「B級グルメは『作れない』」ーそれは「見出す」もの

 

 

 

「ロバート秋山の町民オーディション」という番組がありますが。

 

 

あの番組の何が一番すごいかというと、ロバート秋山の才能が凄い、と思いつつ、
毎回見ているところなのです。

 

 

素人さんたちの「表現」の
「微妙なアク(山っ気?😃)」をさっさと(ズバッと)指摘し、
ばっさばっさと容赦なく取り除き、

 

そして、その人自身も知らなかった、
「魅力や面白さ(存在感)」をその場でどんどん引き出して、
「自分たちだけでは絶対に到達し得なかった」
場所へと全員を連れていく。

 

面白いなあ〜。
秋山、なんてすごいんだ!
と。

 

 

 

 

で、
この番組を見ていると、
以前クライアントさんがおっしゃっていた、

 

「B級グルメは作れない」

 

という言葉を思い出すのですよね。

 

 

 

 

「B級グルメは『作れない』」。

 

作為的に、ああやってこうやってこの食材が流行ってるから、
これを使って…と、
頭であれこれ考えて作っても、
結局流行らない。定着しない。

 

わかるなあと。
なんだか「あざとく」感じられるのですよね。

そういう感じのもの。

 

 

 

B級グルメ。
それは「つくる」ものではなく、「見出す」もの。

 

つまり
そういうことなのかと。

 

 

 

 

 

そもそも、そこで昔から、自然と食べられていたもの。
自分たちも「気づかない」くらいに、ふつーに、
食卓に上っているモノ。

 

あまりの馴染み具合、手に入りやすさに、
自分たちにとっては「特別感ゼロ」で食べているようなもの。
調理方法。

 

生活、風土、様式と共に「自然と」そこにあったもの。
それが「個性」として光り、
他にはない「面白さ」となって「B級グルメ」となる。

 

 

つまり。
歴史、
時間、
風土…
といった「リアルな生活」に裏打ちされた
「真の存在感」こそが、
「B級グルメ」たる所以である、ということかと。
(何せ、B級なんで。もう完全に「生活密着」でなくてはね!)

 

 

 

 

 

 

話戻って。

 

「ロバート秋山の『町民オーディション』」を見ていると、
なんだか似たような「におい」を感じるのですよね。

 

 

かっこよくも、
おしゃれでもないけれど、
でも、町民一人一人の「ほんとの存在感」満載の、
魅力とエネルギーに満ちた
リアルな息遣いの感じられる「B級グルメ」になっていく感じが
見ていてなんだか元氣が出る。
(不思議とすっきりとしたものを感じ。うまく言語化できていませんが)

 

 

 

 

さて、今日何をいいたいかといいますと。

 

 

あなたの魅力はあなたの中に。
あなたが過ごしてきた時間と、生活のプロセスの中に。

 

いらん事をしなくても、
飾り立てなくても、
面白い事をしよう、としゃかりきに頑張らなくても、
「外から」何かを取り入れなくとも。

 

 

元々のあなたの中に。

 

 

 

という感じでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

(※写真は「B級グルメ」で出てきた「富士宮焼きそば」)

 

*   *   *   

「『富士宮やきそば』は

戦後の静岡県富士宮市の市街地の数あるお好み焼き屋から誕生しました。

 

戦後の経済復興の中で富士宮市街地には製糸工場が操業し、

数多くの女性の工員達が働いていました。
そんな工員達の日常の食事場所として値段も手頃な

お好み焼き屋が利用されていました。

お好み焼き屋ではお好み焼きはもちろん焼きそばが食されていました。

 

富士宮では駄菓子屋でも鉄板が置いてあり、子供達が小遣いを握り締めて

お好み焼きや焼きそばをおやつ代わりに食べていました。

 

戦後は富士宮の住民だけでなく山梨からも

富士宮に電車で働きに来たり買い物に訪れていました。
そんな中で焼きそばの麺を持ち帰りたいとの要望があり、

現在のような水分をとばした長持ちする焼きそば麺が作られたと考えられています。」

[日本の郷土料理観光事典]よりお借りしました
https://kyoudo.kankoujp.com/fujinomiya-yakisoba/

 

 

 

 

 

*  *  *  *  *

 

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「毒親」とは何か?ーそれはみんながなりうるものだし、なっている瞬間があるもの

 

 

 

 

今朝、何かの記事を見て、俗にいう「毒親」の定義はなんだろう?とふと思ったのだけど。
わたしの思う「毒親」とは、

 

 

「自分の不安や心配や願望、コンプレックスなどの『心的状態』を
 子どもの問題にすり替える親。
 そして、そのことに気づかない(気づこうとしない、見ようとしない)親」

 

 

でしょうか。
(なので、「親」だけでなくいわゆる「毒教師」「毒上司」「毒配偶者」などというものも

存在するだろうな、と思うわけです)

 

 

 

 

ちなみに、
「とても満ち足りた、100%幸福な親」に育てられた人は
そんなにいないと思うので、

 

