大人は忘れていても、それが子どもの人生を助け動かすことがある~小椋佳氏とマルコ・ポーロ

 

 

 

 

 

先日、知人からメッセージが来てですね。

 

 

娘さんのお友達の話を聞いていたら、

 

「バイト先の常連さんにとってもステキな女性がいて、
凛とした雰囲気が漂い所作や動きがとってもきれいで
私達との応対もハキハキとステキで仕事もできそう!
こんな大人の女性になりたいなって憧れる雰囲気の人がいる」

 

で、
どうも公子さんっぽいので、写真を見せたら大当たり。
と。

 

 

なんだか自慢みたいになっていますが、
そのメッセージを見たときのわたしの心持ちはそんなものではなく。
言葉にするならば、
「ああ!😭」と膝からくず折れるような、
そんなきもち。

 

「ああ、頑張ってきてよかった。
痩せ我慢しつつ、時には強がりつつ…でも本当に頑張ってきてよかった」

 

と、そういう感じでしょうか。
(と、その知人にも送ったのですけどね)

 

 

 

さて、本題。

 

 

今、朝5時と言う思いっきり早い時間に、昔やっていたアニメ
「マルコ・ポーロの冒険」
の再放送をやっていますが。

 

子どもの頃、一生懸命見ていたんです。
そして、出てくるいろんな曲が好きだった。

 

でその頃、曲を作った小椋佳さんが、
「マルコポーロの冒険」の楽曲について語るラジオ番組があったのです。
それを録音して、姉と二人で繰り返し繰り返し、聞いた。
でもって、すっかり覚えてしまった。

 

 

一番印象に残っているのは、

 

「取材に行ったとき、砂漠の真ん中で、自動車が壊れてしまった。
立ち往生して、どうにもならない、と思った時に、
星空の広さ、自然の中でポツンと、自分の存在の小ささを知った」

 

みたいな話で。

 

 

 

 

そして時は流れ、数十年。
小椋佳さんとご一緒する機会があり、
わたしはここぞ!とばかりに突進。
その話を熱く語ったのです。小椋さんに。

 

「今でも、ふっとおりに触れ、あのお話を思い出します。
そして、旅に出る時、ちょっとキツいなと思う時…
今でも、マルコポーロのいろんな歌が背中を押してくれるような時があります‼️」

 

と、それはそれは熱く(笑)

 

 

すると、小椋さんは、あの穏やか〜なお声で一言。
「ああ、そうなんだ…ごめんね。僕、何喋ったか覚えてないんだけど」

 

 

 

 

さて、何を言いたいかと言いますと。

 

「大人は覚えてえいなくても、子どもは『それ』を覚えていて、
しっかりとその身に刻み、そしてそれはいつか子どもの指針となり、子どもを助ける」

 

ことがある、と言いたかったのです。

 

 

 

だから「氣が抜けない」。
けど「氣が抜けない!」と、いつも周りを見回して身構えて、
ポーズを作って生きることはできないので、

 

つまりもう「日々の生き方」ってことになる。
掛け値なしの自分軸。
自分の体験と体感から出た言葉。
(あの日の小椋さんの言葉や、小椋さんがプレッシャーに苦しみつつ生み出した曲の言葉のように)

 

 

 

 

ここまで書くと、先の「知人のお嬢さんのお友達」の言葉が
どれだけわたしにとって嬉しかったか、
わかってもらえるのではないでしょうか。

 

スマートとも素敵とも言えない毎日。
アヒルの水かきの如く。

 

 

そんな毎日の中でも、

光る水滴のようにこぼれ落ちる「何か」があったのだとしたら。

それが若い人に伝わる瞬間があったのだとしたら。

 

 

 

 

本当に生きてきてよかった。
この生き方を選んでよかった。

そう思えたんでした。
(報われた瞬間、と言うんでしょうか。こういうの)

 

 

 

そして、(今これを読んでいる)皆さんも同じですね、
ということも言いたいのです。
みんなきっと、とても頑張っている。

 

 

今回、
皆を代表して、わたしのところに、
「その言葉」が(子どもたちからの見ているよ!という言葉が)
形となって降ってきたような、
氣がしているところなのです。

「毒親」とは何か?ーそれはみんながなりうるものだし、なっている瞬間があるもの

 

 

 

 

今朝、何かの記事を見て、俗にいう「毒親」の定義はなんだろう?とふと思ったのだけど。
わたしの思う「毒親」とは、

 

 

「自分の不安や心配や願望、コンプレックスなどの『心的状態』を
 子どもの問題にすり替える親。
 そして、そのことに気づかない(気づこうとしない、見ようとしない)親」

 

 

でしょうか。
(なので、「親」だけでなくいわゆる「毒教師」「毒上司」「毒配偶者」などというものも

存在するだろうな、と思うわけです)

 

 

 

 

ちなみに、
「とても満ち足りた、100%幸福な親」に育てられた人は
そんなにいないと思うので、

 

(敗戦、そしてその後の混乱で、
わたしたちの数代前の先祖の多くは皆、ずっと守り培ってきた価値観の「崩壊」それに
「挫折」が深く刻まれることとなったろうから)

 

 

 

そこからつながるわたしたちは大なり小なり、

 

