漫画家の和田慎二先生がお亡くなりになったと
ネットの端で目にして
「和田慎二先生がお亡くなりに~!」
と一行
つい姉にメールしてしまいました。
そんなにしょっちゅう会うわけでもない姉なのですが。
姉からは
「…誰だっけ?」
とすげないメールが帰ってくるかと思いきや
「いつー!!」
という強度に反応した(^^)メールが。
「よかった・・・」と内心安堵しつつ
ちょっとその心配をもらすと
(「誰それ?って言われるかとおもったよ」と)
かつて、子どもの頃に共に読んだマンガのタイトルをずらずらっと書いてき
「読んだじゃん」
と返事が。
なんだか嬉しくなりました。
同じテレビを観て、同じマンガを読んで、同じおやつを食べて
時間も空間も物も人も…すべてを共有し、ゆずりあい、奪い合い
あるときは一番盛り上がり、語り合える相棒
あるときは一番憎らしいライバル
あるときは一番頼れる先達
そして、あるときは、耐え難い人生の傷をいっしょに分かち合ったかけがえのない戦友
それがわたしにとっての「きょうだい」であったように思います。
帰宅時間を守れず母に締め出されて一緒にみた夕焼けや
取り合ったマンガの本のインクの匂い
そんなものを、「和田先生のマンガ」とともに一瞬思い出したのでした。
そういえば、昨日のクライアントさんも
幼い頃の、ご自身のお兄さんや妹さんとのことをお話なさいましたっけ。
(と、書いてOK,と了解いただき書いております)
どうにも居心地悪いざわつく感情を感じて、すっきりしない。
思い出していたら、小さいころのきょうだいとのある場面に行き当たった。
「ああ、はじめてこれを感じたのは『あのとき』だったんだなあ~」と。
一番近い存在、一番知った存在だけに
心から愛おしいくもあり
また、幼い頃のほんの小さな、まるで小骨が刺さった程度の心残りであるのに
なぜか不思議と心の中に残っていたりする
きょうだいとはそういうものなのかなあと思ったのでした。
今日見た映画
「小川の辺」にも
そういう「きょうだい」がいました。
海坂藩、戌井朔之助は、藩命によって
親友を討たなければならない。
親友の妻は、自分の妹、田鶴である。
負けん気が強く、自分と同じく直心流の使い手である田鶴は
夫が討たれるとなると刃向ってくるかもしれないとの
危惧を抱く朔之助。
脱藩した親友とその妻(妹)を追って
歩きづつける朔之助。
山に、河に…美しい風景につつまれて旅は続きます。
旅の途中でよみがえるきょうだいのふとした場面。
幼いころに遊んだ小川のほとりで起こった小さないさかいの思い出。
「討手」として朔之助がたどりついた場所は
小さいころに遊んだ場所によく似た「小川のほとり」でした。
苦悩の中、友を討ち果たした朔之助の前に立つ田鶴。
その手には剣が握られている。
小川のほとりでやむなく始まってしまう兄と妹の戦い。
(このときの菊池凜子さんの殺陣がまた…すごいんです。くの一かと思いました)
朔之助は
この戦いに決着をつけると同時に、幼いころのあのいさかいの結末もつけます。
(そう思いました)
あの日、小川のほとりで泣きじゃくる妹を前に
武士の子ゆえか?長兄ゆえか?
やりたかったのにできなかった慈しみの気持ちを
やっと形にすることができる。
とても不器用な表現でしたけれど。
小川のほとりを一人、あるいて国へ向かう朔之助の
その後ろ姿はなぜか、とてもすがすがしく、軽やかに感じられ―
ああ、朔之助の心の中にどこか、小さく残っていた「とげ」も
一緒にとれたのだなあ、と
そう思いました。
朔之助と田鶴。
武家のさだめやしがらみに翻弄された二人でしたが
いつかまた会いまみえ、ともになつかしく語り合える時が来ますよう祈りつつ。