(敗戦、そしてその後の混乱で、
わたしたちの数代前の先祖の多くは皆、ずっと守り培ってきた価値観の「崩壊」それに
「挫折」が深く刻まれることとなったろうから)

 

 

 

そこからつながるわたしたちは大なり小なり、

 

「漠とした不安・これがないと幸せじゃない!という思い(願い)
よくわからない自己否定・コンプレックス」

 

などを持ち合わせているのじゃないか、と思います。

 

 

 

なので誰でもそういう「状態」(毒親・毒大人状態)になりうるし、
なっているときも実は大いにある、
というのが「案外普通のこと」なんじゃないか、と思うわけです。

 

 

だから、これがあることが悪いのではない。
(逆に、「全くない」と豪語する人の方が怪しいと思ったりする)

 

 

 

 

大切なのは、

 

「自分でそれを認めることができるかどうか。
 受け入れることができるかどうか。
 これは自分のものだ、自分で癒すぞ、と決めて、
 そことしっかり向き合うことができるかどうか」

 

なのだと思います。

 

 

 

 

何はともあれ、
自分の幸せは自分の中にしかなく。
何かの条件によるものでもなく、
ましてや人に託すものでもない、

 

ということはしみじみと思うのです。

 

 

 

そして、全ての大人が、
「楽しく、ワクワクと、静かに満ちて、しみじみと…」
(いろんな言葉がつくけれど😀)
とにかくそういう感じに「自分の」人生を生きていることが。

 

 

自分の「中心軸」で生きていることが、
(親は親の「自分が生まれてきた目的」をちゃんと生きていることが)
子どもの幸せにとって、必要不可欠なことなんだ、

 

と、そう感じます。

 

 

 

 

 

今日はなぜこんなことを書いているかというと、
確たる理由は全く思い浮かばないのだけど。

 

 

 

 

 

今が、分岐点、な氣がするから、でしょうか。
わたしたちは今、分岐点に立っている。
(という言葉が勝手に浮かんできている)

 

 

 

 

 

NLPに、
「親のタイムライン(生きた軌跡)までを遡り、癒し、統合するワーク」
というものがあるんですが。

 

 

 

親のたどってきた人生、思いを癒し、
先祖のたどってきた人生や思いをも癒し、

 

それら全てを美しく力強い「糧(かて)」に変え、
自分のこれからの未来のタイムラインを生きるための
プラスのエネルギーとする。

 

そういうワーク。

 

 

 

 

それは「全て」は、
誇らしく輝かしい「リソース」へと姿を変え、
わたしたちの人生を通して、
次の世代へと手渡されていくことになるのだろう、と思います。

 

 

 

 

そして、それが今、(わたしたちが)できるかどうか?が
案外これからの日本を大きく左右するのではないだろうか、
(その、最後のポイントに今、わたし達は立っている)

 

 

 

と、そんな氣がしています。
こういうのは理屈ではないので、うまく言えませんが。

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに自分はどうなの?という話なんですが。

昔、20代後半だったか30代前半だったか忘れましたが、

 

 

 

「『負の文化的遺伝子』を次には手渡さない」

 

 

 

と、なぜか思ったことだけははっきりと思い出します。

(ちなみに、うちの親が「毒親」だったと言うわけではなく。

日々悩みつつ、生活しつつ、子どもを愛し、

時にはそれが十分にできない自分にまた悩むというごくごく普通の親でした)

 

 

 

 

で、
わたし自身、それが今うまくできているかと問われると、
毎瞬毎瞬「プルプル」しています(笑)
(繊細に揺れて、ズレては戻りズレては戻り…ということです)

 

 

なんですけれど、
周りに色々な「ズレを元に戻してくれる」たくさんの人や
ものがちゃんと存在してですね
それが本当にありがたいと思っています。

 

一人ではなかなか難しい。

 

 

なので、世の皆さんたちも、無理はしないでくださいね、
というのは大いに言いたいところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

だからある意味「物語」は恐ろしいー「アリこそ正義」に侵食されていた自分にはっと気づいた今朝

 

 

 

 

 

 

アリとキリギリス。

あの、例のアリとキリギリス。

 

 

今朝方、クライアントさんが、
「あれって、本当はああいう話じゃない、という話を聞いたことがあるような…」
と。
そこからしばし、
「アリとキリギリス」の話で盛り上がったんですが。

 

 

「キリギリスは持って生まれた歌の力で冬ごもりのアリたちを、
楽しくしたらいいですよね。
アリはアリの矜持を持って(◀︎この視点がこの方らしい😊✨)
『それくらいの食べ物、どんと来い!俺たちの力を見ろ!』
と、キリギリスを食べさせてあげればいいですよね」

 

とクライアントさん。

 

 

「ですよねえ!
そういえば…なんだかこの話って
『みんなアリであれ』『アリとして生きろ』
『アリが立派』って言われているようにも。
でも、それって考えてみれば無理ですよね。
アリとキリギリスはそもそも違いますし」

 

とわたし。

 

「頑張る」こそ正義。「コツコツ」こそ正義。努力こそ正義。

そんな感じでしょうか。

この話からわたしがずっと、受け取っていた

(そして無意識のうちに肌身に染み込んでいたところの)メッセージは。

 

 

 

それから
生きるためには、歌も必要です。
踊りも必要です。芸術が必要です!
(魂のご飯です!)

