コミュニケーションについて学ぶとはつまり「愛の表し方」を学ぶということなのだ

 

 

数日前、仕事先で連絡窓口となってくださっている方から、

 

「私も(研修案を)拝見させていただきました。

一人の親としても、大変参考になることが多く、
○○という役職の方だけでなく、
親としても勉強させていただきたいなと思うところでした」

 

の言葉と共に、
ご自身のお子さんとの関わりにおける、
とあるシーンへの(後悔の)思いが綴られたメッセージが届き。
(「タイムマシーンがあったらあの時へ戻るのに」と)

 

で、思ったわけなのです。
(たくさんの親御さんの似たような声、いわば「心の叫び」を思い出しつつ)

「ああ、お願いだから自分を責めないで」

と。
それはその時のあなたの(全ての親御さんの)
精一杯だったのだから、と。
で、最近思う
「この連綿とつながる『悲しみ』『もどかしさ』」は何なのだ、
という思いがまたむくむくと頭をもたげ。

 

 

で、
次のようにお返事を返しました。

 

 

 

*  *  *  *

 

「コミュニケーションについて学ぶとは、
つまり、

『愛の表し方』

を学ぶということなのだ、と思います。
他者への愛。
そして、自分自身への愛。

 

わたしたちはそもそも、
たくさんの愛を持っていますけど、
それを「適切に表す」「適切に伝える」すべ、を知らない。

 

自分の親も、その親も、その親も…

 

そんなことを教わっていないし、
知らなかった。

 

(特に、80年前、戦争が終わった時に、
一度大きく断絶してぐちゃぐちゃになった、と思います。
世の中の激変、価値観の激変。
あの時、日本の大人たちはみんな、
自分自身を信じられなくなった、と思うのです。
その傷(固まった心と身体)をわたしたちは受け継いでいる)

 

あなたのお子さんへの(後悔している)言動。
その、
根っこの根っこの深いところにあった、
あなたの「本当の願い」。

それは、
ご自身の不安もあったやもですが、

そのさらに奥には、お子さんへの「純粋なる愛」
がダイヤの原石のようにしっかりと存在していた、
と思うことなのです。

 

*  *  *  *

 

 

「愛を表現する」
「愛を伝える」

 

20代、
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読んで
「いっちょんわけがわからん…」
だったのですが、
それでも、最終章に出て来る

「愛とは修練である」

の言葉はとても印象に残っています。

愛とは。
愛を伝える、愛を表現するということは、
「練習あるのみ」なのです。

 

どろつき大根のままで
(洗うことも、皮を剥くこともなくそのままで)

「さあ、受け取ってくれ」
「どうして理解できないの?受け取ってくれないの?食べてくれないの?」

と言われても、
相手にとっては咀嚼は愚か、口にすら入れることができない。
(けれど、みんな案外「それでいい」「それが普通」
「自分、不器用だから…」レベルの認識で止まっているのが
「コミュニケーション」の分野なのではないかと思っています)

 

*  *  *  *

 

 

「わたしたちのような仕事の者の役割は、
それぞれが、その「ダイヤの原石」に気づいていただき、
楽しく磨いて「本来の美しい光」が
周りにしっかりと届くためのお手伝いをしているということでしょうか」

 

*  *  *  *

上のように続きを書いて、終わったことでした。
(我ながらいい喩えだなーと思いつつ)

 

 

 

まとまりませんが。
今年もそういう場でたくさんの人にお会いできることが
とても楽しみなところなのです。

 

 

 

追伸:
では、昔の日本人はそんなに「愛」を伝えるのがうまかったのか?
ということなんですが。

「言葉」がうまかった、ということではなく。
(何せ言葉は「今夜は月が綺麗ですね(=I LOVE YOU)」の世界なので)

「身体」が今とは違っていたのだと思います。
身体が常に「温まっていた」(体温ということだけではなく)。

 

柔らかく、豊かにコミュニケーションのためのセンサーが広がり、
リラックスした身体で
昔の日本人は生きていたのだと思います。

(渡辺京二「逝きし世の面影」にその雰囲気を感じることができるのではと)

 

つまり「いるだけで」「お互いそこにいるだけで」
安心感や、つながりの感覚や、愛おしいという感覚や…
そういったものが
溢れている身体、やり取りできていた身体、といいましょうか。
(昔、ばあちゃんの膝に乗っかっていた頃に、そういう感覚を
感じたことがあったように思います)

 

自分の中心から動くと、最も自然に力が発揮できる

 

 

 

 

2週間ほど前、ちょっと動くと途端に首がバリバリと痛くなることが数回あり、

考えた挙句、

 

「重い荷物を腕だけで持ち上げようとする」

 

のが原因だなあ、と気づきまして。

 

 

筋力の衰えに反して(筋力が落ちているのも問題ですが!)

