「場の力」を知れー「してあげる」ことだけが親の仕事ではない

 

 

 

 

 

幼子の遊ぶ様子を、同じ部屋にいて20分間「ただ見守る」ということができない、

という親の訴えが次のようなもの。

 

「手を出そう、口を出そう、先回りして指示しよう、道を指し示そうとしてしまう。
親の役割というのはそういうものだと思っている」

 

 

 

「それはこうだよ」
「そのおもちゃはこうやって遊ぶんだよ(と「正しい使い方」を示す)」
「次はこれをしたら?」

 

 

(子育て番組の話です。
子どもの中に「アタッチメント(乳幼児が親との間に築く信頼)」
を育てるために、親が20分間、口を出すことなくただ「遊びを見守る練習」をする)

 

 

 

 

教員でも同じようなところが(わたしは、ですけど)あって、
よーくわかる。

が、これでは育たないらしいのですね。

 

 

子どもの絶対的な安心感。見守られているという安心感。
その土台の上に乗っかって初めて子どもが発揮することができる、

 

 

 

「自分でやろう、自分で行こう、自由自在に冒険しよう、どこまでも行ってみよう」

 

 

 

という「自立のこころ」。
(将来、「自立心」となって発揮されるであろう「心の種」と言うべきか)

 

 

それには、
親との空間が「絶対的な安全・安心の空間」であることが絶対条件なのです。
そこを「安全基地」として、
子どもは初めて興味を外界へと向け、冒険できる。

 

 

 

 

 

 

その親御さん、悪戦苦闘の末、一つ「会得」する。
「ああ、これなんですね、これでいいんですね!」と。

 

「今、私は太陽なのだ」
とその親御さんは言いました。

 

「そう思うと、手も口も出さず、ただ見守っていられる」と。

 

 

 

 

 

何かをする。してあげる。与えるのが親の仕事。大人の仕事。
違います。

(とあえて言ってみる)

 

 

親の仕事は、まず「そこにあること」なのです。

 

存在すること。
最高の状態で、存在すること。
太陽のように、さんさんと絶対的な安心感と「愛」でもって、
ただ「そこにいること」。

 

 

Doing(何をするか)の前に、Being(どうあるか)なのです。
(こちらもどうぞ。
https://commu-w.net/2024/11/10/それはつまり
『それはつまり、親の努力じゃなく言葉になはらない意識の方が伝わる、ということじゃなかろうか』)

 

 

 

 

 

場の力、というものの大切さ、凄さを知る。
その空間に溢れる「空氣」。
自分の身体から出て、その空間を形作っている
「何か」についてもっともっと敏感になる。大切にする。

 

 

 

「何かをしなければならない」「役に立たなければならない」
が一番になると、
「それに貢献していない人」「それができていない状態」の評価は
一氣に下がります。

 

けれど、そうでしょうか?

 

 

 

 

昔から日本人は、「場」という感覚を大切にしてきました。
(プレイス、ではない、たくさんの意味のこもった概念であり感覚です)

 

何かが「出来る」という小さな視点のみでなく、

 

 

「場を作れるあり方」
「場を温められるあり方」

 

 

そのものに価値をおき、
大切にしてきた民族ではないでしょうか。
(と、大昔の、祖母の膝の上の「あの感覚」を思い出しています。あれより「無上の愛」の体験を未だ知らない)

 

 

 

日本人は、いつから「場」というものがわからなくなったのだろう?
疎かにするようになったんだろう?
と思います。

 

 

「場の持つ力」を知れ。
自分が自分自身の存在で、あり方で、波長で
「どんな場」を作っているかを、知れ。

 

 

 

「何をしたらいいの?」
「どう言えばいいの?」
「どう言えば伝わるの?」

 

 

 

 

のはるか以前、
コミュニケーションの根っこの根っこの大切な部分です。

 

 

 

オンラインではコミュニケーション力は育たない

 

 

 

コロナ騒動の頃、オンラインで、

インプロ(即興演劇)の初歩のコミュニケーションゲームのワークショップを

やったことがあるのですよね。

 

その際、ウォーミングアップで「参加者全員でリズムを合わせる」
ちょっとした遊びをやったのですが、
これが「全く合わなかった」。
もう、グダグダ。

 

 

で、
ご参加のピアノの先生が、
「チャレンジャーですね!」と。
その時の彼女の少々呆れたような声を今でも覚えているのですが。

 

彼女は、その頃早々にレッスンをオンラインに切り替えており、
音のプロだけに、
「微かな誤差が生じる」というオンラインの特性をちゃんと
把握していたわけなのでした。

 

 

 

 

 

さて、表題の件。

 

語彙力ですとか、意思の疎通ですとかそういう部分ではなく、
コミュ力のもっと土台のところ(土台なだけに大切なところ)
ということです。

 

 

 

「オンラインでは脳が同期しない」
と言ったのは「スマホはどこまで脳を壊すか」の著者、榊浩平氏。

 

