セミナーに行った先のキャリアカウンセラーさんと
発達障害の話になりました。
彼女とはもう4年来のお付き合いで、
1日が終わった後の心地よい脱力感の中
いつもいろいろと熱く語り合うのが恒例となっています。
彼女のところのセミナーをやっていて、
いつもこの「発達障害」のことについては話題に上るのです。
若年者の就職支援のためのセミナーなんですが
「もっと早く、なんらかの働きかけがあったら」と
痛感せずにはいられない若者たちと、
出会うこともあるのです。
これまで、
延べ1000以上の人の若者たちのカウンセリングを
日々行ってきた彼女にとっては
その思いはもっと大きいようです。
長いこと、
「人と同じでない」「人と同じことが出来ない」子どもとして
さまざまな場面で「思い知らされて」成長し、大人となった若者たちは、
彼女の前に現れたとき、
いちように相当傷つき、自己肯定感を低くして
やってくるのだそう。
聞いていてふと思いつき。
「話は変わるんですけどね」
と
ふと、最近見た「歴史秘話ヒストリア」の話を彼女にしたくなり。
内容はといいますと、
江戸は文政年間。
狸を愛してやまず、家の中でたくさんの狸と住んでいた人がいた。
(長屋なので、なんて近所迷惑な)
ところが、
火事で狸を全部うしなってしまう。
その落胆はもう一通りではない。
すると、周りの住人たちが、
お金を出し合って新しい狸をプレゼントした。
(周囲もどうみても、裕福な暮らしではないだろうに)
家の中で、畳の上でたくさんの狸と住んでいる隣人なんて、
今だったらお役所に「なんとかしてください!」と
訴えが行きそうな感じですが、
一風変わったそういう人たちを、
「変わってるなあ」
「しようがないなあ」
と思いながらも
受け入れ、包み込み、助けながらいっしょに生きている
その時代の雰囲気がとても心にほっとするものとして伝わって来。
「昔の日本は幅があったといいますか、
『ちょっと違う』ことを
おおらかに受け入れる土壌があったんですねえ」
とわたし。
すると
その話を聞いていた彼女がいきなり
「公子さん、『てんがらもん』って知ってます?」
てんがらもんって、あれですよね。
昔はよくその言葉を聞きましたね。
鹿児島の方言なんですよね。
「あいは、てんがらもんじゃっで(あいつは、てんがらもんだから)」
というふうに使いますよね。
意味は「元気もの、乱暴もの、破天荒なもの」という感じでしたっけ。
すると、
「こんなサイトを見つけたんですよ」
と、彼女が見せてくれたのは
「鹿児島発達障障害児親の会」
というサイトでした。
そのサイトの名称が「てんがらもん」というのです。
そのサイトにあったこの一言に
思わず目が引き寄せられ、動けなくなりました。
「てんがらもんとは『天授者』
鹿児島では、活発な子ども、目をひく子どものことを
『てんがらもん』といいます。
発達障害という言葉もなかったずっと昔、
郷里の先人は、この変わった子どものことを
『天からの者~てんがらもん』と名づけました。
天からの子どもですので、おろそかに扱うことは出来ません。
親も地域も無意識のうちに支援や配慮をして
『てんがらもん』を見守り育ててきました(後略)」
(てんがらもんさんのサイトより抜粋)
天からの者~てんがらもん
なんと、なんと美しい言葉なのでしょう。
なんと美しい響きなのでしょう。
この美しい言葉で
異能を発揮する、
(ゆえにあるときは、変わった、扱いにくいとされる)
子どもたちを表現した薩摩の先人たちに感動すると同時に、
その子どもたちの「本質」を
こんなにも適切に知っていた先人たちに
畏怖の念さえ覚えたのでした。
これは何なのだ?
この最高の感度のセンサーは。
そして、
「てんがらもん」という言葉を生み出した人たちのDNAを
文化文政の江戸の人たちと同じ日本人としてのDNAを
わたしたちも持っているはずなのです。
「天からの者」
この言葉、何度見ても
身体の奥がしめつけられるような
祈りたくなるような切ない感動をもって
私の胸に迫ってくるのでした。
(「鹿児島発達障害児親の会」サイトhttp://www2.synapse.ne.jp/tengaramon/)
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※続きの記事
「てんがらもん。その後」
https://ameblo.jp/businesskouko/entry-10680296917.html