それは愛か?を見分けるのは容易い

 

 

 

 

 

 

 

朝ドラ「らんまん」を見ていて、ふと上の言葉が浮かんだんでした。

 

 

 

主人公の描く精密な、精密すぎる植物の絵。
どんな気分であっても、どんな状態であっても、
そこに植物があったらつい嬉しくなり、じっと見てしまう。
話しかけてしまう。
(牧野富太郎博士自身がそういう人だったんだろう、
とご本人の笑顔の写真を見て思うことなのです)

 

 

 

 

 

 

「愛」というものの土台は、

 

 

「見ている」

 

 

ということなのだと思います。
「まなざしを注ぎ続ける」と表現した方がいいでしょうか。
(または「あたたかい観察」)

 

 

そして「ものすごく細部まで見てとることができる」
「氣づくことができている」
ということ。

 

 

 

 

 

いつも「見ている」。
細部に至るまで「見ている」。
細やかに「見ている」。
朝昼晩、春夏秋冬、ずっと「見ている」。

 

 

朝と夕の変化。
季節ごとの変化。
どんな細かいところまでも、
繊細な葉の筋の一本までも「氣づくことが」できる。

 

そして、「それ」のありのままの姿、
ありのままの特質を心から愛で、賞賛し、尊敬し、慈しむ。

 

 

 

 

 

 

他者から自分に向けられる言葉や行為に対して。
または自分自身から発せられる「誰かへの言葉や行為」に関して。

 

 

 

それは「愛から」のものなのか?
そうでないものなのかを見分けるには、
上に書いた「土台」が根底にあるか?あってのものか?
を判断基準にすればいい、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

「愛」からのものとは、

 

 

・いつも見ている、しっかり見ている(あたたかい観察)
・細部まで見ることができている
・対象のありのまま(本質・特質)を見てとれている
・ありのまま(本質・特質)への尊敬、賞賛、慈しみがある
・ありのまま(本質・特質)をこそ、大切に保ちたい、
 伸ばしてあげたいと思う気持ちがある

 

 

 

 

 

それ以外のものがもし入っていたら、
それは「愛」ではなく。

 

 

 

「自分の心配、自分の不安、自分の欲、自分の願望、自分の理想…」

 

 

 

を押し付けられているのかもしれない&押し付けているのかもしれない。

と疑ってみてもいい。

 

 

 

 

 

 

牧野富太郎博士の植物の絵。
あの細やかさ、あの緻密さ、
あれは、「愛」以外の何ものでもない。

 

ただただ、対象をありのまま、真の意味で「愛した」。
愛を持って「見続けた」からこそ描けた人の絵なのだと感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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