんは早速、子供たちに質問します。
「誰に?それはなぜ?」

すると子どもたちは元気に手を挙げ、すらすらと答えます。
「はい!お母さんに。いつもお世話になっているからです!」
「両親にです。いつもいろいろしてくれているからです」

そこで石原さんは聞くのです。
「具体的に、どんなふうにお世話になっているの?」
「……(間)」
子どもは答えることができません。
石原さんは、ひとしきり聞いて、こう、子どもたちに言います。
「…甘いっっ!!」

ほんと
そう思いました(笑)
「君たち、な~んにも考えてないでしょ」って感じ。
いえいえ、それは言いすぎですが。
でも
彼らの口から出てきている言葉は
彼らの思考の、感情の、ほんの浅いところ
地層に例えれば第一層目にも満たない
表面のアスファルトくらいのところを通って出てきた言葉。

もっと言えば
とおりいっぺんの、聞こえのいい言葉。
どこかで、誰かが百万ベン使っている言葉。
こう言っとけば、はずれはないかなという感じの「一般受け」する言葉。
なんにも伝わってこない。

石原さんは
自分とお母さんとの体験、お母さんへの思いを話し
そして

「本当に、本気で人を喜ばせるとはどういうことか、もう一回考えよう」

という時間へと場は移行してきます。
石原さんは、子どもたちの発言に次々と「突っ込み」を入れていきます。
塊を、砕く砕く(笑)。
子どもの「漠」とした言葉を
「チャンクダウン」しまくり。

「本気って、どんなふうに伝えるの?」
「本気って、どういうこと?」
「あなたは今まで本気になったことがある?」
「なぜ本気になったことがないの?」
「それを(本気で伝えることを)やってみたいと思う?」
「それはなぜ?なぜやってみたいと思うの?」

いいですね。小学生相手に。
こういう「手を抜かない大人」「半端なことじゃ許さない大人」
大好きです。
そして再度。

「…あなたが『本当に』喜ばせたいのは、誰?」

子どもたちは
それぞれ花束をつくり、メッセージを書き
絶好のタイミングを自ら演出し
「本当に喜ばせたい」と思う人にそれを
プレゼントすることに臨みます。

それは
側から見ていると、はっきり言って、稚拙でした。
言葉もこなれていないし
感動的なメッセージが書いてあるわけでもない短い手紙。
でも、でも…

その答えは
その言葉は
自分と向き合い、自分の中と対峙し
自分の気持ちを掘り下げ、自分の思いを聞くという
多分、人によっては初めての体験、プロセスを経て
出てきた珠玉の言葉。

本当の言葉で語っているか?
自分の言葉で語れているか?
本当に「伝わる」表現ができているか?

それは、大人、子どもにかかわらず
わたしたちの一生の宝です。
わたしたちは、真に分かり合うために生まれてきたのですから。
本当の自分の響きで、人々とシンフォニーを奏で
よりよきものを創造するために生まれてきたのですから。
そして、それこそが生きている意味であり、喜びそのもの。

そして、それができるためには、自分と深く対峙することが必要です。
誰からも問いかけてもらえず
その体験がないまま大人になった子は悲劇です。
そのすべを知らないままずっと生きて行く
(それをしていないことに気づかないまま生きて行く)大人も。

自分の言葉で語っているか?
それが、本当の意味で、世界とつながるということです。

自分の魂の振動をちゃんと言葉にできる人は強いです。
声に、表情に、体のすべてに乗せられる人は強いです。
自分の軸から言葉を紡ぎだせる人は、ほんとうに強いです。
これは
プレゼンでも、面接でも
はたまたプロポーズでも
どんな場面でも同じですね。
と、セミナー、研修で出会うたくさんの方々を見ていて思います。

さて
「お母さんにわたす」と言っていた一人の男の子。
結局
離れて住んでいる、目の不自由なお父さんに花束を渡しました。
渡した後に、泣きました。
嬉しかったのだそう。

