原作をどこまで尊重するか?そして子どもに何を与えるか

 

 

 

「赤毛のアン」がとても好き、というわけではないのですが。

 

 

子どもの頃、数回は読み、自分なりのイメージや好きな場面もあって。
(アンの親友、ダイアナがアンに間違って飲まされる「いちご水」(実はお酒)が美味しそうだなー、とか)

 

そして、やはり世界に冠たる「高畑勲監督」の名作中の名作アニメ
「赤毛のアン」が浮かんでくるんですが。

 

 

 

 

この春始まった新作アニメ「アン・シャーリー」。
プリンスエドワード島の風景が美しく描かれ。
アンも生き生きと可愛くて。

 

今のアニメ技術で存分に描かれるアンの世界に、
「きれいだなー😍やっぱり絵が綺麗なのは正義だわー」
と見ていたのだけど、
話が進むに従って、少しの違和感が。

 

 

 

言葉にするなら、
「このアン、わたし…ちょっと一緒に暮らしたくないかも」。

 

 

 

カスバート家入り口。
アンを連れ帰ったマシュウに、マリラが
「男の子はどこ?」と言い、「この子しかいなかった」と返すマシュウ。
「なんですって⁉︎」とマリラ。
次の瞬間。
「誰もわたしを欲しくないんだ!」と叫ぶアン。(戸口で)

 

そして、大泣きしながら案内もされない
(人んちの)部屋の中にズカズカと歩み入って、
(人んちの)居間のテーブルにわっと泣き伏して
繰り言を延々と述べながら泣き続けるアン。

 

 

コミカルな演出で、
(コーデリアと呼んで。せめて「e」のついた「アン」と呼んで。
の有名なセリフもここで出てくる)

 

可愛いよ。
可愛いんですが…。
けど。

 

 

なんだかちょっといやだ、この子(笑)
というか、怖い。
アンよ、礼儀はどこへ行った?君の高潔なる矜持はどこへ行った?

 

 

 

 

その後、SNSにて。

 

◉「アンは背筋を伸ばし座る。アンは礼儀正しい。
『クイーン・アン』と後にギルバートが言う芯の強さがアンにはあり、
アンは可愛いお転婆娘ではない」

 

 

 

他にも。

 

 

◉「ヴィクトリア朝時代の少女が膝を抱えて座っていることはありえない」

◉「原作アンのカバンは布の古い鞄。こんな高級な革製のトランクを孤児は持てない」

◉「そもそもアンはピンクを着ない。

(原作に「赤い髪をした者はたとえ想像でもピンクのものは着られないのよ」のセリフがあるとか)
なのに、ポスターでは堂々とピンクを着ている」

◉「ダイアナの黒い瞳と黒い髪にアンは憧れる。なのにアニメのダイアナの目は青」

 

 

 

などなど。
みなさん、すごいです…。

 

 

赤毛のアンの世界観を大切にし、
アンをずっと愛し続けてきた人たちの氣持ちがそこには渦となって溢れていました。

 

 

 

◉「赤毛のアンのアンは
前向きで元気で夢見がちな魅力的な女の子ではなく、
生き抜くために想像力を使った、
愛に飢えたサバイバーなんですよ。

 

そしてアンを支えるのはその気位の高さ。
誰が相手でもそれを崩さない。
アンは単なる一時的な怒りでギルバードを叩いたわけでもない。
アニメ萌え表現に消費される」
(先の、リンクを貼った方の言葉)

 

 

 

なるほど…。

 

 

 

高畑アニメで感じた、

 

「繊細な、触れれば壊れてしまいそうな、
けれどもその奥に存在する真っ直ぐなクリスタルの硬質」

 

を持ったアンの姿を思い出したのでした。

 

 

 

 

さて。
「原作をどこまで尊重するか?」
「今の時代(の子どもたち)に受け入れられる」ための改変。

 

 

 

わたし自身の「好み」なんですが、
原作(設定・キャラ・世界観)を使って、
「自分の言いたいこと、自分の表現したいこと」を脚本家や監督がぶっ込んでくるような作品作りは
好きではありません。

 

 

そして、
「今の時代のテンポ、感覚」に合うように変えることは
あってよしですが、
(時代劇だって厳密に作れば「お歯黒女性」だらけになってしまうわけですし)