「漠とした不安・これがないと幸せじゃない!という思い(願い)
よくわからない自己否定・コンプレックス」

 

などを持ち合わせているのじゃないか、と思います。

 

 

 

なので誰でもそういう「状態」(毒親・毒大人状態)になりうるし、
なっているときも実は大いにある、
というのが「案外普通のこと」なんじゃないか、と思うわけです。

 

 

だから、これがあることが悪いのではない。
(逆に、「全くない」と豪語する人の方が怪しいと思ったりする)

 

 

 

 

大切なのは、

 

「自分でそれを認めることができるかどうか。
 受け入れることができるかどうか。
 これは自分のものだ、自分で癒すぞ、と決めて、
 そことしっかり向き合うことができるかどうか」

 

なのだと思います。

 

 

 

 

何はともあれ、
自分の幸せは自分の中にしかなく。
何かの条件によるものでもなく、
ましてや人に託すものでもない、

 

ということはしみじみと思うのです。

 

 

 

そして、全ての大人が、
「楽しく、ワクワクと、静かに満ちて、しみじみと…」
(いろんな言葉がつくけれど😀)
とにかくそういう感じに「自分の」人生を生きていることが。

 

 

自分の「中心軸」で生きていることが、
(親は親の「自分が生まれてきた目的」をちゃんと生きていることが)
子どもの幸せにとって、必要不可欠なことなんだ、

 

と、そう感じます。

 

 

 

 

 

今日はなぜこんなことを書いているかというと、
確たる理由は全く思い浮かばないのだけど。

 

 

 

 

 

今が、分岐点、な氣がするから、でしょうか。
わたしたちは今、分岐点に立っている。
(という言葉が勝手に浮かんできている)

 

 

 

 

 

NLPに、
「親のタイムライン(生きた軌跡)までを遡り、癒し、統合するワーク」
というものがあるんですが。

 

 

 

親のたどってきた人生、思いを癒し、
先祖のたどってきた人生や思いをも癒し、

 

それら全てを美しく力強い「糧(かて)」に変え、
自分のこれからの未来のタイムラインを生きるための
プラスのエネルギーとする。

 

そういうワーク。

 

 

 

 

それは「全て」は、
誇らしく輝かしい「リソース」へと姿を変え、
わたしたちの人生を通して、
次の世代へと手渡されていくことになるのだろう、と思います。

 

 

 

 

そして、それが今、(わたしたちが)できるかどうか?が
案外これからの日本を大きく左右するのではないだろうか、
(その、最後のポイントに今、わたし達は立っている)

 

 

 

と、そんな氣がしています。
こういうのは理屈ではないので、うまく言えませんが。

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに自分はどうなの?という話なんですが。

昔、20代後半だったか30代前半だったか忘れましたが、

 

 

 

「『負の文化的遺伝子』を次には手渡さない」

 

 

 

と、なぜか思ったことだけははっきりと思い出します。

(ちなみに、うちの親が「毒親」だったと言うわけではなく。

日々悩みつつ、生活しつつ、子どもを愛し、

時にはそれが十分にできない自分にまた悩むというごくごく普通の親でした)

 

 

 

 

で、
わたし自身、それが今うまくできているかと問われると、
毎瞬毎瞬「プルプル」しています(笑)
(繊細に揺れて、ズレては戻りズレては戻り…ということです)

 

 

なんですけれど、
周りに色々な「ズレを元に戻してくれる」たくさんの人や
ものがちゃんと存在してですね
それが本当にありがたいと思っています。

 

一人ではなかなか難しい。

 

 

なので、世の皆さんたちも、無理はしないでくださいね、
というのは大いに言いたいところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

原作をどこまで尊重するか?そして子どもに何を与えるか

 

 

 

「赤毛のアン」がとても好き、というわけではないのですが。

 

 

子どもの頃、数回は読み、自分なりのイメージや好きな場面もあって。
(アンの親友、ダイアナがアンに間違って飲まされる「いちご水」(実はお酒)が美味しそうだなー、とか)

 

そして、やはり世界に冠たる「高畑勲監督」の名作中の名作アニメ
「赤毛のアン」が浮かんでくるんですが。

 

 

 

 

この春始まった新作アニメ「アン・シャーリー」。
プリンスエドワード島の風景が美しく描かれ。
アンも生き生きと可愛くて。

 

今のアニメ技術で存分に描かれるアンの世界に、
「きれいだなー😍やっぱり絵が綺麗なのは正義だわー」
と見ていたのだけど、
話が進むに従って、少しの違和感が。

 

 

 

言葉にするなら、
「このアン、わたし…ちょっと一緒に暮らしたくないかも」。

 

 

 

カスバート家入り口。
アンを連れ帰ったマシュウに、マリラが
「男の子はどこ?」と言い、「この子しかいなかった」と返すマシュウ。
「なんですって⁉︎」とマリラ。
次の瞬間。
「誰もわたしを欲しくないんだ!」と叫ぶアン。(戸口で)

 

そして、大泣きしながら案内もされない
(人んちの)部屋の中にズカズカと歩み入って、
(人んちの)居間のテーブルにわっと泣き伏して
繰り言を延々と述べながら泣き続けるアン。

 

 

コミカルな演出で、
(コーデリアと呼んで。せめて「e」のついた「アン」と呼んで。
の有名なセリフもここで出てくる)

 

可愛いよ。
可愛いんですが…。
けど。

 

 

なんだかちょっといやだ、この子(笑)
というか、怖い。
アンよ、礼儀はどこへ行った?君の高潔なる矜持はどこへ行った?

