「あなたはこどもに何を手渡すの?」

昨日は

NPO法人日本スクールコーチ協会 九州支部鹿児島地区の第2回勉強会でした。

鹿児島地区は毎月1回、最終土曜日に勉強会を開催してゆく予定です。

お近くの方、どうぞいらしてくださいね。

さて

10月23日の日本経済新聞に協会の活動が掲載されました。

この夏にわたくしがやらせていただいた研修の模様も載っています。

こうやって、少しづつ「広がり」を見せていること、それをこうして紹介してくださるなど

後押ししてくださる方々がいらっしゃること

本当にありがたいことです。



中村公子のコーチングna日々♪

   ご興味ある方はどうぞ、クリックしてお読みくださいね右矢印

   

「コーチング」とは、大きく表現すると

「相手が自分の力で考え、自分の力で望む未来を切り開き、幸せな人生を生きる力」

を開発するためのコミュニケーションスキル。

そもそもわたしが「コーチ」というものになったきっかけなのですが

12年やった教員を辞めて、実際「社会」というところに出てみたら

なんとなんと!

「こどもが社会に出てから本当に使える『生き抜く力』を自分は学校では何一つ教えてないじゃない」

と気づいて「愕然」とした・・・ということが

大きな理由の一つでしたので

昨年、九州支部設立となったときに、自然その立ち上げメンバーに入ってしまったわけですが。

こどもは、大人の言葉から、そして、言葉以外のすべてから「メッセージ」を受け取ります。

「自分は価値のある人間か?」

「世の中とはこんなもの」「生きるとは」こういうこと」「働くのは何のためなのか」・・・

そして「人生とは何か」。

特別な日にあなたがしゃべる「特別な」ことばではなく

日々のあなたのちょっとした言動

言葉以外の動きや視線・・・日々のあなたの「ありかた」すべてから子どもはそれを「信じる」ことになります。

こどもにとってあなたが感じ、見せる世界は「この世の中のひな型」。

(そういえばわたしは『仕事とは辛く苦しいものだ』

『世の中は怖いトコロだ』という「確信」が体に長いこと染み付いていましたね

わたしの身近で、そう思っていた大人がいたのかな・・・?)

今月、来月と現場の先生方や保護者の皆様方にお目にかかり

「コーチング」についてお伝えする場面があいつぎます。

自分の素直な原体験を持って、いってこようと思っています。

そして、問いかけたいと思います。

「あなたが今、無意識のうちにこどもに伝えている『メッセージ』は何ですか?」

スペイン料理店にてⅢ「腹をくくる」

さて

前回の続きです。

「さて

この方は、なぜ、こんなにも

芯のとおった『一貫性』を持って

娘さんに接し続けることが出来るのか??」

以下、わたくしがその方に送ったメールを添付します。

                 

「本当に子どもに、『生きる力』をプレゼントするって言うのは
大人も腹くくって、自分の価値観とか固定観念とか弱さをぜんぶ白紙に戻してかからないと
その覚悟がないとダメでしょう。

それが「出来ている例」として
あなたのことを(他の方に)話しました。

(中略)

子どもを信じ、どこまでも信じ、こどもに託す、ゆだねる。
信じて、任せて、待つ…このことが、なぜか、大人はできないのですよね。
腹がくくれない。
自分が心配だから、「自分の不安解消のために」こどもに手を出してしまう。

なぜ、あなたはあそこまで腹がくくれているのか
わたしは
娘さんのもって生まれてきた「プレゼント」のおかげだと思いました。

(娘さんは「性同一性障害」)

「自分らしく生き生きと生きるには?」(世間の価値感や、『常識』に振り回されず)

この、だれもが実現ししたい、けれど手に入れがたい「あり方」を
自分自身も、親御さんたちも、一番正面きって追求できるテーマを
娘さんはもって生まれてきていると思います。

なんと、チャレンジフルな、勇気のある選択をして生まれてきた
お子さんなんだろう!!と思います。
そして、娘さんに選ばれたあなたも、
そのチャレンジをともにやっていけるだけの方なのだろうな、と思います。

