
強制デジタルデトックス♪レポート

明けましておめでとうございます。
今年も皆さんにとりまして、お一人お一人の持って「生まれた響き全開」の
素晴らしい年となりますよう心よりお祈りいたします。
元旦、初日を撮りに行き、
ものすごく、それはもうものすごく頑張った割に
(だんだん日が高くなってきて、目が痛くなるくらいに)
今一歩「よし!」というものが撮れなかったので、
今年の年賀状は上記のようになりました。
素材サイトからダウンロードした梅の一枚を使って作成。
そして、「素敵な初日」なんですが、
知り合いの方々がそれぞれの「マイベスト初日」を送ってくださり、
「なんだあ〜、ここにあったのかあ」と。
年末、ギリギリまで仕事をしつつこの年始を迎え、今日は3日。
改めて実感したことは、
「無理しない」
「適度」
「良い加減」
「このくらいで…」
という風が吹き抜けていくような「軽やかさ」の重要性。
(特にこだわりすぎのきらいのあるわたしにとりましては!)
今年は、そういうふうに一年を楽めたら最高だなあと思っています。
どうぞみなさま、本年もよろしくお願いいたします。
少し前、11月下旬にFacebookにあげたんですが、
こちらにも書いておきたく。
では早速ですが、この秋感じた「すごいぞ日本!」シリーズ、3本です。
❶大相撲、呼出さん(若い子)の蹲踞《そんきょ》がすごい!
❷鹿児島名所、仙巌園には65年前から咲いている菊がある!
❸その仙巌園内の博物館『尚古集成館』が慶応元年当時に戻っているぞ!
* * *
❶大相撲九州場所での話。
「本日の取り組み」を書いた用紙を
行事さんが一枚づつ観客に披露する場面があるのだけど、
その横に控える呼び出しさんの「蹲踞(そんきょ)」がとても美しい。
多分5分くらいはかかるコーナーだと思うのだけど、
その間微動だにせず、
背筋をまっすぐに伸ばして蹲踞の姿勢をキープし続けている。
上半身は「用紙をとり、回しながら観客に示す」という結構な動きがありながら、
下半身はスッと気持ちいいくらいに
地面からまっすぐに立ち上がって安定している。
今、このくらいの年齢の子で、きれいに蹲踞ができる子というのは、
正直とても少なくなっている、と思う。
(もはや生活の中で、この姿勢をすることがなくなってきていますんで)
そして、
これらの「身体の使い方」ができなくなってきていることが、
心身ともに日本人に悪影響を与えているのでは、というのは、
いつも書く通り。
(わたしは「よろしくない影響」だと感じているけれど、
そこは人それぞれかもですが)
これは、やはり相撲の世界に入ってから訓練をするのだろうか。
それとも日々の修行精進の中で自然と身につくものなのだろうか。
(多分後者だろうとは思いつつ)
その旨、聞いてみたく「日本大相撲協会HP」へと行ってみましたが、
「問い合わせに個別の回答はありません」とのことで。
いづれ明らかにしたいと思っているところです。
* * *
❷正確にいうと、65年間「ずっと咲き続けている」というわけではない。
(季節ガン無視でそんな菊があったら逆に怖い)
65年前、「仙巌園菊まつり」を始めた時から、ずーっと
子、その子、そのまた子…
と、一つの株から受け継いで、咲かせ続けている花がある、
ということです。
「今咲いているこの花、65年前から同DNAってことですよね!」
と、仙巌園の菊のプロフェッショナの方を前に、
つい大興奮してしまいました。
すごい。本当にすごい。
ちなみに、菊のプロフェッショナルさん、
菊まつり前数ヶ月は、
「もう、ビニールハウスの前で寝たい」
くらいに緊張されるらしく。
鹿児島の仙巌園といえば、錦江湾沿いの海端。
お殿様のお屋敷なので、一番景色のいいところに陣取っているのですよね。
けれど、それだけに台風直撃ルートにもなっている。
この間の台風でも、施設の屋根が剥がれていましたし。
そして、菊。
台風となれば、六千鉢くらいを避難だせるのだそう。
生きているものを「その日」に向かって準備し、
ピークを持ってくるということの大変さ、
伝統の重さ、責任の重さ、楽しさ、職人さんの矜持…
そんなものもじっくりと感じられる「仙巌園菊まつり」。
機会があったら見に行かれてください。
(そして、65年ものの菊はどれですか?と聞いてみてください。
きっと、職人さんが喜ばれることと!)
