幼子の遊ぶ様子を、同じ部屋にいて20分間「ただ見守る」ということができない、
という親の訴えが次のようなもの。
「手を出そう、口を出そう、先回りして指示しよう、道を指し示そうとしてしまう。
親の役割というのはそういうものだと思っている」
「それはこうだよ」
「そのおもちゃはこうやって遊ぶんだよ(と「正しい使い方」を示す)」
「次はこれをしたら?」
…
(子育て番組の話です。
子どもの中に「アタッチメント(乳幼児が親との間に築く信頼)」
を育てるために、親が20分間、口を出すことなくただ「遊びを見守る練習」をする)
教員でも同じようなところが(わたしは、ですけど)あって、
よーくわかる。
が、これでは育たないらしいのですね。
子どもの絶対的な安心感。見守られているという安心感。
その土台の上に乗っかって初めて子どもが発揮することができる、
「自分でやろう、自分で行こう、自由自在に冒険しよう、どこまでも行ってみよう」
という「自立のこころ」。
(将来、「自立心」となって発揮されるであろう「心の種」と言うべきか)
それには、
親との空間が「絶対的な安全・安心の空間」であることが絶対条件なのです。
そこを「安全基地」として、
子どもは初めて興味を外界へと向け、冒険できる。
その親御さん、悪戦苦闘の末、一つ「会得」する。
「ああ、これなんですね、これでいいんですね!」と。
「今、私は太陽なのだ」
とその親御さんは言いました。
「そう思うと、手も口も出さず、ただ見守っていられる」と。
何かをする。してあげる。与えるのが親の仕事。大人の仕事。
違います。
(とあえて言ってみる)
親の仕事は、まず「そこにあること」なのです。
存在すること。
最高の状態で、存在すること。
太陽のように、さんさんと絶対的な安心感と「愛」でもって、
ただ「そこにいること」。
Doing(何をするか)の前に、Being(どうあるか)なのです。
(こちらもどうぞ。
https://commu-w.net/2024/11/10/それはつまり
『それはつまり、親の努力じゃなく言葉になはらない意識の方が伝わる、ということじゃなかろうか』)
場の力、というものの大切さ、凄さを知る。
その空間に溢れる「空氣」。
自分の身体から出て、その空間を形作っている
「何か」についてもっともっと敏感になる。大切にする。
「何かをしなければならない」「役に立たなければならない」
が一番になると、
「それに貢献していない人」「それができていない状態」の評価は
一氣に下がります。
けれど、そうでしょうか?
昔から日本人は、「場」という感覚を大切にしてきました。
(プレイス、ではない、たくさんの意味のこもった概念であり感覚です)
何かが「出来る」という小さな視点のみでなく、
「場を作れるあり方」
「場を温められるあり方」
そのものに価値をおき、
大切にしてきた民族ではないでしょうか。
(と、大昔の、祖母の膝の上の「あの感覚」を思い出しています。あれより「無上の愛」の体験を未だ知らない)
日本人は、いつから「場」というものがわからなくなったのだろう?
疎かにするようになったんだろう?
と思います。
「場の持つ力」を知れ。
自分が自分自身の存在で、あり方で、波長で
「どんな場」を作っているかを、知れ。
「何をしたらいいの?」
「どう言えばいいの?」
「どう言えば伝わるの?」
のはるか以前、
コミュニケーションの根っこの根っこの大切な部分です。