なぜか心に残っていて、ときおり何の脈絡もなくふっと思い出す光景
というのが誰しもあるのでは、と思うのです。
朝方見た番組のせいもあって思い出したんですが
わたしには
そういう二つの場面があります。
どちらも子どもの頃、どこかの友達の家で見たマンガの一場面なんですが。
一つ目は、「愛のアランフェス」というマンガだったと思います。
こんな感じのお話でした。
フィギュアスケートのシングルの選手として将来を嘱望されていた女の子が
ペアに転向することになる。
組むことになった相手も、男子シングルの世界での相当の実力者。
周りからも
「あの二人ならきっと大技を入れてくるだろう」と期待されている。
女の子は、彼についていこう、自分と組んで、彼のレベルが下がった、と言われないよう
もう必死で、がむしゃらにがんばります。
「もっと速く」「もっと高く」「もっともっと」…。
が、彼女の努力は「力み」となって、空回りを続けます。
さまざまな葛藤が多分あり(このあたり、ほとんど覚えていないのであしからず)
最後に試合で二人が見せた演技は
大技も何もない、とてもシンプルなものでした。
会場はざわっ…と二手に別れます。
「え、たったこれだけ…?」
という反応と
「二人が合っていてよかった」
という反応。
そして、次の一言、これが、わたしの「忘れえぬ場面」なのですが。
完全に調和した、まさに「一糸乱れぬ」演技をする二人。
それをみて、コーチ(?)が一言、ぽつりと言います。
「…あいつら、ペアがわかったな」
「もっと速く!」「もっと高く!」というエゴの先にある
二人で創るという世界、それを表現する新たなる喜びに目を開いた二人の姿と
繰り広げられるその演技に
とにかく震えるような感動を覚えたのでした。
もう一つの「場面」は
もう、タイトルすら覚えてないマンガ(笑)
指揮者の話でした。
天才的な指揮者があるコンクール?で指揮をしている場面。
その指揮者が一瞬「視線」でオーケストらを制する。
その瞬間、会場に「海」が見えたりする。
会場がざわ…っとどよめき
(こういうマンガのお定まりです。ギャラリーが「いかにすごいか」の解説者となる。
「い、いま、目で…」(すごいっ)
と、圧倒される。
それだけ。
そこしか覚えていないんですけれど。
わたしの記憶に執拗にまとわりつく2つの「場面」。
結局わたしはその2つの場面の根底に流れていた「エッセンス」(醍醐味)を
自分の人生のにおいて、存分に味わう道を選んだなあ、と思います。
言葉にするとやっぱり
「場の力」
「場を創る」
「共鳴」「共振」
「コミュニケーション」
(自分とのコミュニケーション、他者とのコミュニケーション、自然とのコミュニケーション…
言語・身体・その他すべてを含む広い意味での)
ということになるのでしょうか。
人が自分の魂とつながり、その本質を存分に表現し、その響きが「場」に伝わったとき
その場はすごいことになります。
響きは波のように共鳴を起こし、広がって大きく大きく増幅され
そこにいる人たちすべてが「自分の本質」に気づき「最高の能力」を発揮し
生み出せる可能性を持つ場となります。
つまり
「奇跡」が起きる場となりえる。
そして
その「奇跡」がおきる場をいかにつくるか
それをずっとずっと考えているのが自分たちの仕事である気がします。
その場をつくれるのなら、(その力を与えてくださるのなら)
滝にも打たれましょう、座禅もくみましょう、の勢いです。
セッションの時も、セミナーの時も
そんな場が創れることをしんしんと祈りながら
日々対している気がします。
「理由はないけれど、心惹かれる感覚」
「小さいころから、ただ、好きだった感覚」
「それをずっと、味わっていたいと感じる感覚」
「そういうのを『価値」と呼びます」と昔、コーチングのテキストにありました。
「たましいのご飯」と言った人がいて
わたしはそっちの方がわかりやすくて気に入っています。
きっと、みなさんの記憶の中にも
ずっと、主旋律として、皆さんの人生の根底を脈々と流れる「ある静かなメロディ」が
あるのじゃないかなあ、と思います。
人生を流れる「自分だけのメロディ」。
主旋律をあらためて確認するということは
自分の軸を確認し、凛と立って自分の人生を生きるために欠かせないものです。
そして、明日へのモチベーションを生み出してくれます。
自分の中の、決して枯れることのない、「大きな源」の一つがこの部分なのだと感じます。
いつか、みなさんの「主旋律」のお話を
ぜひ聞かせてください。