丁寧に、真剣に、大人と同じく尊重し、本質を、平易にー子どもへの言葉

 

 

 

 

コタロウくんの質問

「食虫植物は筋肉もないのにどうやって素早く動くの?」

(わたし「そりゃそうだ。君すごいね」)

 

 

 

  *    *    *

 

 

「食虫植物いうてもウツボカズラみたいにただ待っとるのもあるんや。

コタロウくんがいうとるのはハエトリソウやね。

 

 

 

 

 

 

コタロウくん見たことある?

あ〜、テレビで見たんやね。

 

 

 

ハエトリそうの葉には、3つの針がついとるんや。

その針に、一度触れただけでは葉はとじないんや。

2度触れたときに閉じるんや。

 

 

 

 

 

 

一度触れたときに、ある物質…まあ名前難しいからこんなん覚えんでもいい。

「ある物質」としとくけど、

それが発生するんや。

そして。2度触れたときに2度分発生する。

 

 

 

その物質がある分量を超えると、

そこに電気みたいなものが発生するんや。

そして葉がぱたっと閉じるんや。

 

 

 

(中略)

 

 

 

コタロウくん、植物育てたことある?

肥料がいるの、知っとる?

 

 

 

肥料には三大肥料いうのがあって

「窒素・リン酸・カリウム」…せっかくやから今日これ覚えよか。

「ちっそ・りんさん・かりうむ」

はい、ゆってみて。

 

 

 

その、ちっそが大事なんやけど、

ハエトリそうのところにはなかったんや。

 

 

 

だから、

こういう方法を編み出して、ちっそを取り入れようとしたんや。

(わたし「へえ〜!!!」)

 

 

 

 

 

 

『人と違う』ことをすることで、

生き抜いてきたんやね」

 

 *

 

 *

 

 *

 

というやりとりを車の中で聞きながら来たんですが、

聞いた時は大感動だったんですが、

全然再現できない。

(ほとんど忘れている…)

 

 

けど。

 

 

「ちっそ」

も言えない子どもの(何度やっても「ちっと」になる?)

 

 

 

「へえ…」

「へえ〜!」

 

 

 

という声は、

未知の世界にガツンと触れた喜びが満ち満ちていました。

 

 

 

 

この、ハエトリそうの先生の熱意。

よかったです♪

 

子ども相手でも、全く揺るがない「研究者魂」と言いますか、

細かい差異をおろそかにしない説明ぶりで、

 

でも、平易。

 

 

 

この子の感動は、

案外そんなところからも生まれているのでは、と思ったり。

 

 

 

 

 

 

 

昨日も移動中、聞いていたんですが、

ここの先生方(夏休み子ども科学電話相談です^^)

の共通点は「受け入れ力」のすごさ。

 

子どもなので、話がどんでもない方向に行くこと多々あり、

でも

 

 

 

「へえ〜、そうなんだ」

「なるほど〜」

「○○くんはそうなんだねえ」

 

 

 

と必ずいったん「受け取って」から、静かに本筋へと戻して行く。

 

 

 

大人のコミュニケーションはかくあれかし

(お釈迦様の掌状態)

 

とも思う。

 

 

 

 

 

大人が無意識に持つ「問い」は子どもに受け継がれ子供の人生を左右する

 

 

 

 

 

 

仕事がAIに奪われる?これからの時代、子どもに何を学ばせたらいい?」

という趣旨の番組で、プログラミングの教室に通う子ども達の様子が出ていました。

 

 

 

プログラミングがなんたるか?私自身、よくわかっていないんですが(笑)

子ども達のやることを見ていて、

 

 

 

 

「ある目的を達成するために

 

●どう思考を組み立てるか

●そこに至るどんな工夫をするか

 

それを、自分であれこれ考え、

推測し、想像し、材料を変え、手を替え品を替え、

 

 

「トライ&エラー&トライ&エラー&トライ&…」

 

 

を繰り返し、

そして最後に形にする(達成する)」

 

 

 

というプロセスを、一つのルールにのっとって、

体験しているんだな、と思いました。

 

 

 

 

実際、教室の先生は、

 

「これで、プログラマーになってください、なんて全く思っていない。

これで何を成し遂げていくかは個々の子どもの人生。

これは、自分の興味のあることを深めるための手段です」

 

と。

 

 

 

 

けれど、それを習わせている親に関しては、

 

「来年から必修に入ってくるので、やっておいた方が授業に入りやすい」

「急に授業が始まって、ついていけないとかわいそうだから」

 

という理由の人たちがピックアップされていて、

ああ、やっぱりみなさん心配なのね、

 

 

と思ったのですが。

 

 

 

 

 

 

 

さて、番組最後、

 

「AI時代を生きる子どもたちに必要な力は?」

の問いに対して、に「専門家」が答える。

 

 

「AI時代を生きる子どもたちに必要な力は『問いを持つ力』だ」

 

 

「AIはデータを学習するときに、

なぜこれを学習しないといけないの?とは問わない。

AIは鵜呑みにするが、人間は問いを持つ。

そこが大きな違いだ。 

 