 

と…
話がなんだかあちこちに広がって行ったのでした。

 

 

 

 

さて、今日、声を大にして言いたいのはそういうところではなく。

 

 

「物語」というものは人の無意識に深く深く入り込み、
個々人の価値観を作り、世の中の価値観を作り、そして「時代の風向き」(方向性)
を作る、ということを言いたかったのです。

 

「物語」は人を勇氣づけ、能力を発揮させ、鼓舞し、解放もする。
「物語」は、とても容易に「ある価値観」「ある状態」に持っていくこともできる。
それが「物語の力」。

 

 

「物語」は、だからこそある意味「恐ろしい」。
人の「意識のガード」をやすやすと超えて、
無意識に音もなく入り込み、
わたしたちは、それに「染まって」いることさえ氣づかない。

 

 

 

わたしたちの周囲に溢れる「物語」には
(毎日流れてくるニュース含め)
どんな意図がその奥にあるのか、
一体、それは
「わたしたちに『何を正義とし』『どこへ導こうと』しているのか?」
そんなことをちょっと考えてみるのも面白いかもしれません。

 

 

 

さて。
で、今もし、まだわたしが教員をしていたら、なのですが。

(話は飛びますが)

 

 

この「アリとキリギリス」の話を元に、
ここから、たくさんの価値観を体現した、新しい「アリとキリギリス」の脚本を
子どもたちに作ってもらうだろうなあ〜

 

と思います。

 

これからの時代を生きる彼らに、
新しい「アリとキリギリス」の世界を。
たくさんの、いろんな生き方の「アリ」や「キリギリス」の話。

 

たくさんの価値観を、世界を発見してほしい、
創造して欲しい、と思うのです。

 

例えば…
「それぞれの強みを活かして、
一緒に『新しい村』を作るアリとキリギリス」とか??

 

 

で、
それをお芝居にして、子どもたちみんなで舞台を作って
あちこちで上演して回ることだろうなあ、
と思います。
声を出して、全身で、存分に思いっきり
「新しい物語」を自分たちの身体に刻み込んでほしい、と思います。

 

(在職時代にこういう自由な発想にならなかったのが
誠にまことに残念です。
子どもたちとたくさんお芝居は作っていたんですが)

 

 

 

人は結局自分の物語を表現するしかない。(それが一番強く周囲に響き渡り、人の心に届いていく)

 

 

 

最近、

①宮崎駿は自分のために(自分を解き放つために)アニメを作っている。
②久石譲いはく「ドメスティックでいいから真剣に掘り下げたものが、かえってインターナショナル」

ということに少し感動してですね。

 

 

 

まず①について。

 

その番組では「君たちはどう生きるか」の制作を通して、
2018年に死去した「パクさん(高畑勲)」への
宮崎駿の断ち難い、憧憬、愛情、おそれ、呪縛、…等々、

 

一言では言葉にすることのできない、山ほどの想いへの対峙と、
それをなんとか超えようとしているプロセスが描かれていました。
(作品内に「これはパクさん」と、
位置付けているキャラが出てくるのですよね◁わたしは見ていないけど)

 

 

 

 

 

それを見て、

 

「ああ、この人は、何より誰より、まず自分を癒すために、
アニメを作っているんだな。
自分の心的旅路を作品にしているんだな。
作ることを通して、昇華し、癒されようと(もしくは次へ行こうと)しているんだな」

 

と思ったのでした。

 

 

 

 

そして、それでいい(ものすごく、いい)と。

 

 

 

世の中のすべての創作活動というものは、
畢竟そういうもの…
というか、その要素がないものは、
他者の心に響くものにはなり得ないのでは?と。

 

 

一人が旅をする。
周囲は、その「旅」を共にし、追体験することを通して、
そこから自分自身にとって必要なものを獲、
感じ取って癒され、成長する。

そこに必要なのは、ただ、掛け値なしの
「クリエイター」自身の本気の旅、自分自身の旅のプロセスなのだ、と。
それだけが、真の響きを放ち、
周囲を巻き込める可能性を持つのでは、と。

 

 

 

そして②。

久石譲いはく「ドメスティックでいいから真剣に掘り下げたものが、かえってインターナショナル」

 

 

ドメスティック(domestic)は
「家族的な」とか「自国の、国内の」意。
(わたしはドメスティックとバイレンスをくっつけて、妙な覚え方をしていました!)