「同期」というのは、
「何かを共にするときに、本人たちの脳活動がそろう現象」なんだそうで。

実験の結果、
「オンラインで会話をしている人の脳の状態は、
一人でぼうっとして何も考えていない時と変わらなかった」と。

 

 

 

 

「通信速度の違いによる違和感」
「視線が合わない」

 

ことを榊さんは原因として挙げていますが、
わたしの慣れ親しんだ言葉で言うならつまり、
「息が合う」
という、コミュニケーションにおいて最も大切な現象が

オンラインでは起こらない、ということなのかなと。

 

 

息(呼吸)が合っている、という状態は
コミュニケーションの「土台」(いや、真髄)で、
例えば会話の際には、

 

・リズムの合った相槌
・心地よいうなずき
・視線のやり取りの瞬時のタイミング

 

などからそれを感じ取ることができるわけですが、
それら「非言語コミュニケーション能力」がオンラインでは育たない、と。

 

 

榊さんいはく、
「対面コミュニケーションがほとんどなくなったら、わたしたちの脳は同期しなくなり、
相手の視線や表情から相手の気持ちを推し量ったり、共に共感する機能は失われていきます」

「脳は筋肉と似ており、たくさん使うほど発達します。使わなければ子どもだと育たず、
大人だと機能が衰えます」

 

 

 

 

 

何を言いたいかと言いますと。

 

オンラインの利便性をわたし自身、存分に享受しつつ、
(以前はわざわざ遠方まで出かけていた様々なトレーニングが、
今はオンラインで部屋に居ながらにして参加できるなんて、

なんていいんだろう!《感涙😭》といつも思っています)

 

 

けれど、体感的にずっと思ってはいたのです。
「けれどオンラインでは真のコミュニケーション力は育つことはない」
と。
「どんなにリアルなVRができたとしても、
『その場に行って』体験することに代替できるものでは、絶対に、ない」
と。

 

 

 

 

温度。
空氣の渦。
人の作り出す熱の波。
言葉では言い表すことができない、
けれど「そこ」に満ちている感覚。

人が発する「何か」。

 

畢竟、コミュニケーションを交わす、とは「そこ」なのです。
「そこ」を感じ、キャッチし、
分かち合える「センサー」の質こそが
「コミュニケーション力」の本質であり、「コミュニケーションの質の差」なのだと思います。

 

 

 

 

 

オンライン使います。
動画、毎日見てます。
ゲーム、やります。
(わたし自身の話です)

 

 

なのですが、全ては「バランス」。
オンラインは知識の取得、情報の交換には便利ですが、
それだけでは「身につかないものがある」。

 

 

 

 

生の体験。リアルでのコミュニケーション。
「身体センサー」をちゃんと磨くことができるコミュニケーション体験。

 

 

「コロナ」という歴史的に例を見ない時期を過ごしてしまった
(そして、こどもたちをその渦に巻き込んでしまった)
わたしたちは、今後ますます「意識して」子どもたちに
身体体験を伴った、質の良いコミュニケーションのための場を作る必要がある、
とつくづく感じます。

 

 

(※毎日新聞 2024年12月21日の記事を参考にしています)

 

 

 

※写真は珍しい積雪の桜島です。さっき撮ってきました。

この2日間、雪が結構嬉しかった鹿児島県民は確実にいると思うのでした。

谷川俊太郎さんの訃報を聞いた日に書こうと思い立ったこと

 

 

 

 

朝のリレー 

       谷川俊太郎

 

 

カムチャツカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている

 

ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする

 

この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている

 

ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る

 

眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

 

 

 

*  *  *

 

 

 

今でも、夜明け前に起き出して、
どこか遠くへ移動するとき、
ちょうど空が白んできた頃、つい口ずさんでしまうんですよね。

 

 

「カムチャツカの若者が…」

 

 

この詩の言葉が身体の中に呼び起こす

すがすがしさ、
静かな躍動感、
何かが始まる前のワクワクする感じ、
壮大な感覚

そんなものが、
わたし自身の身体にもしっかりと刻まれてしまったんだなあ、
と。

 

 

この詩に出会ったとき、
もはや「いい大人」だったわたしでさえそんななのだから、

みずみずしい13歳の頃に出会った子たちの身体には、
もっともっと、深く刻まれていたらいいなあ、と思うんですが、
それは「授業をした人」(つまりわたし)
の力量に大きく関わっているんじゃあ??

と思うと、ほんっとに責任を感じる😅
と今更ながらに思うことなのです。

 

 

 

 

 

谷川俊太郎「朝のリレー」。
入学後のとても早い時期(春か、遅くても初夏)の題材として、
載っていたように思います。

「出発」「新しいスタート」を迎えた子どもたちに触れてもらうに、

なんとも相応しい。

 

 

 

 

美しい言葉に触れること。
美しい世界に触れること。
そこと、いつでもすぐにアクセスできる回路をつくること。
そこは、心の故郷であり、
いつでも自分を助け、温め、癒し、鼓舞してくれる、
大きな大きなものの「みなもと」。

 

 

 

 

詩の授業なんてのは、
結局「そういうもの」をたくさん作るために
やるんじゃあないの?