 

『何のために生きるのか?』

『この仕事はそもそも何のためにあるのか?』

 

 

一つ一つのことに、

目的と意思を持っていることがこれからの人材には必要なのだ。

 

 

 

そのためには何より、

まず、親である自分自身が、問いと目的意識を持つことを始めること。

 

『自分自身は何を大切にして生きていくのか?』

 

それが、一番初めにやらなくちゃいけないこと」

 

 

 

 

 

 

心の中にその人が持つ「問い」はその人の人生そのものです。

 

 

なぜなら、

人は、日々自分自身に投げかける「問い」の方向を見ることになるから。

 

 

問いの方向性が人生の方向性を決め、

問いの質が人生の質を決める。

 

 

そして、親が無意識に自分に、人生に対して持つ「問い」は

子どもに受け継がれ、子どもの人生を左右します。

 

 

 

 

 

 

 

「テクノロジーが進化して世の中が激変する世界」

と番組内の専門家さんが言っていました。

本当にその通りです。

 

 

 

過去数十年やってきた方法が。

 

みんながそうだから、

ずっとそうだったから正しいと思ってきた方法が、ゴールが。

揺らぎ、動き、どんどん覆り始めている今。

 

皆が、自分自身の

(いえ、私たち日本人にとっては本来の、かもしれませんが)

「軸」を持たなければ。

羅針盤を持たなければ。

 

 

どこに向かって進みましょう。生きていきましょう。

子どもに「何を幸せ」と伝えましょうか???

 

 

 

 

 

それにはまず何より、親自身が。

大人自身が人生の軸をはっきりさせることが必要。

 

そのために、私たちは日々、

自分自身に問いかけ続けなければならないのです。

自分の本質を知るために。

 

 

 

 

自分にとっての「真・善・美」は何か?

 

自分にとって、最も美しく、善く、価値ある方法で、

世界と繋がる方法は何か?と、

問いかけ続けなければならないのです。

 

 

 

 

 

「きっとこれが真っ当なのだろう〜不登校の子どもたちのこと」

 

 

 

 

 

昨日、浮世絵を作る小6のことを
やっていました。

 

 

木版で、自分でガリガリと彫って、刷る。

繊細で細やか。北斎の富嶽三十六景などを
それは素晴らしく個性を入れて表現。

 

 

(これは本家)

 

 

 

小1から不登校。
学校で、皆と同じことを同じにする、ということと
「〜しなさい」
と命令されることに

 

 

 

「モヤモヤが大きくなって…」

 

 

 

 

と言っていた。

 

 

「北斎に魅了されて…」
と語るその口調は、静かで。

 

 

 

ああ、
この敏感すぎるアンテナ。
人の何倍も、世界に溢れる
音、色、場に満ちる感情…

細やかに捉えてしまう、
彼のアンテナには、

 

 

従来の学校という場の
粗い波長は耐えられなかったんだろうな、

 

 

 

と、つくづく思いました。
(今の学校の授業の方式はじめとした構造は、
明治初期に「富国強兵」
のために作られたもので、
基本そこから変わっていないので)

 

 

 

 

自分のことですが、
教員をやめる最後の半年くらい。

建物が四角い巨大なコンクリートなこと。
それから、
50分、10分とチャイムでぶつ切りに刻まれつづける
時間の過ぎかたが
もう、たまらなかったのを、
思い出し。

 

 

 

 

 

彼は今、
東大かどこかの

「異能者プロジェクト」
(だったか?天才的な子どもの自由な才能、個性を
伸ばすプロジェクト)

のメンバーにも選ばれている。

 

 

 

にも関わらず、
お母さんが

 

「この子を殺して
自分も死のうと思ったことがありました」

 

とおっしやったのにも驚いた!

 

 

 

 

人と同じであること。
「ちゃんと」
「人並みに」
出来ること、

 

に、
どれだけ世の親たちが、
脅迫観念を抱いているか、もわかり。

 

 

 

 

これから、
こんな子どもはますます増えてくる。
いや、
今この瞬間も、
たくさんの彼のような子が、

 

親と、
親の向こうにある

「世の中」

との軋轢の中で、
苦労している。

 

 

 

 

 

こういう子は、
親にとっても、
たくさんの「ギフト」を持って生まれてきているんだろうな、と思う。

 

そして、
これから、こういう子たちが未来を作っていく。

 

 

 

 

 

子どもの人生の充実を願うならまずはあなたが自分自身の人生を生きることである

 

 

 

 

 

心地よいシンクロが起るとエネルギーが高まります。

 

先日、

セパトレーニングインストラクターの坂之上綾乃さんのミニトレーニングに行ったのです。

その内容が、来月の講演会で私が考えていた内容と

その本質が全く同じだったのがとても嬉しくて。

「それでいいんだよ」「それが求められているんだよ」と

がんがんと後押しをされている氣分になります。

 

その、来月の講演会のタイトルが上の表題なんですが。

 

 

 

セパトレーニングとは何か?