 

 

番組では、久石譲が、世界各国の有名なオーケストラで指揮をし、
シンフォニーや、そしてもちろん、宮崎アニメの曲が、
大喝采を浴び、受け取られている様子が映し出されていました。

 

 

どこか懐かしい、わたしたち日本人にとって
心揺さぶられるような数々の楽曲が、
こんなふうにたくさんの国の人たちに
熱狂的に受け入れられているなんて。
(正直、涙が出るくらい胸がキュッとしてしまった)

 

ニューイヤーコンサートで毎年見る、
ウィーン楽友協会の絢爛たるホールで鳴り響く
「となりのトトロ」を聴きながら、
とても誇らしく思うと同時に、少し「うるっと」き。
(そして、なんだかちょっとクスッと笑える感じ)

 

 

先の言葉。
これは、久石譲の「宮崎駿のつくる世界」についての言葉なのだけど、
久石譲の曲自体が、まさに、自分の中に湧き上がる
「ドメスティック」
な部分を、追及して今に至っているのだろうなあと。

広く、でもない。
万人に受け入れられるか、でもない。
世界はどんなのが好みなんだろう?
どんなものが受け入れられるんだろう、でもない。
自分の中に湧き上がる、ただ一つの響き。

 

繰り返し、繰り返し、自分に力を与えづつける、決して枯れない泉。
魂に刻まれたもの。細胞の記憶。

 

そこを探究し、追及し、
それが今、世界の、多くの人の心を震わせている。

 

 

 

さて。
というこの2つの話を、
少し前、クライアントさんとしたところだったのです。
「何を他者に伝えるか?」
について。

 

(ですので、自分の中から真に湧いてくる、断ち難い思い、
最も興味あること、最も伝えたいことを伝えればいいのでは!と
お伝えしてみたところでした)

 

 

今この瞬間、
「何を伝えるか?」
「自分とは何か?」
「これから自分は何を表現するのか?」

 

で迷っている人がいたら、
よろしければこの話、何かの糧にしてください。

 

 

 

(絵は、想像だけで描いてみたトトロ。似ているけど何かが違う…。
こういうのを「これじゃない感」というんでしょうか)

 

「自分に戻る」ことが今、一人一人のやること。最も大切なこと

 

 

 

 

さて、セッションで話を聞いていると、みんな話していることはそれぞれなのだけど、
つまりは「ズレを戻して」自分の「中心」に戻る作業をして、
自分の「中心」を再確認して、つながって、
そして再び自分の生活に出発しているんだな、と思います。

 

 

「グリッド。
碁盤の目。
そこに一人一人が立っている。

 

が、
これまで、全員がズレていた。
自分の本来の場所から、なんらかの理由でズレた位置に立っていた。
一人がズレると、その隣も、そのまた隣も…と、
全員が押されてズレ始める。

それが今まで。

 

 

けれど、逆に、
一人が気づいて自分の位置に戻ると、周りも押されて「中心」にもどり始める。

 

みんなが『自分の位置』に戻る時代がやってきた」

 

 

 

 

 

いう内容が載った本を買ったのは30年前。
今でもとても鮮明に自分の中に刻まれています。

 

 

自分に戻る。自分を生きる。
それが一番大切で、わたしたちはそのために生きているのだ、と思います。

 

自分の本質。
自分の本来の位置。
自分の周波数。
自分のリズム。
自分が本来もつ響き。
(わたしはこの表現がとても好きで、感覚的にもしっくりくるので、昔から使っていますが)

 

 

どんな表現でもいいんですが、
そこにいる。それを生きる。
それより他にやることはないし、
それだけで、その状態で生きているだけで、
わたしたちは周りに貢献出来ているのだ、とつくづく思います。
(まあ、貢献するために生まれてきているわけではないですが)

 

 

 

 

そして、
そのために、わたしたちのような役割(仕事)のものもいるんだな、と思います。
いわば「調律の場」を作る役割。
「調律」の手伝いをする役割。
「声を聞く」ことをたすける役割。

 

 

 

 

 

今これを読んでいる忙しいあなた。
自分の調律をしっかりとしてください。
「その時間」を取ってください。

 

なるべく日々の中に小さく、細やかに散りばめてください、と。
(そのお願いを、クライアントさんにも改めてしたところです)

 

 

 

一人になって、自分に声をかける時間をとってください。
あなたが一番ほしい言葉は、
結局自分で自分にかけることでしか、
本当には満たすことができないものなのです。

 

 

 

 

 

旅人が旅の途中、ふと立ちよる

 

せんせんと清水の湧き出る泉。
柔らかい下草の生えた木漏れ日美しい木陰。
暖かい焚き火の燃える居心地よい洞窟。

 

そんな場所と時間を取ってほしいと思います。

 

 

そこで、
この世界で誰よりも大切な、最も近しい、
ずっと共に歩んできたパートナーである
「自分自身」と、ただ共にいる時間、
そして声を聞く時間、語らう時間をとってほしい、と思います。

 

 

 

全てはそこから始まる、
と思うこの秋なのですよね。
改めて。
(ざっくりですけれど)

 

 

 

 

 

(写真は、車のフロントガラスに乗っていた桜の落ち葉。
綺麗だったので、一枚だけ「お土産」と、持って出かけたところ、
知人はとても喜んでくれ。
こういうものを「美しい」と喜んでくれる感性がとても嬉しかったんでした)

 

 

夏休みが始まったので、世のすべてのお父さんお母さん じいちゃんばあちゃん先生方にエールを送っておく

 
 
 
(写真はやっと撮れた蜻蛉。3回飛んで行かれて、4回目のトライ。
羽根が綺麗ですよね)
 
