「深知今日事ーふかくこんにちのことをしるー」

「ならぬものはならぬものです」

知人がこんな話をしてくれました。

知人は専門学校の先生なのですが

「学生が、『自分の気持ち』を優先したがる」

と。

大きなことから小さなことまで

その方曰はくその学生さんは「いちいち反論してくる」らしい。しかも速攻で。

「明日は9時に登校してください」(知人)

「9時過ぎじゃだめなんですか?」(学生)

「できなかったレポートは、終業時間まで学校で書いてください」(知人)

「帰って家でやっちゃだめなんですか?」(学生)

「(レポートを)どうしても書く気になれないので、これ以上は書けません」(学生)

そのたびに知人は

「どうして?」と理由を聞き

(この場合、遅く登校したい、学校でレポートを書きたくない、の理由は

「他の学生の目について恥ずかしい」というものだったそう)

なぜそうしなければならないのかを説明し納得させる、という一段階がそこにはいる。

「学校でレポートを書く、ということを納得させるのに45分もかかったんですよ!」

と知人。

うげ…。45分。

そう、「納得」。

「納得」しないと、できないのですね。

話を聞いていると

場所は「学校」で、相手は先生で、自分は学生である。(教え導かれるものである)

という基本的な「立場」が学生さんの中には「抜け落ちている」ように感じます。

「小さいころからものすごく、ある意味『尊重』されてきたんでしょうかね」

とわたし。

常に気持ちを聞かれ

「どうしたい?」と問われ

やりたくないことや

自分の感情として「納得」できないことは一切やってこなかった。

肥大してしまった自分の「気持ち(感情)」に振り回され、がんじがらめになって

自分でもどうしようもなくなっている、その学生さんの姿が見えてきます。

反面、自分をしゃんと立たせ、律するための「精神」は育ってこなかった。

「問答無用」。

これにどんな意味があるのか、そんなことを考える前に

ただそれをやる、やってみる、体を動かしてみる、

という時期が

幼いころはあっていいのだと思います。

鹿児島でいうところの

「議をゆな」(屁理屈を言うな)

会津でいうところの

「ならぬものはならぬものです」

というところでしょうか。

そしてかつては

学校教育の中にも

地域の教育の中にも、そういう場面がうまく組み込まれていたのだと感じます。

(鹿児島には「郷中教育」というものが普及していましたし)

自分という「狭い世界」の中だけで納得したものをやっているのでは

世界は広がらない。

自分の枠が広がることもない。

そのことの意味、理屈はわからなくても、決まったこと、やれと言われたことを

まずはやってみる。がむしゃらにやってみる。

その、「与えられた場面」を乗り越えることで初めて見えてくる世界というものもあるのでしょう。

そこではじめて育つ「精神」というものもあるでしょう。

その学生さんの中には

そういう体験がなかったのだなあ、と感じました。

決まっていることをやってみる、繰り返してみる。そういう

「型」が体の中にはいっていない。

そういう型を体に、心に「糧」として染みこませることのないまま

大人になった。

「言っちゃってくださいよ。すぱっと。

『議をゆな!』って

『ならぬものはならぬものです』って!

その学生さんの人生初の『壁』になってあげてくださいよ」

と言ってみました。

その学生さんが

今直面している「課題」をとおして

自分の力で新しい世界への扉をけることができるように。

そこまで行けるよう祈りながら。

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