知りたい方はググっていただくとして、

「ほめ日記」といえば、ご存知の方も多いんじゃないでしょうか。

参加の方々が自分の身体を感じ、声をかけ

そして自分自身の行動や感情にていねいに声をかけ

「ほめる」ことを通してぱああ…っ、と花開いていく様子はよいものでした。

セミナー後、待っていたお子さんを抱き上げる頬も

ばら色で。

 

自分の中が満たされた分

周りへもその満たされたエネルギーがはじめて溢れていくのですよね。

 

もちろん、わたしも存分に自分を感じることができました。

(だいぶ心に花が咲いたかな?)

 

 

 

 

 

この日、

もう一つ、わたしにとってびっくりする「シンクロ」がありました。

それは、セッションを受けてくださり、セミナーにもよく来てくださっていた方と

10年ぶりにお目にかかったこと。

カウンセラーとなられ、お仕事をなさっていました。

 

 

 

これも十分うれしかったんですが

わたしにとって驚きのシンクロ、はこの次です。

「お元気でした⁉」と大騒ぎの挨拶を交わし、

次の瞬間、

ふっと頭の中に一つの質問が沸き起こり

「この人に聞け」と声が。

           (↑喩えです)

 

10年ぶりだったにもかかわらず、そしてとても短い時間であったにもかかわらず

別室へどどど・・・とひきずり込み、聞いてみました。

 

 

詳細もろもろは省きますが

こう。

「子どもが迷いつつ人生を探求しているときに、大人がどうあればいいかを

○○さんの体験から、一言でアドバイスするとしたらなんとおしゃってくださいます?」

 

 

即答でした。

答えが返ってくるのに、1秒もかからなかった。

いえ、わたしの語尾にかぶってましたね(笑)。

 

 

 

 

 

「自分を生きることです」

 

 

 

 

 

もうね。

うれしいやらうれしいやら。

(2回繰り返したいくらい)

 

会わない間、この方が重ねてこられた時間と、

その時間をとおして発見し、手になさったたくさんのもの。

ご自身とご家族の確かな幸せを、

その力強い声と、強い視線と立ち姿からしっかと感じた氣がしました。

 

 

 

そして

わたしは、さらに「それでいい」のお墨付きを天から

いただいたわけでした。

 

 

 

というわけで

今、私の中で(今、といいますか、ずっと、ですけれど)

最高に旬の「自分の人生を生きる」。

(自分のプレゼンスがすべての出発点。あなたは自分を知っているか?)

 

 

 

 

 

をテーマに

来月は存分に吠えたいと思います。

もちろん、これからも、ずっと。

 

 

 

 

「春は親も旅立つ」

 
 
 
姪っ子が
もうすぐ宮城へと旅立つと聞き、プレゼントを買いにやってきました。
 
6年間務めた仕事を辞めて、世界一周だなんだと自由に飛び回っていましたが
その間にしっかりといろんな人とつながり
自分の次に進むべき道をさっさと決めてしまいました。
(何でもボランティアの団体に勤めることにしたとのこと)
 
 
image

 

 

さて

その宮城なんですが、母親(わたしの姉)と二人で

車で乗りこむとのことで、ちょっとびっくりしています。

(念のため、ここは鹿児島)

 

「交代で運転しながら行くよ~。初日は岡山、二日目は長野泊り。三日目宮城だよ~」

(by 姉)

…なんだか、ちょっと楽しそう。

 

 

 

何でも、姪っ子が車を持って行きたい、とのことで

二人で運転しながら行くことになったのだそう。

 

遠くまでまあ大変~、

と、ちら、と思いましたが、でも思えば姪は高校から寮生活。

もしかして、久しぶりに「親子水入らず」の時間、

お母さん独り占めの時間になるのかな~、と思ったり。

 

いや

それよりなによりきっと、姉にとって久しぶりに娘とゆっくり過ごす

大切な旅、忘れられない旅になるに違いない。

(なので、実はちょっとついて行きたかったんですが遠慮することにしました)

 

 

 

 

 

春3月。

周りではさまざまな「旅立ち」の姿があふれています。

 

知人のお子さん。

東京の大学に進学が決まりました。

ここに至るまでのあれこれを聞かせてもらっていたので

わたしも勝手に感無量。

来週の出発に向けて、荷造り中です!と忙しそうな言葉が返ってきました。

いや~もう、ほんとうによかった。

 

 

 

 

 

「模試C判定で、絶対無理だと私立の入学金を抱いてたのに…息子、合格しました!」

とのメールは、古くからの友人。

 

 

「今回はわたしの完敗…。」

と彼女はいいました。

 

「淡々と努力し、

周りのみんなには『俺は第一志望に行く!』と余裕でいいまくり

発表の日はワタシに『12時30分まで寝とけ』(私立入金期限)と言い放ち…。

1ミリも落ちるなんて言葉にせず。

 

コミットメントすることで

どれだけ自分と向き合ったことだろうか」

 

 

メールにあったそれらの言葉からは

息子さんへの一言では言えないたくさんの思いが、ただただ伝わってきました。

 

 

 