 
 
 
 
ついさっき、
隣のテーブルにブルーシートやら何か、
工作の道具やらを山ほど持った
女性たちの一団がやって来。
 
 
 
 
あ〜、子ども達のために何か準備をしているお母さんたちだな、と思い
 
 
「席、変わりましょうか」
 
 
と言ってみたところなんですが。
(わたしのテーブルの方が広かった)
 
 
 
 
 
 
 
数日前、正午。
朝顔の鉢と一緒に歩道橋の上を
たくさんの小学生が歩いているのを見て、
 
 
 
「ああ、始まったなあ〜夏休み」
と。
 
 
 
この数日、
いろんなお父さん、お母さん、先生方…の話を聞くにつけ、
 
 
 
 
「世のお父さん、お母さんって、こんなに考えて、頑張ってくれているのか(くれていたのか!)」
 
 
 
と、
なんだかもう感動することしきりなのです。
 
 
 
 
 
生活のリズム。
体験。
どんなふうに作っていこう、どんなふうにデザインしよう…。
(確かに。放っておくと、恐ろしいほど「安きに」流れてしまう、それも子ども)
 
 
 
 
 
 
 
どんなふうに子どもたちと過ごそう、
楽しませてあげよう、一緒に楽しもう、と。
 
 
そんなお父さんお母さんの
夏の「戦略」「プラン」「計画話」「企み」を聞くにつけ、
 
 
 
「すごい…」
 
 
 
と思うのです。
(何か、すごく特別なことをする、とそういう話ではないのですよ、念のため)
 
 
 
そこに感じるのは、やっぱり大きくいうと「切なる願い」でしょうか。
 
 
 
 
 
 
子どもにとっても40日というのは、それはすごい時間です。
 
 
 
 
 
 
中学生でさえ、40日経って会う子どもたちは、
明らかに「大きく」なっていた。
 
どこが、というのではない。
何が、というのでもない。
けれど、明らかに表情が変わり
(いろんな方向、いろんな意味で(笑))
 
 
 
 
そうですね。
細胞に満ちている「もの」の質が、一学期までとは違っている。
 
 
 
 
 
40日間という時間がどんな時間であったか、
それが、その子どもの表情や視線、雰囲気の向こうに透けて見えるような。
 
 
 
 
 
 
 
 
子どもにとって、黄金の時間。
それが夏休み。
 
 
 
 
 
 
自分の子どものころを思い出すに、
暮らしが順調であった時も、そうでなかった時も、全てをひっくるめて、
 
親が「その時の精一杯」で共に過ごしてくれた
夏のいろいろな時間を懐かしく感謝すると共に、
 
 
 
 
「ああ、世のお父さん、お母さん、お疲れ様…頑張って!」
(だれんごとやってください!)
※鹿児島弁です。「疲れないように」
 
 
 
 
 
 
と思う、今日、7月24日なのです。
 
 
 
 
 
 

「なぜコンビニの前に座っていてはいけないのか」を子どもになんと説明するか

 

 

 

 

 

 

つい最近、(誰かの記事だったか、動画だったかで)見たのですよね。

 

コンビニ前や駅の構内で、
地面にペタッと座って飲食している子達がいたとして、

「草っぱらなんかでもじかに座る。どうしてここだといけないの?」

と問われたら、なんと答えるか、と。

 

 

で、その記事だったか、動画だったか…に、こういうコメントが。

「コンビニや駅の構内だと、
公衆トイレなどに行って、みんなそのまま歩いているから汚い。
なのでダメ、と子どもには教えています」

 

 

 

本当にその通り。
けれどでは、そこがもし、ピカピカの床で、
絶対に菌やウイルスの入り込む余地のない場所だったら
座ってもいい、

ということになるのかしらん、と。

 

 

 

 

で、わたしの率直な感想は、

「理由が…いるか?」

でした。

 

 

 

 

なんというか。

「理論」。「理屈」。
よく言われる「エビデンスは何ですか?」的な。
それがないものは存在の余地なし、みたいな昨今。

 

 

そんなものは全然「通って」いなくとも、

 

「とにかく良くないの」
「それは美しくないの」

 

という精神はもはや通用しないのかしら、と。
(お天道様が見ているから、的なですね)

 

 

 

 

 

 

 

知人が「今、仏教と神道の本を読んでいます」
と。

 

 

「自分たちはどうも、以前であればあれば自然と
『もらって』(受け継いで)
きたものを上の世代からもらえていないんじゃないか、という感覚があり」

 

 

 

 

ということなんだそうで。
(わたしから見ますと、その方、全くもって、そうは思わないんですけどね)

 

 

 

で、
ご自身の子どもに何を手渡すのか、にあたって、

 

「では、自分で再度見つけるしかないか」

 

と。

 

もらえていない、受け継いでいない、どこかで断絶している、のならば、
自分で知り、取捨選択をし、
自分で再編し直さねばならない、

 

 

 

 

と思ったのだそう。

そのためには知識が必要。

 

 

 