 

 

キャラクターの性格や物語の設定における、
「作者が最も表現したかった」根幹に関わる部分の改変は、なし、

 

ではないか、と思っています。

 

 

 

 

ちなみに、
SNSで印象に残ったもう一つの言葉があって。

 

「今はもう、原作を読み込める制作者がいない」
「凜とした少女、を描ける人はもういない」

 

といったもので。
恐ろしいことですが、そういうこともあるのだろうかと思ったり。

 

 

 

 

さて、さらなる願い、なのですが。

 

 

子どもには。
いえ、子どもに届けるものだからこそなおさら、

 

「わからないだろうから変えてあげよう、

薄めてあげよう、
こっちの方が見栄えがいいだろう」

 

といった大人側の安易な、勝手な
(戦後の薄い、毒された「テレビ文化」の中で育った貧困な想像力から生まれた)

「改変」ではなく、

 

 

 

ガッツリと「作者が描いたキャラクター」そのままに
「作者が描いた世界観」
「真に伝えたかったこと」を、
子どもたちに手渡してほしい、と思っています。

 

 

ゆるいお粥のような作品ではなく、
噛みごたえのある強飯(こわめし)を与えて欲しい、と思います。
子どもはそこまでバカでも、愚かでもないのだから。

 

 

 

そこへの思いや努力がないのなら、
「原作もの」に手を出してはいけない、というのは言い過ぎでしょうか。
(上記SNSの方の言葉のように「萌えアニメとして消費」するために
原作の世界観を使ってほしくはないなと)

 

 

何より、原作者が、
「ああ!映像化してくれてありがとう!アニメ化してくれてありがとう!」
と喜ぶ作品になるのが一番だと思います。

 

 

 

 

この「アン・シャーリー」を、
作者のモンゴメリが見たらなんと言うかはもちろんわからないんですけれど。
(案外面白がったりしてですね。
そして、この「アン・シャーリー」。
十分に面白くて「いいアニメ」なことは確かだと思っているのです)

 

 

(上の新旧比較写真は、先のリンクを貼った方のSNSよりお借りしました)

 

 

 

 

 

 

母音文化、世界を駆ける!ー日本語と世界平和

 

 

 

 

昔、ゴダイゴが大好きな子がいて、その子が歌の英語部分を得意げに発音しながら

 

「英語は一つの音に一つの『単語』が入るけど、
日本語は一つの音に一つの『字(仮名)』しか入らない。
だから日本語の歌はダメなのよ。
(内容が薄い。従って劣っている)」

 

といった意味の発言をしたことを
よく覚えているのだけど。

 

 

それから年月はたち、
「一つの音に、真っ直ぐのびやかな一つの音がスッキリと入る」
我が母語がますます好きになっています。

 

どの音を伸ばしても、その先に真っ直ぐな母音が広がる日本語。
口にしていて本当に気持ちよい。身体が心地よい。

 

 

 

 

その、世界にたった一つしかない、
(正確には、日本語と、それからポリネシアの一部の島のみにしかない)

 

「母音を中心とした言語(母音を主体に音声認識をする言語)」

 

である日本語の歌が、ボカロ文化を通じて
今、世界の若者たちを魅了している、という番組を見ました。

 

 

訳されたものを歌っているのではなく。
英語やフランス語、その他…
圧倒的多数を占める
(そして、世界をいい意味でも逆の意味でも牽引してきた)
「子音言語」
の国の若者たちが、日本語のままで歌い、熱狂し、涙し、大合唱を繰り広げている。

 

 

それを見ながら、

 

「ああ、これから世界は平和になるなあ…」

 

と。

 

 

 

 

 

英語を話す時と日本語を話す時では性格が変わる、
というのはよく聞くけれど。

 

 

 

子音言語は、
「ディスカッション」「ディベート」が必要だった人たちの間で
発達した言語なのだ、と読んだことがあり。

 

「シュッ」「ツッ」と口をすぼめ、
鋭く息を吐き出す複雑な破裂音が圧倒的に多い。

 

自然は「征服」する対象。
自分を主張し、他者を威嚇し、境界線を引き、
自分の生存を確保する必要があった。
いわば戦いの言語、なのだ、と。

 