本当に、本気でやった。

その体験が、理屈なしに、彼の中を揺り動かしたのが伝わってきました。
彼の中におちた
一滴の雫。

これから、どんな波紋を描き
彼の人生において、どのように広がっていくのか
彼と周囲にどのような豊かな影響を与えていくのか
想像するだけで、幸せな心地になります。

・過去の関連記事はこちら
「魂のプレゼンテーション」

「手紙の持つ意味」

昨日のブログに

たんぽぽさん よりコメントいただきました。

「やっぱり・・メールや自分のコトバで伝えきれなかった事は手紙のほうが伝わるんですかね・・・。

いつも身近にいながら伝えきれないというか・・伝わらなくて(_ _。)」

手紙の効用。

手紙が今の時代に持つ「意味」は

「心をむける」ことと「時間(手間)」だと思います。

メール。

それこそ毎日何通ものメールを書き、もらい、周囲を飛び交っています。

何の特別な感じもない。

電話も手軽。

そんな中で

便箋と封筒のチョイスから始まり

どんな筆記用具を使うかを決め

字も間違ってはいやですから辞書など片手に

さあ、と背筋を伸ばす。

中村公子のコーチングna日々♪-DSC_0503.JPG

どのくらいの大きさの字を書くのか?

どういう字の形を使うか。

字と字の間隔は?行間は空きすぎてない?などなど…

すべてが自分の感覚と、それを表現する体の裁量ひとつ。

源氏物語で

文を書く紙を選ぶちょっとした表現があったのを

思い出しますが

ああいったところはとてもワクワクと読んだものでした。

香をたきしめ、紙に移り香をしのばせ、相手に送る。

「想いを伝える」ために、なんといろいろな世界を

創造できることだろう、と思ったものです。

ですからたんぽぽさん。

手紙でつたわるのは

その、書き手が選んで書いた言葉通りの思い。

プラス

その、「一つの手紙を完成させる」というプロセスに書き手が込めた

「時間」と「手間」。「創意工夫」。

そこから相手が受け取るのは

「あなたのことがとっても大切です」

「あなたはわたしにとって特別です」

というかけがえのないメッセージ、なのではないかと思います。

それこそが最も伝わるもの。

手紙が持つ意味、なのだと思います。

余談ですが

ほかにも、手紙には書き手の「センス」

(あり方)が出てしまうのが怖いところですが。

今まで私が出会った中で

いつも風が吹くように、流れるように文字をスラリと書き流し

どんなサイズの紙にも、まるでデザインしたかのようにピタッとかっこよく文字をあてはめ

紙面を構成してしまう二人の知人は

どちらも

仕事の能力ぴか一
人間としてもさいこ~。

バランス感覚に優れた

男も惚れる、女も惚れる、カッコいい生き方をしている二人でした。

一人は男性。もう一人は女性。

その書く文字の通りに、停滞することなく、よどむことなく

いつもさわやかな風をまとって歩く二人でした。

懐かしい。

せめて月一は

体を使って手紙を書こう

大切な人へ送るとっておきの手紙を書こう

と昨日書きましたが

こう書いてみると、「手紙」ひとつとっても、それをいかに仕上げるかに全身全霊、

創意工夫をこらすことで

鍛えられ、磨かれる能力や感覚は多いものだろうなと感じます。

手紙一つを仕上げるということは

「その世界」を五感総動員で「演出」する、ということですからね。

「退化してしまった!」

昨日、ラブレターを書いていました。
文章を書くのはいつもはほとんどパソコンです。
最近では葉書すら
パソコンに頼っています。
字配りなどが楽なので。

けれど
さすがにラブレターをパソコンで打つわけにはいかないので

久しぶりに便箋を出し、手書きです。
罫線のない、白紙の紙。
地に花と葉っぱの紋様が
浮き彫りになっているものを選びました。
これに、相手の年齢や雰囲気を考えて
縦書きで書くことにしました。