「根っこ」を知ることが。
揺るがぬ「根っこ」。
「真善美の根っこ」を知り直す必要がある、出逢い直す必要がある。

 

 

 

それはなんだろう??
と考え、「仏教」「神道」というものにも触れてみよう、
と思ったんだそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

これまでも何度か書いていますが。

「根っこ」を知らないもの、
根っこと繋がっていないもの、は弱いですね。
(基本・土台・型がないものは、とも言える)

 

 

 

とうとうと流れる時の中で、
自然と形作られてきた「道理」を無視して作ったものは、
どんなに「いい方法だ」と思った仕組みや考え方でも、
数年経つと、目まぐるしく変わる時の中で、
瞬く間に「合わないもの」「使えないもの」になっている感じがします。
(「時代の徒花」で笑いで済めばいいんですけど)

 

 

 

 

 

わたし達は今、大きな渦の中で、
何を信じていいかわからない。
何を支柱として生きていいかわからない。
だから、

 

 

「(有名な)この人が言っている」
「これが流行っている」
「みんながこうしている」
「『成功』している人がこうやっている」

 

 

を追いかけ、
追い求め、
右往左往している。

(この状態、「精神的孤児」という言葉で、以前書きましたが)

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、わたしたちが、
「正しい」「これが当たり前」「ずっとこうしてきた」
と思っていることも、歴史を辿れば、
戦後ほんの80年でできた「常識」であったり、
わずか160年前には全く違っていた、ということも多々あるわけで。

 

 

 

 

 

先に書いた知人が、
「わたしたち日本人を形作ってきたもの」
(自然、風土に自然と育まれてきた文化、価値観、身体観)

 

 

の源流を求めて仏教と神道の本も読んでみよう、と思った(切なる)氣持ち
わかるなあ、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

彼は、感じたのだろうと。
わたしたちが「こうだ」と思い込んできたことは、
案外「そうじゃないものもある」ということに。
ぐらり、足元が揺れ。

 

 

 

 

そして彼はきっと思ったのです。
自分の子どもたちを「孤児」にしたくないと。
デラシネ(根無し草)にしたくない。

 

 

 

 

たとえ世の中がどんなに渦巻いていたとしても、
自分の足で立って。

 

 

他者の作った真実ではない、自分の真実を。
「自分にとっての真の幸せ」を、
(それは自身の心にも身体にも至極自然で心地よく、なおかつ、
世界と自然に調和したものだと思うのですが)

 

 

生きる人になってほしいと思ったのだと思います。

 

 

 

 

 

 

決して色褪せない「根っこ」を。美しさを。
幸せに生き抜く力を、

 

子どもたちの身のうちにすっくと、しなやかに
立ち上げてあげたかったのかなと思います。
(本当に、何よりの宝だと思うんですよね)

 

 

 

 

 

 

※写真は、わたしの部屋の紫陽花です。愛おしきかな😍

 

 

 

 

この地球上に、誰一人として「同じ人」はいないと改めて実感する。 例え同じことをやったとしても、全く違うものが出来上がるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

ウエディングプロデュースの会社にいた頃の話なんですが。
当時流行り始めていた「人前挙式」の台本を、
近隣のホテルの婚礼担当の人たちがもらいに来ていたのです。

 

「どんな風にやるのですか?」
「進行台本を下さい」

と。

 

 

 

 

 

わたしのいたプロデュース会社の社長の方針は、
「惜しげなく、全て与える(空いた空間に、また新しいものが入ってくるのだから)」。

 

 

 

 

同地域のホテルの方々にも、台本や、
その際に使う革のフランス製(だったかな?忘れた)のかっこいい署名シートや…

そんなものを全て。

 

つまり「挙式を美しく、厳かに、新郎新婦とご列席の方々、全ての心に
一生残る最高の時間と空間になるための演出を」

惜しげなくお伝えしていたと記憶している。
(今考えても本当にすごいな、と思う)

 

 

 

 

 

 

で。
いつだったか。

プロデューサーを辞めてからだったかもしれないんですが、
「見た」のですよね。どこかの式場で。

とてもそっくりな台本と進行で人前挙式をやっているところを。
その時、ちょっとびっくりしながら思ったのです。

 

「同じものをやっても、こんなにも違うものなのか」

 

と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうしてこのことを思いだしたかというと、
知人がこの度、新しいことを学ぶことになりまして。

 

で、その方が、ちらっと、
「他にもやっている人はいるし、もっと早くから取り組んで、もはや形になっている人もいる。
けれど…『どうせ自分は』と言ってしまうのはもったいない」

 

 

と。
ほんとうに、その通り!(どうせなんて思う必要なし)

 

 

 

 

「これまでに様々な体験をして、いま、この瞬間にいる、という、
その『これまでの体験』込みですごいと言いますか。

あなたが今後、されることは、
それ単独ではなく、これまでのあなたの『すべて』の上に乗っかって、
構築され、これまでの全てと渾然一体となって、
ますますあなたならではの『価値』を発揮していくことになると思います」

 

 

 

とメールを送ったのですが。

 

 

 

 

 

 