あなたは
大きなチャレンジを持ってうまれてきた娘さんに、
その「チャレンジ」を自分で達成できるだけの力を…
つまり
必然的に、娘さんに

「幸せに生き抜く力」=

「自分の頭で考え、思考し、判断し、行動できる強さ」
「問題解決能力」「自己肯定能力」

「どんな困難が降ってきても、前を向いて生きていく力」…
それらを身につけてもらおうと。

つまり、わたし含め、わたしのまわりにいるたくさんの「子どもと関わる大人たち」より
「腹のくくり方」が、もうぜんぜん違うんだな~

と、そんなことを感じたのです。」

                  

さて

これから世の中に出て行く多くの子どもたちと

彼女と、いったい何が違うと言うのでしょう。

きっと、同じだけの喜び、幸せ、そして生きていくうえでのいろいろな苦労…

たくさんの出来事が待ち受けていることでしょう。

わたしたち大人は

今一度、自分の姿を振り返る必要があるのではないでしょうか?

子どもに「やり方を教える」ことはラク。やってあげることもラク。

しかもそれによって、大人は「自分の存在価値」を感じることが出来ます。

「今のこの、子どもへの一言は、『本当に子どものための一言』なのか?」

「今の、この『手助け』は、本当に『子どもの未来を見据えたサポート』なのか?」

単なる大人の『自己満足』のための「ヘルプ」になっていないか?

子どもの成長をサポートするということは

自分自身の生き方を深く見返すことに他ならない、といつも思います。

さて

最後に、今日の本筋と少しずれますが

ブログ掲載について、ご本人からいただいたメールを紹介しておきますね。

「こんにちは(^-^*)/
本当に素敵に書いて下さってありがとうございます

娘のことは、包み隠さず書いて下さって構いませんよ

娘は生まれ来ることに関してなんの悪いことをしていません。
ただ、体と中身の気持ちが違っていただけ…

最初、私たち家族でさえ、カミングアウト(公表)するときに何かしらの抵抗を感じながらやりました。
今にしてみればつまらない考えが縛っていたことでした。

周りはどう受け取るだろうか?
弾かれないだろうか?

動いていくうちに、大きな波に渦にすればいいと…ひらめきました。

大きな渦にして周りを巻き込みながら

底辺まで行き渡せる活動にして性同一性障害やLGBTまでも巻き込んでいこう

今は壁があることでも、みんなが知っていくことで理解が深まり変わって行くと確信しています
知らないこと無知が壁を作り、知らせないことが罪と考えています

ぜひ、書いてくださいませ

こちらからお願いします」

たくさんのことを、気づかせてくれた

お二人(お母さんと娘さん)との出会いに

心から感謝します。

追伸:娘さん、中一ですって^^前回小学生と書いてしまいました。訂正です~。

「子どもは本質を見抜く」

ダンス教室の先生の一人むすめ

Yちゃん(10歳)

両親をダンスの先生に持ち
(まさにサラブレッド)

小さい頃からクラシックバレエを習い

手足は長く

顔は小さく

つぶらな瞳に長いまつげ

さくらんぼみたいなくちびる

さらさらの髪を長くたばねたその姿はさながら天使みたいにかわいらしい

さて、この天使が…

実にやんちゃ







レッスン中にちょっかいを出しに来る

(今日は、ペンで足に描かれそうになったな







そしてわたしと「スリッパサッカー」

(相手の片足から奪取したスリッパを、相手が奪還できないように&相手から取り返すため

足で蹴りあうという高尚なゲーム)

教室中ところせましと走り回っている。











さて、そのYちゃんの学校の先生が

最近偶然にわたしのコーチングセミナーに参加なさった、という話から




Yちゃん「コウコちゃんって、なんのセミナーやってるの~」

わたし 「う~ん、何っていわれるとねえ…

     (コミュニケーション、ってとりあえず言ってみるか、と思った瞬間)」

Yちゃん「テツガク?」

わたし 「え?違う違う。そんなんじゃないよ」

Yちゃん「だって、『わたしは何者か?』って、そういうのでしょう?」

わたし 「そういわれると(このとき、ものすごく『ハッと』しました)