* * *
❸慶応元年の壁に頬を押し当て、すりすりして
慶応元年の歪んだ窓ガラスに我が顔を映して、慶応元年の重い鉄の扉をキイキイできます!
(※すみません、キイキイはできません。叱られます)
と、上のようにfacebookに書いたところ、
知人から「公子さん、嬉しそうねえ」と書き込まれていたんでした。
はい、嬉しかったです。
この10月に全面改装し、リニューアルオープンした
「尚古集成館」。
慶応元年(1865年)に竣工した日本最古の「石造」の洋式機械工場の建物なのですが。
以前は、窓を塞ぎ、館内を黒で統一し、外光を遮断した中で、
ライトを駆使して展示の空間が演出されていましたが、
今回行ってみると…
戻ってました。
当時のまんまの白い壁。
当時のまんまの窓から柔らかく差し込む自然光。
「ああ。これって…慶応元年と同じ明るさなんだなあ」
としみじみ。
窓はところどころ歪んだ板ガラス。
当時は丸いガラスを板に伸ばしたんだそうで、
自然と歪みができたんだとか。
(この歪みが堪えられません)
鉄の扉も、全部そのままそこにあって、
天井を仰ぐと、なんだか昔ここで仕事をしていた人たちの
ざわめきや熱気が聞こえてきそうな。
ちなみに、
直径3メートル?くらいの鉄の巨大な歯車は、
「受付ブース」の外枠になっていました。
「これ、思う存分触っていいんですよね」
「どうぞどうぞ😃」
ということで、ベタベタ触ってきました。
「保全」と「活用」。
これが、仙巌園に課せられた使命なのだそうで。
この2つを両立させるため、
ほんっとうに「あの手この手」。
(という表現ですととても軽くなってしまいますが)
頑張ってらっしゃるんだなあと。
ちょっと掘ると「何か出てくる」ので
(歴史的なものがですね)
掘れない。
仕方ないから施設を作る際には「土を盛る」。
台風があると壊れる屋根。崩れる土壁。
それもサクサクっと修理できるわけではない。
(手続きが山ほどあるらしい)
「保全と活用」
の難しさと努力をたくさん聞いて帰ってきたのでした。
そして、小さなことなんですが。
この日、仙巌園の駐車場に止める段になって、
料金が値上がりしているのにちょっとびっくり。
けれど、帰る頃には、
「いいよいいよ〜、仕方ないよ〜😃
値上がり分、菊の苗買ってね♪」
という気分になって帰ってきました。
「知る」(共感する)ことの大切さも、味わって帰ってきたことでした。
(※ちなみに10月1日から入園料も改定されていますんで
行かれる方はチェックです)
* * *
以上、この秋の「ここがすごい。素敵な日本」シリーズでした。
今朝ほど清里の街の再生をする人たちの番組を見ていて、
なんだか悲しいやら切ないやらの気持ちになっていたところでした。
清里高原がブームになった時、
あそこに一斉に押し寄せていた若者たち
(パステルカラーの服を着て「聖子ちゃんカット」をしていた人たち)
とわたしは大体同じ年代なのだけど。
当時から幕末オタクの神社仏閣好きということもあって、
あの、キッチュな偽物(いかもの)チックな清里の雰囲気に、
なんとなく
「恥ずかしいな…」
という感慨を持ってみていたのだけど。
けれど、そんなわたしですらパステルカラーのものを、
何かしら身につけていたように思うので、
時代?流行り?空氣というものは本当に恐ろしい。
その番組には、清里の地元の人たちが描かれていたのだけど、
みるからに「本当に難儀だったろうなあ」と想像するに十分で。
ブームの時。
外からどっといろんな人たちが入ってきて、
「キッチュな」「イカものな」(言い過ぎ?)