さあ!と書きはじめたのですが…。

紙に対するバランス
行間のバランス
余白をどうあけるか
いやはや…
体が完全に鈍っています。
頭ではわかるのです。どんな配置が一番美しいのか。
でも、それを表現する手が!
手が思ったように動きません。

破り捨てること三枚。
どうにか書き上げました。

とっておきの封筒に入れ、名前もしっかりと書いて、無事投函。
ああ、終わった~。この達成感と安堵感。
肩の力がどっと抜けました。


ぼ~っとしていたら
ふっと頭の中に浮かんだのは朝書いた手紙…。
何だろう、この違和感は。

…字、間違った(涙)

間違った字の映像が浮かびました。
同志、を同士、と書いてしまったのでした。
書いたとき
字面を見て、なにか違和感があったのです。
なんか変だと。
でも、気づかなかった。

「気づけなかった」ということが
とてもショックでした。

ものすごく鈍ってる。
こんな簡単な漢字を間違えて
何度も見直したのに気づけなかったなんて。

ショックです。

せめて月一は
ていねいに、時間をかけて
心をかたむけて文字を書こう。
誰かに思いを伝える手紙を書こう、
と思ったことでした。

教訓。
使わないセンスは
あきらかに退化します。

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「型+血=自分らしさ」

先日、知人のNLPトレーナーさんと話していました。

話は広がり、五感の話から茶道の話、そして畳の上での立居振舞やそのほか…

いわゆる、「型」の話になりました。

「ずっと昔から伝わってきている『型』って、タイムマシンというか

タイムカプセルのような気がするんですよね。

その理屈はその時は分からなくても

型をまね、本当に、ただその型と無心に一体になったときに

その人は、その瞬間利休の心、利休の想いを体感しているんだと思います。

利休とともにいる」

とわたし。

つまり、モデリングです。

「型をまねる」という「学びの方法」はNLPでいうところの「モデリング」。

優れた人の「形」をまねることで、その人の状態やあり方までを自分の中に取り込み

パフォーマンスの向上につなげるというものです。

更に話は広がり…

その方が言いました。

「形(かたち)という言葉がありますね。

あれって、「型」に「血」という言葉が合わさってできたものなんだそうですよ

人は、形を創っていかなくてはならない、と」

型に血があわさって、かたち。

形とは「らしさ」のことだそう。

「自分らしさ」。

受け継いだ「型」を

たくさんの試行錯誤、体験を通して自らの細胞に染みこませ

やがて血肉となったものが「形」。

ということなのですね。

もはや、自分の体の一部として湧き出るように

自由自在に自分の色で表現できるようになった「型」が「形」となる。

そして、忘れてはならないのは

その「形(自分らしさ)」を創る根底には「基本の型」があってこそ、ということです。

正しい「型」を土台としない「形」はありえない、ということ。

これは

すべてに言えることなのでしょうね。

さまざまな芸道。

それに、仕事、スポーツ…etc etc

そんな話に感銘していたら

まさに「型」から「形」に脱皮しようとしている段階を迎えている人に出会いました。

その方は仕事で使うためにコーチングを学ばれたのですが

いろいろな相手との局面で多くのことを試し、体験され

まさにテキストで学んだ「型」をふまえて

自分によりそぐう表現の仕方をしようとなさっている様子が

ありありと感じられました。

「しっくりこない」「違和感がある」

そんな言葉で表現なさったので

わたしは「ここぞ!」とばかりに

「型+血」の話をお伝えしたのでした。

「ご存知ですか?『形』という言葉があるじゃないですか…」(嬉々)