 

 

 

 

その後、SNSにて。

 

◉「アンは背筋を伸ばし座る。アンは礼儀正しい。
『クイーン・アン』と後にギルバートが言う芯の強さがアンにはあり、
アンは可愛いお転婆娘ではない」

 

 

 

他にも。

 

 

◉「ヴィクトリア朝時代の少女が膝を抱えて座っていることはありえない」

◉「原作アンのカバンは布の古い鞄。こんな高級な革製のトランクを孤児は持てない」

◉「そもそもアンはピンクを着ない。

(原作に「赤い髪をした者はたとえ想像でもピンクのものは着られないのよ」のセリフがあるとか)
なのに、ポスターでは堂々とピンクを着ている」

◉「ダイアナの黒い瞳と黒い髪にアンは憧れる。なのにアニメのダイアナの目は青」

 

 

 

などなど。
みなさん、すごいです…。

 

 

赤毛のアンの世界観を大切にし、
アンをずっと愛し続けてきた人たちの氣持ちがそこには渦となって溢れていました。

 

 

 

◉「赤毛のアンのアンは
前向きで元気で夢見がちな魅力的な女の子ではなく、
生き抜くために想像力を使った、
愛に飢えたサバイバーなんですよ。

 

そしてアンを支えるのはその気位の高さ。
誰が相手でもそれを崩さない。
アンは単なる一時的な怒りでギルバードを叩いたわけでもない。
アニメ萌え表現に消費される」
(先の、リンクを貼った方の言葉)

 

 

 

なるほど…。

 

 

 

高畑アニメで感じた、

 

「繊細な、触れれば壊れてしまいそうな、
けれどもその奥に存在する真っ直ぐなクリスタルの硬質」

 

を持ったアンの姿を思い出したのでした。

 

 

 

 

さて。
「原作をどこまで尊重するか?」
「今の時代(の子どもたち)に受け入れられる」ための改変。

 

 

 

わたし自身の「好み」なんですが、
原作(設定・キャラ・世界観)を使って、
「自分の言いたいこと、自分の表現したいこと」を脚本家や監督がぶっ込んでくるような作品作りは
好きではありません。

 

 

そして、
「今の時代のテンポ、感覚」に合うように変えることは
あってよしですが、
(時代劇だって厳密に作れば「お歯黒女性」だらけになってしまうわけですし)

 

 

キャラクターの性格や物語の設定における、
「作者が最も表現したかった」根幹に関わる部分の改変は、なし、

 

ではないか、と思っています。

 

 

 

 

ちなみに、
SNSで印象に残ったもう一つの言葉があって。

 

「今はもう、原作を読み込める制作者がいない」
「凜とした少女、を描ける人はもういない」

 

といったもので。
恐ろしいことですが、そういうこともあるのだろうかと思ったり。

 

 

 

 

さて、さらなる願い、なのですが。

 

 

子どもには。
いえ、子どもに届けるものだからこそなおさら、

 

「わからないだろうから変えてあげよう、

薄めてあげよう、
こっちの方が見栄えがいいだろう」

 

といった大人側の安易な、勝手な
(戦後の薄い、毒された「テレビ文化」の中で育った貧困な想像力から生まれた)

「改変」ではなく、

 

 

 

ガッツリと「作者が描いたキャラクター」そのままに
「作者が描いた世界観」
「真に伝えたかったこと」を、
子どもたちに手渡してほしい、と思っています。

 

 

ゆるいお粥のような作品ではなく、
噛みごたえのある強飯(こわめし)を与えて欲しい、と思います。
子どもはそこまでバカでも、愚かでもないのだから。

 

 

 

そこへの思いや努力がないのなら、
「原作もの」に手を出してはいけない、というのは言い過ぎでしょうか。
(上記SNSの方の言葉のように「萌えアニメとして消費」するために
原作の世界観を使ってほしくはないなと)

 

 

何より、原作者が、
「ああ!映像化してくれてありがとう!アニメ化してくれてありがとう!」
と喜ぶ作品になるのが一番だと思います。

 

 

 

 

この「アン・シャーリー」を、
作者のモンゴメリが見たらなんと言うかはもちろんわからないんですけれど。
(案外面白がったりしてですね。
そして、この「アン・シャーリー」。
十分に面白くて「いいアニメ」なことは確かだと思っているのです)

 

 

(上の新旧比較写真は、先のリンクを貼った方のSNSよりお借りしました)

 

 

 

 

 

 

「場の力」を知れー「してあげる」ことだけが親の仕事ではない

 

 

 

 

 

幼子の遊ぶ様子を、同じ部屋にいて20分間「ただ見守る」ということができない、

という親の訴えが次のようなもの。

 

「手を出そう、口を出そう、先回りして指示しよう、道を指し示そうとしてしまう。
親の役割というのはそういうものだと思っている」

 

 

 

「それはこうだよ」
「そのおもちゃはこうやって遊ぶんだよ(と「正しい使い方」を示す)」
「次はこれをしたら?」

 