お店をどんどん建てて、人が集まって。
その雰囲氣に乗って、地元の人たちも同じようにして。
「ああすれば儲かるのだ」「乗り遅れるな」と。
けれど、ブームが去った途端に、
外から来た人たちはさあっと潮が引いたように清里から去っていき。
後は、食い荒らされた土地に、
歯抜けのような空き店舗だらけの街。
その中にぽつねんと取り残された自分の店。
辛かったろう。
悲しかったろう。
歯痒かったろう。
絶望したろう。
と思うのだ。
父親からのレストランを引き継いだ一人の男性。
父親の工夫と努力で繁盛していた店を、
ブームに乗って改築し、席数を増やし、
効率優先で多くのお客を捌くために冷凍食品を使うようになり、
そしてブームが去った時、お客も去っていった。
お店は負債を抱え、閉店。
今、がんとして加工品を使わず、
パスタ麺を自分で打ち、カフェを続けるその人。
(喉から手が出るほど加工品を使いたいけど、でも使わない、と言っていた)
きっと彼は深い後悔の中で、この30年間
「自分とは何か?」「自分はどう生きたかったのか?」
を探し続けてきたのではないかと思え。
「清里だからお客が来るんだと思っていた。
でも、そうじゃなくて、いいお店があって、
それがたまたま清里にあった、じゃなきゃいけないんだ」
いうのはその人の言葉。
清里(のような、もしかしてあちこちにあるかもしれない街)が再生するとき。
今度こそ、その土地に根ざす人たち、一人一人の意思と、知恵と、
まことなる自立の心、
「こうしたい!」
「これが自分たちなんだ!」
「これを大切にするんだ!」
という心からの思いで街が息を吹き返すとき。
日本も真の意味で再生していくのではないか?と思える。
それは結局、
わたしたち一人ひとりの心の中、在り方と無縁ではなく。
(全てはフラクタル)
清里の人々だけでなく、
この大きな変化の時、
わたしたち日本人一人一人に、刃のように突きつけられ、
問われている、
大きな「喫緊の課題」なのだろうとも思える。
という言葉は(タイトルの)
徳川慶喜が大政奉還をした際に、龍馬が慶喜に対して言った言葉、らしいんですが。
知り合いがPTA活動や地域の活動に尽力していることは
結構前からFacebookでおりに触れ見ていたのだけど、その知り合いから、
「市議を目指しているので、よかったら応援してください」
のメッセージが来たときに、
頭の中にぽやん…と浮かんだのは、
「…かくすればかくなるものと知りながら…」
ご存知の通り、吉田松陰の歌で、
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」
(こうすればこうなるとはわかっているけれど、やむにやまれぬ思いが私を突き動かすのだ)
議員になるとは、
わたしのイメージは「盆も正月もない24時間の仕事」。
自分の全人的なもの、
全てをかけて取り組まねばならない仕事であって、
本人だけでなく、
家族全員の在り方も全方位に向けて問われる。
そんなものはもはや「仕事」という言葉でくくれるものではない。
なので、
「ああ、本当に、やむにやまれぬ思いがあってのことなのだな」
と素直に思ったのでした。
そして、次に浮かんできた言葉が、タイトルの言葉だったわけです。
知り合いは、きっと「やるだけやった」んだろう。
自分の立場で、学校と、教育と、子どもを育むべき地域に関わって、
やるだけやって、
そして最終的に選んだ道なのだろう、
と。
ちなみに。
知り合いが「市議を目指したい」と言ったときに、
2つの反応があったそうで。
一つはわたしと同じ。
「よくも断じ給へるものかな」
な反応。
もう一つは、
「いいねー。当選したら何にもしなくてもお金入ってきて生きていけるもんね」
的な反応。
それを聞いて、改めて驚いたんですが。
(へええ〜😳❗️と)
さて。
「よくも断じ給へるものかな」。
誰の胸の中にも、
今の世の中への憤り、
「ああ、もっとこうであったら」
「人が自然に、健やかに、ただ幸せであれる状態はどこにある?」
(そうであれば、これからこの世界を生きていく若い子達に、
「どうだ、生きるって素晴らしいんだぞ!」といろんなものをもっと胸張って手渡せるだろうに)
という思いがあると思います。