     …そうだね。ただ、いつものセミナーではそこまでやらないことが多いかな。

     でも、最後はそういうことかな~」

Yちゃん「うちに、子どもむけのテツガクの本があるよ」

わたし 「ふうん…」








さて

自分の仕事について

彼女にことさら詳しい説明をしたことはなかったのだけど。

(この教室自体で、仕事の詳しい話をしたことがない)





「コーチ」

という仕事がどんな仕事か、彼女なりに誰かから聞いたのでしょう。

そしてそれらの情報を総動員して

彼女は







「自分とは何か」










を明らかにするものだ、と定義づけている。






セミナーではまず、

「ラポールを築く」

「聞く」

「質問」



なんてことをやるけれど

その奥の奥

いつも、念頭においているのは

まさに、それらを通して「自分を知ること」

自分はどんなことに価値を感じるのか。

何を大切にして生きているのか。

どんな信念を持っているか。





そして、自分はそもそも「どういう存在か」。








自分を知ることなくして

(自分とのコミュニケーションなくして)

他者とのよりよいコミュニケーションは成立しない。

それは、わたしがいつも一貫して意識し続けていることです。








Yちゃんの言葉を聞いた瞬間のわたしの感じを

いくつか言葉にしてみたけれど

どれもピッタリこなくて、全部消してしまいました。







こどもは、すばらしい。

この、稀有なみずみずしい生物よ

宝石のような存在よ。

いつまでも、このままの状態で成長してください、と切に願ったことです。






「わたしをつくったもの」

 

 

という

国語の教材があったのです。昔。

中学校2年生の国語の教科書に載っていました。

 

どんな話かといいますと

外国のお話なんですけど。

大嫌いだったおじいちゃんの昔語りを、ふとしたきっかけで聞くことになった

少年が、

そのことがきっかけで、古いものや、それにまつわる物語に夢中になって

やがて博物館の館長になる道をすすむというお話です。

 

 

 

 

「祖父がわたしを作ったのだ」

 

 

という一文で、確か締めくくられていたような。

 

その授業のときに

「人生でこれを見つけないと、という2つは、自分が一生をかけられる仕事と、

人生のパートナー」

 

という言葉を自分のクラスで言ったのです。

 

すると、一人の男の子がわたしをチラッと見て

「…先生はどっちもまだだね」

 

 

 

パートナーがまだなのはわかるけど、どっちもかあ、

と思ったのでした。

 

 

 

 

何か満たされない気持ちで、何かがまだどこかにあるんじゃないか、

と思いながら教員をしていたことを彼はわかっていた、ということかなと。

 

 

 

子どもにそれがわかるようでは、もうここにいちゃいけないな、と思ったんでした。

 

彼の一言は、わたし自身を次のステップへ押し出してくれたような気がします。

 

中村公子のコーチングna日々♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その、恐るべき(笑)洞察の一言をすらりと言ったのが彼。

(一番奥の男性。本人は「覚えていない」といっていますが)

 

 

 

手前の男の子はデザイン関係の仕事でしたか。

中学生の頃は甲高い声で、一番前の席に座って小さな身体でまっすぐ前を向いている子で、

彼の目を見ていると「授業、手を抜けません!」といつも思ったものでしたが。

 

 

中村公子のコーチングna日々♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3人の子のお母さん。

障害児教育に頑張っている子。

みんな成長しています。頼もしい…。

結婚式で、わたしに「乾杯のご発声」をさせてくれた子も。

 

 

 

 

他にも、高校の先生にプロのダンサーと、

みんな、自分の「道」を進んでいます。

 

 

 

 

この子達にとって「わたしをつくったもの」はなんだったんだろう?