 

 

そこから始まる長い人生、
どんな場面でも、
「帰れる」「繋がれる」心のエネルギー源をたくさん作るために。

 

 

 

 

と今なら思います。
今ならわかります。

 

 

 

 

 

*  *  *

 

 

《追伸》
この「朝のリレー」のドリル(市販の小テスト)を見ていたら、

 

【そうしていわば交替で地球を守る】
ここの意味として正しいものを選べ。(4択)

 

の選択肢の中の三番目の選択肢が
「地球防衛軍に入って防衛に力を尽くす」
という感じの選択肢だったのが、とても(笑えて)気に入ったことを思い出します。

 

『風の時代』本格到来と懐かしいマドモアゼル・愛先生の本の話

 

 

 

 

 

教員時代、マドモアゼル・愛氏の

「自分の素晴らしさに気づいていますか」という本を、
学級通信で紹介したことがあるのだけど、
当時クラスで一番大人びていた部類に入る男子が、
額にかかる前髪をサラリと払いながら
(本当はそんなことはなかったんだろうけれど、なぜかそういうイメージで覚えている)

 

「先生、これはだめだよ〜」

 

と注進してきたことがあった。

 

 

 

何がダメなのか、全くわからなかったのだけれど、
つまり、彼いはく、
「自分たちは年頃なんだから(この絵はいかがなものか)」
と、そういうことだった。
(そういえば、そのプリントを配った時、いつもは騒がしい帰りの会なのに、
妙に静かになった気はしたのだった。男子が)

 

 

小さく縮めて載せていたし、
リアルでもなんでもない絵本風の「挿絵」なので、
全く気に留めていなかったのだけど。
(今になると配慮が足りなかった、ホントに申し訳なかった‼️と思うのだけど)

 

 

 

子どもたちとは、本当に優しくて、
わたしにとっては大きな存在であったな、と思う。

 

思春期特有のセンサーで「大人の都合」や嘘や欺瞞には
敏感に反発しまくってくるのだけど、
こちらの掛け値なし、作為のない頑張りには、
たとえ成果が出なくても、失敗しても優しかった。

 

教職後半になるに従って、この子達に
「伝えないといけないもっと大切なことがある」
という思いが湧き。
(例えば、この本に書いてあるような、生きる上で大切であろうことを)

 

しかしいかんせん。
思いは湧くのだけど「知識」がない。
「技術」がない。
(「自分を大切にしましょう」と口で言ったからといって、
授業になるわけではないし、ましてや子どもが「そうできる」ようになるわけもなく)

 

 

 

そのうち、もう嘘はつけないなあ…
という苦しくなったのも、教員を辞めた理由の一つだったように思う。

 

 

それから数年して、
「出来なかった苦い思い」を「出来る」にするための
格好の知識と技術、概念として、
コーチングに出会ったと思っているのだけど。

 

 

 

さて。
今日の本題は実はそこではなく。
上記のような懐かしい昔を思い出させてくれた
マドモアゼル・愛氏いはく、

 

【20日、5時28分に、冥王星が山羊座から水瓶座に入った】

 

のだそう。
200年続いた「土の時代」から「風の時代」に「本格移行」した。

 

⚫︎土の時代の象徴は「ルールの整備、安定、物質、権威」
⚫︎風の時代の象徴は「自由、知性、情報、横の繋がり」

 

産業革命から今までの約200年間がまさに、
「土の時代」だったんだそう。

 

わたしたちは存分に土台を固め、物質的に発展を極め、
昔からあった既存のルールや権威を基準として、
幸せを追求し、
また享受する時代を過ごした、ということでしょうか。

 

 

 

そして「風の時代」がやってきた。

 

懐かしいマドモアゼル・愛氏の口からその「到来」を告げられ
(たまたま見た動画でですけど)
なんだか感慨深い気持ちになっています。

 

 

今思えば、ですが。
昔、生徒たちに伝えたかったことは、
既存のルールが崩れて、自分の軸がより必要になる
「風の時代」をメインとして生きることになるであろう彼らにとって、
必要なことでもあったんだなと、
そんなことを思ったりもしているところなのです。

 

 

*  *  *

⚫︎縦社会→横社会へ
⚫︎物質を獲得→心の豊かさをより重視
⚫︎型のある人生→自分の意思で選択する人生
⚫︎みんなと一緒→個性を出していく
(「風の時代って何?」こちらのサイトからお借りしました)

https://note.com/satomi_09/n/n641f1e650782

 

*  *  *

 

 

