この秋「すごいぞ日本文化」と思ったこと(蹲踞と菊と慶応元年)

 

 

 

少し前、11月下旬にFacebookにあげたんですが、

こちらにも書いておきたく。

では早速ですが、この秋感じた「すごいぞ日本!」シリーズ、3本です。

 

 

❶大相撲、呼出さん(若い子)の蹲踞《そんきょ》がすごい!
❷鹿児島名所、仙巌園には65年前から咲いている菊がある!
❸その仙巌園内の博物館『尚古集成館』が慶応元年当時に戻っているぞ!

 

*  *  *

 

❶大相撲九州場所での話。

「本日の取り組み」を書いた用紙を
行事さんが一枚づつ観客に披露する場面があるのだけど、
その横に控える呼び出しさんの「蹲踞(そんきょ)」がとても美しい。

 

多分5分くらいはかかるコーナーだと思うのだけど、
その間微動だにせず、
背筋をまっすぐに伸ばして蹲踞の姿勢をキープし続けている。
上半身は「用紙をとり、回しながら観客に示す」という結構な動きがありながら、
下半身はスッと気持ちいいくらいに
地面からまっすぐに立ち上がって安定している。

 

今、このくらいの年齢の子で、きれいに蹲踞ができる子というのは、
正直とても少なくなっている、と思う。
(もはや生活の中で、この姿勢をすることがなくなってきていますんで)

そして、
これらの「身体の使い方」ができなくなってきていることが、
心身ともに日本人に悪影響を与えているのでは、というのは、
いつも書く通り。
(わたしは「よろしくない影響」だと感じているけれど、
そこは人それぞれかもですが)

 

これは、やはり相撲の世界に入ってから訓練をするのだろうか。
それとも日々の修行精進の中で自然と身につくものなのだろうか。
(多分後者だろうとは思いつつ)

 

その旨、聞いてみたく「日本大相撲協会HP」へと行ってみましたが、
「問い合わせに個別の回答はありません」とのことで。
いづれ明らかにしたいと思っているところです。

 

 

*  *  * 

 

❷正確にいうと、65年間「ずっと咲き続けている」というわけではない。
(季節ガン無視でそんな菊があったら逆に怖い)

 

65年前、「仙巌園菊まつり」を始めた時から、ずーっと
子、その子、そのまた子…
と、一つの株から受け継いで、咲かせ続けている花がある、
ということです。

 

「今咲いているこの花、65年前から同DNAってことですよね!」

 

と、仙巌園の菊のプロフェッショナの方を前に、
つい大興奮してしまいました。
すごい。本当にすごい。

 

ちなみに、菊のプロフェッショナルさん、
菊まつり前数ヶ月は、
「もう、ビニールハウスの前で寝たい」
くらいに緊張されるらしく。

 

鹿児島の仙巌園といえば、錦江湾沿いの海端。

お殿様のお屋敷なので、一番景色のいいところに陣取っているのですよね。

けれど、それだけに台風直撃ルートにもなっている。

この間の台風でも、施設の屋根が剥がれていましたし。

そして、菊。

台風となれば、六千鉢くらいを避難だせるのだそう。

 

 

生きているものを「その日」に向かって準備し、
ピークを持ってくるということの大変さ、
伝統の重さ、責任の重さ、楽しさ、職人さんの矜持…
そんなものもじっくりと感じられる「仙巌園菊まつり」。

機会があったら見に行かれてください。

(そして、65年ものの菊はどれですか?と聞いてみてください。

きっと、職人さんが喜ばれることと!)

 

*  *  * 

 

 

❸慶応元年の壁に頬を押し当て、すりすりして

慶応元年の歪んだ窓ガラスに我が顔を映して、慶応元年の重い鉄の扉をキイキイできます!
(※すみません、キイキイはできません。叱られます)

 

と、上のようにfacebookに書いたところ、

知人から「公子さん、嬉しそうねえ」と書き込まれていたんでした。

はい、嬉しかったです。

 

この10月に全面改装し、リニューアルオープンした
「尚古集成館」。

慶応元年(1865年)に竣工した日本最古の「石造」の洋式機械工場の建物なのですが。

以前は、窓を塞ぎ、館内を黒で統一し、外光を遮断した中で、
ライトを駆使して展示の空間が演出されていましたが、
今回行ってみると…

 

戻ってました。
当時のまんまの白い壁。
当時のまんまの窓から柔らかく差し込む自然光。

 

「ああ。これって…慶応元年と同じ明るさなんだなあ」

 

としみじみ。
窓はところどころ歪んだ板ガラス。
当時は丸いガラスを板に伸ばしたんだそうで、
自然と歪みができたんだとか。
(この歪みが堪えられません)

 

 

鉄の扉も、全部そのままそこにあって、
天井を仰ぐと、なんだか昔ここで仕事をしていた人たちの
ざわめきや熱気が聞こえてきそうな。

 

ちなみに、
直径3メートル?くらいの鉄の巨大な歯車は、
「受付ブース」の外枠になっていました。

「これ、思う存分触っていいんですよね」
「どうぞどうぞ😃」

ということで、ベタベタ触ってきました。

 

 

 

「保全」と「活用」。

これが、仙巌園に課せられた使命なのだそうで。
この2つを両立させるため、
ほんっとうに「あの手この手」。
(という表現ですととても軽くなってしまいますが)
頑張ってらっしゃるんだなあと。

 

ちょっと掘ると「何か出てくる」ので
(歴史的なものがですね)
掘れない。
仕方ないから施設を作る際には「土を盛る」。

 