 

 

春。

たくさんの若者たちが、次のステージへと旅立っていきます。

そして、親の心も旅立つ。

 

 

共に歩み、

自分の身体の半分のように

愛し、慈しんできたものたちが

自分の力で人生を決め、自分の力で風を切って歩みだす。

どんなに思い、どんなに手を貸しても、

変わってやることはできない子どもたちの必死の「羽ばたきへの準備」。

その場面に直面する親もまた、

否応なしに次の段階に上がらざるを得ません。

 

 

 

子どもたちと一緒に

親も次のステージへと旅立つんだなあ、と。

 

不安

心配

願い

価値観のぶつかり合い…

 

姉、そして、たくさんの「親」たちの声を聞き、思いを聞き、そう思います。

表現しきれないほどの嬉しさと、

感動と

一抹の寂しさと

そんなものが全部ごちゃまぜになった、春

子どもたちは光の中に飛び出していく。

 

 

 

なので…

世界中のお父さん、お母さんに心から言いたいのです。

お子さんの旅立ち、心より、おめでとうございます。

 

そして

あなたの旅立ち、おめでとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

若者には本物を与えよ~ぶっ放す「Thunderbolt fantasy 東離儉遊紀」

 

 

 

以前

運動会で歌う、いわゆる「運動会の歌」を

格調高い「大人な」歌詞から「お子様チック」な歌詞に改悪され

大いに怒った子ども時代の話を書いたことがありますが。

(「あはれことのは」)

 

 

「Thunderbolt fantasy~東離儉遊紀」

という人形劇があります。

今年の夏に放送され、つい先日最終回を迎えました。

 

 

 

 

 

おおかたの日本人の「人形劇」というもののイメージを

はるかに超えているであろうこの人形劇。

 

17世紀発祥、台湾の伝統芸能である人形劇「布袋劇(プータイシー)」と

日本のアニメ制作会社とのコラボ作品です。

 

 

 

 

日本にも、人形を使った芸能といえば世界に冠たる「文楽」があります。

文楽は昔のままの形を踏襲することで

洗練された芸術の域にまで高まっていますが、

誰でも広く見るものであるか、と言われると、

大変残念ながらそうではない。

 

 

 

 

 

一方

台湾の「布袋劇」はなんといいますか…

「すごい方向」に進化発展しているのですね(笑)。

 

多くの国民が見る「一大娯楽産業」となっている。

人形とは思えない動き。特殊効果のバンバン入った画面。

まあ、見てみてください。

(下にリンクあり)

 

日本が世界に誇るアニメ文化と台湾の伝統文化との融合。

こんなの見たことない…の一言でした。

 

 

 

 

 

で、

面白いのはこの人形劇、結構セリフが「難しい」。

(その分聞きごたえ、噛みごたえのあるものになっているんですが)

 

「武侠ファンタジー」という世界観なので、

わかりやすくいうと「冒険時代活劇ファンタジー」といったところ。

 

四字熟語に固有名詞…

頻発する漢語の波。古い言い回しの言葉も妥協なく

しっかりとちりばめ。

元国語教員のわたしですら、

 

 

 

「漢字が浮かばない…」

「それどういう意味?どういう漢字?」

(後で辞書を引く)

 

 

 

といったことが二三回。

 

 

(これ、調べようとみんな結構勉強するんじゃないのかな、と思ったり)

 

これらに、一切注釈も説明も字幕も加えることなく、

ガンガンとテンポよくダイナミックに物語が進んでいくのが小気味よい。

 

ナレーションは七五調の美しいリズムで講談っぽいのが懐かしく。

(最近こういう文調が聞ける日本のドラマはみませんね)

 

 

 

しかも!

布袋劇の伝統として、途中で必ず

 

「漢詩」

 

が登場!

主要人物の一番の見せ場に、

そのキャラの特性を表現した漢詩(念白というらしい)

が台湾語によって朗々と朗読されるのです。(すごい…)

 

 

もちろん画面には書き下し文も日本語訳も出やしません。

墨痕淋漓たる原文のみ。

いや~、潔い。実に潔い。

 

 

 

 

タイトルでわかる通り、

人名そのほか多くの固有名詞に

台湾そのままにしっかりと「旧字体」が使われているのもポイント。

 

旧字体はいいですよね。

その漢字の成り立ち、そしてその漢字が本来持つ「エネルギー」(形霊)そのものが、

ちゃんとこもっている。

だから、体感的にとにかく「カッコいい」。

 

 

 

 

 

何を言いたいのかといいますと、

 

 

「手を抜いていないなあ」

 

 

ということ。

安易な「わかりやすさ」を目指していないのです。

 

それよりも、制作者が目指しているのは、

「本物」を届けること。

 

台湾のこの布袋劇という文化の「すごさ」を

あますところなく日本人に届けたい、

面白いものを作りたい、

双方の持てる最高の技をぶつけ合い、

吸収しあい、触発しあい

…最高のものを作りたい!