それはまさに「進歩成長」のステップにいらっしゃるということなのだと感じます、

とお伝えしました。

「自分の現状」に意味のあるラベルが貼られたことで

スッキリとご自身の中を整理なさった様子を感じて

「ああ、型+血の話、聞いておいてよかったなあ~」

とつくづく思ったことでした。


「ルースカヤ」

以前このブログで紹介しました

バレエをやっていらっしゃるクライアントさんが

こんなことをおっしゃっていました。

「先日、『ルースカヤ』を踊ったんです。

これは、わたしたちのバレエ団ではどちらかというと初心者が踊るというイメージがあって…」

ちら、とネットで検索してみました。「ルースカヤ」。

ロシアの雰囲気の踊りです。

「わたしももう10年はこれ、踊っているし。

正直いって『簡単だよね~』と、みんなとも話していたんです。

なんだ、今回は出番、ルースカヤだけか…なんて思ったり」

なぜかふと思い立った彼女

今回はじめてユーチューブで検索し、トップの人たちの踊りを確認してみたのだそう。

すると…

「スゴイ踊りでした(汗)」

そして

彼女は一つ一つの動きを再確認し

再度「正確に、正確に」。

先生のおっしゃったとおりに…それこそ、指先の筋繊維の一本まで、毛筋の一本までを

正確に動いてみようと。

そうやって「ルースカヤ」を踊りなおしてみました。

結果

「体のあちこちは悲鳴を上げ」。

「初めて汗をかきました…ルースカヤで!」

(えっ、今まで汗かいてなかったの!^^)

その時、仲間のおひとりがこういったのだそう。

「思い出した…ルースカヤの中に全部があるって。

これがちゃんと踊れたら、すべては踊ることができるって」

まったく意識の変わった彼女が踊る「ルースカヤ」を

見てみたい!と思いました。

振り付けもすべて、何も変わるところもない「これまでと同じ踊り」。

でも

拡大した意識。一つ一つの動きの意味の深い理解。

ひとつの動きの、その先につながっている世界の意味を

もはや心も体も知っている。

そんな彼女の動きはいったいどれだけ場の空気を震わせ、動かし

見ている人にその響きをとどけることでしょう。

「次の世界が、また見えてきたみたいですね」

とお伝えしてみました。

「そうでしょうか!」

ととてもうれしそうな声がヘッドセットの向こうから聞こえてきました。

すべてのものの中に。

日常の小さなこと、すべての中に息づいている宇宙をみつけ、

それを大切に味わい、自分の中の宇宙と共鳴させ

それを自分ならではのやりかたで表現できる人は

何をやっても幸せに、生きている意味を実感しながら

自らの命を響かせることができるんじゃないかなあと

そう思います。

彼女のルースカヤ。

「使用前」「使用後」。興味津々です。

見てみたいと心から思っているところです。

中村公子のコーチングna日々♪-DSC_0373.JPG

追伸:

鹿児島は梅雨にはいりました。

黒竹にとまった水滴です。

皆さんのお住まいの地域はどんなお天気でしょうか

Android携帯からの投稿

「刀を抜くときには」

近頃やっと居合が面白くなってきました。

はじめたのは去年の今頃でしかた。

ほとんど練習しないまま1年が過ぎ…何とも遅い開眼です。

面白い、と言っても

まだ一番初めの型さえ満足にはできず

型の更にはじめの刀を抜く「しゅき~ん♪」という動作を楽しんでいる段階。

(その、超初心者が抜刀について書くというのが恥ずかしいのですが)

とにかく

すかっ!

すぱっ!