持ち歩く荷物の重さは変わっていないもんなあと。

 

 

そうなると「腕から動く」のをやめる必要がある。

腕の力のみに頼るのをやめて、

 

「中心から動く」。

 

「古武道の身体の使い方を介護に活かす」

的な番組で見た知識を思い出しながら、

臍の下。丹田と呼ばれるあたりから動く。そこを意識して、連動して動く。

を意識しているのだけど、

そうするとだいぶよいのです。楽になった。

(今やすっかり首は元気です)

 

 

 

ここで思い出しているのですが。

 

ダンスを踊る際に、

「腕を動かす」「足を動かす」というような意識の踊り方だと、

一見、派手に上手に踊れているように見えても、

バタバタした素人くさいダンスになってしまうのです。

 

 

身体の中心に落ちた一滴の水。

その波紋が同心円状に全身に広がっていくような感覚で動くといい。

 

身体の中心で起こった静かな揺れが、

指先、足先までしんしんと広がっていくような動き。

 

そして、自分の手、足を通り越して、

空間全体に「わんわん…」と広がっていくようなイメージで動くと、とても美しい。

 

 

(わたしが教員だった頃の教え子さんでこういう動きをする人がいましてね。

肩先をピクン、と動かしただけなのに、

場の空気を一瞬にして変えるような彼女のダンスを今でも思い出します。

微かな動きの中に、

彼女の中心から湧き出る『律動の強さと純粋さ』を感じたものでした)

 

 

 

 

そして。

これは身体の動きに限ったことだけではなく。

(と言いますか、一時が万事。共通している)

 

 

語るということ。

言葉で伝えるということも全く同じなのです。

 

 

自分の中心で起こった振動。(思い。感情。意図)

自分の中心で発生する、

純粋な「最初の一滴」を常に捉え、

そことのつながりを保って、そこから言葉を発するといい。

 

 

自分の「最初の一滴」から生まれた振動が、

同心円状に外にしんしんと広がっていくように、

声を出し、言葉が出せるととてもいい。

 

 

そこには余計な飾りなど発生する余地は全くなく。

 

「どう言おう?」

 

も、

 

「かっこよく言おう」

「いいふうに言おう」

「ウケないといけない」

「面白くないといけない」

 

も何も存在しない。

 

 

 

そういうふうに、

「本当の言葉」

「自分の中心としっかりと繋がった言葉」

「その瞬間、その場で、その相手との間にしか生まれない、鮮度100%の言葉」

 

を出している人や場面に出会うと、本当に心動かされます。

 

 

 

「立て板に水」とか、「話すのが上手いよね」

などとは全く次元を異にする語り手。

 

そんな人が、いるものです。

(そして、実は誰でもそういう言葉を持ち合わせている)

 

 

 

ちなみに。

わたしは先に書いたダンスの上手い教え子さんの語る様子も好きでした。

ゆっくりと、時間をかけて、言葉を探し出すように話すときの視線。

自分の中に深く降りて、

最もしっくりくる言葉を丁寧に捕えようとするその雰囲気が。

 

 

 

 

 

もしも。

 

言葉が「一語いくら」と値段がついているものであったら、

一瞬たりとも、一語たりとも無駄に使うことはできない。

みんな、自分の「真の意図」を最も表現できるものを、

探して探して、厳選して選び出すだろうなあ、と思います。

 

 

 

 

そして、

実はそれくらい意識して言葉を使ってもよいのでは、とも思っています。

 

言葉は確かにただですし、

湯水のように溢れるようにダダ漏れさせても誰も何も言わないし、

いくらだって走らせることができる。

 

 

けれど、

「自分の中心と繋がっていない言葉」

は人に届かない時代に、これからますますなっていくように思います。

 

 

届かないどころか、

自分の人生に対して。

自分の大切な人たちの幸せに対して。

早晩しっぺ返しが来るような氣すらするのです。

 

いいコミュニケーションのために「人は(自分含め)そもそも動物である」ということをしっかりと覚えておくといい

 
 
 
 

自分という地層を通って言葉は滲み出るのだ

 