 

という日本、台湾双方の作り手の「気迫」が余すところなく感じられるのです。

 

 

 

 

 

 

初めにもどるのですが、

 

 

「難しいだろう」

「わからないだろう」

 

 

という大人(発信者)の勝手なフィルターは余計です。

 

 

 

子どもだから、若年だからと、

送り手の安易なフィルターを通し、

濃厚かつ成熟したワインに水を入れて、

人工甘味料まで入れて薄めたようなものはいらない。

 

 

それらは受け手の成長を阻害します。ほんとうに「余計なお世話」なのです。

しかも、それら「余計なお世話」は全体として日本人の能力を下げます。

 

 

 

 

かつて私たち日本人は、

5~6歳から論語を普通に素読する国柄でした。

 

意味など分からなくてもいいのです。

その美しく律動する言葉の波長に触れ、

考えるより先にその波が細胞の奥深くにまで染み込む…。

 

 

そうやって身体に染み込んだリズムは、

やがて人生を通して折に触れ、その人を助け

道を開く「生きた感動」となります。

 

 

 

 

「本物の波動」をどん、とその身を受ける衝撃の価値、

ということでしょうか。

 

シュタイナー教育において、ドイツでで必ず取り入れられるのが

10歳でドイツ民族の始まりにかかわる古典叙事詩を朗読することである

ということもしかり。

 

 

 

柔らかい口当たりの良いものばかり噛んでいると、

咀嚼する力自体が衰えます。

子どもにこそ、若者にこそ「噛みごたえ」のあるものを!

大人の本気を!

なのです。

 

 

 

 

 

 

続編制作の決まったらしい「Thunderbolt fantasy 東離儉遊紀」

今期よりもっともっとさらに「ぶっ放して」行ってくれることを期待しています。

 

 

 

 

「それをすると自分で決めたのではない。体に埋め込まれているのだ」

みなさま。

新年あけましておめでとうございます。

新しい年をどのようにお迎えでしょうか。

こちら鹿児島は

暖かい陽気の中、おだやかにはじまった新年でした。

みなさまの今年1年のご多幸を祈りつつ

今年も、どうぞよろしくお願いいたします。

さて

年始は何とも珍しいことに、同窓会2連続でした。

それぞれ、昔勤めていた中学校のものです。

西と北、懐かしい土地に出かけて行きました。

2日間で

話ができなかった生徒さんも含めて

(もう生徒ではないんですが。みな立派な大人で)

