知人の息子さん(小一)が今、
「自分で判断したい期(というのがあるかわからないが)」
を迎えているらしく、曇り空の朝。
「今日は雨は降らないから水着を持って行った方がいい」
(晴れ⇨水泳。雨⇨室内運動)
という、父(知人)、母の全力の主張&ススメにもかかわらず、
「僕は持っていかない。今日はいらない」
と、雄々しく学校に出かけて行ったという。
(水泳バッグ・昭和。で探してみました。懐かしい…)
わたしはその話を、
「やっぱり雨降りませんでしたね。今頃どうしてるのか…」
と現在進行形で知人から聞いたんですが。
1週間後。
その出来事の「オチ」が気になって、聞いてみました。
「で、あの日、帰ってきた息子さん、どんな顔してました??」
知人いはく、
「水泳どうだった?」
と聞いたところ「ニヤッと笑って」
「あった」
と答えた、とのことで。
「軽やかだなあ〜息子さん」
と思いつつ、さらに興味津々だったのは知人の反応で。
「で!?父としてはなんて答えたんです?」
と勢いこんで聞いてみました。
「にっこり笑って『そう』って言いましたよ」
(武士の情け。惻隠の情です、的なことをおっしゃってたような)
この件に関しては、
これで終わったそうで。
(…見事!)
思い出すのは…
こういう時
「ほ〜らみてごらん!」
「やっぱりお母さんの(お父さんの)言った通り!」
「いうこと聞かないから」
「あんたは全く…」
(以下略)
こういうのが、
いっちばん腹が立つんですよね。
反論できないだけに。
雨は降らないまま体育の時間が近づき、
みんなは水泳着を持って来ている。
自分は持ってない。
先生になんと言おう。
勇気を出して歩み寄って、先生に「今日の顛末と自分の判断ミス」
を伝える。
みんなが水の中でキャッキャ言っている、
その水飛沫を眺めながら、
プールサイドで一人静かに体育座りで時間を過ごす。
…
もう、そのプロセスで、
十分に学び、実感し、
「得まくったもの」があるわけで。
(彼は、自分の選択の責任をちゃんと自分で引き受けて、
対処して帰って来たわけで)
それを、
家に帰ってまで「鬼の首でもとったように」
叱られたんじゃあ、
もう、立つ瀬がない。
なので、
「知人は偉いなあ」
「すてきな対応だなあ」
と、素直に思ったのでした。
相手のことを大切に思っていればこそ、
(と書きましたが、案外悔しかったり、「ほら見たことか」的な
自分のスッキリ感を満たしたいだけだよね、とも思ったりするのです)
その一言がつい、出てしまうことがあるけれど。
が、身近であればあるほど、
「とどめを刺してはいけない」
瞬間があるよなあ、
と思った次第です。
そしてもう一つ。
お子さんが、
「自分で選び、その結果と、そこにまつわる考えのプロセスや感情…
全てを全部自分で味わう」
体験を、しっかりと尊重し「邪魔しない」。
そこのところも、「お見事!」
と思った部分なのでした。