先日
演劇ワークショップ参加のため東京にいましたが
もう一つ、目的がありました。
それは
「講談の個人レッスンを受ける」。
友人の紹介で急きょ実現。
初の『伝統芸能』の世界です。
粗相があってなならぬ、失礼があってはならぬ…と
先生のために厳選した「俊寛」(喜界島限定黒糖焼酎)と「そらきゅう」片手に
緊張しながらレッスンの場所に向かいました。
前日は演劇ワークショップで
そこにはもちろん、発声なども含まれており。
これらの「演劇」の「方法」のルーツはよくわかりませんが多分
外から(外国から)入ってきたもの。
が
考えてみると、日本の伝統芸能には特別な「発声練習」なるものは存在しない。
(多分…違っていたらすみません)
そういえば
居合の練習の時も「筋トレ」や「体力つくりのための基礎練習」
といったものはなかったな。
最近行っていないので偉そうには書けませんが。
これらはわたしにとって大変面白く、そして興味深いことです。
さて
初めて生で接する講談の世界は
演台(釈台と言うそう)に座った先生。そして一本の張扇。
声と言葉、ただそれだけによって織りなされる「一大スペクタクル」。
それはまるで合戦場にいるかのような。
映画を見ているような、ハイビジョンの映像を見ているかのような。
目に浮かぶのは色鮮やかな甲冑の列。たなびく旗印。
そして
聞こえるのです。感じるのです。
馬のいななきに、武将が呼ばわる大音声にどっとざわめく周囲の空気…。
これらが、
声とリズムと抑揚、呼吸…それらのみによって表現される。
これはすごい。
一席が終わった時に
自分の体から自然と拍手が沸き起こり。
もう、拍手しないとやってらんないよ、という感じでしょうか。
恐るべし。
いとも簡単に「時空を超える」日本の語りの力。
さて。
なぜこのようなことが起こるのだろう??
と考えてみたのですが。
もちろん、演者のすごさなのですが。
一つは「型」なのだと思います。
わたしたちの体に刻まれた共通の「型」。
リズムといっていいかもしれません。
伝統芸能はいわば「タイムカプセル」。
百年、二百年前から基本、変わることなく
わたしたち日本人の体と心を震わせ、感動させてきた
「型」を継承しています。
わたしたちの祖先から今に渡って、細胞に刻み込まれているリズム。
日頃は忘れていても
決して消え去ることのない、遺伝子に組み込まれたリズム。
それらを瞬時によみがえらせる「何か」がある。
美しく格調高い「言葉の力」。
それはもちろん、シェークスピアのセリフなど…
なんでもよいのですが
中でも「日本語の持つ軽快なリズム」が人の体と心をみる間に開き
元気にしていくさまは、いつも見ていて驚くばかりです。
それはまるで
和太鼓を聞くと、その地を揺るがす響きに自然と誰でも体が動いてしまうような…
そんな感じでしょうか。
前出の演劇ワークショップの際
一人の男の子が
「丹田で声を支える、という感覚がわかりません」と。
その子の、上に向かってひょろりと伸びたその肢体はのびやかで。
が、言い方を変えればどことなく「安定していない」。
生まれたときからイスとソファの生活。着物を着ることもほぼなく
見るからに
畳の上で「座す」「立つ」という感覚を(技術を)もはや伝承していない体といったかんじで。
ああ、こういう子こそ、和の伝統を受け継ぐものをやるといいのにな、
と思ったことでした。
それこそ講談や落語、能。書道や華道…和限定ではないですが
薪割りとか(笑)。
話がそれました。
わたしたちの体を開き、心を開き、時空を超え。
わたしたちの中に備わった「エネルギー」を活性化してくれる。
いえ、きっと、誰もが生まれついて持っていた「生きる力」のようなものを
よみがえらせてくれる
そんな気がする
にっぽんの「語りの力」「言葉の力」。
興味は尽きません。
…余談ですけれど
一番嬉しかったのは、講談のレッスンの開始が
静岡茶と最中で「まずは一服」からはじまったことだったかもしれません^^