と刀が抜けると、本当に気持ちの良いものです。

(そういうのはめったにないですが)

正座の状態から右ひざを立て

目にもとまらぬ速さで刀を前に抜き、払う、

という動作なんですが

まあ、「目にもとまらぬ速さ」になるには何十年かかるのかしら…と思いつつ。

面白くて、何回も何回も…飽きずにやっています。

何が面白いかというと

刀を抜くのは右手、だと思っていたんですが

左手(鞘に沿えた手)がとても重要な役割を果たすのです。

抜刀の動作に限らず、刀を両手で使う時は「左手」がメインで、右手は「添え手」になるのだそう。

抜刀のとき

当たり前ですが、右手は柄をつかんで前へすっと抜く。

と同時に

左手は鞘を後方に向かって引いている。

更に、切っ先三寸まで抜いたところで

左手(鞘)を更に後ろへぐっと引くことで

鞘から刀がはじけて飛び出す状態を作る。

二本の手が、相反する方向へ瞬時に動くことで、あの長い「刀」という代物を

速度をつけて「抜刀」できるということになるわけです。

逆に、納刀のときは

右手で鞘に納める動きと同時に

左手が鞘でもって「迎えに行く」という感じがあります。

この、二本の腕の相反する、瞬間の呼応した動き。

それを作り出す体の美しい開き具合と、全部を統合して「型」たらしめている「間」(呼吸)。

先生方の動きを見ていると

いつも

「お見事~」

と声に出して、拍手をしたくなります。

利き手ではない手こそ大事。

そこが大きな「仕事」をしてくれている。

抜くと同時に、本当は「引いて」いるのだ。

その二つが相まってよき仕事が生まれている。

これらの感覚(体験)は

居合から離れて

今、日常の様々な場面での、わたしの中での密かな「ブーム」となっています。

物事を見るとき

考える時

これまでとは違った視野が

自分の中で生まれている気がします。

頭(思考)での理解だけではなく

「身体」で実際に「わかった」感覚、体に培われた感覚こそが

応用できる

つまり、人生の中で使えるものとなる、というのは

こういうことなんでしょうか。

体が「知らない」「できない」ことは

心も精神も本当の意味ではそれを「できない」。

さて

ここまで書くと

日本人としての「身体技能」や「言葉」の伝承の話になってくるんですが

熱く語ってしまいそうなのでまたいつか。

昨日の雨が上がって今日は一転、いいお天気なので!

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「輝く俳優になりなさい」

「魂の演技レッスン22

輝く俳優になりなさい!」

ステラ・アドラー フィルムアート社中村公子のコーチングna日々♪

演技をする人のための本なのですが

俳優に限らず

自分の体、声を使って

自分の存在そのもので「何かを伝える」ことを

仕事としている人みなに共通することが

書いてあるように思えます。

が、そんなことをさっぴいても面白くて

まるで

自分自身に語りかけられているかのように

宝物を探す旅人のように

一ページ一ページをドキドキしながら

めくっているところです。

(人は皆生きていること、日々の選択自体が「自らの表現」ともいえるので、万人に通じる本、と言ってもよいかもしれませんね)

「あなた方が学ぶのは、二千年の歴史を持つ演技の伝統です。

これらすべてを受け継ぐの。演劇を学ぶあなた方、俳優が」

からはじまる22のクラス。

たくさんの感動の場所があるのですが、今日はこのくだりを。

「今、人物のレベルに合わせた演技ができる俳優は多くない。

反対に偉大な人物を、自分のレベルに合わせて縮小してる。

今、私たちは「ちっちゃく、さりげないのが素晴らしい」って世界に生きてない?

(略)

オイディプス王を演じるためには偉大な俳優でなくてはならない。そう要求された時代がありました。

…役の世界に見合う力量、度量、世界観

―今後それらを総称して「サイズ(size)と呼びます―

が必要とされました。

サイズが足りない俳優はダメなの。

…偉大な作品に取り組むときは、その作家の偉大さに見合うことをすべきです。

その作家のサイズを知り、その幅と大きさを自分の中に作らなくてはならない」

「もしあなたが自分の世代に共通な物事だけにこだわっていたら?

あなたが生まれる前の世代のもの、あなたが知らないことを学んだり、見ようとしてこなかったら?