ということで、みなさん。
「風の時代」に突入したそうですよ。

 

それはつまり、親の「努力」じゃなく「言葉になはらない意識」の方が伝わる、ということじゃなかろうか

 

 

 

【努力は実を結ばないのね】というタイトルで、

 

 

「歯を丁寧に仕上げ磨きしてあげていたのに、歯も磨かない男になった。
毎晩読み聞かせをしていたのに、スマホ以外の活字は読まない男になった。
ご飯、ちゃんと手作りしてたのにカップラーメン大好きな男になった。
環境考えて親子でエコ活動してたのに一面ゴミの部屋で暮らす男になった。
…息子に一言。
努力が実らない世界があるということを知った。
教えてくれてありがとう」

 

といった感じの内容の内容の文章を見た時に、
(文章はうろ覚えなので悪しからず)

 

 

それはつまり、
「結局、親の(大人の)『何が』子どもに伝わるか」
ということなのじゃないだろうか、
と想像したのでした。

 

 

ちょうど知人に話したばかりなのだけど、
「人はあなたの言葉の通りになるのではない。あなたの身体の通りになるのだ」
という言葉があって。
(コミュニケーションにおいて、わたしの好きな言葉です。本質をついている)

 

これはつまり、
言葉や、思考でコントロールした行動。
ああしたほうがいい。
こうすべき、と言った言葉や行動ではなく、

 

結局「本音」(無意識)の方が伝わる、
影響を与える、ということなのだけど。

 

 

「ちゃんとしなくちゃ」
「〜すべき」
「正してあげないと」
「しっかりしないと、させないと」
「いいことをさせないと」

 

 

そこには、親自身の
「楽しさ」
「リラックス」
「心から『それしたい!』」
という感覚は
含まれていない。多分。

 

で、子どもには、「そっち」の方が伝わるのだ。

 

 

 

「親も常日頃言っていたし、やっていたし。
『そうした方がいいし、正しい』のはわかっているけれど。
なんだかわからないけれど、
それを考えると、
しようとすると、
固い感じ、重い感じ、嫌な感じを感じる…」

 

 

という、子ども本人にも理解できない「感覚」
になって子どもの中に残る。
それがつまり
「相手はあなたの言葉(思考)のとおりになるのではない。
あなたの身体(無意識)のとおりになるのだ」。

 

ということなのだと思う。

 

 

自分の話になりますが。
子どもの頃から本が好きで、
多い時で年に2〜300冊くらいは読めていたように思う。

 

今も本好きは変わっておらず、
いい癖をつけてもらったなーと。
ここのところは親に感謝しているのだけど、
「本を読め」と言われたことは一度もない。

 

だだ、「家に本があった」。
父が本好きだった。
壁一面をぶち抜いた本棚と、
父の机の上にはガラスの扉のついた「特別本棚」があって、
その中には父のお気に入りの本が並んでいた。

 

 

 

何を言いたいかというと、
読み書きかせでもエコ活動でもなんでも。
「自分も楽しい」
「何より自分が好きで、したい」
「夢中になれる」
のだったら、
より、いいんじゃないだろうか、と思うのだ。

 

 

「頑張る」「しなきゃ、させなきゃ」が醸し出す大人の無理や、
緊張の方が、
結局子どもには伝わってしまうから。
(と書きながら、なんだか切なくなっている。
その気持ちも、よくわかるから。
そして、教員時代を思い出すに、
それで上手く行ったことは一つもないなあとも思うのだ)

 

 

いつも思うのは。

 

「大人が笑って、のびのびと自分の人生を楽しんでいる」
「その姿を、ただ見せる」

 

もっというと、
「家の中がなんか知らん、
そんなHAPPYな大人が出すHAPPYな波長で満ちている」

 

 

子どもの幸せはまずは、それじゃあなかろうか、と思うのだ。

「どういうふうに言ったらいいですか?」とよく聞かれるけれど、それはそもそも「言い方」の問題ではない

 
 
 
子育て番組でやっていたんですけど。
 
 
 
受験期を迎えた子どもが勉強しない。
(自分の思ったようには)
 
で、あれこれ言う。
 
 
 
 
「やってないの」
「なんでやらないの」
「何時からやるの」
「こんな問題もできないの」
「なんでできないの」
「そんな高校いくの?」
「そんな仕事、うまくいくかわからないじゃない」
 
 
 
 
 
 
子どもはどんどん離れていく。
「うざったい」という反応を示す。
何も喋らなくなる。
どんどんコミュニケーションが取れなくなる。
 
 
 
 
 
 
で、上の質問になる。
「子どもになんと言ったらいいでしょう」
「何か、いい言い方はないでしょうか」
と。
 
 
 
 
 
 
で、わたしはこの「言い方は…」という「言い方」に、
すっきりしないものを感じるわけです。
(こういう質問、よく聞くのですよね。
親と子の関係だけじゃなく、いろんな関係性において)
 