そんな中。
自分には出ようもない勇氣の選択をした人に対して。
「すごいよね」
「頑張って」
という素直な感嘆の気持ちがこの文章を書かせているわけなのですが。
そして、その「思い」が実をむすんで欲しい。
勇氣を出して、無私の心を持って「断じた」人たちが、
その使命を全うできる場へと、
願わくば運んでゆかれますようにと、
これも素直に願っているところです。
直接仕事とは関係ないのですが、ふと浮かんだので書いて見ました。
(写真は仙巌園からの山桜。
この季節に思い出す歌といえば、
「敷島の やまとごころを 人問はば 朝日に匂ふ 山ざくら花」
というのもありますね。本居宣長。
ーわたしの中にある日本人の心とは?と問われたら、
それは朝日に美しく輝く山桜に感じ入るような心、だろうかー
というような意味)
知人の実家のお墓は、お父様がたくさんの想いを込めて作ったお墓なのだそうで、
それは坂を登った小高い丘の上にあるんだそう。
で。
そのお父様が数年前に他界され、
きょうだいでこれからの家のこと、
お墓のことを話しあうこととなったこのお盆。
「お墓をしまって平地の納骨堂に」
という意見が出たのは、
お墓をこれから次に繋いでいく可能性の高い
きょうだいの一人から。
「お墓を見る負担を子どもたちに残したくないから」
と。
ああ、そうだなあ〜、
と思いつつ、
どうも一抹の寂しさを感じ、なんともいえない氣持ちを感じ。
で、口にしてみたのです。
(繊細な内容ですんで、どきどきしながら)
「それを即、『負担』と捉えるということが…。
なんと言いますか、
長い長い時代の流れってものがあったんですもんねえ。
そういう時間をわたしたちは過ごしてきた(来てしまった)んですねえ」
知人も、わたしと同じような感慨を抱いていたようで。
けれど、知人は家を出てしまっているので「負担」と言われると
確かに、と。
で、自身の思いをどう伝えよう…と。
もうね。
頭の中が飛躍してしまって、
縄文時代みたいに「お墓は集落の中心」にあったらいいのに、
なんて思いましたよ。
お墓を中心に家が周囲に立っている。
死は隔絶されたものではなく、軽く「地続き」な感覚。
話が飛びますが、
少し前の番組「ファミリーヒストリー」で、
草刈正雄が父方のルーツを探す、という回がありました。
自分のルーツの片方が完全にない、わからない、
断ち切られている、
繋がっていない、
という感覚は草刈さんにとって、
(いえ、誰にとってもでしょうが)
本当にきついことであったと想像するのです。
自分を捨てた父親への言葉にできない思いと、
それでも、叔母やいとこがいた、という喜び。
父親の幼少期や育った環境が明かされていく
=自身の「源流」が初めて明かされ、繋がっていくという
そのプロセスが映し出されていました。
人にはつながりが必要です。
横のつながり(今生きている人たちとのつながり)はもちろん、
縦のつながりも。
時を超えた、立体的なつながり。
わたしたちは、全方位、360度、繋がって生きている。
生きている人。今はここにいない人。
形あるもの、ないもの、全て。
遺伝子を受け継ぎ、
たくさんの人たちの「思い」「願い」をもらい、受け継ぎ、
今、わたしたちはここにいる。
そして、その「つながり」へ思いを致す力が強いほど、
「無体なこと」はしない。できないものなのです。
山なんて崩せない。
海も川も汚せない。
なんで大木を切るんや!
そこの緑をなんで潰すんや!
と。
そう考え出すと、もう、他にもたくさん…
大切なもの、大好きなものががありすぎて。
(形あるものはもちろん、知識や伝統風習含め)
そういう感覚で世界を見ると、
自分を生かしてくれている、
支えてくれている、
エネルギーをくれる、
「宝」に囲まれまくって自分が生きていることに氣づきます。
そしてこう思う。
この繋がりの先端で今という時代を生きている自分自身も、
すごく大切なんだ、と。
存分に生きよう、と。
話が大きくなりましたが、
お墓って、そういうものの一つではないかな、
とわたし自身は思います。
自分自身の確認の場。
つながりを確かめ、実感する場だったりありがとう、と感じる場。
そして、子どもたちって「負担」と思うかな?
