「粗大ゴミ」
を清掃センターに持って行ったのですけど。
建屋の中、まさに、
自分の愛用してきたものが、あの巨大&広大な穴の中に
ダイブして落ちて行くところを見てしまいました。
(はるか足元、穴の底には、
かつて誰かの「愛用品」だったにちがいないモノたちがたくさん)
別れを惜しむまもなく一瞬で、
「これ、捨てるんですね?」
「あ、はい…」
(「い」が終わる間もなく係員さんの投擲「そいやっ!」)
「あああーっ!さらば〜っ😭‼️」
(とつい声と手が)
それを見た係員さん、クスッと。
叫ぶ人は少ないんでしょう、さすがに。
捨てるために持って行ったわけで、
しかも後ろには次の順番を待っている車もあるわけで。
(ちゃんと覚悟して持って行きなさいよ自分)
(別れは事前に交わしておきなさいよ自分)
と自分の不甲斐なさを思ったのですが、
一番実感したのは、
「自分の想像力のなさ」。
毎日、
燃えるゴミだ、燃えないゴミだと捨てているけれど。
たまには粗大「ゴミ」だと、集積所にちょこんと置いておいたりするけれど。
あれは本当に「捨てた」ということではなく、
(そうはなっておらず)
こうやって
毎日毎日、かつて「大切なもの」だった「モノ」たちに
「引導を渡し」
その最後をちゃんと見届けてくれている人たちがいるのだと。
それはリアルに、この光景なのだと。
(それくらい、自分が「捨てた」ものが真っ逆様に
落下して「ゴミ」になってゆく姿は衝撃的でした)
わたしたちは、
わかっているようで本当にはわかっていないことが多い、
と思います。
ふと思い出したのは食肉のこと。
誰かが「命をとる」
ということをやってくれているから
わたしたちは肉を食べられるわけですが、
それは(命をとる、は)
日々とても具体的な実態と、もしかして五感を伴った「行為」なのです。
その「リアル」をしっかりとちゃんと想像したならば。
そのものや、こととの
付き合い方や姿勢、
価値観は変わってくるだろうと。
もので言えば、
それを迎え入れるときから(買う時から)
いろいろと考えるんじゃないかな
とそんなことをしみじみと思ったことでした。
「想像する」
よく使う言葉ですが、
なかなかに簡単なことではない。
わたしたちが実際にいけて、見ることができ、体験できることも、
会える人も限られます。
世界の隅々まで行けるわけではない。
ずべての事象を体験できるわけではない。
だからこそ、
想像の力こそが必要なのだ、と。
(そして、それはどうやったら鍛えられるだろう?と)
そんなことを考えているところです。