せっかくの鯛が
ぼやけてしまいました。
残念。
晴れの日のために、背びれ、尾びれまでちゃんとお化粧した
ツヤツヤの鯛です。
しっぽに飾りまでついている!
間近でこういう鯛を見たのははじめてなので
興味津々でのぞきこんでしまいました。
本当は指でうろこをつん…とさわってみたかったんですが
縁起物なのでそれはやめにしてと。
11月の初め
弟の縁談が調い、先方様へ「結納の儀」に出かけました。
家族がそろうこともめったにないので
全員でごあいさつかたがた出かけよう、ということになり。
緋毛氈の上に並べられた品の数々が
白・朱・金・銀…たくさんの色を部屋中に振りまくさまは
なんとも気持ちが華やぐものです。
並べるひとつひとつの品の由来や意味
以前は全部覚えていたのになあ、と
うんちくをその場で披露できないことを少し残念に思いつつ。
かつては「ヨロコブ…だじゃれ?」などと不届きなことを思っていましたが
今思えば『言霊』『文字の力』ということですね。
「寿恵廣(すえひろ)」
「寿留女(するめ)」
…
願いと祈りのこもった美しいおめでたい字で表す名前の数々です。
両家、正座で対面し
ぎこちなく、けれどなごやかに「儀式」は終わりそのままお膳での会食へ。
なんというか…
よいものですね。こういうものは。
昔からの決まりごとにのっとり、伝えられているとおりの道具を使い、作法を行う。
意味は定かにはわからなくとも(わかっているともっと良いのでしょうが)
そこに「受け継がれてゆく魂」のようなものを感じます。
品物、作法、文言…長いことかかって洗練され、形式となった「それら」には
やはり「力」があるように思うのです。
そこに、長い間人々が込めてきた思い。
それに重なって、今日この場に集う人間たちの込めた願いと思いと喜びが
この美しく華やかな「道具」に、「言葉」に集約されているように思います。
余談ですが
わたしがウエディングプロデュースの仕事をしていたとき
結納や媒酌人などは省略、というご家庭も多かったように覚えています。
あの頃は「今時、もうそういう『形式的な』ものは廃れてゆくのだなあ」と
ことさらそれに対して何を思うこともなかったのですが
今は
そういう「昔から伝えられてきた形」を無造作に
無駄、非効率的、意味が分からない、とばっさばっさと切り捨ててきたところに
今の日本の問題の一端があるのでは??
と思っているので
「結納にみんな来て」
「式は霧島神宮で挙げる」
と弟が言ったとき
「よく言った!我が弟よ♪」
と、つい頭をぐりぐり撫でたくなったものでした。
さて、話を戻します。
今回のこのご縁。
偶然にも母方の実家のある地域の方とのご縁でした。
母の祖父と、先方様のおじい様は顔見知りだったろう、という話が宴席で出て
みなで驚くことひとしきり。
11歳離れた弟の顔が、きりりと引き締まり
いつもと違う顔に見えたこの日。
長押に飾られたたくさんの古い写真に見守られながら
集っている人たちよりもはるかにたくさんの人たちの
「祝福」の気持ちがその場に満ちているのを
確かに感じたよき日でした。
多くのご縁に導かれて、今始まろうとしている
弟とお嫁さんの新しい人生。
幸多からんことを!
*追記*