「深知今日事ーふかくこんにちのことをしるー」

「妙教寺の砲弾」

 

先日行った妙教寺の事を書きます。

 

妙教寺は1868年の鳥羽伏見の戦いの際

新政府軍と幕府軍の戦の中で「弾丸雨のごとくあつまる」中で

その姿を今に残しているお寺です。

 

当時の就職さんの手記や

お寺に飛び込んできた砲弾が壁をぶち抜き、まっすぐ柱をぶちぬいたその跡が

そのままに残っています。

 

中村公子のコーチングna日々♪

これは

そのときの砲弾。

レプリカではありません。本物です。

大砲は四斤山砲。

 

「仏式四斤山砲」

山岳地帯に適した大砲で

分解すれば馬2頭で運べるというところが

当時、山道が多く、道路事情があまりよくなかった日本に

適していたのだそう。

(と、「武器と防具・幕末編」に書いてありました)

 

「四斤山砲」って

名前はよく聞くけれど、本当に使っていたんだなあ…(感動)

ざらっとした鉄の感触。重いです。

(約4キロ)

当たり前ですけれど、前出の本に載っていた『四斤山砲の砲弾』

の図と全く同じです。

 

中村公子のコーチングna日々♪

 

これは

境内の梵鐘にあたった銃の弾。

 

きっと、カンカンといい音をたてたことでしょうね。

もっとも当時の住職さんは

「鍋を頭にかぶって」お寺を守るということになったらしいですが。

 

このとき、ご住職は三十三歳。

後世に語り継ごうと、このようなものをお作りになりました。

弾が打ち抜いた柱の補強材の裏に刻んだ「その時」の記録。

柱の傷が他者の目に触れるたび、必ずこの記録も共に目に触れるという工夫をなさったのです。

 

中村公子のコーチングna日々♪

 

「明治元年正月四日幕軍は官軍を小橋の畔に拒ぐ。

銃丸雨の如くことごとくこの寺に集まる。

障壁什器一としてあたらざるなし。

犬猫驚き走り身のおく所なし。

中に巨砲ありて勢迅雷の如く、天地に響動す。

その丸は鐘の如し。

誤ってこの柱を洞ぬき、玄関の屋隅をおかしやぶって止む。

人来り伝え観るに驚き以って胆を破る。

その後此の柱は新造を加えず、全く其の跡を存ち

以って後世伝説の証とする。

嗚呼、危うかりし哉。    妙教寺日祥誌るす」

 

「嗚呼、危うかりし哉」

の一言に、ご住職のため息が聞こえてきそうな気がします。

そして、毎年お墓参りをするようにと言い残された。

 

このあたりには

道すがらに墓石というか、慰霊碑が点在しています。

それはそのまま、敗走する幕軍と追う新政府軍の戦いの道筋をあらわしています。

当時は、累々たる屍の列、だったのでしょう。

 

ちなみに以前、「首はどこへ行った」 で書いた

新選組の井上源三郎の甥、泰助くん十二歳が、おじの源三郎さんの首と刀を持って敗走したのも

このあたりになります。

新選組が陣を張ったと伝えられる千両松から「首を埋めた」とつたえられるうどんやさん

(当時は欣浄寺というお寺)まで確認してみると結構な距離です。

この距離を、走ったのか…首を抱えて。

さて

妙教寺のご住職さんは戦の時代から数えて四代目。

幼いころは、冬のさ中、点在する墓所を徒歩で墓参させられるのが嫌でたまらなかったそうです。

(鳥羽伏見の戦いは新暦でいうと2月のはじめくらいになります)

 

そうおっしゃるお声を聞きながらつい

 

「ありがとうございます」

 

と。

 

残してくれている人たち、語り継いでくれている人たちがいるから

こうして思いを馳せることができる。

手にとって、肌で感じることが出来る。

 

それらを通して

忘れないこと。

そこから知ること、学ぶこと。

精一杯生きて、それぞれ何かを残そうとしてくれた人たちに、その思いに感謝すること。

そしてそれを今に生かすこと。

それが、何より「彼ら」が喜ぶこと、報われることな気がしました。

 

歴代のご住職さん

そして、多くの、あちこちで「語り継ぎ、受け継いで」下さっている方々

本当にありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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