もう1年も前のことです。
神社の境内での太鼓の奉納を見ていて
かすかな違和感を感じたことがありました。
あれは、
「奉納」ではなくて、単に神社でやっていただけだったのかもしれませんが。
大中小、さまざまな形のたくさんの太鼓で演じられていたその演奏。
休日ということもあり参詣のお客さん多数見物。
どんな違和感かといいますと
なんといいますか
「バンドのパフォーマンス」といいますか、もしくは「アイドルのショー」といいますか
いや、かすかなんですが
何か、そういうにおいがするような。
言葉にするなら
「どう!見て!みんな!」
という自己表現の場?という感じでしょうか。
なんというんでしょう。
もちろん、太鼓をたたいているのは奏者の方々で
その方々が演奏している場なわけで、確かに皆、それを見て喜んでいるわけで
ですから、まさに自己表現なわけですが。
どうも、「そこ」にすんなり入ることができず、一歩離れたところから客観的に眺めていました。
わたしの中で
神社での演奏=奉納=神様に喜んでいただく。
鍛え鍛え、磨いてきた音と技と、その技がはぐくんだ「心映え」を感謝とともに神様に捧げる行為。
それを通じて神様とつながり、自然とつながるまさに「かみごと」なイメージがあり。
ああいうときに「つながる」べきは自分の中のどこなのだろう?
などなど…
その場でうまく説明しがたいことをいろいろと思っていたのでした。
あくまでも個人的感覚です念のため。
場所が神社でなければ特に感じなかったことかもしれません。
なぜか
「彼」を見て、そのことをふと思い出したのでした。
久しぶりに再会した彼は銀の面に熱い正義の心をおし包み、一人孤独に闘う者。
彼の名は「ウルトラマン」。
子どもの頃以来でした。テレビでまじまじとその雄姿を見たのは。
ウルトラマンって…こんなにかっこよかったっけ?
というのがその時の印象。
腕をやや開き、背筋をまっすぐに伸ばして立つその姿は潔く美しく。
俯けた顔、見上げる顔…ほんの少しの動きなのに、
その表情の語ること語ること。
あるときは愁いを帯び、悲しみに満ち、あるときは静かな怒りに震え…
その造形は全く変わらないというのに、実に様々な表情を見せるのです。
ストイックにしてこんなにも雄弁。
ウルトラマン、これは…能の面ですね。
そして
これらの「感じ」を、ちゃんと子どもの頃にも感じていたことを思いだしました。
ウルトラマンの変わらぬ静かなその表情に
その背中に
彼の千もの喜びを感じ、万もの怒りや悲しみを感じ
共感しまくって見ていたことを思いだしました。
さきの神社のくだりで
「違和感」と書きましたが
奉納うんぬんはおいておき
わたしの見た演奏の雰囲気がどうも「借り着」のように思え
一人で勝手に、妙に恥ずかしくなったのかもしれないな、とも思いました。
大げさに泣き叫ばなくとも
大仰な身振り手振り表情でアピールしなくとも
肩のかすかな動き一つで、秀麗な眉に落ちる一つの影で感じ、察し、共感できる。
そういう文化にどっぷりと浸り
体の中にウルトラマン的能面の美が染みこんだ民族が(笑)
「あの手の雰囲気(表現)」を格好よく決めるためには
きっとたいそうな修練が必要だな、とも思ったのでした。
(ああいう波長を天性として体に備え持っている人もいるので個人差ありです)
修練が進めば進むほど、いろいろなものがそぎ落とされ、
結局、よりシンプルな表現の形なっていく気もしますが。
修練するということは
自分の身にしっくりくる響きを掘り当て、
それを極みまで高める、ということなのかもしれません。
それはどんな音であれ
りん、と響く、一条のまっすぐな鈴の音ような、突き抜ける響きであり
きっと天と地を結び
人の心を奥深く震わせる響きとなるのでしょう。
どうもうまくまとまらないので削除しようかとも思ったのですが
自戒を込めて、このまま置いておきたいと思います。