日本語は本当に豊かだ(ありがとう日本語!)と、思った今朝

 

(写真は昨日お店で買ったアジサイ。

今年の我が家のアジサイは花芽が一つもなく。

ベランダが寂しい6月になりそうです)

 

 

 

 

 

 

 

今朝、ふと、
「もし、お腹の調子が悪かったりしたときに、病院でなんと説明するか?」
ということを、考えるともなしに考えていたのです。
(朝から申し訳ない話題ですが。漢方胃腸薬の箱を見ていたからか?)

 

 

病院では、先生にわかりやすいように、できるだけ詳しく説明しなければならない。
出だしはなんと言えばいいだろう?

 

「先生、トイレに行きましたら…」
なんか周りくどい。

 

「先生、実は便が…」
(本当にすみません💦)

 

いや、この出だしはダメだ。
なんか言いづらい。
かといって、上記の「幼児語」はもっとダメだ!

 

 

なんと言えばいいか?
うーん、
あの言葉は使いづらい、
アレもちょっと直接的すぎないか??

 

などなど考えていたら、

 

 

「そうか!日本には『お通じ』という、雅やかで便利な言葉があったぞ!」

 

 

と氣づき。
(アレな話題で本当にすみません)

 

 

「いい言葉だなあ〜。これでもし、という時は心置きなく説明できるぞ!」

 

 

と一安心したんですが。

 

 

 

 

日本語って、
本当に「いい」というか「すごい」。

 

おトイレ一つとっても、
「お手洗い」「手水(ちょうず)」「厠」「化粧室」「はばかり」
「雪隠」「洗面所」…

 

本当に豊かな品揃えで!
おかげで、本当に「心安く」使えているなあ、
と思います。
だって、
「選べる」んですから。

 

 

 

場面、相手、状況に合わせて自由自在の選び放題。
(同じものを表していても、全部微妙にニュアンスが違うのも面白い)

 

これが「一つしか」なかったら、
窮屈で、楽しくなくて、
なんか使うたんびに「ドキドキ」したり
ストレスが溜まったり…

 

きっと、大変なことになっているのではないか?
と思うのです。

 

 

 

 

雨も、雲も、色彩も。

 

もしこれが「一つしか」言葉がなかったとしたら、
(雨、としか言えない。雲、としか言えない。赤、としか言えない)
どんなにか世界は単調で、一緒くたで、
のっぺりとセメントに塗り固められたようになってしまうことだろう、
と思うのです。

 

 

 

 

 

 

自由に「選べて」初めて「表現」となる。
といったのは、演出家の鴻上さん。
(だったと思います)

 

 

 

 

そして「選べる」幅がある、というのは、
文化的背景もありますが、

 

やはり豊か、ということではないか、と思うのです。
言葉の「多さ」というのは、
人の繊細で、重層的な感覚や、感情の「層の厚さ、複雑さ」と
圧倒的に、
関係しているように思います。
(何せ、言葉の数は「世界を表す絵の具の数」なので)

 

 

 

 

 

 

特に「いい感じの結論」はないのです。
だた、
「ほんとにいろんな言い方があるよなー」
「日本人(日本語使い?)でよかったわー」
(こういう感じの言葉の世界観がわたしは本当、好きだー)

 

 

と思った、
という話でした。

 

 

(もっと深く掘れば、とてもいいテーマになると思うんですが、

何せ出だしが出だしだけに、

また別の言葉で掘ってみたいと思うことです)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

【「その声」しか出せないなら、それは単なる「癖」。
「選択肢」が増えて、初めて「あなたの表現」となる。
自分の大切な言葉を載せて毎日「走って回る」自分の声を
「癖」から「相手と場に合った適切な『表現』」へ】

 

 

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母音文化、世界を駆ける!ー日本語と世界平和

 

 

 

 

昔、ゴダイゴが大好きな子がいて、その子が歌の英語部分を得意げに発音しながら

 

「英語は一つの音に一つの『単語』が入るけど、
日本語は一つの音に一つの『字(仮名)』しか入らない。
だから日本語の歌はダメなのよ。
(内容が薄い。従って劣っている)」

 

といった意味の発言をしたことを
よく覚えているのだけど。

 