 

(子育て番組の話です。
子どもの中に「アタッチメント(乳幼児が親との間に築く信頼)」
を育てるために、親が20分間、口を出すことなくただ「遊びを見守る練習」をする)

 

 

 

 

教員でも同じようなところが(わたしは、ですけど)あって、
よーくわかる。

が、これでは育たないらしいのですね。

 

 

子どもの絶対的な安心感。見守られているという安心感。
その土台の上に乗っかって初めて子どもが発揮することができる、

 

 

 

「自分でやろう、自分で行こう、自由自在に冒険しよう、どこまでも行ってみよう」

 

 

 

という「自立のこころ」。
(将来、「自立心」となって発揮されるであろう「心の種」と言うべきか)

 

 

それには、
親との空間が「絶対的な安全・安心の空間」であることが絶対条件なのです。
そこを「安全基地」として、
子どもは初めて興味を外界へと向け、冒険できる。

 

 

 

 

 

 

その親御さん、悪戦苦闘の末、一つ「会得」する。
「ああ、これなんですね、これでいいんですね!」と。

 

「今、私は太陽なのだ」
とその親御さんは言いました。

 

「そう思うと、手も口も出さず、ただ見守っていられる」と。

 

 

 

 

 

何かをする。してあげる。与えるのが親の仕事。大人の仕事。
違います。

(とあえて言ってみる)

 

 

親の仕事は、まず「そこにあること」なのです。

 

存在すること。
最高の状態で、存在すること。
太陽のように、さんさんと絶対的な安心感と「愛」でもって、
ただ「そこにいること」。

 

 

Doing(何をするか)の前に、Being(どうあるか)なのです。
(こちらもどうぞ。
https://commu-w.net/2024/11/10/それはつまり
『それはつまり、親の努力じゃなく言葉になはらない意識の方が伝わる、ということじゃなかろうか』)

 

 

 

 

 

場の力、というものの大切さ、凄さを知る。
その空間に溢れる「空氣」。
自分の身体から出て、その空間を形作っている
「何か」についてもっともっと敏感になる。大切にする。

 

 

 

「何かをしなければならない」「役に立たなければならない」
が一番になると、
「それに貢献していない人」「それができていない状態」の評価は
一氣に下がります。

 

けれど、そうでしょうか?

 

 

 

 

昔から日本人は、「場」という感覚を大切にしてきました。
(プレイス、ではない、たくさんの意味のこもった概念であり感覚です)

 

何かが「出来る」という小さな視点のみでなく、

 

 

「場を作れるあり方」
「場を温められるあり方」

 

 

そのものに価値をおき、
大切にしてきた民族ではないでしょうか。
(と、大昔の、祖母の膝の上の「あの感覚」を思い出しています。あれより「無上の愛」の体験を未だ知らない)

 

 

 

日本人は、いつから「場」というものがわからなくなったのだろう?
疎かにするようになったんだろう?
と思います。

 

 

「場の持つ力」を知れ。
自分が自分自身の存在で、あり方で、波長で
「どんな場」を作っているかを、知れ。

 

 

 

「何をしたらいいの?」
「どう言えばいいの?」
「どう言えば伝わるの?」

 

 

 

 

のはるか以前、
コミュニケーションの根っこの根っこの大切な部分です。

 

 

 

オンラインではコミュニケーション力は育たない

 

 

 

コロナ騒動の頃、オンラインで、

インプロ(即興演劇)の初歩のコミュニケーションゲームのワークショップを

やったことがあるのですよね。

 

その際、ウォーミングアップで「参加者全員でリズムを合わせる」
ちょっとした遊びをやったのですが、
これが「全く合わなかった」。
もう、グダグダ。

 

 

で、
ご参加のピアノの先生が、
「チャレンジャーですね!」と。
その時の彼女の少々呆れたような声を今でも覚えているのですが。

 

彼女は、その頃早々にレッスンをオンラインに切り替えており、
音のプロだけに、
「微かな誤差が生じる」というオンラインの特性をちゃんと
把握していたわけなのでした。

 

 

 

 

 

さて、表題の件。

 

語彙力ですとか、意思の疎通ですとかそういう部分ではなく、
コミュ力のもっと土台のところ(土台なだけに大切なところ)
ということです。

 

 

 

「オンラインでは脳が同期しない」
と言ったのは「スマホはどこまで脳を壊すか」の著者、榊浩平氏。

 

「同期」というのは、
「何かを共にするときに、本人たちの脳活動がそろう現象」なんだそうで。

実験の結果、
「オンラインで会話をしている人の脳の状態は、
一人でぼうっとして何も考えていない時と変わらなかった」と。

 

 

 

 

「通信速度の違いによる違和感」
「視線が合わない」

 

ことを榊さんは原因として挙げていますが、
わたしの慣れ親しんだ言葉で言うならつまり、
「息が合う」
という、コミュニケーションにおいて最も大切な現象が

オンラインでは起こらない、ということなのかなと。

 

 

息(呼吸)が合っている、という状態は
コミュニケーションの「土台」(いや、真髄)で、
例えば会話の際には、

 

・リズムの合った相槌
・心地よいうなずき
・視線のやり取りの瞬時のタイミング

 