100名を超える人たちに会ったのですが

なんというか…いっぺんにものすごくたくさんの「人生」に出会ってしまった感じです。

仕事という側面一つとってみても

もう、それはそれはたくさんの「職業」の話が目の前に繰り広げられるわけで

一人一人、話を聞いているだけでも面白くって面白くってしかたがない。

完全に時間が足りない。

そんな中で感じるのは

一言でいうと

やっぱりみんな「変わっていない」ということです。

「けっこう頑固だったもんね」

「そこ、譲れないところだったよね」

「そういうの、本当に好きだったよね(授業中もこっそりやってたもんね)」

「ここぞってとこではこだわりがあったよね」

などなど

それぞれのそんなところが

みんなしっかりと、残っている。

今、何をしている…という彼ら、彼女らの話からは

「職業」や「家庭」の話を通して

まったく変わらないその本質がビシビシと伝わってくる。

もう、嬉しくなるくらいに。

中には思う道とは今現在、違う選択をしている、という子もいるわけですが

それでも

一人ひとり、その変わらない「本質」を

仕事やプライベート…ひっくるめて「人生の質」を自分らしく磨き、高めることに

ちゃんと使っている、そういう気がしました。

それがあるゆえに

生きることにこだわり、つまづき、悩む、という部分も含めて。

「人は、そうでしか生きられないんだな~」

とやけにすっきりと、晴れ晴れと

あらためてそう思いました。

彼らは自分で人生を選択している、と思っているかもしれませんが。

そして、職業や、住む場所や、結婚や…という、そういった面では

確かに自分で選び、決めているわけですが。

でも

人はもっと深い、奥のところで

体に組み込まれた「何か」に従って生きているのだと。

そんな気がしました。

ほおっておいても。

たとえ何度うちくだかれることがあっても。

夜が明け、また日が昇れば、自分の中に自然と湧き上がってくる

あるもの(ある状態)への渇望。

自分の中に途絶えることのないひとつの旋律。

人は、それに従って生きている。

そうするように、人はできている。

仕事が何であるとか、そういうことに関係なく

もっと深く、細胞の奥深くに埋め込まれたものにしたがって。

さまざまに悩めることあるらしく

目の前で語る一人の子を見ながら思ったのでした。

…はやいとこ認めてしまえばいいのに。

だいたい君、中学ん時からそうなんだから。

ほおっておいてもそうやってしまうのだから。

今さら変わらないのだから。

いえ、変えてはいけないのだから。

それこそが「君」なのだから。

「それ、強みだよね」

そう一言告げると

「いえいえ、でも…」

と即否定され、寂しいことしきり。

こういう場面に遭遇すると

「ああ、やっぱり中学の時、そういう授業をやっておけばよかったな」

と思います。

教科の知識と同じくらいに

いえ、それより多分もっと大切なこと。

周囲と、そして何より自分自身と「良好なコミュニケーション」を結ぶすべを、

その視点をもっと与えることはできなかったものかと。

生きる上での何よりの力となるものなのに。

一人の教員の力など、小さな力でしょうが…

でも、やらないよりはずっとよいと思うのです。

教員をやめて4年目に、コーチングというものに出会いました。

そのとき、体の中にあふれた、ある思いがあります。

「学校にいたときに

自分の力不足、知識不足からできなかったことを

これを使ってやるのだ。

あのときやれなかったこと、伝えられなかったことの続きをやるんだ」

生徒たちが大きくなって、社会に出てくる。

そのときに、またこれを持って出会いなおせばいい。

大人になった彼らにまた授業をすればいいんだ。

と、そう思ったのでした。

そしてそれは確かに実現しています。

彼らが大人になった年齢の若者たちと日々ふれあい、

あの時伝えたかったことを伝えている今があるのですが。

正月。

十数年ぶりの100名との再会の時を経て

今、かつての生徒さんたちとの新しいつながり」が静かに広がりはじめています。

この仕事を初めて11年目にはいる今年。

もしかしたら、今年は本当に

リアルに彼らに「授業」をすることになるのかな?

と、ふとそんなことを思った一月八日の午後でした。

何だか

タイトルからずれてしまいましたが。

「親になってゆく」

 

冬に、ブログをご覧下さったみなさまからも
多くの祝福をいただきました我が弟の婚礼。
その弟に赤ちゃんが生まれ、先日、お祝いの席に行ってきました。

ベビーベッドに眠る全長49センチの物体。
おなかを上下させながらの寝姿もうるわしく。
あ~、やっぱり赤ちゃんはほんとうに健やかな腹式呼吸だな、と
そんなことを見てしまいます。
これでわたしを「おばちゃん」と呼ぶ人が6人になりました。
それにしても…

目の前の赤ん坊を見るにつけ、不思議な気持ちになるのは
弟が赤ん坊を抱いているというその事実。
ほんの少し前、ベッドにこうやって、小さな手をバンザイさせてくーくーと寝ていたのは
あんただったはずなのに、と
年の離れた弟の誕生の場面を思い出していたのでした。

「俺もまだ、二回くらいしか会ってないんだ~♪」
と、目じりを下げながら
まるで壊れ物でも抱くかのように
不器用に、赤ちゃんを掴んで抱える弟のその手つきを見ながら
…漬物石じゃないんだからさ、と心の中で突っ込みをいれてみます。

それにしても。
赤ちゃんとは、ほんとうに無垢なものですね。
その反応の良い体。
生きるためのシンプルな(動物としての?)ものの他は
まだ、何もよけいなプログラミングがされていない。
この感じを何と表現したらいいのでしょう。
無垢、純、素…言葉が出ません。
やっぱりしっくりくるのは、天使?

こわごわと赤ちゃんを腕に乗せる弟の姿を見ながら
「人は親になってゆく」のだな、としみじみと思いました。
まだ、弟は「親」ではない。
(生物学的には親ですが)
この、出会ったばかりの2個の生命体が
これからお互い響きあい、切磋琢磨しあい
そして弟は「親」になってゆく。

この二人の姿を見て
そして思いました。

「世の中のお父さん、お母さん・・・無理するな。自分を責めるな」

と。

未知の世界との初めての「出会い」を前に
おずおずと、その輝く命と魂の圧倒的な存在に手を伸ばす弟の姿。
そこにあるのは
かすかな怖れ。
そしてそれをはるかに凌駕する喜び。
この喜びの奔流に導かれ、弟は今、親としての「新しい旅」の一歩を踏み出そうとしています。
それは、本当に大きな旅だと思うのです。
この世で最も大きなプロジェクトへの出帆、ということもできるでしょう。
地図も何もない。

世のお父さん、お母さんたちは
その旅を日々、歩いている、ということだけでもすごい気がしたのでした。
うまくいかないこともたまにはあるでしょう。
でも
どうか自分を責めないで。
だって、はじめてなんだから。
歩いて初めてわかるのだから。
完璧な「親」なんていない。
小さな小さな一日一日を経て、人は自分らしく親に「なってゆく」しかないのだから。

仕事の場で出会う
そしてまた、身近にいる幾人かのお母さんがたを思い出しながら
そう、あらためて伝えたい気分になったのでした。

そして
もうひとつ。
願わくば、こどもに「美しいもの」を体験させてあげてください。
見せてあげてください、と。
禁止の「枠」を伝えるよりも。

禁止の「枠」を子どもに伝えれば伝えるほど、子どもの体は委縮します。固まります。
赤ちゃんのような、この、自由な体ではなくなります。
イコール、心も委縮します。

それよりも「どのようなものがよりよく、美しいのか」を。
行くべき方向、望ましい方向を見せるだけでいいのです。
世の中に美しいものは溢れています。
美しい景色、音楽、絵、言葉、そして、礼儀、作法。
さらに、美しく生きた人々のお話。
魂を震わせる感動があふれています。
それを、親と一緒に味わい、楽しみ、喜ぶ。
それでいい。

