この一ヶ月、世間のざわつきを身に浴びながら、
「この秋は雨か風かは知らねども今日のつとめに田草取るなり」(二宮尊徳)
ー先のことはわからないが、今日も私は田へ出て、いつものように草を取るのだー
が身に沁みていました。
(尊徳さんすごい…)
本題です。
* * *
学校が臨時休校になり、
こどもたちをどうする、と混乱するニュースを見ながらなんとなく思い出していたんですが。
以前、クライアントさんから「92歳、現役保育士さん」
の話を聞いたんです。
92歳もすごいんですが、その他もすごい。
その保育園は、敷地3000坪。
まことに自然豊か。
そして園には「カリキュラムがない」。
みんなで一斉にに何かをすることも基本ないし、自由。
子どもは自分で考えて、自分のやりたいことを、やる。
思う存分、やる。
で。
クライアントさんの言葉で印象深かったのが、次のようなこと。
「そうやって、この園で成長した子ども達は、
小学校に入学すると、戸惑うそうなんです」
そりゃあ、そうだろうなあ。
一斉に、同じところに座って、みんなで同じことをやる。
時間でブツブツと区切られていて…
さぞかし窮屈でしょう。
そもそも身体がなじまない、というんでしょうか。
出来ない事、うまくいかないこともあるだろう。
「けれど…」
話は続きます。
「その子たちは、10歳くらいを境に、いっきに『開花する』んです」
めざましく創造性を豊かに発揮し出すようになる、と。
この話を聞いて、
「土台づくり」「土づくり」という言葉がしみじみと浮かんだんでした。
どこを見据えて。
何を見据えて。
大人は子どもに、どんな肥料を与え、栄養を与えるのか?
そして何を与えず、見守るのか?
私たち大人がこい願うのは、
子どもが、人生通して、
自分の本質を生き生きと最大に発揮して生きられること。
何があっても、
創意工夫でそれらを乗り越え、
「幸福のタネ」を自分自身の力で大きく育てて
生きることができるようにすること。
他者の力や、外的要因に左右されるのではなく、
いつも、「幸せ」の状態を自分で選べること。
(うん、これが私にとっては一番です)
先の話を聞いたとき、
ひとが本来持つ力に全幅の信頼を寄せ、静かに水を与え続けていく時間が生み出すもの。
逆に、
教育(という名で、私たち大人の身に染み付いた「普通」「慣習」「価値観」もろもろ)
によって、良かれとやってきた行為の危うさについても、
改めていろいろと感じたんでした。
今回の「コロナ騒動」。
外に出られない。
あれがなくなった。
これがなくなった。
…
そのかわり、得られたものもたくさん。
(私ごとですが、本当に語り合いたい人たちと一緒に過ごす時間が増えました。
それから風邪をひいてしまったこともあり、
他にも食事の質、生活のリズムなどなど…随分と軽やかになりました。
何より、以前よりご飯がえらく美味しいのはどうしたことだ?)
周囲を見るにつけても、
今のこの時間が、多くの人、企業、そして日本社会にとって、
「立ち止まり、振り返り」
何が本当に大切なのかに氣づき、再発見し、見直し、
脆弱なシステムは手放し、
「より大切な本質」へと、
回帰する、またとない機会となっていることを感じています。
(写真は、2月半ば、風邪で体調が優れなかった時に知人が出してくれた膳。
お茶は月桃の葉のお茶で、ご飯は発芽玄米の2日と3日もの。
「根昆布は大好きなので、いつも多めに買って、秘伝の配合で炊いて保存しておく」らしく。
そしてうっすらと柔らかく甘い黒豆…。細胞に沁みました)