 

 

 

それは、わかりませんが、わたしにとってこの子達は、

「今のわたしを作ったくれたもの」であることは確かです。

 

「99パーセントの努力と1パーセントの才能」

チャップリンとエジソンの言った言葉。

 

「天才とは1パーセントの才能と99パーセントの努力だ」(チャップリン)

 

「天才とは1パーセントのインスピレーションと99パーセントの努力だ」(エジソン)

 

あれ、

「努力礼賛」の言葉だと思ってたんですけれど

そうじゃないんだそう。

(人間努力が大切!努力すればいつか必ず成功する…という)

 

「私は

たとえ99パーセントの努力をしても、

1パーセントの才能がなかったら天才にはなれないと言ったのだ。

才能を自覚した上で努力をすることが成功の秘訣なのに、多くの人は勘違いをしている。

1パーセントの才能という言葉は、才能が絶対必要だという意味なんだよ」(チャップリン)

 

「私は

1パーセントのインスピレーションがなければ、

99パーセントの努力は無駄になると言ったのに

世間は私の言葉を都合のいい美談に仕立て上げ、私を努力の人と美化し、

努力の重要性だけを

成功の秘訣と勘違いさせている。」(エジソン)

 

そして、自分がいかに「インスピレーション」を大切にしているか

それを得るためにどんな工夫をしているか、を

エジソンは語ります。

さらに

 

「私は子どもの頃、

教育についていけないという教師の勝手な判断で学校に通えなくなった。

どうしてだと思うかね?

 

その頃の私は『ナゼナゼ小僧と呼ばれていてね…しつこいほど周囲の大人に聞いた。

多くの疑問が次から次へと頭をよぎった。

あまりに質問をしすぎるから、頭がおかしいと思われて、小学校を退学させられてしまった―

 

そして私が発明家という道に進んだのは、

このナゼ?の延長にある答えを、インスピレーションによって

解決したときの喜びを持ち続けられたからだ。

インスピレーションは私の才能であり、その才能を努力によって伸ばしたことによって

現在の成功があるんだ」

 

以上は

「目標設定練習帳」(リチャード・H・モリタ編著・イーハトーヴフロンティア)

からの抜粋ですが

この本には

 

「才能は必ず、誰にでもある」

 

と。

 

そして

「自分を知り、自分を見極める」ことの大切さ

「自分の特質、才能」にそった

 

自分にとっての「リアルゴール」(真実の目標)

 

を発見し、設定することがいかに大切か

それが、「成功」のためのただ唯一の条件である、と書いています。

 

人は、それが「真実のゴール」であれば

努力を努力とも思わず、自然と頑張れる。

モチベーションを「上げよう」などと思わなくても、自然とそれは湧いてくる。

あきらめよう、もうやめよう、無理だ…

つらくても、そんな思いは湧いてこない、湧いてきようがない、

それが、その人にとっての「真実の目標」



みなさんには、ありますか?

わたしは思わず、自分のささやかな「目標」あれこれをチェックしてしまいました。

すると…昔思っていたそれのいくつかは

自分の本心ではない何か、に左右されていたものだったりするのですよね。


昨日は先生とお母さん方へのセミナーだったのですが

大人の仕事は

ただただ、上の一事につきる

と実感したことでした。

 

 

「子どもが『リアルゴール』を見つけられるようサポートをすること」


そして、そのためには大人自身が

「自分としっかり向き合っていて」

「自分の『才能』に根ざした自分らしい満足した人生」

を送っていないとですね。

 

 

 

 

「わたしはウシでもブタでもない」

 

 

 

先日、先生方の研修会に行ってきました。

「シンポジウムのパネリスト」というもので呼ばれまして。

 

 

先生達の研修をすることはあっても外側から客観的に眺めているのはめったにない体験。

(昔、教員として研修に参加していたとき以来でしょうか)

いろんなことを思いながら会場にぽわん…と坐っていました。

 

 

 

 

その中で、一つだけ、ものすごく違和感のあったことが…。

それは何かというととあるグループワークのときの話。

 

 

その日、進行がだいぶ押していたようで。

進行係の先生は、とても気を揉んでいらっしゃ理。

参加者を時間通りに動かそうとなさっていらっしゃるのを感じました。

 

