「深知今日事ーふかくこんにちのことをしるー」

「江戸時代まで、「からだ」というのは『死体』のことでした

 

 

 

江戸時代まで、「からだ」というのは「死体」のことでした。
では、生きている人の身体のことは何と言ったかというと

「身(み)」。

「この身ひとつでお供します!」
なんてセリフ、時代劇でありますね。
この場合の「身」というのは、身体のことだけを指すのではない。

「この人についていく」

という覚悟や思い。
そんなものも含まれている感じがしませんか?

かつて、わたしたちのご先祖様は
「からだ」と「こころ」を分けていませんでした。
分ける、という概念すらなかった。
それらは分けることのできない一つのもの、でした。

では
いつから分けるようになったのか?

「身体を鍛える」
「あとウエストを5センチ…」

の言い方のように
からだを「モノ」として切り離し、
減らしたり増やしたり、とってつけたり削ったりできるような…
そんな「対象として」見るようになったのでしょう?

わたしにもよくわからないんですが
一つ思い出す話が。

幕末♪
近代的な軍備の薩摩・長州に対して、
遅れた幕府側、というイメージがありますが
どうしてどうして。
幕府も実は、着々と近代化を進めていました。

「幕府歩兵隊」。

フランスの教えを受けて作った軍隊で、新式のシャスポー銃を備え
日本でもっとも進んだ軍隊のひとつでした。

で、
この歩兵隊、
フランス軍事顧問団のもと
「体操」を取り入れた。

整列して歩く。
それまでの「なんば歩き」から、
集団で、手足を交互に出す歩き方へ。
そして、身体能力を高めるための各種体操。
(はじめは、まったくなじめなくて
しっちゃかめっちゃかだったらしいです)

それまで日本には、
武道でも、演劇でも…およそ、身体活動において
「準備運動、体操」や「発声練習」といったものは
存在していなかったわけで。
(居合の先生と、それからお能出身の演劇の先生にきいた話)

とにかく
「二頭筋をもっと…」とか「腹筋を…」というこの
「バラバラに考える」感覚。
整列する、という「身体の、モノ化」。
これらは西洋文明とともに(そして戦のために)
日本に入ってきた、と。

そして、学校体育へまんべんなく広がり、はや150年。
今に至る。

さて。

世の中の事象を切り分け、
細分化し探求することで発展してきた科学や医学。

それらの恩恵を、感謝と共に十分に受けとりつつ
わたしたちは今、

「ひとつであること(全体性)」

について
再度とらえなおすときに来ている氣がします。

他の人との、コミュニケーション。
自分自身とのコミュニケーション。
自分の人生を愛して、
自分の本質を存分に世に表現するということ。

そのことと、自分自身のからだとのつながりは欠かせません。

からだはわたしたちの深い無意識とつながっています。
そこには、思考だけではたどりつけない
「真の答え」が眠っている。

全体性。
こころとからだ、すべてを含めた深いところでの一致感。
しっくり感。

そういったものが、
これからはわたしたちを「真の自分の生き方」へと
導いていくことでしょう。

☆彡  ☆彡  ☆彡

意識の奥にある広大な無意識の海に漂うわたしたちのリソース(資源)。
そこへ至る道しるべは
「頭(=知識・思考)」
ではなく
「身体の感覚(=感情)」

わたしたちは、自分が思うよりずっと身体(感覚・感情)に左右されています。
頭で「最高の方法だ、やろう」と思っても、身体(無意識)が納得しないとき、
なかなか実行できません。
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