 
 
なんと言ったらいいか?
その答えは一つしかない。決まっている。
 
 
 
 
 
 
 
「これまでうるさく言ってごめん。もうあれこれ言わないから。
自分の考えで自由にやって。お母さん(お父さん)見てるから」
 
 
 
 
 
 
 
そう言えばいいのだ。
子どもが真に望んでいる言葉はこれのみであり、
親のこのスタンスなのだ。
 
(プラス「悩んだ時はいつでも力になるからね。
いつでも聞くから、話したくなったら話してね」くらい付け加えておけばいい)
 
 
 
 
 
 
 
けれど、そうはならない。
そういう言葉ではない何かが欲しいのだ。
「何かいい言い方」イコール
 
 
 
 
 
「波風立てず、子どもに嫌われず、
なおかつ『子どもが自分の言うことを聞くような』言い方はないですか?」
 
 
 
 
 
ということなのだ。
相手をコントロールしたい。
 
 
 
 
 
 
で、声を大にして言いたい。
「そんなもの、あるわけない」と。
 
 
 
 
 
 
 
子どもが自分の巣立ちに向かって、自らの羽を研ぎ出す時。
それは、親自身も全身全霊で、
自分自身を見返す時なのだと思う。
 
 
 
 
 
子どもが、
「生きるってどう言うこと?」
「自分はこれからどう生きていくの?」
「自分とは何者?」「自分にとっての幸せとは?」
という一生の命題に真剣に向き合うとき。
 
 
 
 
 
それは、親自身も、
「一人の人間として、これまでどうやって生きてきたか」
「一人の人間として、これからどう生きようとしているか」
を問われているのだと思う。
 
 
 
 
 
 
「普通はこうでしょう」
「これまでこうやってきたから」
「自分はこれでうまくいったから」
「みんながこうやっているから」
「幸せとはこう言うものだから」
 
 
 
 
 
 
 
そんな使い古された(そして楽な、使い勝手のいい)
言葉と感覚ではなく、
親自身が、自分自身の「生き様」から滲み出、醸し出された
真の言葉で語れるか?を、
子どもから問われ、見られている時なのだ、と思う。
 
 
 
 
(ちなみに、この時に、これらをおろそかに扱うと、
いづれ何らかの「人生の節目」で倍返しみたくなって
返ってくることになるので注意。
例えば結婚式のときとか…
まあ、準備の過程でいろんなことになる親子を見たもんです)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さて。
子どもは、先に生まれたものを助けるために生まれてくるのだ、
と何かの本で読んだことがある。
 
 
 
これまで、いろんな親と子を見てきて、
話を聞いてきて。そうだなあ、と思う。
 
 
 
 
 
例えば子どもの反抗や、不登校や。
それらを通して自分を見直さざるを得なくなり、
結果、生き方が変わった親御さんとたくさん出会った。
 
 
 
みな、何か「とらわれていたもの」から解放され、
「自分軸」を生き始めていたように思う。
それはもう、見事に。
自分を生き始めていたように思う。
その姿、輝いているのですよね。
 
 
 
 
 
 
 
子どもってすごいのだ。
 
 
彼らはある時期、
自分でもどうしようもない破裂音を身のうちに抱える。
身体の中でそれはベキベキと音を立て。
それは彼らの「魂の叫び」なのだけど。
 
 
 
ともすれば自身をも破壊しかねないそのエネルギーのもの凄さは、
親をも「檻」から引っ張り出すに十分なのだ。
 
 
 
 
 
 
彼らは、自分だけでなく、
 
「もっと自由な世界へ。
存分に自分を生きることの喜び」
 
の世界へ、親をも連れてゆこうとしているのだ。
 
 
 
 
 
 
 
願わくば、全ての子どもの「その企て」が、
潰されることなく成功しますように。
と切に願う。
 
 
 
 
(写真は鹿児島市の「石橋公園」。
本文とあまり関係ないんですけど。
30年前までは現役で人と車を(2車線で!)渡していたすごい橋だったのです)
 
 

夏休みが始まったので、世のすべてのお父さんお母さん じいちゃんばあちゃん先生方にエールを送っておく

 
 
 
(写真はやっと撮れた蜻蛉。3回飛んで行かれて、4回目のトライ。
羽根が綺麗ですよね)
 
 
 
 
 
ついさっき、
隣のテーブルにブルーシートやら何か、
工作の道具やらを山ほど持った
女性たちの一団がやって来。
 
 
 
 
あ〜、子ども達のために何か準備をしているお母さんたちだな、と思い
 
 
「席、変わりましょうか」
 
 
と言ってみたところなんですが。
(わたしのテーブルの方が広かった)
 
 
 
 
 
 
 
数日前、正午。
朝顔の鉢と一緒に歩道橋の上を
たくさんの小学生が歩いているのを見て、
 
 
 
