「B級グルメは『作れない』」ーそれは「見出す」もの

 

 

 

「ロバート秋山の町民オーディション」という番組がありますが。

 

 

あの番組の何が一番すごいかというと、ロバート秋山の才能が凄い、と思いつつ、
毎回見ているところなのです。

 

 

素人さんたちの「表現」の
「微妙なアク(山っ気?😃)」をさっさと(ズバッと)指摘し、
ばっさばっさと容赦なく取り除き、

 

そして、その人自身も知らなかった、
「魅力や面白さ(存在感)」をその場でどんどん引き出して、
「自分たちだけでは絶対に到達し得なかった」
場所へと全員を連れていく。

 

面白いなあ〜。
秋山、なんてすごいんだ!
と。

 

 

 

 

で、
この番組を見ていると、
以前クライアントさんがおっしゃっていた、

 

「B級グルメは作れない」

 

という言葉を思い出すのですよね。

 

 

 

 

「B級グルメは『作れない』」。

 

作為的に、ああやってこうやってこの食材が流行ってるから、
これを使って…と、
頭であれこれ考えて作っても、
結局流行らない。定着しない。

 

わかるなあと。
なんだか「あざとく」感じられるのですよね。

そういう感じのもの。

 

 

 

B級グルメ。
それは「つくる」ものではなく、「見出す」もの。

 

つまり
そういうことなのかと。

 

 

 

 

 

そもそも、そこで昔から、自然と食べられていたもの。
自分たちも「気づかない」くらいに、ふつーに、
食卓に上っているモノ。

 

あまりの馴染み具合、手に入りやすさに、
自分たちにとっては「特別感ゼロ」で食べているようなもの。
調理方法。

 

生活、風土、様式と共に「自然と」そこにあったもの。
それが「個性」として光り、
他にはない「面白さ」となって「B級グルメ」となる。

 

 

つまり。
歴史、
時間、
風土…
といった「リアルな生活」に裏打ちされた
「真の存在感」こそが、
「B級グルメ」たる所以である、ということかと。
(何せ、B級なんで。もう完全に「生活密着」でなくてはね!)

 

 

 

 

 

 

話戻って。

 

「ロバート秋山の『町民オーディション』」を見ていると、
なんだか似たような「におい」を感じるのですよね。

 

 

かっこよくも、
おしゃれでもないけれど、
でも、町民一人一人の「ほんとの存在感」満載の、
魅力とエネルギーに満ちた
リアルな息遣いの感じられる「B級グルメ」になっていく感じが
見ていてなんだか元氣が出る。
(不思議とすっきりとしたものを感じ。うまく言語化できていませんが)

 

 

 

 

さて、今日何をいいたいかといいますと。

 

 

あなたの魅力はあなたの中に。
あなたが過ごしてきた時間と、生活のプロセスの中に。

 

いらん事をしなくても、
飾り立てなくても、
面白い事をしよう、としゃかりきに頑張らなくても、
「外から」何かを取り入れなくとも。

 

 

元々のあなたの中に。

 

 

 

という感じでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

(※写真は「B級グルメ」で出てきた「富士宮焼きそば」)

 

*   *   *   

「『富士宮やきそば』は

戦後の静岡県富士宮市の市街地の数あるお好み焼き屋から誕生しました。

 

戦後の経済復興の中で富士宮市街地には製糸工場が操業し、

数多くの女性の工員達が働いていました。
そんな工員達の日常の食事場所として値段も手頃な

お好み焼き屋が利用されていました。

お好み焼き屋ではお好み焼きはもちろん焼きそばが食されていました。

 

富士宮では駄菓子屋でも鉄板が置いてあり、子供達が小遣いを握り締めて

お好み焼きや焼きそばをおやつ代わりに食べていました。

 

戦後は富士宮の住民だけでなく山梨からも

富士宮に電車で働きに来たり買い物に訪れていました。
そんな中で焼きそばの麺を持ち帰りたいとの要望があり、

現在のような水分をとばした長持ちする焼きそば麺が作られたと考えられています。」

[日本の郷土料理観光事典]よりお借りしました
https://kyoudo.kankoujp.com/fujinomiya-yakisoba/

 

 

 

 

 

*  *  *  *  *

 

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大人は忘れていても、それが子どもの人生を助け動かすことがある~小椋佳氏とマルコ・ポーロ

 

 

 

 

 

先日、知人からメッセージが来てですね。

 

 

娘さんのお友達の話を聞いていたら、

 

「バイト先の常連さんにとってもステキな女性がいて、
凛とした雰囲気が漂い所作や動きがとってもきれいで
私達との応対もハキハキとステキで仕事もできそう!
こんな大人の女性になりたいなって憧れる雰囲気の人がいる」

 

で、
どうも公子さんっぽいので、写真を見せたら大当たり。
と。

 

 

なんだか自慢みたいになっていますが、
そのメッセージを見たときのわたしの心持ちはそんなものではなく。
言葉にするならば、
「ああ!😭」と膝からくず折れるような、
そんなきもち。

