知人が実家の冷蔵庫の断捨離をする機会があったそうで。
で、知人いはく、
「出るわ出るわ…(賞味期限切れのものが)」
の中、
捨てるのがためらわれたものがあったんだそうで。
その「もの」はこんな感じ。
『ひとつだけ、手に取った瞬間、なんだか艶が感じられて、捨てるのがためらわれた瓶詰があり』
で、お母さまに訊くと、
「それ、あの子が(知人の妹さんですね)が大事にしてるから置いといて」と。
夜になって帰宅した妹さんの反応も、冷蔵庫スッキリ!の喜びの声と同時に、
「あの瓶詰めは…あ、捨てられてない、よかった!」
だったそうで。
『断捨離のブログか何かで、「愛されてるモノかどうかは他人が見てもわかる」
といったことが書かれてたのを見たことがありますが、私も実感しました』
と、知人。
さて。
「艶が感じられ」
ここ、なんだかとてもわかる氣がするのです。
モノはもちろん、
肌も。
食べ物も。
「手をかけ目をかけ」たものは、
例えばかけた金額の多寡や豪華さとは関係なく、何か違う、と感じることが多い。
なんでしょうね、あの美しさ、いじらしさ、愛らしさ、しみ入ってくる感じ…
まるで、その「モノ」からも嬉しさが滲み出ているような。
(こういう話をすると、まず思い出すのは、
昔映画で見た、森のイスキアの「佐藤初女さん」の梅干しなんですが。
天日干しされているそれはもう、本当に完全に「ルビー」状態)
そして、この、知人いうところの「艶」。
付け加えるところの「みずみずしさ」「ほのかなひかり」は、
人を見ていてもそうだよなあ、と思うのです。(特に、身近な人であればあるほどわかる)
以前、何かで読んだのですが。
自宅の部屋に置いた鉢植えの花に、水をやらなければ、やらなければ、と思いつつ、
なんとなく、忙しさにかまけてやらずにいた。
毎朝出がけに「あ!」と思うのだけど、時間はないし、まだいいだろう、まだ大丈夫だろう、と。
そうしたら、いつの間にか花は枯れていた。
「ああ、もっとちゃんと、早くに水をあげればよかった。可哀想なことをした」
と後から思う。
花はちゃんとサインを出していたのに。
メッセージを送っていたのに。
「艶」「ほのかなひかり」。
その逆に、
「カサカサした感じ」「しょぼんとした感じ」「淋しい感じ」…
何かが足りない。
陽の光、水分、栄養…それらが足りない植物のような、そんな感じを人から受けることもあります。
人も、モノも、植物も、必要なものは同じ。
「目を向けられ、心を向けられているか?」
それを一言で、大きくいうと「あい」ということになるのでしょう。
(写真はわたしがこの数年「目をかけ心を向けて」いる我が家の紫陽花の鉢植えです。
今日の雨に絶賛風情を醸し出し中)