などからそれを感じ取ることができるわけですが、
それら「非言語コミュニケーション能力」がオンラインでは育たない、と。

 

 

榊さんいはく、
「対面コミュニケーションがほとんどなくなったら、わたしたちの脳は同期しなくなり、
相手の視線や表情から相手の気持ちを推し量ったり、共に共感する機能は失われていきます」

「脳は筋肉と似ており、たくさん使うほど発達します。使わなければ子どもだと育たず、
大人だと機能が衰えます」

 

 

 

 

 

何を言いたいかと言いますと。

 

オンラインの利便性をわたし自身、存分に享受しつつ、
(以前はわざわざ遠方まで出かけていた様々なトレーニングが、
今はオンラインで部屋に居ながらにして参加できるなんて、

なんていいんだろう!《感涙😭》といつも思っています)

 

 

けれど、体感的にずっと思ってはいたのです。
「けれどオンラインでは真のコミュニケーション力は育つことはない」
と。
「どんなにリアルなVRができたとしても、
『その場に行って』体験することに代替できるものでは、絶対に、ない」
と。

 

 

 

 

温度。
空氣の渦。
人の作り出す熱の波。
言葉では言い表すことができない、
けれど「そこ」に満ちている感覚。

人が発する「何か」。

 

畢竟、コミュニケーションを交わす、とは「そこ」なのです。
「そこ」を感じ、キャッチし、
分かち合える「センサー」の質こそが
「コミュニケーション力」の本質であり、「コミュニケーションの質の差」なのだと思います。

 

 

 

 

 

オンライン使います。
動画、毎日見てます。
ゲーム、やります。
(わたし自身の話です)

 

 

なのですが、全ては「バランス」。
オンラインは知識の取得、情報の交換には便利ですが、
それだけでは「身につかないものがある」。

 

 

 

 

生の体験。リアルでのコミュニケーション。
「身体センサー」をちゃんと磨くことができるコミュニケーション体験。

 

 

「コロナ」という歴史的に例を見ない時期を過ごしてしまった
(そして、こどもたちをその渦に巻き込んでしまった)
わたしたちは、今後ますます「意識して」子どもたちに
身体体験を伴った、質の良いコミュニケーションのための場を作る必要がある、
とつくづく感じます。

 

 

(※毎日新聞 2024年12月21日の記事を参考にしています)

 

 

 

※写真は珍しい積雪の桜島です。さっき撮ってきました。

この2日間、雪が結構嬉しかった鹿児島県民は確実にいると思うのでした。

谷川俊太郎さんの訃報を聞いた日に書こうと思い立ったこと

 

 

 

 

朝のリレー 

       谷川俊太郎

 

 

カムチャツカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている

 

ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする

 

この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている

 

ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る

 

眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

 

 

 

*  *  *

 

 

 

今でも、夜明け前に起き出して、
どこか遠くへ移動するとき、
ちょうど空が白んできた頃、つい口ずさんでしまうんですよね。

 

 

「カムチャツカの若者が…」

 

 

この詩の言葉が身体の中に呼び起こす

すがすがしさ、
静かな躍動感、
何かが始まる前のワクワクする感じ、
壮大な感覚

そんなものが、
わたし自身の身体にもしっかりと刻まれてしまったんだなあ、
と。

 

 

この詩に出会ったとき、
もはや「いい大人」だったわたしでさえそんななのだから、

みずみずしい13歳の頃に出会った子たちの身体には、
もっともっと、深く刻まれていたらいいなあ、と思うんですが、
それは「授業をした人」(つまりわたし)
の力量に大きく関わっているんじゃあ??

と思うと、ほんっとに責任を感じる😅
と今更ながらに思うことなのです。

 

 

 

 

 

谷川俊太郎「朝のリレー」。
入学後のとても早い時期(春か、遅くても初夏)の題材として、
載っていたように思います。

「出発」「新しいスタート」を迎えた子どもたちに触れてもらうに、

なんとも相応しい。

 

 

 

 

美しい言葉に触れること。
美しい世界に触れること。
そこと、いつでもすぐにアクセスできる回路をつくること。
そこは、心の故郷であり、
いつでも自分を助け、温め、癒し、鼓舞してくれる、
大きな大きなものの「みなもと」。

 

 

 

 

詩の授業なんてのは、
結局「そういうもの」をたくさん作るために
やるんじゃあないの?

 

 

そこから始まる長い人生、
どんな場面でも、
「帰れる」「繋がれる」心のエネルギー源をたくさん作るために。

 

 

 

 

と今なら思います。
今ならわかります。

 

 

 

 

 

*  *  *

 

 

《追伸》
この「朝のリレー」のドリル(市販の小テスト)を見ていたら、

 

【そうしていわば交替で地球を守る】
ここの意味として正しいものを選べ。(4択)

 

の選択肢の中の三番目の選択肢が
「地球防衛軍に入って防衛に力を尽くす」
という感じの選択肢だったのが、とても(笑えて)気に入ったことを思い出します。

 

『風の時代』本格到来と懐かしいマドモアゼル・愛先生の本の話

 

 

 

 

 