そして、生きることが過酷な地域ほど
「複雑な鋭い子音の発音」を持つ言語として発達している、と。
(例として、砂漠の民の言語、アラビア語が挙げてあり)

 

 

 

 

かたや、縄文時代数万年にわたり
「戦いのなかった平和な時代」を謳歌したゆえか、
日本語はその「音」からして、単純でおおらか。

 

「アー」
「オー」
「ウー」

 

日本語を(母音を)口にするとき、
身体は開き、リラックスして解放される。

 

自然の音を写し取り、自然と融和する言語。
それが日本語なのだと。

 

「古代日本は、農耕をせずとも…自然に生える草や実と、
浜にいる魚貝を採取していれば十分に間に合ったのだ」

 

「自然に恵まれ、誰かを威嚇したり殺したりする必要もなく
…私たちの祖先は、ことばを生み出したとき、
威嚇の必要性を感じなかったのである」

 

 

 

 

 

 

今、日本語の歌を熱唱する若者たちが世界中にいる。

 

日本語を発することで得られる、
「ゆるむ」「おおらかな」心地よい身体感覚をその身体に響かせ、
日本語の「余白」「あわい」の世界観を受け取り、

 

「これは自分たちのことを言い表している」
「これはわたしのことを歌っている」

 

と、そこに「居場所」を見つけている若者たちがいる。

 

虫の音や雨の音…
子音言語の脳には「ノイズ(騒音)」としか聞こえない自然の音に
「メッセージ」を見出す稀有な言語を、世界の若者たちが合唱している。

 

 

 

それはつまり、世界でただ一つ、

 

「地球の声を聞ける言語」

 

が、日本語であり、
それを世界の若者たちが合唱している、
ということではないか?と思うのだ。

 

 

 

 

そんな彼らが大人になり、これからの世界を作る。

 

彼らの中には、彼らの最も繊細な時期をしっかりと支えた
日本語の歌、日本の文化がきっと生きている。
(子どもの頃に培った感覚は消えることはないのだから)

 

 

 

これで平和にならないわけがない、と思うのです。

 

 

 

(参考、引用ともに「日本語はなぜ美しいのか」黒川伊保子 より)

800年前も今も幸せの「方式」は同じだと親鸞上人のアニメで思う

 

 

 

 

 

 

 

前売り券をいただいたので映画館に行ってきました。
「親鸞ー人生の目的ー」

(アニメです。出ている声優さんが結構豪華でですね◁大事なところ)

 

 

感想なのですが。

 

自分を認めよ、そのままの自分を愛せよ、
まず自分が今のままの自分で幸せになれ、
それなくして周りの幸せは、ない。

 

という映画かなあと。

 

 

煩悩はなくらなない。
私たちが煩悩と呼んでいるものは
人の自然な「生」の発露と表裏一体。

 

美味しいものを食べたい→生きる欲求
異性に惹かれる→種の保存の欲求
もっとお金が欲しい→安心や自由への欲求

 

 

それを「よくないもの」として
消そうとすること自体無理がある。
人の素直な「生のエネルギー」に反する。

それを認め、愛し、抱きしめるからこそ、
それの肥大、暴走から、自由になることができる。

 

 

 

前半、
若き親鸞が山にこもって修行をする20年間が
(自分は煩悩まみれだー!死んだらどこへいくんだー!と)
もう見ていてキツくて(笑)

 

「早くやめなよ、そんな無駄なこと」

 

と思いながら見ていました。

 

 

 

逆に、山なんかにこもってるからわからないんじゃないの?
膨らんじゃうんじゃないの?
365日、そればっかり考えているわけで、
そりゃあ、大木にガンガン頭打ちつけたくもなるよ、と。

 

市井に降りて、
目の前のことせっせとやって「生活」しなよ、
真の悟りはそこからしか生まれないわよ。

 

 

なんて思いつつ。
(今、世界中の親鸞ファンを敵に回しているかもです💧)

 

 

 

 

で、思い出したのですが。
悟りたい(解脱したい、だったかな?)僧が
生きながら墓に入るんだったか、
密閉した船で海に出るんだったかをやる話。

 