 

「ああ、頑張ってきてよかった。
痩せ我慢しつつ、時には強がりつつ…でも本当に頑張ってきてよかった」

 

と、そういう感じでしょうか。
(と、その知人にも送ったのですけどね)

 

 

 

さて、本題。

 

 

今、朝5時と言う思いっきり早い時間に、昔やっていたアニメ
「マルコ・ポーロの冒険」
の再放送をやっていますが。

 

子どもの頃、一生懸命見ていたんです。
そして、出てくるいろんな曲が好きだった。

 

でその頃、曲を作った小椋佳さんが、
「マルコポーロの冒険」の楽曲について語るラジオ番組があったのです。
それを録音して、姉と二人で繰り返し繰り返し、聞いた。
でもって、すっかり覚えてしまった。

 

 

一番印象に残っているのは、

 

「取材に行ったとき、砂漠の真ん中で、自動車が壊れてしまった。
立ち往生して、どうにもならない、と思った時に、
星空の広さ、自然の中でポツンと、自分の存在の小ささを知った」

 

みたいな話で。

 

 

 

 

そして時は流れ、数十年。
小椋佳さんとご一緒する機会があり、
わたしはここぞ!とばかりに突進。
その話を熱く語ったのです。小椋さんに。

 

「今でも、ふっとおりに触れ、あのお話を思い出します。
そして、旅に出る時、ちょっとキツいなと思う時…
今でも、マルコポーロのいろんな歌が背中を押してくれるような時があります‼️」

 

と、それはそれは熱く(笑)

 

 

すると、小椋さんは、あの穏やか〜なお声で一言。
「ああ、そうなんだ…ごめんね。僕、何喋ったか覚えてないんだけど」

 

 

 

 

さて、何を言いたいかと言いますと。

 

「大人は覚えてえいなくても、子どもは『それ』を覚えていて、
しっかりとその身に刻み、そしてそれはいつか子どもの指針となり、子どもを助ける」

 

ことがある、と言いたかったのです。

 

 

 

だから「氣が抜けない」。
けど「氣が抜けない!」と、いつも周りを見回して身構えて、
ポーズを作って生きることはできないので、

 

つまりもう「日々の生き方」ってことになる。
掛け値なしの自分軸。
自分の体験と体感から出た言葉。
(あの日の小椋さんの言葉や、小椋さんがプレッシャーに苦しみつつ生み出した曲の言葉のように)

 

 

 

 

ここまで書くと、先の「知人のお嬢さんのお友達」の言葉が
どれだけわたしにとって嬉しかったか、
わかってもらえるのではないでしょうか。

 

スマートとも素敵とも言えない毎日。
アヒルの水かきの如く。

 

 

そんな毎日の中でも、

光る水滴のようにこぼれ落ちる「何か」があったのだとしたら。

それが若い人に伝わる瞬間があったのだとしたら。

 

 

 

 

本当に生きてきてよかった。
この生き方を選んでよかった。

そう思えたんでした。
(報われた瞬間、と言うんでしょうか。こういうの)

 

 

 

そして、(今これを読んでいる)皆さんも同じですね、
ということも言いたいのです。
みんなきっと、とても頑張っている。

 

 

今回、
皆を代表して、わたしのところに、
「その言葉」が(子どもたちからの見ているよ!という言葉が)
形となって降ってきたような、
氣がしているところなのです。

清里の街の再生に思うーつまりはわたしたち日本人全員の課題

 

 

 

 

 

今朝ほど清里の街の再生をする人たちの番組を見ていて、
なんだか悲しいやら切ないやらの気持ちになっていたところでした。

 

清里高原がブームになった時、
あそこに一斉に押し寄せていた若者たち
(パステルカラーの服を着て「聖子ちゃんカット」をしていた人たち)
とわたしは大体同じ年代なのだけど。

当時から幕末オタクの神社仏閣好きということもあって、
あの、キッチュな偽物(いかもの)チックな清里の雰囲気に、
なんとなく

 

「恥ずかしいな…」

 

という感慨を持ってみていたのだけど。

 

けれど、そんなわたしですらパステルカラーのものを、
何かしら身につけていたように思うので、
時代?流行り?空氣というものは本当に恐ろしい。

 

 

その番組には、清里の地元の人たちが描かれていたのだけど、
みるからに「本当に難儀だったろうなあ」と想像するに十分で。

 

ブームの時。
外からどっといろんな人たちが入ってきて、
「キッチュな」「イカものな」(言い過ぎ?)
お店をどんどん建てて、人が集まって。
その雰囲氣に乗って、地元の人たちも同じようにして。
「ああすれば儲かるのだ」「乗り遅れるな」と。

 

けれど、ブームが去った途端に、
外から来た人たちはさあっと潮が引いたように清里から去っていき。

 

後は、食い荒らされた土地に、
歯抜けのような空き店舗だらけの街。
その中にぽつねんと取り残された自分の店。

 

