と、いうようなことを養老孟司先生が言っていたのですよね。
(YouTubeの、しかも「切り抜き動画」を見ただけなのですが)
講演会の会場の人たちに、事前アンケートをとって、
(あなたは幸せですか?ならびに、そう思う理由)
それを元に、養老先生が話している。
「10代の時にいじめを受けた人が、20代になってそのことを書いた本を読んだ。
皆さんのアンケートを見て、その本を読んだ時と、同じ印象を受けた」
と。
その「同じ印象」とは、養老先生の言葉でいうと、
「花鳥風月が一切出てこない」。
場内アンケートにあったのは、
「こういう人間関係があるから幸せ」
「こういう友がいるから幸せ」
「家族がこうだから幸せ」
…
幸せの「よって立つ」ところが、人、人、人…
これは、裏を返せば、「人(人間関係)」によって、
いとも簡単に「不幸」にもなる、と言うことだ、と。
(いじめなんて、まさにつまりそういうことだ、と)
さて。
花鳥風月、とはつまり「自然」ということなのですが。
「人間関係が辛い時に、
自分だったら
『死体(死体は「自然」だから)』(←解剖学者)
『虫』(←虫大好き)
…
そういう世界と語らっていたら、
人間関係の悩みなど、どうでもよく思えてくる。(生きてるだけですごいだろう!と死体を見ていると思うし)」
なんだそうで。
人間関係が全て。
うまくいかないと、もう行き場がない。逃げ場がない(心の)。
他に「繋がる」ところを知らない。
というのは、確かに危ういなあ、と思います。
それで、命をたつことを選んでしまう人もいるわけですし。
「そこに、風は吹いていなかったのか?
鳥は鳴いていなかったのか?」
by養老先生
齋藤孝は、現代人の「感情」と「精神」のバランスの悪さを書いています。
現代人は「感情」が肥大してしまい、感情に振り回され支配されているが、
かつては「精神(志・こころざし)」というものが、
感情の暴走を抑え、心のバランスをとっていた。
が、戦後、「精神」という言葉は、
「愛国精神」「軍国精神」
と言ったように、
何か悪いもの、古臭いもののように扱われてしまっている…
と、そういう内容だったかと。
さて。
養老先生が小さい頃は、人の世界と、自然、「半々」だったそう。
どちらも「近しかった」。
ほんの七十数年ばかし前のことですよね。
わたしたちの祖先は、たくさんの世界とアクセスし、
「そこで心を自由に羽ばたかせる」
「心をあそばせる」
あり方を知っていた。
この広大な世界の中で「人との関係」というのは、
「その一部に過ぎない」
ということを、体感的にわかっていたんだと思います。
「侘び」
「寂び」
「もののあはれ」
…
なんていう言葉は、そのことをよく表している。
今日はちょっとまとまりませんが。
(テーマが壮大すぎるのだよ、と思いつつ)
けれど、
自分を生かすものは、目の前の人間関係だけではない、
ということは、ものすごく思うのです。
ミルフィーユの如く、重層的に、
わたしたちは、実はたくさんの世界にまたがって生きている。
多くのものとつながり、
実は時間も空間も超えて、多くのものからのエールを受けつつ、生きていると感じます。
そうそう…。
そういうふうに生きられたら、狭い視野の中できつい思いしなくていいよ、
ということを養老先生は言いたかったのだと思います。
* * * * *
写真は一昨日の渡月橋。
ちょっと用があって京都に行ってきたんですが、
(弾丸ツアーな感じであまりゆっくりできなかったんですが)
すっかり京都、元に戻っていて、人だらけでした。
ここで「いろんなもの」と語らうには、ちょっと集中力が…。
けど、わたしにとっては
京都はとても「アクセスしやすい」場所なことは確かなのでした。
いい時間でした。空気は冴えて、山は美しい。