「何がなんでも、死んでも解脱してやる(変な言い方ですが)」
という…
逆に凄まじい「執着」ともいえると、
はっとしたことがあったんですが。

 

 

 

 

 

さて。
親鸞が生きた時代からすると、わたしたちは少し
「進歩」しているのかな?とも思えます。
人の意識の進化、といったほうがいいでしょうか。

 

 

 

親鸞の時代は、
「阿弥陀仏」「念仏」という「形」を使って、

 

「そのままの自分を阿弥陀仏は抱き止めてくれる」
「だからそのままの自分を愛せよ」
「そのままのあなたで救われる」

 

という「教え」で人を導き救おうとしたわけですが、
今、わたしたちはそれを普通に「知って」いる。

 

 

 

自分の中のたくさんの「自分」を赦し、愛し、
手を携えて生きていくことを知っている。
そこにこそ幸せがあることを知っている。
(サクッとできるかは置いておき)

 

 

 

 

 

ここまで書いて、
人の意識の広がりも進化も、親鸞はじめ、多くの人たちの「修行」
(人間の探究・心の探究・信仰の探究ときづき)
の先にあるものなんだよなと。

 

 

そう考えると「現代人の上から目線」の
「やめなよ、そんな無駄なこと」
ではなく、

 

「ありがとう。あなたたちの『旅』の先に、今の私たちがいる」

 

ということかなあと今、思いました。

 

 

 

 

ちなみに、親鸞の声が櫻井孝宏さんで、その奥様の「玉日姫」の声が花澤香菜さん。

「でた!水柱と恋柱…」

と思いながら見ていたことでした。

マイナーアニメながら、声優さんが豪華でした。本当に。

(櫻井孝宏の声で「なむあみだぶつ」が聞けるレアな感覚&至福感)

 

 

主人公があっという間に死んでしまった!「チ。ー地球の運動についてー」

 

 

 

 

秋アニメ。「チ。−地球の運動について−」。

 

漫画が話題になったときには、

「地動説かー。ガリレオの若い頃の話でも描いてるのかしら」

くらいに思っていたんですが。

 

 

 

15世紀。C教が全てを支配しているP王国の某所に住む

12歳の男の子が主人公。

で、まだ子どもだし、頭がよくて世渡り上手だし、口八丁で平気で大人を転がすし…

この彼が、弾圧をかいくぐってずーっと地動説の研究をしていくんだ、

大人になっていくんだ、とそう思っていたのだけど。

 

なんと、第3話でさっさと退場してしまった。

 

 

「世の中バカばっかり。自分は合理的に生きる」

を信条として、

軽やかに心を偽り、言葉を弄して笑顔で嘘をついて、

秀才として賞賛されてきた主人公。

 

 

12歳で大学に入る道もひらけて、将来を嘱望されまくっていたのだけど。

 

 

「地動説」に出会ってしまって、

その合理性と圧倒的な「美しさ」に魅せられ。

 

 

自分の人生にとっての「合理性」よりも、

もっと大きなもの、圧倒的なもの(宇宙の摂理)の前では、

「地動説を残す」ことのほうが合理的なのだ、と悟ってしまう。

 

 

 

『自分の未来にとっては不正解の選択だけど、不正解は無意味を意味しない』

『(地動説によって得られた)感動を僕は生き残らせる』

人はそれを「狂気」と呼ぶかもしれないが、

『愛、ともいう』

 

 

 

と、大人だって言えないような言葉をたくさん残して、

そうして、

毒をあおって死んでしまうのですよね。

(公開裁判で「僕は地動説を信じている」と公言してしまったので、

あとは拷問を受けて研究資料のありかを自白させられるという道しか残っていなかった)

 

 

 

主人公があっという間にいなくなってしまったことに「ひえ〜(驚愕)」と思いつつ、

ああ、これは

「地動説」のリレーの話、

「知」に魅せられた人たちがその意思を繋いでいく話なんだな、と得心しました。

 

 

 

すごいな、と思います。

どんな弾圧よりも、拷問よりも、「知」への探究の思いは強い。

 

 

 

「敵は手強いですよ。

あなたがたが敵にしているのは僕ではない。異端者でもない。畢竟、それは知性だ」

 

