マスク解禁→世界を表す声と言葉と表情を取り戻す。いや、以前よりずっと豊かに生き生きと。

 

 

 

 

3ヶ月ぶりに訪れたカフェのバイトの女の子の「言葉数」と表情が
とても豊かになっていました。

 

 

3ヶ月前は慣れていなかったのか、硬い表情で、お茶を置いて、

「こちら、紅茶になります」
(それはもはや紅茶であって、「ならない」のよ、

それ以上変身しないのよ(笑)と思いつつ聞いていましたが)

 

という言葉を投げかけて去るだけだったのですが、

今日は(やや噛みつつも)
「もう少し茶葉を蒸らしてからお召し上がりください」
&
目が合うとはにかむ目元、というおまけがついてきた。
かわいい…。

 

で、幸せを感じているところです。

 

 

 

 

 

朝ドラの少し前の回で、言葉にまつわるこんな場面が。

 

広辞苑を見ていた中学生の女の子が、
「こんなにたくさんの言葉、いらんやん」
と。

「中学行ったらな、みんなに合わせて、

 

かわいい。
ヤバい。
キモい。

 

のどれかを言っておけばそれで済むねん」

 

 

 

 

それに対して、
主人公の旦那さん(歌人)が、

「たくさんの言葉は自分の気持ちにぴったりのものを見つけるためにあるんやで」

と。

 

 

 

 

 

言葉の数=世界に目を向けることができる広さと深さ、精密さ、
を表している、とつくづく思います。
言葉はまさに「絵の具」。

 

目に見えるもの、聞こえるもの、感じるもの…
決まったほんの数色で塗り固めてしまうにはもったいないくらいに、
世の中はたくさんの色で溢れている。

 

 

 

 

と、どうしてこういうことを書いているかというと、
「伝える力が伸びる!12歳までに知っておきたい語彙力図鑑」
を読んでいるからなのですが。

 

「かわいい」を他の表現で言い換える。
「やばい」を他の表現で言い換える。

 

今これを読んでる方、いくつくらいの表現に
言い換えることができるでしょう?
(大人でも戸惑うと思うのです)

 

 

 

 

 

こと、「感情」に関して。
今、自分の中で何が起こっているのか、
しっかりと「感じる」ことができ、
なおかつ、それをなるべくピッタリくる言葉で表現できた方がいい。
多くの言葉があった方がいい。

 

自分の中で何が起こっているのか。
自分が何を感じているのかがわからない。
または、のっぺりと一色で塗り固められた、記号化したような言葉でしか感知できない、

というのはなかなかに生きづらい。

 

(色々と弊害が起きます。まあ、人生迷いますよね。

感情は自分の魂の声の出発点であり、人生を指し示すセンサーであり、

一生大切に持ち歩く羅針盤だからです)

 

 

 

子どもの場合は、大人が丁寧に、

「聞いてあげて」
「受け止めて」あげ、

適切な問いを「問いかけて」あげることによって「自分の感情を言葉にする力」
が身につきます。
答えが返ってくるのをゆっくりと待つ。

 

 

 

 

大人の場合は、
今から自分自身で自分の感情を聞いてあげることをやっていけばいい。
(わたしも、そっちのくちです。大人になってから自分で癖づけたクチ)

 

 

専門家の手を借りるのもいい。
わたしも、これまでずいぶん助けてもらいましたし、
他者の「そのプロセス」をお手伝いもしてきました。
(一人でやるより早いし楽なのです)

 

 

 

 

 

 

さて。今日は春分です。

マスクも外れて一週間。
(元々「任意」だったと思うんですが、
けれど「解禁!」という言葉がやっぱりしっくりきます)

 

 

 

わたし達は、再び言葉を取り戻さなくてはならない、と思います。
豊かな表情を取り戻さなくてはならない。
この美しい世界を表現する言葉と、表情と、身体能力を取り戻さなくてはならない。

 

 

 

この3年間が、わたしたちの、そして特に若い人たち、子どもたちの
その身体に=無意識層に、
刻み込んだであろう影響を思うと、この先が予想もできないのですが。

 

 

 

 

 

世界は美しい場所だと。
そして、その世界で存分に自分を知り、自分を愛し、
自分の本質を表現していいのだと。

 

大きな声を存分にあげ、湧くままに踊り、
自分の響きを全身で表現するために、
わたし達は生まれてきたのだと。

 

 

 

そして、一人一人の「それ」こそが世界へのギフトなんだと。

 

 

 