思う子もいるだろうし、
思わない子もいるんじゃないかな、
とも思うのです。
特に、これからの世代。
(親が「負担だ」と決めなくてもですね)
さて、
わたしたちは、これからどこへ行こうとしているのか。
今回の「お墓について」なんですが、正直、
「教育、間違ったんじゃないの⁉︎」
と思いました。
知人のお家がどうこう、と言っているのではなく。
長い長い間の「日本人」全体のことです。
この160年だか、戦後80年だかのことです。
大きな、この国の「流れ」のことです。
一体わたしたちは、何を捨ててきたのか。
何を受け取ってきたのか。
そして、次代に何を手渡そうとしているんでしょう、と改めて考えたこのお盆です。
(写真は先ほど行ってきた神社の大木です。苔がいい感じでした)
伝統料理を発掘、継承している人たちの活動を取材した番組があったのです。
その土地の女性たち(80代,70代)を中心に、料理をする様子が出ていたんですが、
それを見ていて、
「80代と70代って…こんなに違うのか」
とびっくりしたんでした。
何が違うかと言いますと、立ち振る舞いやコメントが、
「テレビ向け」
かどうか、という一点で。
その番組に出ていた70代の方のコメントや振る舞いは、
完全に「テレビでよく見るやつ」。
例えば…
「◯◯(食材の名前)の声をよーく聞くんですよ〜」とか、
「子育てもそうでしょう〜?」などなど。
(確かにそうなんでしょうけど、どうも、その人が「いつも使っている」言葉には聞こえず。
それに食材の声を聞くって、もはや使い古された表現にも感じるのですよね)
食材を混ぜるレポーターに、甲高い声で
「そうそう〜♪上手上手〜♪」と言いながら5本の指をぱあっと広げて、満面の笑みで、
顔の前でパチパチと手を叩く仕草。
若い女の子のタレントさんがよくやるのを見ますけど。
(何というか…ちょっとそぐわなく感じたのですよね)
わたしの中で、70代80代というのは
人生の年輪を重ねた、尊敬すべき「人生の先輩」であり、
酸いも甘いも噛み分けた、なんというか…
しっかりと軸を持って、大地に根を張った大木のような、
というイメージがあり。
(イメージというより願望、期待、願い?)
で、
はたと氣づいてしまったのでした。
「そうだよなあ…70代といえば、もはや『テレビの洗礼』真っ盛りの中で育っているわけだもんなあ」
と。
何がいいか。
何がかっこいいということか。
何が受け入れられるか。
どうあるのが幸せか。
物心ついた頃から、それは全部、「テレビが決めてきた世代」の走り。
その後、この会を立ち上げた
80代の女性のインタビューがあったのですが、
こちらはもう…低めの声でゆっくりと静かに話されるその感じに、
「自分の芯」から話をされる感じを受け。
きっと、テレビであろうが、誰であろうが、
この佇まいで、この声で、この言葉なんだろうなあと。
(枝振りの良い古木のようなかっこよさを感じたことでした)
たった10年のことで、
こんなにも違ってくるのか??
と。
日本という国の何か、歩んできた道の縮図を見てしまったような氣になったんですが。
さて。
70代と80代では…と書きましたが、
80代だからいい、90代だからすごい、ということではなく、
若いとダメ、ということでもなく。
多分に「個人差」だよなあと思いつつ。
それでも、ちょっとびっくりしてしまったので書いてみました。
(それに、言葉や所作に関して、わたし自身の「好み」が大いに入っているので悪しからず、なんですが)
ちなみに、
わたしがこの場面を見た瞬間、浮かんできた言葉を真正直に書きますと、
「ああ、70代もダメだなこりゃ〜」。
(誠に誤解を招きそうな言葉です。
「先達だと思ってたのに!」「頼れる先輩だと思ってたのに!」「自分たちと一緒かよ〜」
というショックが言わせた言葉ということで、大目に見てください。
くれぐれも世代ではなく、個人差ですし。わたしの「好み」の話ですし)
さて。
最近、「これからどんなふうに歳を重ねていくか」。
もみじが紅葉するように、身体も心も、さらに成熟していったその先に。
自分は、どんな姿で立ち続けるか。
立ち続けていられるか。
立ち続けていたいのか。
ということを、たまにですが考えるようになりました。
若い時にはただ、そこにあるだけで美しい。
溢れる生氣。
細胞から放っておいても発するみずみずしいエネルギー。
若いときは、誰だってそこにいるだけで、目を引く魅力に溢れている。
けれど。
これからますます「ごまかしのきかない」年代に入っていくなあ、と思います。
花が落ち、
深い深紅の紅葉のその後、
木の幹、枝…それらがただ厳然と、そこにある。
なんの飾りもなく、否応なしに晒されるとき。
そんな時、自分はどんな太さの幹を持ち、どんな枝ぶりでそこに立っているのだろうか。
過ごした時間が作り出した根の形が、幹が、枝ぶりが、
願わくばしっかりと自分の魅力になるような…
そんな時間を過ごしたいし、そういう姿でありたい、
(し、次の世代の前にそういう姿で立っていたい)
と思うのですれけどね。
* * * * *
※これはどこの桜でしたか。
ちょっとすごすぎる例を貼ってしまいました。
YouTubeで「生米からパンをつくる」というのをやっていたのです。
それがすごい。
大まか。
ダイナミック。
目分量。
「多かった」と途中で米は戻すわ、
指に材料はつくわ…
使うスプーンは計量用ではなくカレーのスプーンではないか。
で、それを見て…
「勇気出たー?‼️」(わたし)
お菓子、ほぼ作ったことがありません。
いえ、どっちかというとトラウマ?