 

それから年月はたち、
「一つの音に、真っ直ぐのびやかな一つの音がスッキリと入る」
我が母語がますます好きになっています。

 

どの音を伸ばしても、その先に真っ直ぐな母音が広がる日本語。
口にしていて本当に気持ちよい。身体が心地よい。

 

 

 

 

その、世界にたった一つしかない、
(正確には、日本語と、それからポリネシアの一部の島のみにしかない)

 

「母音を中心とした言語(母音を主体に音声認識をする言語)」

 

である日本語の歌が、ボカロ文化を通じて
今、世界の若者たちを魅了している、という番組を見ました。

 

 

訳されたものを歌っているのではなく。
英語やフランス語、その他…
圧倒的多数を占める
(そして、世界をいい意味でも逆の意味でも牽引してきた)
「子音言語」
の国の若者たちが、日本語のままで歌い、熱狂し、涙し、大合唱を繰り広げている。

 

 

それを見ながら、

 

「ああ、これから世界は平和になるなあ…」

 

と。

 

 

 

 

 

英語を話す時と日本語を話す時では性格が変わる、
というのはよく聞くけれど。

 

 

 

子音言語は、
「ディスカッション」「ディベート」が必要だった人たちの間で
発達した言語なのだ、と読んだことがあり。

 

「シュッ」「ツッ」と口をすぼめ、
鋭く息を吐き出す複雑な破裂音が圧倒的に多い。

 

自然は「征服」する対象。
自分を主張し、他者を威嚇し、境界線を引き、
自分の生存を確保する必要があった。
いわば戦いの言語、なのだ、と。

 

そして、生きることが過酷な地域ほど
「複雑な鋭い子音の発音」を持つ言語として発達している、と。
(例として、砂漠の民の言語、アラビア語が挙げてあり)

 

 

 

 

かたや、縄文時代数万年にわたり
「戦いのなかった平和な時代」を謳歌したゆえか、
日本語はその「音」からして、単純でおおらか。

 

「アー」
「オー」
「ウー」

 

日本語を(母音を)口にするとき、
身体は開き、リラックスして解放される。

 

自然の音を写し取り、自然と融和する言語。
それが日本語なのだと。

 

「古代日本は、農耕をせずとも…自然に生える草や実と、
浜にいる魚貝を採取していれば十分に間に合ったのだ」

 

「自然に恵まれ、誰かを威嚇したり殺したりする必要もなく
…私たちの祖先は、ことばを生み出したとき、
威嚇の必要性を感じなかったのである」

 

 

 

 

 

 

今、日本語の歌を熱唱する若者たちが世界中にいる。

 

日本語を発することで得られる、
「ゆるむ」「おおらかな」心地よい身体感覚をその身体に響かせ、
日本語の「余白」「あわい」の世界観を受け取り、

 

「これは自分たちのことを言い表している」
「これはわたしのことを歌っている」

 

と、そこに「居場所」を見つけている若者たちがいる。

 

虫の音や雨の音…
子音言語の脳には「ノイズ(騒音)」としか聞こえない自然の音に
「メッセージ」を見出す稀有な言語を、世界の若者たちが合唱している。

 

 

 

それはつまり、世界でただ一つ、

 

「地球の声を聞ける言語」

 

が、日本語であり、
それを世界の若者たちが合唱している、
ということではないか?と思うのだ。

 

 

 

 

そんな彼らが大人になり、これからの世界を作る。

 

彼らの中には、彼らの最も繊細な時期をしっかりと支えた
日本語の歌、日本の文化がきっと生きている。
(子どもの頃に培った感覚は消えることはないのだから)

 

 

 

これで平和にならないわけがない、と思うのです。

 

 

 

(参考、引用ともに「日本語はなぜ美しいのか」黒川伊保子 より)

人生史上、餃子が最高にうまく焼けた話

 
 
 
というテーマで先日書きましたが。続きです。
 
 
*  *  *
 
 
「身内が餃子のお店を始めたんです。よろしければ、お裾分けを…」
 
 
 
というなんともありがたいお話をいただき、
ありったけの保冷剤を詰めた「ミニ保冷バッグ」持参で、知人と会ったのが昨日。
 
 
 