この、赤ちゃんの無垢な体にはそれがふさわしい。
この柔らかい体を、美しいものへの感動と繊細な感受性でいっぱいに満たしてあげてほしい、

そう心から思いました。

「鹿児島の子どもは体が眠ってる?~斎藤孝講演会」

この講演会は
子どものためのもので
参加は「小学校3年生~6年生の子どもとその保護者」。

テーマは
「人間関係をつくるコミュニケーションン」。
約300人くらいの子どもがホール前部に座り、ワークショップに参加する。
保護者は後方の席でそれを見守ります。
おかげで、1時間半で
どのように場が変わり、高揚し、子どもの集団が
どのように変わっていくかをつぶさに目と耳と、そして体で体験することができました。

斎藤孝さんの身体論の本、日本語の本…
よく読んでいるんですが
そこにかかれている「場をつくる」「気を読み、自在にコントロールする」体
そのものを持っているらしい人が作るのは、いったいどんな場なのか?
否応なしに期待は高まります。

さて
舞台に現れた斎藤さんは…
しょっぱなからとにかく体の力が「抜けて」いました。
やわらかく背中を丸めて、はずむゴムまりのように舞台に現れた斎藤さん。
黒いTシャツにあれはたぶんスーツのズボンなんでしょう。
Tシャツに大きく書かれた「敬天愛人」の文字に
なんだかはなっからちょっとやられたような気分になってしまいます。
「あ、ズルい~」という感じでしょうか。

さて
講演やセミナー、ワークショップの際
まず、場を温めることをするわけですが
(落語の「まくら」の部分に相当します。参加者の気持ちをぐっとひきつけ、開く。
「聞いちゃおうかな」「参加しちゃおうかな」という状態をつくるわけですね)
これが…速い!
なに、この速さ?
多分、演台に到着してからから第一声でそれが終わっている。
(ように感じました)
うへ~。

鍛えられている。
やはり、徹底的に鍛えられている。
毎日、山ほどの学生さんを相手に様々な広さ、人数の場所で授業を続け
しかも、そこで
「いかに全員を参加させるか」
「すべての人間をいかにさぼらせないか」
(どんなに広い場所で、どんなに大人数であってもです)

それを
「体」「言葉」「気」といった部分から
(これが相対的に働いてなされる自身と他者への働きかけを
総じて「コミュニケーション」というわけですが)
あくなき探求を続けてきた方だな、と感じました。

この日の講演会(というより、ワークショップ)のポイントは
ずばり
「体を動かす」であった、と思います。
ご本人もおっしゃっていましたが

「コミュニケーション力は卓球やテニスや…スポーツと同じ。『技』」

なので、徹底的に体をう動かして
体に刻み込んでしまうことが必要だ、ということ。
また、
「体が眠っている、固まっている」ところに
どんないいことを伝えても、どんな活動をさせても効果は出ない!と斎藤さんが
心で叫んでいることも、
やってることからビンビンと伝わってくる。

「はい、その場でジャンプして!」
「はい、読みます!」
(弁天小僧のセリフ、早口言葉、じゅげむ…)
「はい、復唱!」

300人を相手にこの繰り返し。
ものすごいリズムとテンポで
場をがんがん作っていく斎藤さん。

ホール、作り付けの椅子という制限のある空間などどこ吹く風。
あくまでも自由に、体形を変えながらダイナミックに「斎藤ワールド」は
あれよあれよという間に展開して行きます。
斎藤さんが、いかに子どもたちの細胞を揺り動かし、その中に単なる「知識」ではない
本当の、生きた「体の知恵」として
子どもたちの中に刻み込もうとしているかが
伝わってくる。

「みんな、三年生より上でしょ?これくらいできて当たり前。なんでできないの?」

子どもを子どもとして、いい意味で扱わず
当然のごとく「出来る」」という前提のもと
「やるように」要求をしていることも印象に残りました。
ああ、この人、ぜったいあきらめないんだな。

1時間半で
「世の中で大切なことは『アイデア』を出せること」

というテーマでブレストまでやって、場は終わりました。
ふう~。

終了後
長蛇の列。わたしも、どうしても確かめたいことがあって
めったにないことながら、その長蛇の列の後ろに並びました。
時間が過ぎて、最後から二番目。
やっと番が回ってき。
他のみなさんは、サインと記念撮影を斎藤さんにお願いしてましたが
わたしは限られた時間で、一番確かめたかったことをお願い。

「ハグ、いいですか?体、触らせてください」

するり、OKでした。
思ったより「漲る体」をしてらしゃる、というのが印象。

さて
この時間でひとつ、気になったことが。
それは

「子どもたちの反応が遅い」

ということです。子どもって、こんなだっけ??
なんというか、まったり、まだるっこしい。
斎藤さんも何回もダメだし、やり直しをさせてましたっけ。
水面に投げた石の波紋が、普通はさああっ…と広がって行くんですが
もたもたしながら、どんどんなくなって、最後はどこに行ったかわからなくなる、
とそういう感覚です。