「ああ、始まったなあ〜夏休み」
と。
 
 
 
この数日、
いろんなお父さん、お母さん、先生方…の話を聞くにつけ、
 
 
 
 
「世のお父さん、お母さんって、こんなに考えて、頑張ってくれているのか(くれていたのか!)」
 
 
 
と、
なんだかもう感動することしきりなのです。
 
 
 
 
 
生活のリズム。
体験。
どんなふうに作っていこう、どんなふうにデザインしよう…。
(確かに。放っておくと、恐ろしいほど「安きに」流れてしまう、それも子ども)
 
 
 
 
 
 
 
どんなふうに子どもたちと過ごそう、
楽しませてあげよう、一緒に楽しもう、と。
 
 
そんなお父さんお母さんの
夏の「戦略」「プラン」「計画話」「企み」を聞くにつけ、
 
 
 
「すごい…」
 
 
 
と思うのです。
(何か、すごく特別なことをする、とそういう話ではないのですよ、念のため)
 
 
 
そこに感じるのは、やっぱり大きくいうと「切なる願い」でしょうか。
 
 
 
 
 
 
子どもにとっても40日というのは、それはすごい時間です。
 
 
 
 
 
 
中学生でさえ、40日経って会う子どもたちは、
明らかに「大きく」なっていた。
 
どこが、というのではない。
何が、というのでもない。
けれど、明らかに表情が変わり
(いろんな方向、いろんな意味で(笑))
 
 
 
 
そうですね。
細胞に満ちている「もの」の質が、一学期までとは違っている。
 
 
 
 
 
40日間という時間がどんな時間であったか、
それが、その子どもの表情や視線、雰囲気の向こうに透けて見えるような。
 
 
 
 
 
 
 
 
子どもにとって、黄金の時間。
それが夏休み。
 
 
 
 
 
 
自分の子どものころを思い出すに、
暮らしが順調であった時も、そうでなかった時も、全てをひっくるめて、
 
親が「その時の精一杯」で共に過ごしてくれた
夏のいろいろな時間を懐かしく感謝すると共に、
 
 
 
 
「ああ、世のお父さん、お母さん、お疲れ様…頑張って!」
(だれんごとやってください!)
※鹿児島弁です。「疲れないように」
 
 
 
 
 
 
と思う、今日、7月24日なのです。
 
 
 
 
 
 

「いい大人になりたい。姿を見せられる大人になりたい」

 

 

 

 

 

中学の時の家庭科の先生が、とても怖い先生だったのです。

 

 

提出課題はもちろんのこと、

時間、道具の扱い方、全てにおいて徹底しており、「手抜き」を許さない先生でした。

少しでも片付け方がまずいと、

班全員が放課後に呼び出され、

できるまで徹底的にやり直しをさせられるという。

 

 

その先生の思い出は「鉄なべの話」など、
他にもいろいろあるんですが、
(鉄なべの扱い方を徹底的に仕込まれた話)
今日話したいのは、そこではなく。

 

 

 

ある日突然、
先生が「数学の先生」に転向したこと、なのです。

 

 

密かに免許を取り、準備をしてらしたんでしょう。
春4月。
その先生は、受験学年であるわたしたち中3のクラスに
「数学の先生」として乗り込んできました。颯爽と。

(今でも、先生が教室に入ってきた瞬間の勢いを思い出します。
小柄な身体が前のめりで、教壇まであっという間にたどり着いた、その足取り)

 

 

 

 

 

 

ざわめく教室。
そして、授業は始まり…。

 

 

さて。
それは見たこともない授業でした。
それまで、どの数学の先生も…どの「数学のプロ」もあんな授業はしなかった。

 

 

 

先生は、お手製の「黒い箱」を持ってきていたのです。
30センチ✖️20センチくらいの、まさに「ブラックボックス」。

何の内容だったか、正確には思い出せないんですが、
そのブラックボックスに、

 

「ぽん!」

 

と数字だかのカードを入れると、横から全く別の数字?記号が「ぽん!」と出てくる。
「ボヨヨ〜ん」とバネのついた数字カードが飛び出てくるのです。
本当に。

 

その「ボヨヨ〜ん」の仕掛けと、先生の、カードを投入する瞬間の

「ぽん!」

というハリのある声、今でも鮮明に思い出します。

 

 

 

 

中3を相手に、マジックショーのような授業を始めた先生。
本当に驚いたんですが、けれど…

 

 

 

その時の、自分の表情が想像できるのです。
目を見開いて、瞬きもせずに先生の手元を見つめていたであろう、
中3の自分の表情が。

 

 

算数、そして数学の授業で、初めて感じた「楽しさ」。
目と心を奪われる、無垢な集中の感覚。

 

 

 

 

ああ、自分にも「わかる」かもしれない。
もしかしたら…もしかしたら。

 

 

 

 

あえて言葉にするとそんな感じでしょうか。
長い間かかって強固に固まった苦手意識と自己否定。

 

