お子さん(2歳)が、お米の中に手を突っ込んで遊ぶ、とのことで。
「この間なんか、あっと氣がついたら、お米を撒いてたんです。ぱああっと!」
それは、いい音がしたことでしょう(笑)
で、その方。
「食べ物で遊んではいけない」
ということをどう伝えたらいいか、と。
ふむふむ…わかる〜(しみじみ)
わたしも、手ぇ、突っ込んで遊んでましたもん。米櫃に。
あの冷たい感触。
キュッとなる音。
周りからさらさらと崩れてきて、手が次第に埋まってくる、あの「圧」。
…面白くって、何度も何度も繰り返してましたっけ。
この話を聞いた時に、まず思ったのは、
「お子さんは『感触』を楽しんでいる」のだ、ということ。
お米のサラサラ感。
パラパラという音。
キュッキュッと鳴るあの感じ。
それらを味わいたくてしようがない。
子どもの興味は、
「食べ物を粗末にして…」という大人の「見方」とは全く違うところにある。
多分、お子さんはそれが「食べ物」である、ということも、その瞬間忘れてしまっているであろう。
で、お伝えしたのは、上記のこと、
(感触それ自体を楽しんでいる、ということ。
まさに、感触自体を開氣、磨いている途中である、ということ。
そこに「悪いことをして!」というノリで叱っても、意味がないであろうこと)
それから、代替物として、例えばクッションの中に入れる白くて小さいビーズに
手を突っ込めるよう準備してみてはどうか、
きっと、米である必要はない。「本質」が同じなら。
と、その2点をお伝えしてみたのでした。
さて。
その「感触」「感覚」について。
人の個性、特質、強みは、頭で考え、言語化される以前に、
実は、そういうところにしっかりとあらわれている、と読んだことがあります。
上のお子さんは、お米に代表されるような、
さらさら、パラパラという「細かい粒」の感触が好き。
(きっと、小豆なんかも好きでしょうねえ、と言ったらその方いはく「ですねえ!」と)
けれど、粘土を握ると指の間からニュルっ、と出てくる、
ああいう動きは嫌いなんだそうです。
何度か書きますが、
「にほんごであそぼ」の監修、明治大学の齋藤孝先生の話。
斎藤先生は「練る」という動きがお氣に入りで、
子どもの頃は駄菓子屋で水飴を買っては、
「練る」。
練って練って、空氣が入って白くなるまで練るのが大好きだったそうで。
で、
その「練る」という特質は、大人になってからのご自身の仕事の仕方に、
顕著にその特徴が生かされていると。
内容を「練って練って練る」ことが全く苦でない。
その人の好きな動き、好きな感触、
ずっと味わいたい「身体の動き」自体に、その人の「個性」「特質」があらわれている、
という意味のことを、齋藤先生は書いていたような。
(と…この話、書くにあたって、どこにどの本にあったかと、
あちこちひっくり返してみたんですが、どうも見つけることができず。
「カラダ言葉」としての客観的な話は出てくるんですけどね。
けれど、一応このまま続行してみるのでした。違っていたらまた訂正します。
けど、体感的に「違う」氣もしないんですよね)
さて。
わたしは「磨く」とか、好きです。
(今朝も、古いトランクをせっせと磨いたばかり)
企画書にも、
そういえば「練磨」「研磨」といった言葉をよく使います。
他にも「研ぐ」という動きも好き。
小さい頃に、刃物を研ぐ父の手元や、水を含んで滑らかに滑る
刃物の先の「シュッシュッ」という爽快な、
濁るもののない音をよく聞いていたからでしょうか。
「研ぎ澄ます」という言葉もよく使いますし、
常にその感覚で、場を作り、言葉を選び、文章を書いている氣がします。
あなたの好きな「動き」は?
その動きから、ずっと味わっていたい、と思える「感覚」は?
心地よかったり、気持ちよかったり…自分の状態をより「整えて」くれる「動き」は?
ウグイスは美しい声で鳴き、
ペンギンは流線型の姿で水を弾丸のように切り裂くのが
「自然」なように。
言葉で考える以前に。
脳で考える以前に。
ずっとずっと、あなたの「特質」
(あなたは何者で、どんな響きを持ち、何を発揮すればいいのか?)
をしっかりと、はっきりと顕している「方向性」が、
自分の身体の中に埋め込まれ、存在している。
それには「氣づいて」いたほうがいい。
まあ、自分の「取説」の一項目とも言えますしね。
(そして、お子さんの「強み」「個性」を知る際には、とにかく観察、ということかなと。
言葉以前の、お子さんの身体に埋め込まれた、元々備わった「質」が存在する。
そこに合致した「習い事」などがいいように思うのです)