 

 

 

 

2人の講師が登壇するオンラインセミナーを視聴。

テーマはどちらも、「コミュニケーション」とか「伝える」という分野。

 

 

一人は、言葉、講義の中身、存在感ともに好きな講師で、

この人目当てで申し込んだのだけど、

もう一人の講師も、タイトルからするにとても良さげで、楽しみにしていたのだけど。

 

 

 

 

結果、(わたし目線ですが)

二人目の講師はどうにも聞いていられなくて15分くらいで聞くのをやめてしまった。

 

 

 

 

 

この二人、何が違ったのだろう?と考えていたのだけど。

 

突き詰めると「言葉」が、

どこで発生し、どこを通って出てきているか、の違いかな、と。

 

 

 

一人目の人は、著作も多い人なのだけど、

その興味の多様な方向性の本、それぞれに満ちるエネルギーを感じる。

(うわ、好きなんだなあ~、という感じ)

 

 

 

この人の場合は、その言葉の出発点は全て

 

「自分が感じたこと」

「思ったこと」

「自分が体感したこと」

 

なのだと思う。

 

 

 

「自分の中からふつふつと湧いて出た思い、疑問、憤り、願い…」。

 

 

 

そういったものが出発点。

 

 

 

 

 

言い換えると、

この人が語っているのは、「自分の内側」から湧き上がる「自分の真実」。

 

 

「自分の体感した真実」を心から「伝えたい!」と願い、そのために、

自分の言葉、プラス

 

外界にあった言葉、誰かの理論、

誰かが系統立ててくれた概念を選び、

噛み砕き、血肉となるまでこなし、

自分の身体のリズム、身体感覚に沿った言葉にまで「変換している」。

 

 

 

そう、ここが大事。

 

 

 

変換ができていて、しかももはや染み込んでいる。分離不可。

それはもはや、あなただけの、あなたの言葉。

 

 

 

 

 

で、もう一人の人は、それが感じられなかった、ということかなあと。

 

その人が語ったのは、わたしも知っている、マーケティングの有名な理論だったのだけど、

わたしには、

 

 

「誰が語っても、同じだろう」

 

 

と思えてしかたがなかった。

はなから「その概念」をただ語っている感じ。

スルスルと表面をすべっている感じ。

 

 

 

 

そこには、

 

「その人という『地層』を通り、濾過され、独自のミネラルや栄養分が足された

その人だけが出すことができる、『絶対に味わいたい、と思える甘露』」

 

というものが存在しなかった。

 

 

 

 

 

 

こういうものは、講義や講演だけではなく、

歌でも、踊りでも、作品でも、なんでも一緒なんだろうなあ、とつくづく思う。

 

 

 

「全てがオリジナル、一から全てを自分で作った、自分で考えた」

という創造物はこの世には存在しない、

どこかで先人たちが考え、表現したものだ、と。

 

 

 

誰かが言っていた。

 

 

 

それでもわたしたちは表現する。自分の内に生まれた、この熱い思いを。

 

 

 

 

「表現したい」「これを他者に伝えたい」

と日々、請い願っている人は、上に書いた「地層」の喩え、

方向を指し示す結構いいイメージとして使えるんじゃないだろうか。

 

あなただけが出せる「甘露」。

 

 

 

 

わたし自身は、自分が書いた言葉ながら、とてもしっくりきた。

そして、「地層、厚くしよう」と思っている。

(厚いだけで「なかなか透過しない」のもあれなので、バランス大切に)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*    *    *    *    *

 

青文字のところ、我ながら「とてもいい喩えだ」と思ったので、強調してみたんでした。

「甘露」という言葉は「凝縮された、美味なる良いもの」くらいの意味で使ったんですが、

仏教用語でもあるらしいです。

(こんな感じ↓)

 

中国古来伝説で、天子仁政を施すと、天が感じて降らすという甘い露。

《(梵)amṛtaの訳。不死・天酒の意》天上の神々の飲む、忉利天(とうりてん)にある甘い霊液不死を得るという。転じて、仏の教え、仏の悟りにたとえる。

煎茶の上等なもの。

夏に、カエデ・エノキ・カシなどの樹葉からしたたり落ちる甘い液汁。その木につくアブラムシから分泌されたもの。

甘露酒」「甘露水」の略。

(goo辞書より)

 

 

 

 

 

 

 

アーカイブ
Copyright © Communication Works All Rights Reserved.