教員時代、マドモアゼル・愛氏の

「自分の素晴らしさに気づいていますか」という本を、
学級通信で紹介したことがあるのだけど、
当時クラスで一番大人びていた部類に入る男子が、
額にかかる前髪をサラリと払いながら
(本当はそんなことはなかったんだろうけれど、なぜかそういうイメージで覚えている)

 

「先生、これはだめだよ〜」

 

と注進してきたことがあった。

 

 

 

何がダメなのか、全くわからなかったのだけれど、
つまり、彼いはく、
「自分たちは年頃なんだから(この絵はいかがなものか)」
と、そういうことだった。
(そういえば、そのプリントを配った時、いつもは騒がしい帰りの会なのに、
妙に静かになった気はしたのだった。男子が)

 

 

小さく縮めて載せていたし、
リアルでもなんでもない絵本風の「挿絵」なので、
全く気に留めていなかったのだけど。
(今になると配慮が足りなかった、ホントに申し訳なかった‼️と思うのだけど)

 

 

 

子どもたちとは、本当に優しくて、
わたしにとっては大きな存在であったな、と思う。

 

思春期特有のセンサーで「大人の都合」や嘘や欺瞞には
敏感に反発しまくってくるのだけど、
こちらの掛け値なし、作為のない頑張りには、
たとえ成果が出なくても、失敗しても優しかった。

 

教職後半になるに従って、この子達に
「伝えないといけないもっと大切なことがある」
という思いが湧き。
(例えば、この本に書いてあるような、生きる上で大切であろうことを)

 

しかしいかんせん。
思いは湧くのだけど「知識」がない。
「技術」がない。
(「自分を大切にしましょう」と口で言ったからといって、
授業になるわけではないし、ましてや子どもが「そうできる」ようになるわけもなく)

 

 

 

そのうち、もう嘘はつけないなあ…
という苦しくなったのも、教員を辞めた理由の一つだったように思う。

 

 

それから数年して、
「出来なかった苦い思い」を「出来る」にするための
格好の知識と技術、概念として、
コーチングに出会ったと思っているのだけど。

 

 

 

さて。
今日の本題は実はそこではなく。
上記のような懐かしい昔を思い出させてくれた
マドモアゼル・愛氏いはく、

 

【20日、5時28分に、冥王星が山羊座から水瓶座に入った】

 

のだそう。
200年続いた「土の時代」から「風の時代」に「本格移行」した。

 

⚫︎土の時代の象徴は「ルールの整備、安定、物質、権威」
⚫︎風の時代の象徴は「自由、知性、情報、横の繋がり」

 

産業革命から今までの約200年間がまさに、
「土の時代」だったんだそう。

 

わたしたちは存分に土台を固め、物質的に発展を極め、
昔からあった既存のルールや権威を基準として、
幸せを追求し、
また享受する時代を過ごした、ということでしょうか。

 

 

 

そして「風の時代」がやってきた。

 

懐かしいマドモアゼル・愛氏の口からその「到来」を告げられ
(たまたま見た動画でですけど)
なんだか感慨深い気持ちになっています。

 

 

今思えば、ですが。
昔、生徒たちに伝えたかったことは、
既存のルールが崩れて、自分の軸がより必要になる
「風の時代」をメインとして生きることになるであろう彼らにとって、
必要なことでもあったんだなと、
そんなことを思ったりもしているところなのです。

 

 

*  *  *

⚫︎縦社会→横社会へ
⚫︎物質を獲得→心の豊かさをより重視
⚫︎型のある人生→自分の意思で選択する人生
⚫︎みんなと一緒→個性を出していく
(「風の時代って何?」こちらのサイトからお借りしました)

https://note.com/satomi_09/n/n641f1e650782

 

*  *  *

 

 

ということで、みなさん。
「風の時代」に突入したそうですよ。

 

それはつまり、親の「努力」じゃなく「言葉になはらない意識」の方が伝わる、ということじゃなかろうか

 

 

 

【努力は実を結ばないのね】というタイトルで、

 

 

「歯を丁寧に仕上げ磨きしてあげていたのに、歯も磨かない男になった。
毎晩読み聞かせをしていたのに、スマホ以外の活字は読まない男になった。
ご飯、ちゃんと手作りしてたのにカップラーメン大好きな男になった。
環境考えて親子でエコ活動してたのに一面ゴミの部屋で暮らす男になった。
…息子に一言。
努力が実らない世界があるということを知った。
教えてくれてありがとう」

 

といった感じの内容の内容の文章を見た時に、
(文章はうろ覚えなので悪しからず)

 

 

それはつまり、
「結局、親の(大人の)『何が』子どもに伝わるか」
ということなのじゃないだろうか、
と想像したのでした。

 

 

ちょうど知人に話したばかりなのだけど、
「人はあなたの言葉の通りになるのではない。あなたの身体の通りになるのだ」
という言葉があって。
(コミュニケーションにおいて、わたしの好きな言葉です。本質をついている)

 

これはつまり、
言葉や、思考でコントロールした行動。
ああしたほうがいい。
こうすべき、と言った言葉や行動ではなく、

 

結局「本音」(無意識)の方が伝わる、
影響を与える、ということなのだけど。

 

 

「ちゃんとしなくちゃ」
「〜すべき」
「正してあげないと」
「しっかりしないと、させないと」
「いいことをさせないと」

 