そんな子の心の中に、軽やかな風の吹く間を作るということが。
希望の灯を再びともすということが。

 

 

どれだけすごくて、
どれだけ「世界を救う」ものか、なので、わたしにはわかるのです。
(まあ、それくらい数学に関して長いこと心身ともに「フリーズしてた」ということでして)

 

 

 

 

さて。秋だったか。
外部業者が行うテストで、わたしははじめて数学で80点越えの点をとり。
(わたしにとってはとても大きなことでした)

 

そして、冬。
受験に向けて、問題を解くことを「楽しい」と感じている自分が、確かにいました。

 

 

 

 

 

 

「先生」のことに戻って。
先生がどうして家庭科の先生から数学の先生になったのか、理由はわからないんですが。

 

 

想像ですが、
「自分ならこうするのに」という思いが、
ずーっと先生の中にはあったんじゃないのかな、と思うのです。

 

ずっと「その道」をどっぷりと歩いてきた者ではないからこそ
見えるもの。持つことが出来る視点。

というものがあるものです。

 

 

 

 

先生は、それを試してみたかったんじゃないか。
自分の視点と感性を、思いっきり表現してみたかったんじゃないか。

「今、自分がこの子たちに関して見えていて、わかっている視点を使えば、必ずこの子たちの能力を開花させることができる」

 

という、確信があったんじゃないか、と。

 

 

 

 

 

そして、先生は挑戦した。

 

 

 

 

本当に、エネルギーに満ちた先生であったと思います。
そして、何よりやっぱり、怖い先生でした。

 

 

それは、
先生には「誤魔化しが効かない」ことが分かっていたから。
この人の前では、小さな嘘もまやかしも効かない。

 

 

いつも、「まっさらの自分」でぶつからないといけない。
自分でないことをやれば見透かされる。
小器用に適当にこなしても意味がない。
失敗しても「自分そのままで取り組んだ」ことをよしとする人だ、

と分かっていたから。

 

 

 

 

つまりそれは、先生自身が、何より自分自身に対して、
そのように生きていた人だった、ということなんだなあ、

と今になってみると思います。

 

 

こうして「その姿勢」を語りたくなる大人と出会えたことは、
幸せなことであった、と思います。
そして、それは、

 

 

「今の自分自身の生きる姿勢」

 

 

を。
自分自身が言葉の外で雄弁に発してしまっているであろう
メッセージを。
自分自身の姿を問い直すことに、いつもつながります。

 

(それをあえて言葉にすると、
タイトルの、「めっちゃ素直な」いい大人になりたい!の言葉に
なってしまうわけなのです)

 

 

 

 

 

※写真は京都市内の「旧明倫館小学校」。

今は「京都芸術センター」になっています。

この間行ってきたので、載せてみました。

(木造校舎独特の懐かしいにおい)

 

 

大人の役割は。

 
 
 
 
知人(女性)のお話なんですが。
バスに乗ったところ、高校生たちで満席だったんだそう。
で、『残念…』と思っていたところ、肩をたたかれ。
 
振り向くと、男子高校生が、
 
「どうぞ」
 
と。
 
そして彼女は優先座席を譲られたんだそうで。
その人いはく「生まれて初めての経験」とのことで!
(そりゃそうでしょ、わたしよりお若いじゃあないですかと思うわたし)
 
 
 
 
 
 
 
 
「いや、まだそんなトシじゃないんだけどなあ…でも彼の好意を無にしてはいけない、
と素直に『ありがとう』と座りました。
 うーん、フクザツ、と思いつつも、素直そうな男の子の横顔を見ながら、
なんて良い子なんだ…と」
 
 
 
 
 
 
 
うわ〜、本当に複雑、と思いつつ、
 
「心中お察しいたします(笑)」
 
と返事を書いたのでした。
 
 
 
なんていい子なんだろう。なんてキラキラした目!
なんて素直な、真っ直ぐなみずみずしい好意の発露!
という嬉しさと、
 
けど、わたしに譲るのかい⁉︎優先席を⁉︎というこの微かなる
残念な感じ?複雑なきもちと(笑)。
 
 
 
 
なんだか、
その(勝手に想像した)高校生の姿に微笑ましい気持ちになりつつ、
続きを書きました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「けど、年齢が上のものの役割をしっかりと果たされ!
 