(中学ん時、うちの班だけ黒焦げの物体を作り、
他のチームから「…あげよっか?」とおずおず同情されたな)
高校の頃は、
「趣味、お菓子作りです✨」
というクラスメートが調理実習の際に作り出す、
細やかなクリームの巻きバラを、
遠巻きに眺めていたものでした。
(輝いてたなあ〜、彼女)
(写真はわたしの好きな&これまたわたしに勇気をくれるパンの写真。
動画の「米粉パン」の写真ではありません)
話戻って。
パン、好きなのです。けれど。
小麦が苦手なので、米粉パンを食べたい。
そもそもクッキーレベルですら作ったことがないのに、
「米粉パン」
どうやって作るんだろう…
(遥かなる道のり。遠い目で途中で思考がフリーズするくらいに)
さてさて。
昨日、自然食料品店で、
「ドライイースト」
なるものを買ってきました(ふふ♪)
動画を見て、これは完全に自分にもできる!と☺️
(動画の人!ハードルを「ダダ下げ爆下げ」してくれて本当にありがとう)
そして、今思っているのは、
「お菓子作り経験ゼロのわたしが作ります!」
という動画、案外需要があるんじゃないだろうか?
ということ。
こういうのは、すべからく、
「得意な人」「知ってる人」が動画を上げるものですが…
お菓子の先生などは、この動画を見て、
「素人が、何がわからなくて、どこにつまづくのか」
がわかるでしょうし、
(ずっとその世界にいる人には「当たり前」「常識」なことが
外から見るとそうではない、ということ多々ありますし)
お菓子作ってみたいけど…
という人には、
わたしみたいに「勇気出たー?‼️」
ってことにはならないでしょうか。
米から作るパン、の動画の人の口癖は。
「適当でいいんです」
「これも適当でいいんです」
「これでできるんです」
「まあこんな感じで…」
その言葉と、ダイナミックな(テーブルに案外材料を落としつつ進むそれは)
わたしの、
「パンづくり」
「お菓子作り」
へのイメージ。
こうでなければ、ちゃんとしなければ、難しい、
いろんな道具がいる…
特別なもの。
等々を、粉々に粉砕してくれました。
後に残ったのは「わくわく感」のみ。
(誰でもできる!わたしでもできる!だって…「あれ」でいいんだもの・笑)
今感じているこの「軽やかさ」。
開放感。
わかっていただけるだろうか。
車の点検でたまにディーラーさんに行くんですが、
わたしの担当はとても若い女性スタッフさんで、可愛い。
よく「女がいう『あの子可愛いのよ』」は
あてにならないというけれど、本当に可愛い。
とある若い女優さんに似ているのです。
くっきりとした二重の目。
長い睫毛。
きれいな弓形のまゆからつながる鼻筋。
どれくらいそっくりかというと、
初めて会ったときに、打ちあわせ諸々をすっ飛ばして、
「大変失礼ですが、あの人に似ている、
と言われたことはありませんか?」
と聞いてしまったくらいに似ている。
ディーラーは今日休日か?と思うくらいに混んでいて、
5つあるテーブルは全て満席。
全てのテーブルに、男性のお客さんと、
それを接客する男性スタッフが座り。
プラス、整備士さんたちが車の状態説明のため、
ひっきりなしに
テーブルとドアの間を行き来している。
その間を、さらにスーツ姿のマネージャーらしき人が、
満面の笑みで挨拶をしつつ、
消毒スプレーを手に回遊しているという…
本当に、「わんわんとした」
という状態がぴったりの賑やかさ。
わたしは、車を預け、
その「わんわん」の中で一人、
席に座って本を読んでいたんだけど。
その中を、
時折聞こえてくる鈴の音のような声。
一卓、その彼女が担当している卓があり、
そこから漏れ聞こえる声なんですが。
例えは悪いかもしれないけれど、
あれはなんだろう…
荒野で一輪の花を見つけたような。
山奥をさすらっていたら、
清らかに咲く一本の薄桃色の山桜を見つけたような。
(荒野とか言って、他の人たちごめんなさい?)