 

そこには、親自身の
「楽しさ」
「リラックス」
「心から『それしたい!』」
という感覚は
含まれていない。多分。

 

で、子どもには、「そっち」の方が伝わるのだ。

 

 

 

「親も常日頃言っていたし、やっていたし。
『そうした方がいいし、正しい』のはわかっているけれど。
なんだかわからないけれど、
それを考えると、
しようとすると、
固い感じ、重い感じ、嫌な感じを感じる…」

 

 

という、子ども本人にも理解できない「感覚」
になって子どもの中に残る。
それがつまり
「相手はあなたの言葉(思考)のとおりになるのではない。
あなたの身体(無意識)のとおりになるのだ」。

 

ということなのだと思う。

 

 

自分の話になりますが。
子どもの頃から本が好きで、
多い時で年に2〜300冊くらいは読めていたように思う。

 

今も本好きは変わっておらず、
いい癖をつけてもらったなーと。
ここのところは親に感謝しているのだけど、
「本を読め」と言われたことは一度もない。

 

だだ、「家に本があった」。
父が本好きだった。
壁一面をぶち抜いた本棚と、
父の机の上にはガラスの扉のついた「特別本棚」があって、
その中には父のお気に入りの本が並んでいた。

 

 

 

何を言いたいかというと、
読み書きかせでもエコ活動でもなんでも。
「自分も楽しい」
「何より自分が好きで、したい」
「夢中になれる」
のだったら、
より、いいんじゃないだろうか、と思うのだ。

 

 

「頑張る」「しなきゃ、させなきゃ」が醸し出す大人の無理や、
緊張の方が、
結局子どもには伝わってしまうから。
(と書きながら、なんだか切なくなっている。
その気持ちも、よくわかるから。
そして、教員時代を思い出すに、
それで上手く行ったことは一つもないなあとも思うのだ)

 

 

いつも思うのは。

 

「大人が笑って、のびのびと自分の人生を楽しんでいる」
「その姿を、ただ見せる」

 

もっというと、
「家の中がなんか知らん、
そんなHAPPYな大人が出すHAPPYな波長で満ちている」

 

 

子どもの幸せはまずは、それじゃあなかろうか、と思うのだ。

「どういうふうに言ったらいいですか?」とよく聞かれるけれど、それはそもそも「言い方」の問題ではない

 
 
 
子育て番組でやっていたんですけど。
 
 
 
受験期を迎えた子どもが勉強しない。
(自分の思ったようには)
 
で、あれこれ言う。
 
 
 
 
「やってないの」
「なんでやらないの」
「何時からやるの」
「こんな問題もできないの」
「なんでできないの」
「そんな高校いくの?」
「そんな仕事、うまくいくかわからないじゃない」
 
 
 
 
 
 
子どもはどんどん離れていく。
「うざったい」という反応を示す。
何も喋らなくなる。
どんどんコミュニケーションが取れなくなる。
 
 
 
 
 
 
で、上の質問になる。
「子どもになんと言ったらいいでしょう」
「何か、いい言い方はないでしょうか」
と。
 
 
 
 
 
 
で、わたしはこの「言い方は…」という「言い方」に、
すっきりしないものを感じるわけです。
(こういう質問、よく聞くのですよね。
親と子の関係だけじゃなく、いろんな関係性において)
 
 
 
なんと言ったらいいか?
その答えは一つしかない。決まっている。
 
 
 
 
 
 
 
「これまでうるさく言ってごめん。もうあれこれ言わないから。
自分の考えで自由にやって。お母さん(お父さん)見てるから」
 
 
 
 
 
 
 
そう言えばいいのだ。
子どもが真に望んでいる言葉はこれのみであり、
親のこのスタンスなのだ。
 
(プラス「悩んだ時はいつでも力になるからね。
いつでも聞くから、話したくなったら話してね」くらい付け加えておけばいい)
 
 
 
 
 
 
 
けれど、そうはならない。
そういう言葉ではない何かが欲しいのだ。
「何かいい言い方」イコール
 
 
 
 
 
「波風立てず、子どもに嫌われず、
なおかつ『子どもが自分の言うことを聞くような』言い方はないですか?」
 
 
 
 
 
ということなのだ。
相手をコントロールしたい。
 
 
 
 
 
 
で、声を大にして言いたい。
「そんなもの、あるわけない」と。
 
 
 
 
 
 
 
子どもが自分の巣立ちに向かって、自らの羽を研ぎ出す時。
それは、親自身も全身全霊で、
自分自身を見返す時なのだと思う。
 
 
 
 
 
子どもが、
「生きるってどう言うこと?」
「自分はこれからどう生きていくの?」
「自分とは何者?」「自分にとっての幸せとは?」
という一生の命題に真剣に向き合うとき。
 
 
 
 
 
それは、親自身も、
「一人の人間として、これまでどうやって生きてきたか」
「一人の人間として、これからどう生きようとしているか」
を問われているのだと思う。
 
 
 
 
 
 
「普通はこうでしょう」
「これまでこうやってきたから」
「自分はこれでうまくいったから」
「みんながこうやっているから」
「幸せとはこう言うものだから」
 
 
 
 
 
 
 