世の中の1000人が1000人、同じことをしたとしても。
この世の中に形となって現れるものは全部違う。
元は同じ水でも、あなたという「地層」を通って、
唯一無二、その人だけの「ミネラル含有の水」になって滲み出てくる。

 

 

子供のころの記憶。身体に刻まれた体験。
やってきた仕事。
喜び、悲しみ。
何度となく味わってきた心震える感動の瞬間
本当の望み
そして、何より「それ」を通して、どんな思いを表現したいのか

 

全て、みんな違う。

 

 

 

 

 

こんなにも違うのに、
その「唯一無二」の「そのあなた」を通して出てくるもの、
この世界に表出されるものが、ありきたりなものであるわけがない。
そんなことあるわけがない。
そして、この世界には、

 

 

「そこがいい!」
「あなたのそれこそがツボにハマる」

 

 

 

という人たちが必ずいる。
そういう人たちと出会うことになっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

例え万人「そのこと」をやっている人がいたとして、
神様は、「あなたに」「あなたの方法で」
表現してほしいのだ。
発信して欲しいのだ。

だからこそ、神様はこんなにもたくさん人間を作った。

 

 

 

 

 

 

 

 

早いもので、今年もあと少し。
2023年、何かを始めようと、少しドキドキしながら動きだしている「あなた」。
よろしければこの言葉、心の中にinしてお進みください。
(心から応援しています)

 

 

 

 

 

生きるために不可欠だったのに、ほとんどの人が十分には与えられなかったもの。 そして、満たされるまで一生追い求めてしまうものー『ニーズ』の話

 

 

 

クライアントさんから「卒乳」の話を聞いて、いたく感動したのです。

 

 

 

「今日は息子の卒乳開始日です」

の言葉とともに、その様子が綴られた文章が。

 

 

 

 

 

前々から丁寧に丁寧に、息子さんと時間を過ごし、言葉かけをし、思いも話し…

と、入念に準備をしてきたらしく、いよいよその日。

 

 

 

 

「先ほど、『最後のおっぱいねー』と、

息子とおっぱいタイムを過ごしました。

 

おっぱいバイバイできる?

と聞くと、

できる、

と言ってくれました。

 

 

 

そして、

あ~っ(ぷはーっ)

たくさん飲んだよー

とおっぱいを離してくれました」

 

 

 

 

 

それを読んで、

先も書きましたがしみじみと感動してしまい。

 

 

 

「ああ、これなんだなあ」

 

 

 

十分に、存分に味わって、飽きるまで味わって、

そして降り注ぐ愛の中で卒業し、

次のステップへ行くのが当たり前なのだ。

 

 

 

 

 

でも、大体みんな、まだまだ欲しいのに、十分に与えられないまま

「引き剥がされて」心の中で泣き叫びながら、

「次へ」行かざるを得ない。

「大人に(時間的なものだけ)」なってゆかざるを得ない。

 

 

 

おっぱいのことだけではありません。

いろいろな場面、感情について、のことです。

 

 

わたしたちは、子どもの頃、自分が欲しいほどには存分に与えられず、

大人になっていく。

そういうものを「ニーズ」というのだ、とコーチングと出会った初期の頃に学びました。

 

 

 

●ニーズ

=生きていく上で、とても必要なものだったのに思うほどに満たされなかったもの。

無意識のうちに、満たされるまでつい追い求めてしまうもの。

(赤ちゃんがミルクを求めて泣き続けるように)

だいたいその根っこは「安心」「承認」「関心を持たれる」「愛」などに帰着する。

 

 

 

 

 

 

大なり小なり、みな、なんらかの「ニーズ」が心の中にあって、

胸の中で疼く瞬間があるのではないでしょうか。

わたしもよく。

 

 

何かに羨ましさを覚える瞬間。

自分が低いものに思える瞬間。

多くのものを手に入れなければ、と焦燥感にジリジリと炙られる瞬間。

 

 

 

 

 

「わたしたちは、なにかしらかみな、「ニーズ」を抱えて生きている」。

 

 

考えてみれば、当たり前のことで、

わたしたちの親自体が、ニーズを抱えていたわけです。

親自体も、「十分に与えられる」ことなく大人になってきた。

その親も。

またその親も。

(ずっと続く、ニーズの連鎖、負の文化的遺伝子、なのです)

 

 

 

ですので、どこかでそれを終わらせなければなりません。

そう、わたしたちで、終わらせなければなりません。

次へそれを渡してしまってはいけないのです。

(と、わたし自身、ずっと思いつつ生きてはいるのですけれどね)

 

 

 

 

 

では、その「ニーズ」をどうやって満たすか、なのですが。基本、自分で満たすしかない。

 

色々やってみたのですけどね。

人に満たしてもらおうとしたり。

まだ、ニーズという言葉を知らない20代の頃、結果的にそういうことをしてしまっていたなあ…

と思います。けれど、他人のそんなものを背負い切れる人は、

どんなに親しい人でも、存在しない。

 

 

 

 

 

 

 

では、ここから、ニーズの満たし方です。

 

 