 

と、拷問官に言い放つ主人公。

(ほんとにすごい)

 

 

 

自分には無理だな(痛いの苦手。痛いの怖い)

と思いつつ、

こういう無数の人たちが、今のわたしたちに

「本当に人間らしく自由に生きるということ」

「そのための真実」

というものを開示してきてくれたんだな、とも思います。

 

 

 

中世暗黒時代が舞台なので、

何かと(身体的に)痛い場面も多いですが、

見ていない人はどうぞ見てみてください。

 

 

大人は「仕事脳」でつい子どもに接してしまうー 「SPY×FAMILY」(スパイファミリー)は「親としての変化と成長」を描いたアニメ

 
 
 
 
 
今、放送中の「SPY×FAMILY」(スパイ×ファミリー)。
 
よく行く図書室の司書さんに「今一番おすすめのアニメ、なんですか?」
と聞いて、教えてもらって見始めたんですが。
 
 
簡単にストーリーを書くと…
 
 
*     *     *
 
 
 
 
凄腕のスパイ、コードネーム「黄昏(たそがれ)」は、
とある大物政治家に接触する指令を受ける。
が、その政治家は、自分の子どもが通うエリート校の保護者会にしか姿を見せない。
 
 
したがって「黄昏」のミッションは、
子どもを作り、その学校に入学させ、学業優秀生徒の保護者として保護者会に出席、
その政治家に接触する、というもの。
 
しかも、入試までたったの一週間。
 
 
 
 
 
 
 
「黄昏」は、「精神科医、ロイド・フォージャー」を名乗り、大急ぎで家族を作る。
 
孤児を引き取り、
母親役として、とりあえず出会った女性を妻とする。
が、5歳の孤児、アーニャは実は、人の心が読める超能力者。
そして母役ヨルの本業は「殺し屋」だった…
 
 
 
 
 
 
スパイ、殺し屋、超能力者。
お互いの「真の姿」を知らぬまま、三人の、何とも不思議な、
それぞれの「ミッションクリア」のための生活が始まる…。
 
 
 
 
 
*    *    *
 
 
「黄昏」はアーニャをとにかく合格させなければならないので、初めは山積みの育児書を速読したり。
 
 
 
アーニャはアーニャで、
せっかく手に入れた「家族」から捨てられないために、
黄昏の心をせっせと読み「ちちの任務」完遂のために懸命に勉強し、
入学したらしたで、ターゲットの息子と仲良くしようと頑張る。
が、なかなかうまくいかない。
 
子どもですしね。
 
(面白いのは、いくら黄昏が笑顔でアーニャに接しても、アーニャは黄昏の頭の中に高速で渦巻いている
「ミッション遂行」のための手順や独り言を全て読み取ってしまうところで⬅︎パニくるアーニャ)
 
 
 
 
 
 
 
さて。
黄昏は、初めて体験する「自分の努力とコントロールが全く効かないところに委ねるしかない」
中での任務遂行に大きな戸惑いを覚えるわけなんですが。
 
けれど、やがて少しづつ変化が訪れる。
 
 
 
 
 
 
「何事も一朝一夕ではうまく回らないものだ。
相手が何を考え、何を望んでいるか。信頼を得てふところに入り、それを観察する。
その、地味で忍耐強いつとめをこなしてこそスパイ。
 
まずはあいつ。アーニャを知ることからだ」
 
 
 
 
 
自分のミッション達成イコール、
アーニャがいい成績を収め、
友達をたくさん作り…
 
つまり、
「孤児アーニャが心も身体も『幸せに、健全に成長』することとイコール」
 
である、ということを自然と納得し受け入れていく黄昏…
 
 
 
 
 
と、今、第5話まで見て、そんな感じかなーと思うのですが。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さて。
別に、親がスパイでなくとも(笑)。
こういうこと、普通に、どの家でも、どの人にもあると思うのです。
 
 
 
 
仕事の脳、仕事の身体で旋風(つむじ風)のように家に帰ってきて、
そのままのリズムで子どもにあれこれ「指示・命令・要求」すること、
多々あるんじゃないでしょうか。
(わたしのクライアントさんいはく「あります‼︎」と)
 
 
 