(なんでも、美味しく焼くためにはカッチコッチの冷凍のまま
フライパンに置くのがポイントだそうで、「溶け」をなんとしても阻止しなくては、と)
 
 
 
 
 
 
 
さて、
知人と過ごした楽しい数時間の詳細は省き、
夕方5時半。
家に帰りつき、速攻でフライパンを出し、「焼き」の作業に入りました。
 
 
 
 
 
 
「焼き方」(絵付き)の説明書をみながら、最新の注意を払い。
 
(何せ、いつもの餃子とは違います。餃子専門店の餃子!期待大なのです)
 
 
 
 
 
「フライパンに大さじ一の油を敷き、
プライパンを熱して、その後弱火にしてから餃子を間隔を取って並べ…」
 
 
 
 
 
説明書をガン見しながら頑張ること10分ほど(かな?)
 
いい色に焼けた餃子(形も美しくキープ)は、
カリっとした歯触りと、その後の「パシュ…」感(旨み広がる感)
 
 
…美味しかった。
とてもとても美味しかった。
そして、先にも書きましたけど、こんなにうまく焼けたのは初めてで(喜)
 
 
 
 
 
 
で、焼いていて、本当に「焼きやすかった」のですが、
そのポイントが説明書に書かれた「音」だったのです。
 
 
 
 
「七十度のお湯を餃子が5ミリほど浸かるくらいに入れ、蓋をする。
その音が、
『グツグツ、ブクブク』から『チリチリ、パチパチ』になったら蓋を開けて水分を飛ばし…」
 
 
 
 
時間指定などよりも、
ずんとわかりやすい。なんて「安心ガイド」。
 
 
 
 
 
 
さて。
この日、わたしはこの餃子お裾分けの知人に「玉ねぎ」を進呈したのですが、
(いつも書きますがうちの姉の無農薬農園謹製)
 
 
その際、とある食べ方をして欲しく、
直径15センチもある大きな玉ねぎを一つ、入れておいたのです。
 
 
 
その「食べ方」と言うのは、「玉ねぎステーキ」なのですが。
直径15センチを横一文字に切って2分割。そのままフライパンに置いて豪快&丁寧に焼く。
 
そうすると、
 
塩胡椒&バターでも美味しいし、
花がつお&ポン酢でもいける。
試していないけれどきっとチーズ&トマト系ソースもいけるぞ!
 
 
 
という…
とろっとろの玉ねぎの甘さを楽しめる、最高に美味しい一品になるのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
さて。
夜、知人からメールがきました。
今日の御礼とともに、
「玉ねぎステーキ、わたしの腕がまずく、
火が通らないところが少し残ってしまい…火の通ったところはめちゃくちゃ美味しかったです!」
 
 
 
 
 
 
 
…ああ、知人よ。
それはあなたの「腕」のせいではなく、明らかにわたしの「説明不足」。
 
 
 
焼く感覚は「トロトロ」と。
(中火の弱火とか言ってしまったんですが、家のコンロによってそんなの違いますもんねえ)
断面は「ふやっと」。
側面は「ツヤツヤ」。
全体的な感触は「ややくたっと」。
 
こういう「感覚」はなんにも伝えなかったなあと。
 
 
 
 
 
 
 
どんなデータよりも確実に、
(いえ、データはすごいし、大切なんですけど)
わたしたち日本人に、
 
「ものすごく膨大で繊細な量の情報を一瞬にして伝達してしまう」
 
「擬音語、擬態語、擬声語」という話でした。
 
 
 
 
 
そして。
日頃、「データ重視」。理路整然と語るのが当たり前、という世界に住んでらっしゃる方。
オノマトペなんて子どもっぽい、と言わず。
フォーマルじゃない、なんて切り捨てず。
 
 
 
 
バランスをとりつつ、少しだけこの、豊かな「オノマトペ」の世界を
挟んだりしてみてもいいかもしれない、と思うのです。
 
 
伝わり方、
伝わる人種、
「あなた」という人の見え方
 
 
などなど。
いろんなところに案外「可能性を開く」ものになるかもしれない、と思います。
 
 
 
 
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