本当にそうなんです。
彼女の声が聞こえてきた瞬間だけ、
ぱあっと場が華やぐ感じ。
華やぐというか、場が動く。
揺れるんです。
そして、そこにいい感じの「空氣が通る」。
涼しい風が吹く感じ。
(男声と女声の周波数の高さの違いとか、きっとあるんでしょう)
その場に、彼女の出す音があるのとないのとでは全然違う。
あの場に、彼女一人がいるのといないのとでは、
空氣が全然違う。
(その彼女、背はわたしより少し低いくらいで、
決して大きくはないんですが)
何を書きたいかというと、
彼女に「それ」を伝えたくてたまらなくなり、
(中村さんっ!遅くなりましたっ!と駆け寄ってらしたんで♪)
けれど、
若い女性に、
「職場の花って言葉があるけど
ホントウですね」
とか言ったら、
もしかして今はもうダメなのか?
差別、とか、蔑視とか、
そんなふうになるのか!?
と、そんなややこしいことがふっと頭をよぎったからなのです。
「いやいや、けど実際そうじゃん!」
(わたしの超実感)
この職場は、きっと、
彼女が一人、いるといないとではものすごく
雰囲氣が違うだろう、と。
彼女と話をする年配の男性。
わたしからは背中しか見えないけれど、
もう、声から嬉しさが伝わってくる?
(前に回って表情を拝見してみたい、と思いましたよ。
わたしまで笑顔になりそうな声音で)
女性と男性は違う。
持って生まれた「特質」が違う。
そもそも遺伝子からして違う。
年寄りと、若い子は違う。
当たり前だけど。
お互い、自分にない「違い」を愛でる気持ちは、
至極当たり前に思えます。
違いに驚き、
尊重し、学び合い、大切にする。
帰り際に
どうしても言いたくて、
おずおずと伝えてみたんですが、
(あなたがいるのといないのとではとても雰囲氣が違うと思う、
仕事の内容はもちろん、若いこと、女性であること全部含めて、
本当に素敵な存在感、と)
彼女はとても真っ直ぐに、
「そう言っていただけて嬉しいです(笑顔)」
と受け取ってくれました。
(ほっ)
「女性がいると場が和む」
「若い女の子がいると場が華やぐ」
元がそういう「もの」なんだから仕方がない。
つくり含め、存在そのものが、
柔らかくってみずみずしいんだから仕方ない。
見ているだけで、顔が綻んでしまうんだから仕方がない。
ちょっとまとまりませんが。
(注:彼女が女優さんに似ているから可愛い、
というのではなく、心根とか、その一生懸命さ全部含めて、
「花」というお話でした)
少し前に書いたブログに、
自筆の説明図「脳のキャパの図」を載せていたんですが、
https://ameblo.jp/businesskouko/entry-12623909885.html
上の文章を元生徒さんがシェアしてくれ、
「絵、上手いっすよね」
と、
コメントの中にさらり一言。
嬉しいよ。
とても嬉しいけれど…。
YOUは確かプロだったよね。
絵の仕事をしてたよね。
とこそばゆくなるわけで。
そして、
わたしはそんな彼女が中3の時、授業で美術を受け持っていた。
(こういうことがあるから、教員って仕事は怖い)
絵を描くのは好きだっんですが、
免許自体は別の教科だったもので、
(小さな規模の学校でしたんで)
「???」なことの方が多く、
放課後、一人で糸のこを動かしたり、
(足で踏むと、ドドド…と切れるやつ)
バケツをドプドプにしながら石膏を使ってみたり…
あれこれ練習していたもんでした。
彼女の「上手いっすね」に、
今になって感じる恥ずかしさと、
面映さと、
それから嬉しさ。
(大きくなって、元氣にしている生徒の姿を見るのは本当に嬉しいものです)
それにしても、
彼女のコメントを読んだ時、
嬉しいのと同時に瞬間なぜか、
「無理ゲー!」
と(心で)叫んでしまったんでした。
教員は、ときたま(いや、結構な頻度で)
「無理ゲー」をやらされる。
それは、
「畑違いのことをやらされる(ので嫌)」
という意味ではなくて、
何と言いますか…
「このきらめき、この才能、この持って生まれたセンスの固まりたちを前に、
わたしが何かをするの?」
というような場面がある、ということ、です。
もう、眩しくってしようがない。
自分の力不足がわかってしようがない。
そういう時はもう、
そこに一生懸命立っているしかないわけなのです。
(上の写真は、当時使っていたパステル。引っ張り出してみました。
どうしてボロボロかというと、
いろんな生徒に「せんせ〜、あの色貸して」「この色貸して」
と言われ、貸していたらこんな感じになって返ってきたからなのです・笑。