 
でも、子どもは違う。
子どもは全くもって子どものリズムで動いており、その世界は最も自然と近いもの。
子どもは「自然物」なのです。
 
そこに、時間は存在せず、「早く」も、「ちゃんと」も存在しない。
彼らはわたしたちとは全く違う「時間の世界」で生きている。
(このあたり、わたしが書くまでもなく釈迦に説法ですね)
 
 
 
 
 
 
 
クライアントさんは、「切り替えが大事ですよね」とおっしゃっていましたが…
まさに。
「相手はあなたの言葉ではなく、身体の通りになる」。
(伝わるのは「非言語メッセージ(身体&無意識層のメッセージ)」が先、というやつ)
 
 
 
 
 
その身体(のリズム)で「やっても、言っても」。そりゃ無理でしょ!通じないでしょ、
と思う場面、よくあります。人を見ていても、自分自身も。
 
 
そして、
親と子、で書いてみましたが、
どんな場面でも…例えば、介護する人とされる人、とか?
あらゆる場面でこういうこと、あるんじゃないでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
と、自身、軽く反省モードに入りつつ、最後に「黄昏」の台詞を再び。
 
 
 
「何事も一朝一夕ではうまく回らないものだ。
相手が何を考え、何を望んでいるか。
信頼を得てふところに入り、それを観察する。
その、地味で忍耐強いつとめをこなしてこそスパイ。
 
まずはあいつ。アーニャを知ることからだ」
 
 
 
 
 
 
 
「スパイとしての成功」と「家族の幸せ」。
 
このミッションを、黄昏はいかにクリアするのか?
この「寄せ集め家族」。いったいこれからどうなるのか??
(黄昏、アーニャ、ヨル、みんな幸せになって欲しいんですけど!)
 
 
 
楽しみなのです。
 
 

あなたの魂に、『檄』!ーアニメ「キングダム」に見るプレゼンの構成

 

 

 

 

今、アニメ「キングダム」を日々見進めているのだけど、

とにかく『檄(げき)』がたくさん出てくる。

(そして、この、将兵を奮い立たせるための演説を『檄(げき)』というのだと、

わたしはキングダムで初めて知った。檄を飛ばす、というのはこれのことなのねと)

 

 

 

 

 

 

 

秦の若き王、嬴政(えいせい)が、

秦国の最後の砦、「蕞(さい)」の民衆に檄を飛ばす回(第3シリーズ19話「政、語りかける」)は、

テレビシリーズで放送された時のをちゃんと録画して保存してあるくらいに、ちょっとよかった。

 

いずれプレゼンを扱うセミナーで使えるネタになるであろう、

と保存しているわけなのだけど。

 

 

 

 

 

 

嬴政(えいせい)の檄。

「人の心を奮い立たせるために、何が必要で、人の心のありどころを何を結びつければいいか」

をよくわかっている檄だと思うのだけど、

 

こういう場面で、いつも思うのはまず「檄の振動」について。

 

 

 

 

キングダムで、大将が「檄」によって動かす兵の数は、桁が外れている。

数百から、多い時は数万。

この場面を見るたびに、ある本で読んだ、一つの場面を思い出す。

 

 

対談者が「武者振るい」について語る場面だった。

 

 

 

 

 

 

 

「武者振るいとは、

武者(大将)が本当に、身体から出す振動なのだ。

『震え』なのだ。

その『大将の震え』(恐怖からのではない。もちろん)

が甲冑の錣(しころ)やなんかで増幅され、周りの将兵に伝わる。

 

それが、次々と伝播し、瞬く間に数万の兵に伝播し、兵は一つの塊となる。

一つの巨大な塊となって大将の意のままに動く『生き物』となるのだ」

 

 

 

 

 

と。

そんなような内容だったように思う。

(文言は細かく覚えていないので、こんな感じ、ということで)

 

 

 

 

 

 

「カタカタカタ…」

 

 

 

 

 

 

「震え」が甲冑を伝わって広大な集団の中をざああっ…と広がってゆく、その感覚を肌で感じた気がして、

ゾワっ…となったものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。嬴政(えいせい)の檄に戻って。

 

嬴政の檄は、古今東西、優れたリーダーが人の心をつかみ、

一つにする時に使う「セオリー」を踏襲している(と思う)。

 