それは世界全体を無視することになってしまう。すべてが他人事みたいになってしまう。

アメリカの俳優は人や国家の豊かさを過小評価しすぎ。

正反対なのはイギリスの俳優です。「イギリスを表現するのは俳優である自分たちだ」と彼らは感じている。

シェイクスピア劇で王を演じる俳優は、自分の近い親戚を演じるような気持ちで演じます。

アメリカの俳優は、彼らのような環境に恵まれていない。

伝統や歴史への意識を捨ててしまった。俳優として、それは害なんです」

常日頃、感じていたことでした。

自分のすべて

背景、日常の意識の大きさ

そういった全人的なものがすべて、「表現のこの一瞬」に立ち現われてしまう。

だからこそ

万人が伝えることの可能な一つのスキル

それが例えば「初歩の」と称されるものであったとしても

より深く

より大きく(難しく、ということとは違います)

どこを目的とし、どこを見据えて

どんな思いを受け継いで

どことつながって自分がそれを発信するのか

表現するのか

それを思っていました。

仕事に限らず、毎日の生活から、そういう意識をもって生きられたらいいなと。

「生きること」。

日々の生活すべてが「俳優の仕事」。

それを熱く、軽妙に語るアドラーの22のレッスン。

興味ある方は読んでみてくださいね。

「言葉の『間』」

知り合いのウェブデザイナーさんと話していたんですが

その方が

「昔、司会をしていたことがあるんです」

という話になりました。

何の司会かといいますと、葬儀の。

思わず、「すごい~!」と盛り上がってしまいました。

いっときですが、葬祭ディレクターいいな…

などと思っていたことがあるものですから。

人生の最期の皆さんとのお別れを

その人らしく演出するというお手伝いができるとは何とやりがいのあることだろう…と。

さて

何に限らず、司会というのは(司会だけでなく、すべてですけれど)

「間」

が大切です。

以前私が結婚式の演出業をやっていたことは書きましたが

『司会者の間あい』

に関しては、本当にうるさく、一言をもっていたものです。

(司会の間だけでなく、音楽の間あい、照明の間あい、料理を出す間(タイミング)…全部ですけれど)

ちなみに私が一番たくさんご一緒した司会者さんたちは

お二人とも間合い含めてとても美しい雰囲気とリズムをお持ちの方々でした。

当時わたしの勤めていたプロデュース会社は

「オリジナルウエディング」の草分け的な存在の会社だったこともあり

周りのホテルさんが「人前挙式」の式次第をもらいにみえたり

またはコピーされたり…ということがよくありました。

が…

たとえ同じ式次第で人前挙式をやったとしても、

出来上がりは全く違うものになるのですよね。

どう演出するか。

舞台をどう設定して、人物をどの位置に配するか、どう動かすか…などもその違いを生むわけですが

(どこまで360度、どこから見ても美しい『絵』を作れるか。

また、そこに映りこんでいるスタッフ一人一人の立ち居振る舞いの美しさ

洗練度合まで…たくさんの要素が式を左右します)

最後の違いは「間」なのです。

司会者の「間」。

音楽の「間」。

どのタイミングで、どのくらいの間をおいて司会者がセリフを発し

それを受けて、どのタイミングで新郎新婦に動いてもらうのか

どのタイミングで音楽が入り、それは新郎新婦の姿が見えなくなった後

どれくらいの余韻をもって流れ続けるのか…

すべては「間」。

間合いのセンス。

さて

そのウェブデザイナーさん。

司会の仲間から「その『間』はどうやってとるのか」

「間を教えてくれ」

と言われていたそうです。

うん。確かに彼女が『間』に対してよきセンスを持っているであろうことは

想像に難くない。

(といいますか、私好みの「間」ということです)