辛かったろう。
悲しかったろう。
歯痒かったろう。
絶望したろう。

 

と思うのだ。

 

 

父親からのレストランを引き継いだ一人の男性。
父親の工夫と努力で繁盛していた店を、
ブームに乗って改築し、席数を増やし、
効率優先で多くのお客を捌くために冷凍食品を使うようになり、
そしてブームが去った時、お客も去っていった。
お店は負債を抱え、閉店。

 

今、がんとして加工品を使わず、
パスタ麺を自分で打ち、カフェを続けるその人。
(喉から手が出るほど加工品を使いたいけど、でも使わない、と言っていた)

 

きっと彼は深い後悔の中で、この30年間
「自分とは何か?」「自分はどう生きたかったのか?」
を探し続けてきたのではないかと思え。

 

「清里だからお客が来るんだと思っていた。
でも、そうじゃなくて、いいお店があって、
それがたまたま清里にあった、じゃなきゃいけないんだ」

 

いうのはその人の言葉。

 

 

 

清里(のような、もしかしてあちこちにあるかもしれない街)が再生するとき。

 

今度こそ、その土地に根ざす人たち、一人一人の意思と、知恵と、
まことなる自立の心、
「こうしたい!」
「これが自分たちなんだ!」
「これを大切にするんだ!」
という心からの思いで街が息を吹き返すとき。

 

日本も真の意味で再生していくのではないか?と思える。

 

 

それは結局、
わたしたち一人ひとりの心の中、在り方と無縁ではなく。
(全てはフラクタル)

 

清里の人々だけでなく、
この大きな変化の時、
わたしたち日本人一人一人に、刃のように突きつけられ、
問われている、
大きな「喫緊の課題」なのだろうとも思える。

 

 

 

 

「自分に戻る」ことが今、一人一人のやること。最も大切なこと

 

 

 

 

さて、セッションで話を聞いていると、みんな話していることはそれぞれなのだけど、
つまりは「ズレを戻して」自分の「中心」に戻る作業をして、
自分の「中心」を再確認して、つながって、
そして再び自分の生活に出発しているんだな、と思います。

 

 

「グリッド。
碁盤の目。
そこに一人一人が立っている。

 

が、
これまで、全員がズレていた。
自分の本来の場所から、なんらかの理由でズレた位置に立っていた。
一人がズレると、その隣も、そのまた隣も…と、
全員が押されてズレ始める。

それが今まで。

 

 

けれど、逆に、
一人が気づいて自分の位置に戻ると、周りも押されて「中心」にもどり始める。

 

みんなが『自分の位置』に戻る時代がやってきた」

 

 

 

 

 

いう内容が載った本を買ったのは30年前。
今でもとても鮮明に自分の中に刻まれています。

 

 

自分に戻る。自分を生きる。
それが一番大切で、わたしたちはそのために生きているのだ、と思います。

 

自分の本質。
自分の本来の位置。
自分の周波数。
自分のリズム。
自分が本来もつ響き。
(わたしはこの表現がとても好きで、感覚的にもしっくりくるので、昔から使っていますが)

 

 

どんな表現でもいいんですが、
そこにいる。それを生きる。
それより他にやることはないし、
それだけで、その状態で生きているだけで、
わたしたちは周りに貢献出来ているのだ、とつくづく思います。
(まあ、貢献するために生まれてきているわけではないですが)

 

 

 

 

そして、
そのために、わたしたちのような役割(仕事)のものもいるんだな、と思います。
いわば「調律の場」を作る役割。
「調律」の手伝いをする役割。
「声を聞く」ことをたすける役割。

 

 

 

 

 

今これを読んでいる忙しいあなた。
自分の調律をしっかりとしてください。
「その時間」を取ってください。

 

なるべく日々の中に小さく、細やかに散りばめてください、と。
(そのお願いを、クライアントさんにも改めてしたところです)

 

 

 

一人になって、自分に声をかける時間をとってください。
あなたが一番ほしい言葉は、
結局自分で自分にかけることでしか、
本当には満たすことができないものなのです。

 

 

 

 

 

旅人が旅の途中、ふと立ちよる

 

せんせんと清水の湧き出る泉。
柔らかい下草の生えた木漏れ日美しい木陰。
暖かい焚き火の燃える居心地よい洞窟。

 

そんな場所と時間を取ってほしいと思います。

 

 

そこで、
この世界で誰よりも大切な、最も近しい、
ずっと共に歩んできたパートナーである
「自分自身」と、ただ共にいる時間、
そして声を聞く時間、語らう時間をとってほしい、と思います。

 

 

 

全てはそこから始まる、
と思うこの秋なのですよね。
改めて。
(ざっくりですけれど)

 

 

 

 

 

(写真は、車のフロントガラスに乗っていた桜の落ち葉。
綺麗だったので、一枚だけ「お土産」と、持って出かけたところ、
知人はとても喜んでくれ。
こういうものを「美しい」と喜んでくれる感性がとても嬉しかったんでした)

 

 

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