以前、プレゼンセミナーのために、北条政子の「檄」を調べたことがあったけれど、

彼女も同じような「構成」で檄を飛ばしていた。

 

 

 

 

 

 

 

それは、

 

 

 

「時間に橋をかける」

 

 

 

構造なこと。

 

 

 

 

過去、そして今現在を生きている自分、そしてさらには未来。この3つの時間軸をつなぐ。

人々の意識をそこに向けさせる。

 

 

「今だけ、自分だけ」ではなく、

滔々と流れる時間の営みの中に自分は生きており、

受け継ぎ、そして次へと手渡さねばならない「何か」がある。

そこに、人々の意識を向けさせる。

 

 

 

 

そこに、人は、ただ日々をせっせと生きている時にはなかなかアクセスすることのできない、

「自身の深い、生きている意味」を見る。

きづく。

 

 

 

 

自分は、たった一人、切り離された自分、なのではなく、

「バトンの担い手」であり、

今この瞬間を「代表選手」として生きているのだ、という事実。

 

その「時という大河」を大きく俯瞰して人々に見せ、つなげ、自覚させる。

 

 

 

嬴政(えいせい)は、

ほんの短い時間で三万の民衆に対して(兵ですらない、老人女子どもに)それをやってのけるのだ。

 

https://www.youtube.com/watch?v=exDRtE79ojE

(19話の「檄」。音声のみ上げている人がいたので貼ってみます)

 

 

 

 

 

 

 

 

今日のまとめ。

「それ」(発進したもの)がどこまで届くのか?

それは、発信者の「イメージ」の強さ、豊かさ、深さ、高さによって決まる。

 

それはイコール、その人の身体状態を含む「プレゼンス(存在)」の強さ、豊かさ、深さ。

それは、今も昔も変わらない。

 

 

 

 

 

 

古来、武将たちは、

言葉を発しつつも言葉をこえ、時間を超えて、

 

 

 

「あなたの魂に、『檄』!」

 

 

 

そう思っていた違いない(こういう言葉で意識はしなくとも)

と思うのだ。

 

 

 

 

 

(そして、この言葉。「いい言葉を思いついた」と今感じているところで、

自分のキャッチフレーズにしようか、と思ったりしているところなのです)

 

 

その差は「つながりを作る力」の差ー炭治郎と鬼たち

 

 

 

鬼滅の刃の「鼓屋敷編」「那田蜘蛛山編」を見て思ったのだけど。

 

 

 

 

炭治郎の力の源。

いざ、という時に危機を切り抜ける、その力は一言で言うと

 

「つながりの力」

 

がもたらすものだな、と。

 

 

決して万能ではなく、ヒーローでなく、

切れば血のでる身体を持ち、「努力の人」以外の何者でもない炭治郎が

持っている能力を何かこう、超えて「力」を発揮するとき、

 

炭治郎の背後には、家族をはじめ、

今はいないけれど彼を支えている人たちの存在があり、

彼も、そこへの思いを原動力に力を発揮する。

 

 

 

 

 

 

 

かえって。

「鬼」というのは、

「つながりをつくれなかった(つくることに失敗した)人たち」

ではないか、とも思うのだ。

 

 

鼓屋敷の鬼は、

自分の書く小説を否定されて、

つまりは、

「自分が世界と関わるために

(自分が自分であると世界に向けて表現するために)

一番大切にしていた部分」

を失ってしまった。

 

 

もちろん、否定の言葉を受け取らない選択肢もあったろうけれど、

彼にはそれができなかった。

(もしあれが炭治郎だったら、きっと受け取らなかったろうとも思うのだ)

 

 

 

 

 

那田蜘蛛山の鬼は

親から受け入れられていないと思い込んで、

親を殺してしまった鬼。

そして、「本物の絆」とやらを探して、無理矢理に恐怖で周囲を従わせて

「家族ごっこ」をしている。

それでも孤独は埋まらず、ますます残忍な支配に走る。

 

 

 

 

 

 

世界が自分に背を向けている、と感じたとき。

心が折れてしまったと思ったときに。

 

人をこの世界に(人間に)とどめるものは何か。

(「鬼」を呼び込むことなく)