そんな使い古された(そして楽な、使い勝手のいい)
言葉と感覚ではなく、
親自身が、自分自身の「生き様」から滲み出、醸し出された
真の言葉で語れるか?を、
子どもから問われ、見られている時なのだ、と思う。
 
 
 
 
(ちなみに、この時に、これらをおろそかに扱うと、
いづれ何らかの「人生の節目」で倍返しみたくなって
返ってくることになるので注意。
例えば結婚式のときとか…
まあ、準備の過程でいろんなことになる親子を見たもんです)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さて。
子どもは、先に生まれたものを助けるために生まれてくるのだ、
と何かの本で読んだことがある。
 
 
 
これまで、いろんな親と子を見てきて、
話を聞いてきて。そうだなあ、と思う。
 
 
 
 
 
例えば子どもの反抗や、不登校や。
それらを通して自分を見直さざるを得なくなり、
結果、生き方が変わった親御さんとたくさん出会った。
 
 
 
みな、何か「とらわれていたもの」から解放され、
「自分軸」を生き始めていたように思う。
それはもう、見事に。
自分を生き始めていたように思う。
その姿、輝いているのですよね。
 
 
 
 
 
 
 
子どもってすごいのだ。
 
 
彼らはある時期、
自分でもどうしようもない破裂音を身のうちに抱える。
身体の中でそれはベキベキと音を立て。
それは彼らの「魂の叫び」なのだけど。
 
 
 
ともすれば自身をも破壊しかねないそのエネルギーのもの凄さは、
親をも「檻」から引っ張り出すに十分なのだ。
 
 
 
 
 
 
彼らは、自分だけでなく、
 
「もっと自由な世界へ。
存分に自分を生きることの喜び」
 
の世界へ、親をも連れてゆこうとしているのだ。
 
 
 
 
 
 
 
願わくば、全ての子どもの「その企て」が、
潰されることなく成功しますように。
と切に願う。
 
 
 
 
(写真は鹿児島市の「石橋公園」。
本文とあまり関係ないんですけど。
30年前までは現役で人と車を(2車線で!)渡していたすごい橋だったのです)
 
 

夏休みが始まったので、世のすべてのお父さんお母さん じいちゃんばあちゃん先生方にエールを送っておく

 
 
 
(写真はやっと撮れた蜻蛉。3回飛んで行かれて、4回目のトライ。
羽根が綺麗ですよね)
 
 
 
 
 
ついさっき、
隣のテーブルにブルーシートやら何か、
工作の道具やらを山ほど持った
女性たちの一団がやって来。
 
 
 
 
あ〜、子ども達のために何か準備をしているお母さんたちだな、と思い
 
 
「席、変わりましょうか」
 
 
と言ってみたところなんですが。
(わたしのテーブルの方が広かった)
 
 
 
 
 
 
 
数日前、正午。
朝顔の鉢と一緒に歩道橋の上を
たくさんの小学生が歩いているのを見て、
 
 
 
「ああ、始まったなあ〜夏休み」
と。
 
 
 
この数日、
いろんなお父さん、お母さん、先生方…の話を聞くにつけ、
 
 
 
 
「世のお父さん、お母さんって、こんなに考えて、頑張ってくれているのか(くれていたのか!)」
 
 
 
と、
なんだかもう感動することしきりなのです。
 
 
 
 
 
生活のリズム。
体験。
どんなふうに作っていこう、どんなふうにデザインしよう…。
(確かに。放っておくと、恐ろしいほど「安きに」流れてしまう、それも子ども)
 
 
 
 
 
 
 
どんなふうに子どもたちと過ごそう、
楽しませてあげよう、一緒に楽しもう、と。
 
 
そんなお父さんお母さんの
夏の「戦略」「プラン」「計画話」「企み」を聞くにつけ、
 
 
 
「すごい…」
 
 
 
と思うのです。
(何か、すごく特別なことをする、とそういう話ではないのですよ、念のため)
 
 
 
そこに感じるのは、やっぱり大きくいうと「切なる願い」でしょうか。
 
 
 
 
 
 
子どもにとっても40日というのは、それはすごい時間です。
 
 
 
 
 
 
中学生でさえ、40日経って会う子どもたちは、
明らかに「大きく」なっていた。
 
どこが、というのではない。
何が、というのでもない。
けれど、明らかに表情が変わり
(いろんな方向、いろんな意味で(笑))
 
 
 
 
そうですね。
細胞に満ちている「もの」の質が、一学期までとは違っている。
 
 
 
 
 
40日間という時間がどんな時間であったか、
それが、その子どもの表情や視線、雰囲気の向こうに透けて見えるような。
 
 
 
 
 
 
 
 
子どもにとって、黄金の時間。
それが夏休み。
 
 
 
 
 
 
自分の子どものころを思い出すに、
暮らしが順調であった時も、そうでなかった時も、全てをひっくるめて、
 
親が「その時の精一杯」で共に過ごしてくれた
夏のいろいろな時間を懐かしく感謝すると共に、
 
 
 
 
「ああ、世のお父さん、お母さん、お疲れ様…頑張って!」
(だれんごとやってください!)
※鹿児島弁です。「疲れないように」
 
 
 
 
 
 
と思う、今日、7月24日なのです。
 
 
 
 
 
 
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