フタの絵も生徒のラクガキ)
* * *
《追記:オンラインセミナー、はじめました》
「おでんはじめました」
みたいなノリですが…。
オンラインは苦手だなと思いつつ、
7月末から試しに始めたZOOMセミナーですが、
やってみると、
オンラインならではの氣軽さの他にも、
オンラインだから出来る様々な可能性を山ほど発見し、
愉しくなってきたところでの、
皆さんへのお誘いです。
このZOOMセミナーは、
毎日のコミュニケーションの場面から一つ、
選んだテーマを真ん中に置いて、
そのテーマを通して、
・人の話をじっくりと聞く
・自分の考えを話す
・自分の感じ方を話す
・共感する
・意見を交わす
・合意をつくる
・自分のストーリー(伝えたいこと)を語る
などなど。
コミュニケーションにおいて必ず発生するこれらを、
少人数で丁寧に体験する時間です。
(もちろん、
その日のテーマについての知識と技術も深まる時間です)
9月のテーマは
●24日「リフレーム」
●29日「イエスアンド」
のんびりお茶を飲むような、
氣の合う人たちと語らいに興じるような、
そんな感覚で氣楽にご参加ください。
それぞれの場所から、
「生活の空氣」と一緒にこの場にINしてくださる方々とつくる、
この独特で貴重な語らいの時間を、
毎回楽しみにしています。
* * *
《セミナー詳細》
①9月24日(木)20:00-21:30
「自分にとっての現実は自分で作る
ー存分に自己を表現して生きるための『リフレーム』力を鍛える」
ある出来事があったときに、
どこに視点を向けるのか?
そこから何を見出すのか?
それは、面白いくらい人によって違います。
みんなに共通の「真実」というものがあるのではなく、
実はそれ(真実)は、星の数ほどある。
と、
この数ヶ月、いろいろな人の言動、感情の動きを
見て聴いて感じるに、
あたらめて感じたこの数カ月。
それならば。
どうせなら、自分にとって「力づけとなる」ことを
そこに見出せたほうがいい。
プラスの面を見出せたほうがいい。
そういう視点が大事、
とわたしたちはもちろん知っているわけですが、
「知っている」
ことと
「すぐ出来る」
ということはまた、違うわけで。
それをみんなで練習するセミナーです。
今すぐ、この瞬間からのわたしたちの生活を支える
「思考パターン」
の一つになるといいなと思います。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
②9月29日(火)20:00-22:00
「瞬発力を持って発想し、自信を持って創造する力を磨くインプロワークショップ」
インプロビゼーション【improvisation】
=即興。 特に、即興演奏や即興演劇のこと。
「即興力」というと、
「自分はお芝居をやるわけじゃないから」
「自分には必要ない」
「うちのチームにはそういうものを発揮する場面はないから
(そういう仕事じゃないから)」
などの言葉を聞くことがあるんですが、
本当にそうかなあ、と思うわけです。
「即興力」とは、そもそも
・どんな状況下でも
・フリーズすることなく、
・自分やチームにとっての最善を見つけ、選び、行動し、
・自分(たち)にとっての最高を「表現し続ける」
力。
そして、今ほど「先が見えない」「予測が立たない」
ときはないのでは?と思えるわけです。
今回のセミナーでは、
インプロゲームの中でも、
「即興力」の中でも特に大切な、
「イエスアンド」
(アイデアを受け取り、発展させる)
の力を、言葉を使ったゲームでもって磨きます。
◆インプロで鍛えられる「7つの力」◆
●「自分の感覚を信じる力」
自分の能力や考え、選択を信じ、瞬時に必要なものを選び出す力
●「受け入れる力」
相手の発信を拒否することなくいったん受け取り、そこから創造する力
●「伝える力」
互いの発信を素早く正確に理解し、コミュニケーションをとる力
●「集中する力」
場に集中し、コミュニケーションに必要な情報を素早く正確にキャッチする力
●「転じる力」
どんな状況からでも新しい視点を生み出す力
●「行動する力」
どんな状況でも積極的かつ前向きに動ける力
●「笑う力」
リラックスし、状況を楽しむ力
(「インプロであなたも『本番に強い人』になれる」池上奈生美著より)
* * * * *
参加費はいずれも3000円。
参加ご希望の方は、
https://form.run/@co-co-1600488291
こちらより必要事項をお送りください。
参加費振込のご案内ならびに参加URLを送らせていただきます。