 

 

 

 

この世界を生きるわたし達に、

炭治郎のような身体的な危機は訪れないが、

心の危機はいつでも容易に訪れる。

 

現実世界に鬼舞辻無惨はいないけれど、

誰でも、ちょっとしたきっかけで、容易に「鬼」になってしまえるのだ、とも思う。

そんな危うい瞬間に、人をこの世界に繋ぎ止めるものは何か。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分を慰撫し、癒す力。

「いろいろあるけれど。そして、こんな小さな(どうしようもない)

自分ではあるけれど、それでも明日も生きてみよう」

 

 

 

 

と、踏みとどまらせる力。

それは、「つながりの力」しかない。

それでしかあり得ない、と思うのだ。

 

 

「自分はつながっている」というしっかりとした感覚。

家族、友達、自然…形あるもの、ないもの、なんだっていい。

自分が生まれ落ちたこの世界との絆。

 

 

 

 

善逸も伊之助も。

彼らの人生の中での、数は少ないけれど、涙が出るほど大切な関係性が、

実は彼らを生かしていることが丁寧に描かれる。

 

 

 

 

けれど、鬼たちには、人生において残念ながら「それ」がなかった。

気づけなかった。

鬼と炭治郎(&禰豆子)を分けたものは、

ただそれだけにも思えるのだ。

 

 

 

 

炭治郎は、その素直な心根で今日も「つながり」を作り続ける。

彼はそれが持つ力に微塵の疑いも持たない。

 

 

 

 

 

 

 

日本のアニメが世界の子どもに与えたよい影響、という記事を昔、読んだことがある。

「信頼」「仲間」「つながり」「違う個性同士の協力」といったものが、

根底のパターンとしてある、と。

それは、欧米のものとは少し違うらしい。

 

「日本のアニメを見て育った世界の子達の心にそれらの価値観が染み込んでいく。

それは世界平和に貢献しているのではないだろうか」

 

と言った内容だった気がする。

 

 

 

 

 

 

鬼滅の刃の世界観は徹底的に「残酷」。

人は惨殺され、鬼はどこまでもこれでもかというくらいに気持ち悪い。

 

 

炭治郎の人生も、お話にならないくらい可哀想で、過酷なものだが、

それでも描かれるのは彼の太陽のような心であり、

彼が醸し出す「泣きたくなるような優しい音」であり、

倒すべき鬼にまで向けられる彼の慈愛の情だ。

 

 

 

 

 

 

 

壮大なるメタファー。

それはこの「変わりつつある世界」をこれから長く生きていく子どもたちへの

「贈り物」なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

炭治郎の瞳に、声音に、笑顔に、言葉に。

大袈裟だけれど、わたしは希望を見る。

 

 

 

近づき、ふれあい、手を取って、大声で笑い合う。

天を仰ぎ、思いっきり呼吸する。

 

そんな、人として生きるに最も必要不可欠な

「つながりを欲する」自然な欲求すら抑えられ、

成長を強いられた世代として大人にならざるを得ないかもしれない。

 

それが、身体に、精神に、彼らの無意識にどんな影響を与えているか、

今、この時点では誰にもわからない。

はかることすらできない。

 

 

 

 

そんな「かつてない(誰にも予想できない)世界」を、

これから生き続けなければならない子どもたちの無意識に。

 

 

 

 

どんなに過酷でも、人は潰れない。

人の心の力はそんなものではない。

そう、

「今日も、これからも、折れていても、挫けることは絶対にない!」

と。

 

 

人は、

何があっても、どんな状況であっても、

前を向いて生き続けることができる。

人を愛して、最善に向かって生きることができるのだと。

 

 

鬼滅の刃という世界観は、

全身全霊で、そう大声で叫んでいるように思える。

 

 

 

 

 

 

 

答えは外からは与えられない。

力はいつも、自分の中にその源がある。

 

 

しっかりと呼吸をするのだ。

呼吸はウチと外(自分と世界)をつなぐ。

 

「全集中」で。

自分の身体を取り戻せ。

自分の軸を取り戻せ。

世界とのつながりを取り戻せ。

 

 

 

 

そして、

「前へ。前へ。進め」。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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