「けれど、教えることができないんですよね」

と彼女。

確かに。

教員の頃、文化祭の劇ですとか、卒業式の送辞・答辞を読む…なんていうときは

「そこで3つ数えて」

などと生徒に「間」を伝えていたこともありましたが

千変万化、生ものの結婚式やお葬式でそれが通用するはずもない。

「あれって、どうやって教えるんですかね…」

「さあ…」

どう間をとるか、というのは一瞬にして全身で「見て聞いて感じて」、結果そうなるものですもんね。

間合いのセンス。

コミュニケーションの力とは、究極そのあたりにあるのでは、という気がします。

若者のコミュニケーション力アップ講座、で

参加者全員で輪になって、「拍手を回す」ゲームをやった時に

「心地よく全体を感じて、一体感をもってリズムをとって拍手を回す」

ことができない子がいます。

(子…といっても、みなさん結構いい大人ですが)

タン、タン、タン、タン…気持ちよく回ってきた拍手が

どこかで必ず「がくっ…」とずれる。みょう~な間を刻んでずっこける。

感じていないんですよね。全体を。みんなとの「つながり」を。

自分のところに来たから叩いている、だけ。

あの、うまく行った時のえも言われぬ一体感。

みんなでリズムを刻むその「波」に自分の体が乗って

自分もその一部となってともに「ひとつのもの」を創れた時のあの心地よさ。

それを「身体で」わかった瞬間、そのときその子の「コミュニケーション力」は

知識など教わらなくても大きく一歩、前進したときなのではないか、とそんな風に思います。

そういう力が飛躍的に伸びるセミナーとは?

考え中です。

「『先生』の話」

わたしの歴史仲間の「先生」のお話です。

先生は

大学に在職中「英語史」と「映画史」を教えていらっしゃったそう。

その頃はよく

「二足のわらじですね」

と言われたそうです。

ご本人からすると、それは結構不本意な言葉であったとか。

「世の中で言語と映像はほとんど一体となって存在しているのに」と。

つまり、先生にとっては、しごく整合性のとれた、統一感のある世界なのです。

「言語と映像は表現の媒体として『一足』」ということなのだそう。

先生の熱き思い入れのこもった言葉に

大きくうなずいたことでした。

さて

わたしから見ると、先生の軸はまさに「史」の部分にある、といつも感じます。

先生は

古い日本の歌謡にも造詣が深くていらっしゃり

明治~昭和の歌を通して、その歌を生み出した時代の背景などをよく語ってくださいます。

先生の話を聞いていると

メロディに、歌詞の、言葉の一つに、その時を生きた人たちの生の息遣いを感じます。

「この歌詞の背景にはこの事件を感じますね」

「えっ、あの有名な・・・(教科書に載ってたあれですか!?)」

というようなやりとりが

メールや何かでたまに飛び交うんですが

そんなとき

とてもワクワクします。

モノクロの古写真に、いっきに色がついて

動画になってカタカタと音をたてて回り始めるような感じがします。

そのメロディを、言葉を万感の思いをこめて

口ずさんだであろう

自分と同じに普通に生きていた人々の姿が見えるような。

教科書に載っている死んだ歴史ではなく

言葉や映像といった

人の生活に密着して存在し

喜怒哀楽をダイレクトに表現し、反映してきたものを通して

見え、聞こえ、体感できる

「生きた歴史の息吹」をこよなく愛し

それを人に伝える人ことをなさっている人

というのがわたしの先生に対する感じ方です。

(先生はそうじゃないとおっしゃいますが)

それは、どんなにか素晴らしい大切なことだろう、と

歴史好きのわたしはいつも思います。

それになにより

人がそうやって自分自身の「軸」に沿って生きているのを見ると

なんとも言えずワクワクします。

自分の惹かれるもの、心の導くものに沿っているとき。

人はそういうとき、魅力的だなあと感じます。

年を経るごとに

自分の生き方がそのようになってくるごとに

さまざまな世界で、全身で「本質」を生きていらっしゃる方々と

時間を共にする機会が増えているのは

ほんとうに幸せなことだなあと

思っています。

わたしの地元で唯一の

歴史仲間の「先生」のお話でした。

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