①自分は「ニーズ」を持っている、と認める。

(注目してほしい、認めて欲しい、愛して欲しい、などなど…自分の中でそういう感情が湧き上がった時に、

「これはニーズだ」「今、自分の中でニーズが荒れている」と認める)

 

 

②それにOKを出す。

(いいよいいよ、まあしょうがないよね、とそれを受け入れる。

「ないこと」には絶対にできません。一時的に押さえ込んでも、ますます「ニーズ」は荒れ狂います)

 

 

③満たす。

1)自分で自分に声をかける。

(欲しかったよね、悲しかったよね、等)

 

2)自分を満たす行動をする。

(好きなことを、やりたいことをする。心地よい環境に自分を置く、等)

 

3)満たしてもらえるよう、他者にリクエストする。

(褒めて欲しい、ねぎらって欲しい、スキンシップをとって欲しい、等、伝える)

 

 

 

 

③の3)はとても効果的なので、ぜひやって欲しいのですが、注意が必要です。

「自分は今、こういう状態なので、それが欲しい。なのでこうして欲しいのだ」と、

しっかりと「リクエストする」ことが大切です。

 

 

 

これをせずに、

(しっかりと相手にオーダーせずに)

欲しいものだけをなんとか掠め取ろうとしてしまうことが結構多いのですよね。

 

 

 

そんなものには全く関心のないふりをして、その実、人から奪おうとする。

(よくある「マウントを取る」と言われる行為などはこの最たるものでしょうか)

 

 

 

以前とある本で、そういう行為をハワイでは「ゴキブリする」というのだ、

と読んだことがあります。

 

 

 

 

以前は「伝えること」が苦手で、

思わせぶりな態度を取ってみたり、意味なく不機嫌になってみたりと、

身近な人から「ゴキブリする」行為をわたし自身、していたように思うのですが、

今はさすがに、だいぶ「ニーズ」を満たす方へ転換することができるようになりました。

(褒めて欲しいので、この話をします。みんな褒めてね!自慢するね!と言えるようになった)

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は、「感動の卒乳」の話から

「ニーズを満たす」ことについて書いてみました。

 

 

 

 

誰にでもあるもの。

人生において、それが満たされるまで追い求めてしまうもの。

 

 

幾つであっても、どんな立場の人であっても、奥底に「ニーズ」が存在する。

それが時に、その人の意識や「真の願い」に反した言動につながってしまうことがある。

様々な人の話を聞いてきて、そんな場面を多々見、体験してきました。

 

 

 

 

 

自分自身のために。

そして、周囲の大切な人たちのためにも。

自身の人生、全ての場面の「土台」として、全ての人が、見返し、整えるに足る大切な部分です。

 

 

 

「変わった」んじゃない。元々持っていた「力と輝き」にやっとアクセスできたのだ

 
 
 
 
 
 
研修やセッションをやっていて、
 
「すごいですね。(受講者が)変わりましたね!全然違いますね(はじまった時と)」
 
と言われたりしたとき。
そういうのって「殺し文句」と言いいますか、
ついつい「ですよねえ!(喜)」と
嬉しくなってしまう危うい瞬間ではあるんですが、
 
 
「変わった」のではなく、「もともと持っていた力が発動し始めた」
 
 
という言葉が本当なのです。
(そもそも、人を変えることはできない)
 
 
 
わたしのクライアントさんで、
自身のクライアントさんがその「劇的な変化」を起こしたという方が
喜びの報告をくださったんで、
わたしも嬉しくて、盛り上がって返事を書きました。
 
 
 
 
 
『その人を変えたのはあなたです。
 
いえ、本当は「変えた」という言葉は当たらず、(人を変えることはできないので)
 
その人の中にある「力、輝き」。
そこを揺さぶって、共鳴を起こして、目覚めさせ、引き出したのは、
と申しましょうか。
 
 
 
すごいです。本当に。
 
そこを揺さぶるには、自分の「それ」をそちらへ向けて、思いっきり投入し、
まずは自分自身を「振動させ」「鳴らす」しかないのですよね。
 
 
相手に振動が伝わるには、その何倍もの熱量が必要です。
それは、決して、言葉のみでは成し得ることではない。
 
 
 
 
 
 
 
まさに音叉と同じです。共鳴現象。
 
あなたは、それをやってのけたのです。
これが、どれだけ尊いことであることか…。
 
 
 
そう。
すごいね!目標達成やったね!ももちろんなのですが、それを超えて「尊い」ことなのです。
 
 
 
人が、その人の最も強く美しい本来の響きを奏で出す。
これほど美しくて感動する瞬間があるでしょうか。
 
 
 
 
 
 
これからは、
相手の中にある「本来の力(響き)」を信じ、揺り動かし、
その人が、自分でそこにアクセスできるよう「回路を開く」手助けができる…
 
そんな力とエネルギーと、思いを持った人が活躍していく、
そう心から思います』
 
 
 
 
 
 
 
最後のところが本当に恋願うところで、
特に、教育現場などには、こういう人が増えてほしい、と(それができていなかった自分を思い出しつつ)
 
 
願う次第なのです。
 
 
 
 
 
 
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