そして、5グループに分かれたディスカッションも終了時間となり(わたしも、参加していました)

みんなで中央に集まって、各グループの発表を聞き合うという流れになっていました。

 

 

が。

ディスカッションは盛り上がり、各チーム、なかなか終わらない。

というか、「終わり」ということはみな理解しているんですけれど、加速度の着いた車と同じように、

急にはストップできないので

各チーム、止めるのに少しタイムラグが発生していると見えました。

 

 

 

さて、進行の先生。

数回「終わりです」の声を発すれども、みんななかなか真ん中に集まってこない。

すると突然。

 

 

 

 

 

「いち!にぃ〜!さん!しぃ〜!ごぉ〜!ろく!…」

 

 

 

大声で「カウントダウン」を始めたのです。

 

 

 

 

 

これ、もし学校の先生だったなら、もしかしたら一度は使ったことがあるかもしれない。

もしくは誰か他の先生が使っているのを見たことがあるかもしれない。

 

 

「子どもを短時間に、一定のところに集めるための『やり方』」なのです。

 

 

 

 

 

無条件に、四の五の言わせず、有無を言わさず、この先生の「いち!にぃ〜!さん!」が始まったら

生徒たちは何をおいても、先生の目の前に馳せ参じなければならない、というルール。

 

 

そして、大体において「カウント◯◯を過ぎても全員揃わなかったらオシオキ」。

(オシオキはされなくても小言くらいは食らうでしょうね。

「お前ら、なんでルールを守らないんだあ〜、先生はいつも五つ数えるうちに集まれって

言ってるだろうがあ〜」なんて)

 

 

 

(言っておきますが、この時カウントをした先生がそうしている、と言っているわけではありませんので。

思い出しただけです。昔そういう人がいたのを)

 

 

 

 

 

さて、このカウントが始まった瞬間、わたしの身体の中になんとも言えない不快感が…。

強いて言葉にするならば。

 

 

 

 

 

 

「わたしは、牛でも豚でもなーい!(怒)」

 

 

 

 

 

 

言葉ではなく。

有無を言わせず柵に追い込まれ、囲い込まれる牛のような。

鈴が鳴ったら「めえ〜」と鳴きながら黙々と飼い主の元へ集まらねばならない羊のような。

 

 

 

 

 

自分がそんな扱いを受けたような気がしました。

 

 

「わたしは大人です。ちゃんと意思を持った一人の人間です。言葉で言って下さればわかります」

そう、言いたい気持ちで一杯になったんでした。

 

 

 

そして、更に恐ろしいのは、自分が教員だった頃、この方法について何の疑問も抱かなかったことです。

わたしは使ったことがなかったのですが、誰か他の先生がやるのを見て、

ああ、いい方法だ、あんなふうに子どもが動いてくれたらいいな、

あの先生は指導力が高いんだな、

 

と思っていたのを思い出したのです。

 

 

 

 

 

子ども達ってこうやって「慣らされて」いくんだなあ…。

 

 

「めえ〜」「めえ〜」「めえ〜」「めえ〜」(以下略)

 

 

 

そして「めえぇ~」な状態についていけなかったり、違和感を強く感じる子供たちが

世間一般の価値観で言うところの「学校からはずれてしまった(いろんな意味で)」といわれる子達に

なっていくのか…と感じたことでした。

 

 

もしくは、企業さんに研修に行くと上の方々からよく聞く

「動かないんですよ。待ってるんですよ、指示を」

と言われてしまう「大人」になっていくのでしょうか。

 

 

 

最後に、なぜわたしが子どもの動きをコントロールするのに上の方法を使わなかったか、なのですが

そんなに立派な理由があるわけではりません。

 

わたしが「い~ち、にぃ~…」とやっても

「先生、何やってんのさ」「似合ね~ことすんなよ」の一言であしらわれ、

生徒はわたしのもとへやってはこないだろうということが、

なんとなくわかっていたからみたいです(今思うに)

 

 

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