わたしたち大人は、
声を大にして、そう再び彼らに伝えなければならない。
何より「その姿」を生きて見せねばならない。

 

そう思います。

 

 

 

 

 

自分という地層を通って言葉は滲み出るのだ

 

 

 

 

 

2人の講師が登壇するオンラインセミナーを視聴。

テーマはどちらも、「コミュニケーション」とか「伝える」という分野。

 

 

一人は、言葉、講義の中身、存在感ともに好きな講師で、

この人目当てで申し込んだのだけど、

もう一人の講師も、タイトルからするにとても良さげで、楽しみにしていたのだけど。

 

 

 

 

結果、(わたし目線ですが)

二人目の講師はどうにも聞いていられなくて15分くらいで聞くのをやめてしまった。

 

 

 

 

 

この二人、何が違ったのだろう?と考えていたのだけど。

 

突き詰めると「言葉」が、

どこで発生し、どこを通って出てきているか、の違いかな、と。

 

 

 

一人目の人は、著作も多い人なのだけど、

その興味の多様な方向性の本、それぞれに満ちるエネルギーを感じる。

(うわ、好きなんだなあ~、という感じ)

 

 

 

この人の場合は、その言葉の出発点は全て

 

「自分が感じたこと」

「思ったこと」

「自分が体感したこと」

 

なのだと思う。

 

 

 

「自分の中からふつふつと湧いて出た思い、疑問、憤り、願い…」。

 

 

 

そういったものが出発点。

 

 

 

 

 

言い換えると、

この人が語っているのは、「自分の内側」から湧き上がる「自分の真実」。

 

 

「自分の体感した真実」を心から「伝えたい!」と願い、そのために、

自分の言葉、プラス

 

外界にあった言葉、誰かの理論、

誰かが系統立ててくれた概念を選び、

噛み砕き、血肉となるまでこなし、

自分の身体のリズム、身体感覚に沿った言葉にまで「変換している」。

 

 

 

そう、ここが大事。

 

 

 

変換ができていて、しかももはや染み込んでいる。分離不可。

それはもはや、あなただけの、あなたの言葉。

 

 

 

 

 

で、もう一人の人は、それが感じられなかった、ということかなあと。

 

その人が語ったのは、わたしも知っている、マーケティングの有名な理論だったのだけど、

わたしには、

 

 

「誰が語っても、同じだろう」

 

 

と思えてしかたがなかった。

はなから「その概念」をただ語っている感じ。

スルスルと表面をすべっている感じ。

 

 

 

 

そこには、

 

「その人という『地層』を通り、濾過され、独自のミネラルや栄養分が足された

その人だけが出すことができる、『絶対に味わいたい、と思える甘露』」

 

というものが存在しなかった。

 

 

 

 

 

 

こういうものは、講義や講演だけではなく、

歌でも、踊りでも、作品でも、なんでも一緒なんだろうなあ、とつくづく思う。

 

 

 

「全てがオリジナル、一から全てを自分で作った、自分で考えた」

という創造物はこの世には存在しない、

どこかで先人たちが考え、表現したものだ、と。

 

 

 

誰かが言っていた。

 

 

 

それでもわたしたちは表現する。自分の内に生まれた、この熱い思いを。

 

 

 

 

「表現したい」「これを他者に伝えたい」

と日々、請い願っている人は、上に書いた「地層」の喩え、

方向を指し示す結構いいイメージとして使えるんじゃないだろうか。

 

あなただけが出せる「甘露」。

 

 

 

 

わたし自身は、自分が書いた言葉ながら、とてもしっくりきた。

そして、「地層、厚くしよう」と思っている。

(厚いだけで「なかなか透過しない」のもあれなので、バランス大切に)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*    *    *    *    *

 

青文字のところ、我ながら「とてもいい喩えだ」と思ったので、強調してみたんでした。

「甘露」という言葉は「凝縮された、美味なる良いもの」くらいの意味で使ったんですが、

仏教用語でもあるらしいです。

(こんな感じ↓)

 

中国古来伝説で、天子仁政を施すと、天が感じて降らすという甘い露。

《(梵)amṛtaの訳。不死・天酒の意》天上の神々の飲む、忉利天(とうりてん)にある甘い霊液不死を得るという。転じて、仏の教え、仏の悟りにたとえる。

煎茶の上等なもの。

夏に、カエデ・エノキ・カシなどの樹葉からしたたり落ちる甘い液汁。その木につくアブラムシから分泌されたもの。

甘露酒」「甘露水」の略。

(goo辞書より)

 

 

 

 

 

 

 

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