つい最近、(誰かの記事だったか、動画だったかで)見たのですよね。
コンビニ前や駅の構内で、
地面にペタッと座って飲食している子達がいたとして、
「草っぱらなんかでもじかに座る。どうしてここだといけないの?」
と問われたら、なんと答えるか、と。
で、その記事だったか、動画だったか…に、こういうコメントが。
「コンビニや駅の構内だと、
公衆トイレなどに行って、みんなそのまま歩いているから汚い。
なのでダメ、と子どもには教えています」
本当にその通り。
けれどでは、そこがもし、ピカピカの床で、
絶対に菌やウイルスの入り込む余地のない場所だったら
座ってもいい、
ということになるのかしらん、と。
で、わたしの率直な感想は、
「理由が…いるか?」
でした。
なんというか。
「理論」。「理屈」。
よく言われる「エビデンスは何ですか?」的な。
それがないものは存在の余地なし、みたいな昨今。
そんなものは全然「通って」いなくとも、
「とにかく良くないの」
「それは美しくないの」
という精神はもはや通用しないのかしら、と。
(お天道様が見ているから、的なですね)
*
知人が「今、仏教と神道の本を読んでいます」
と。
「自分たちはどうも、以前であればあれば自然と
『もらって』(受け継いで)
きたものを上の世代からもらえていないんじゃないか、という感覚があり」
ということなんだそうで。
(わたしから見ますと、その方、全くもって、そうは思わないんですけどね)
で、
ご自身の子どもに何を手渡すのか、にあたって、
「では、自分で再度見つけるしかないか」
と。
もらえていない、受け継いでいない、どこかで断絶している、のならば、
自分で知り、取捨選択をし、
自分で再編し直さねばならない、
と思ったのだそう。
そのためには知識が必要。
「根っこ」を知ることが。
揺るがぬ「根っこ」。
「真善美の根っこ」を知り直す必要がある、出逢い直す必要がある。
それはなんだろう??
と考え、「仏教」「神道」というものにも触れてみよう、
と思ったんだそう。
*
これまでも何度か書いていますが。
「根っこ」を知らないもの、
根っこと繋がっていないもの、は弱いですね。
(基本・土台・型がないものは、とも言える)
とうとうと流れる時の中で、
自然と形作られてきた「道理」を無視して作ったものは、
どんなに「いい方法だ」と思った仕組みや考え方でも、
数年経つと、目まぐるしく変わる時の中で、
瞬く間に「合わないもの」「使えないもの」になっている感じがします。
(「時代の徒花」で笑いで済めばいいんですけど)
わたし達は今、大きな渦の中で、
何を信じていいかわからない。
何を支柱として生きていいかわからない。
だから、
「(有名な)この人が言っている」
「これが流行っている」
「みんながこうしている」
「『成功』している人がこうやっている」
を追いかけ、
追い求め、
右往左往している。
(この状態、「精神的孤児」という言葉で、以前書きましたが)
そもそも、わたしたちが、
「正しい」「これが当たり前」「ずっとこうしてきた」
と思っていることも、歴史を辿れば、
戦後ほんの80年でできた「常識」であったり、
わずか160年前には全く違っていた、ということも多々あるわけで。
先に書いた知人が、
「わたしたち日本人を形作ってきたもの」
(自然、風土に自然と育まれてきた文化、価値観、身体観)
の源流を求めて仏教と神道の本も読んでみよう、と思った(切なる)氣持ち
わかるなあ、と思います。
彼は、感じたのだろうと。
わたしたちが「こうだ」と思い込んできたことは、
案外「そうじゃないものもある」ということに。
ぐらり、足元が揺れ。
そして彼はきっと思ったのです。
自分の子どもたちを「孤児」にしたくないと。
デラシネ(根無し草)にしたくない。
たとえ世の中がどんなに渦巻いていたとしても、
自分の足で立って。
他者の作った真実ではない、自分の真実を。
「自分にとっての真の幸せ」を、
(それは自身の心にも身体にも至極自然で心地よく、なおかつ、
世界と自然に調和したものだと思うのですが)
生きる人になってほしいと思ったのだと思います。
決して色褪せない「根っこ」を。美しさを。
幸せに生き抜く力を、
子どもたちの身のうちにすっくと、しなやかに
立ち上げてあげたかったのかなと思います。
(本当に、何よりの宝だと思うんですよね)
※写真は、わたしの部屋の紫陽花です。愛おしきかな😍