 
自分の善意が、行動が他者に受け入れられ、
他者を幸せにできるんだ、というこの確かな実感と幸福感を
その身にしっかりと味わわせ、
身体に刻み込ませるのも、大人の役割だものなあ、としみじみ思うのです」
 
 
 
 
 
 
 
どうしてこんなことを書いたかというと、
昔、誰が書いのだったか、言ったのだったか忘れましたが、
 
 
 
「年寄りの役割は、
席を譲られたら、にっこり笑って『ありがとう』ということ。
喜ぶこと。
人の好意を全身で受け取ること。
 
それだけで、嬉しい人、救われる人、元氣が出る人、
自分に価値を感じられる人…
がたくさんいるんだから。
年寄りの役割は、その存在そのもの」
 
 
 
 
と言ったような意味のことを読んだことを思い出したからなのです。
(だいたいこんな感じの意味、ということで、
だいぶわたしが言葉&自分の想いを付け足しています)
 
 
 
 
 
 
 
 
わたしの知人はお年寄りではないですが、
(ないにもかかわらず)
役割を立派に果たしたぞと。
 
それって、本当に 「大人の役目だもんなあ」と思ったのでした。
 
 
 
 
 
 
子どもたちは、
そういう行為を一つづつ積み重ね、体験を積み重ね、
「自分」というものを積み重ね、確固たるものにしていく氣がします。
 
 
 
自分は人の役に立てる。
自分は人を幸せにすることができる。
自分は人を笑顔にすることができる。
自分は世界に影響を与えることができる。
 
 
 
 
 
 
 
それは、自分のうちからみなぎる力。
なんという幸福感。
 
 
 
 
 
 
 

(身近であればあるほど)とどめを刺してはいけないのです

 

 

 

 

知人の息子さん(小一)が今、

 

「自分で判断したい期(というのがあるかわからないが)」

 

を迎えているらしく、曇り空の朝。

 

 

 

「今日は雨は降らないから水着を持って行った方がいい」

(晴れ⇨水泳。雨⇨室内運動)

 

という、父(知人)、母の全力の主張&ススメにもかかわらず、

 

 

 

「僕は持っていかない。今日はいらない」

 

 

 

と、雄々しく学校に出かけて行ったという。

 

 

 

 

 

 

(水泳バッグ・昭和。で探してみました。懐かしい…)

 

 

 

 

 

 

わたしはその話を、

 

「やっぱり雨降りませんでしたね。今頃どうしてるのか…」

 

と現在進行形で知人から聞いたんですが。

 

 

 

 

 

 

1週間後。

その出来事の「オチ」が気になって、聞いてみました。

「で、あの日、帰ってきた息子さん、どんな顔してました??」

 

 

 

知人いはく、

 

「水泳どうだった?」

 

と聞いたところ「ニヤッと笑って」

 

「あった」

 

と答えた、とのことで。

 

 

 

 

 

 

 

 

「軽やかだなあ〜息子さん」

と思いつつ、さらに興味津々だったのは知人の反応で。

 

 

「で!?父としてはなんて答えたんです?」

 

 

と勢いこんで聞いてみました。

 

 

 

「にっこり笑って『そう』って言いましたよ」

(武士の情け。惻隠の情です、的なことをおっしゃってたような)

 

 

 

 

 

この件に関しては、

これで終わったそうで。

(…見事!)

 

 

 

 

 

 

 

 

思い出すのは…

こういう時

「ほ〜らみてごらん!」

「やっぱりお母さんの(お父さんの)言った通り!」

「いうこと聞かないから」

「あんたは全く…」

(以下略)

 

 

 

 

 

 

こういうのが、

いっちばん腹が立つんですよね。

反論できないだけに。

 

 

 

 

 

 

 

雨は降らないまま体育の時間が近づき、

みんなは水泳着を持って来ている。

自分は持ってない。

 

先生になんと言おう。

勇気を出して歩み寄って、先生に「今日の顛末と自分の判断ミス」

を伝える。

 

みんなが水の中でキャッキャ言っている、

その水飛沫を眺めながら、

プールサイドで一人静かに体育座りで時間を過ごす。

 

 

 

 

 

 

 

もう、そのプロセスで、

十分に学び、実感し、

「得まくったもの」があるわけで。

(彼は、自分の選択の責任をちゃんと自分で引き受けて、

対処して帰って来たわけで)

 

 

 

 

 

それを、

家に帰ってまで「鬼の首でもとったように」

叱られたんじゃあ、

もう、立つ瀬がない。

 

 

 

 

 

 

 

なので、

「知人は偉いなあ」

「すてきな対応だなあ」

 

 

 

 

 

と、素直に思ったのでした。

 

 

 

 

 

相手のことを大切に思っていればこそ、

(と書きましたが、案外悔しかったり、「ほら見たことか」的な

自分のスッキリ感を満たしたいだけだよね、とも思ったりするのです)

 

 

その一言がつい、出てしまうことがあるけれど。

 

 

 

 

が、身近であればあるほど、

「とどめを刺してはいけない」

瞬間があるよなあ、

 

と思った次第です。

 

 

 

 

 

 

そしてもう一つ。

お子さんが、

 

「自分で選び、その結果と、そこにまつわる考えのプロセスや感情…

全てを全部自分で味わう」

体験を、しっかりと尊重し「邪魔しない」。

 

そこのところも、「お見事!」

 

 

と思った部分なのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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