「鹿児島の教育の、まさに弊害が出ていたね」

そうおっしゃったのは
終了後、ロビーでばったり出会った
知り合いの大学の先生。

その一言に
体感的に妙に納得した自分がいたのでした。
このあたり、もう少し調べてみたいと思っているところです。

関連記事:9月14日UP 「教員はパフォーマー」

「こどもの話を聞くということ」

今年のお盆は
なんだか人の話を聞いてばかりいます。

といっても、それが仕事なので
仕事ではがっつりと聞くわけですが
それ以外で、ということです。
近しい人たちの話を聞いている。

今朝まで実家にいたのですが
久しぶりに会った母は、初日、なんだかんだで夜中の3時までしゃべっていました。
「聞くこと」が体に染みついてしまっているもので
「聞かない」ことができないわたしの体(笑)
眠いな~と思いながらもつい「絶妙のあいづち」を打ってしまうのがあっぱれです。

なおかつ小心者なので
「もう寝ようよ」の一言が言えず。
(久しぶりですし、たくさん話、あるのだろうな~と思うと、つい)

なので、呼吸でもって
「もう寝ようよ」状態にリードするという作戦で無事睡眠を獲得したのでした。

さて
わたしには、姪と甥が5人います。
25歳を筆頭に
皆ちょうど、世の中に出て自分の足で歩き始めたあたり。
それぞれ、日々いろいろとあるようです。
この数日
前後して、うち2人の話を偶然にも聞くこととなりました。
おぎゃあと生まれたときから知っている2人です。
こんなことを思うようになったんだ~と感慨深く耳を傾けました。

翌日、前後して2人からメールが。

姪1
「こんにちは。今日も暑いですね。
昨日は電話で話を聞いてくれてありがとうございました。
公子姉と話をしていると、自分が何に対して不安を持っているのか
どうしたいのか、考えがまとまりやすくなります。

ああ、私って本当はこんな風にしたいんだ~。こんな風に考えていたんだ。
と、自分でも知らなかった、見つけられなかった自分の思いを発掘するような感じです。
ありがとうございます」

そして姪2
「今帰り着きました。
話を聞いてもらってほんとによかった。
ものすごく気持ちが軽くなったよ。
第三者から見た感じとか
いろんな切り口から私の今持っている感情を引き出してくれたりとか
気持ちに気づかせてくれてありがとう。

一番びっくりして嬉しかったのが
私の気持ちを私以上に公子ねえがわかってくれたことです。
占い師のようでした」

占い師(笑)。
そうですか。それはよかった。
驚きを表した彼女ならではの比喩をほほえましく読みつつ
ふと思いました。

何も特別なことじゃない。
誰だって、意識すれば
少し学べば、そんなふうに聞けるのに。

そして
「占い師」
と、その体験の感動をつづった彼女のメールの言葉に
少し寂しさを感じたのでした。
言葉にするならば

ああ、やはりまだ出会っていなかったのかな。
そういう人に。そういう体験に。

と、そんな感じでしょうか。

そして、ただただ素直に思いました。
いや、願いました。

お父さん、お母さん、先生方…
子どもたちの周りにいる、彼ら、彼女らに一番近く触れる大人の方々。
どうぞ、「聞いて」あげてください。
うまく聞けないなら
「聞き方」を学んでください。
軽んじないで。

「そんなこと、どうして今更。
いつもやっている。ちゃんとできている。
わざわざ学ぶ?聞き方を?」

そんなこと、言わないで。

優れた「聞き方」がもたらすその効果、
「聞かれる」ことが聞き手、話しての双方の心にもたらす奥深い世界ははかりしれません。
優れた聞き手に聞かれるその時間は
子どもの能力を飛躍的に開花させます。

自分の内面を探索し、沸き起こる思考や感情に名前を付けて表に出す作業。
物事を俯瞰し、接近し、あらゆる角度から見る能力。
自分の中から答えを見つける能力…
多くの能力が「本当に聞かれる」体験を通して磨かれます。
それは
これから人生という長い旅路を彼らが旅するための
不変のスキルを手に入れるということなのです。

この仕事を初めて10年。
「聞くということ」に出会って10年、とも言い換えることができます。
「聞かれる」ことで自分の中にはじめて起こったあの時の感動を
姪たちの言葉から
新鮮な気持ちとともに思い出すことができました。


初心に帰って
「聞く」ということに集中、特化したプライベートセミナーでもやってみようかなあ
とふと思っているところです。

自分の一番大切な人たちに
大きな変化を起こせる可能性のある「聞くこと」。
誰だってできることなのに。
何よりすごいことなのに。
美しい百万の言葉を紡ぐことよりも
どんな素晴らしい答えを子どもに与えることよりも

時としてもっとも大きな力を発揮するものなのに。

すべての子どものかたわらに
聞ける力を備えた
大人が共にいてくれることを心から願ってやみません。

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