台風があると壊れる屋根。崩れる土壁。
それもサクサクっと修理できるわけではない。
(手続きが山ほどあるらしい)

 

 

「保全と活用」
の難しさと努力をたくさん聞いて帰ってきたのでした。

 

そして、小さなことなんですが。
この日、仙巌園の駐車場に止める段になって、
料金が値上がりしているのにちょっとびっくり。

けれど、帰る頃には、
「いいよいいよ〜、仕方ないよ〜😃
値上がり分、菊の苗買ってね♪」
という気分になって帰ってきました。

 

「知る」(共感する)ことの大切さも、味わって帰ってきたことでした。

 

(※ちなみに10月1日から入園料も改定されていますんで
行かれる方はチェックです)

 

*  *  *

 

以上、この秋の「ここがすごい。素敵な日本」シリーズでした。

人は繋がりがあれば生き生きとしていられるし、自分に対しても周りに対しても「無体なこと」はしないと思う

 

 

 

 

知人の実家のお墓は、お父様がたくさんの想いを込めて作ったお墓なのだそうで、
それは坂を登った小高い丘の上にあるんだそう。

 

で。
そのお父様が数年前に他界され、
きょうだいでこれからの家のこと、
お墓のことを話しあうこととなったこのお盆。

 

 

「お墓をしまって平地の納骨堂に」

 

 

という意見が出たのは、
お墓をこれから次に繋いでいく可能性の高い
きょうだいの一人から。

 

「お墓を見る負担を子どもたちに残したくないから」

 

と。

 

 

 

 

ああ、そうだなあ〜、
と思いつつ、
どうも一抹の寂しさを感じ、なんともいえない氣持ちを感じ。
で、口にしてみたのです。
(繊細な内容ですんで、どきどきしながら)

 

 

「それを即、『負担』と捉えるということが…。
なんと言いますか、
長い長い時代の流れってものがあったんですもんねえ。
そういう時間をわたしたちは過ごしてきた(来てしまった)んですねえ」

 

 

 

 

知人も、わたしと同じような感慨を抱いていたようで。
けれど、知人は家を出てしまっているので「負担」と言われると
確かに、と。
で、自身の思いをどう伝えよう…と。

 

 

 

 

もうね。
頭の中が飛躍してしまって、
縄文時代みたいに「お墓は集落の中心」にあったらいいのに、
なんて思いましたよ。

 

お墓を中心に家が周囲に立っている。
死は隔絶されたものではなく、軽く「地続き」な感覚。

 

 

 

話が飛びますが、
少し前の番組「ファミリーヒストリー」で、
草刈正雄が父方のルーツを探す、という回がありました。

自分のルーツの片方が完全にない、わからない、
断ち切られている、
繋がっていない、
という感覚は草刈さんにとって、
(いえ、誰にとってもでしょうが)
本当にきついことであったと想像するのです。

 

 

自分を捨てた父親への言葉にできない思いと、
それでも、叔母やいとこがいた、という喜び。
父親の幼少期や育った環境が明かされていく
=自身の「源流」が初めて明かされ、繋がっていくという
そのプロセスが映し出されていました。

 

 

 

 

 

人にはつながりが必要です。
横のつながり(今生きている人たちとのつながり)はもちろん、
縦のつながりも。
時を超えた、立体的なつながり。

 

 

わたしたちは、全方位、360度、繋がって生きている。
生きている人。今はここにいない人。
形あるもの、ないもの、全て。

 

遺伝子を受け継ぎ、
たくさんの人たちの「思い」「願い」をもらい、受け継ぎ、
今、わたしたちはここにいる。

 

 

 

そして、その「つながり」へ思いを致す力が強いほど、
「無体なこと」はしない。できないものなのです。

山なんて崩せない。
海も川も汚せない。
なんで大木を切るんや!
そこの緑をなんで潰すんや!
と。

 

 

そう考え出すと、もう、他にもたくさん…
大切なもの、大好きなものががありすぎて。
(形あるものはもちろん、知識や伝統風習含め)

そういう感覚で世界を見ると、
自分を生かしてくれている、
支えてくれている、
エネルギーをくれる、
「宝」に囲まれまくって自分が生きていることに氣づきます。

 

そしてこう思う。

この繋がりの先端で今という時代を生きている自分自身も、
すごく大切なんだ、と。
存分に生きよう、と。

 

 

 

 

話が大きくなりましたが、
お墓って、そういうものの一つではないかな、
とわたし自身は思います。
自分自身の確認の場。
つながりを確かめ、実感する場だったりありがとう、と感じる場。

 

 

 

 

そして、子どもたちって「負担」と思うかな?

思う子もいるだろうし、

思わない子もいるんじゃないかな、

とも思うのです。

特に、これからの世代。

(親が「負担だ」と決めなくてもですね)

 

 

 

 

さて、
わたしたちは、これからどこへ行こうとしているのか。

 

 

 

今回の「お墓について」なんですが、正直、
「教育、間違ったんじゃないの⁉︎」
と思いました。

 

 

知人のお家がどうこう、と言っているのではなく。
長い長い間の「日本人」全体のことです。
この160年だか、戦後80年だかのことです。
大きな、この国の「流れ」のことです。

 

 

 

一体わたしたちは、何を捨ててきたのか。
何を受け取ってきたのか。

そして、次代に何を手渡そうとしているんでしょう、と改めて考えたこのお盆です。

 

(写真は先ほど行ってきた神社の大木です。苔がいい感じでした)

 

 

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