「 身体が動く。 心が動く 」−コミュニケーション・ワークスのつくる場は−
効果的な学び。
より深い変容をもたらす学びには、いくつかの要素があります。
「自ら見つけ、気づき、発見することによって起こるものであること」
(一方向のレクチャーではなく)
「より多くの感覚を通してなされる学びであること」
(見る、聞く、書く、だけでなく)
「感情が動く場があること」
(知識の単純な伝達にとどまらず)
短期間で頭に押し込んだ知識はさっさと出ていってしまいます。
(自分が学生だった頃のことを思い出してみてください。
なぜか、本筋とは関係ない先生の雑談やすべったギャグだけはずっと覚えていたりする)
研修という時間、場面ともに制約のある場だからこそ、
「身体が動く。心が動く。そのとき初めて、しっかりと刻まれる学びが起こり変容がおこる」
これが、コミュニケーション・ワークスの一貫したテーマであり、最も大切にしていることです。
自分の中から湧き出る発見の喜び。
全身を使って動き、周囲と触れ合い、
皮膚感覚を通して自分や他者の発する声、言葉が与える影響をしっかりと感じとる。
自らの思いを自分の声で発信する。
豊かな感情、身体感覚と結びついた体験こそが、
人の中に入り、刻まれます。
「いい話でした」を超えて、人の身体に染み込み、残っていく。
知識の習得。
そして、願わくば「知識」を超えて。
それを自分の身にしっかりと沿わせ、
自分自身の響きでもって、自分の物語を通して、自分の言葉で語れるように。
受講の方々の長い人生の中で、研修の時間は一瞬ですが、
長く波紋を広げる一滴を落とす、そんな場を作りたいと願っています。
「研修とは不足を補うものではなく」−コミュニケーション・ワークスのつくる場の基本姿勢−
- 研修とは「不足を補う」ものではなく「すでにある素晴らしいもの」を揺り起こし、発掘し、研ぎ出し増幅する場である。
- それは、そこに関わる全ての人と人の間に起こるエネルギーの相乗効果によってなされるものである。
- 技術の習得は、個々人の「願い」、個々の大切な「物語」につながってこそ意義がある。
「もともとある、コミュニケーションのための
豊かな身体のセンサーを存分に発揮する」−コミュニケーション・ワークスのこだわり−
目には見えないけれど、
人と人、集団の間に流れている「ある空気」。
それを日本人は「場」と呼び「場を読む」と表現してきました。
それは決して頭で捉えられるものではなく、「身体のセンサー」の役割です。
かつて、わたしたちの周りには、ごく自然に、コミュニケーションのための身体のセンサーを磨ける環境があふれていました。
子どもの遊びも「かごめかごめ」や「はないちもんめ」…
全身を使い、周囲と声を合わせ、相手の呼吸を察知し、合わせることで成り立つ形の遊びがたくさんありました。
また、「四十八茶百鼠」に代表される多彩な色彩の表現。三百を超えるという雨の呼び名。
日本語という言語の豊かさもまた、わたしたちがいかに細やかなセンサーでもって世界を感じ、捉え、味わってきたかを表しています。
そして、そのセンサーは日本人の長所として「ものづくり」や「もてなし」を支えてきました。
今、わたしたちは、大きな変化の中、情報乱れ飛ぶ毎日を生きていますが、そんな中で、わたしたちが大切にすべきは、どうもそのあたりにあるように思えてなりません。
万人にとっての正解はもはやなく。何が自分にとって大切で、どういう人たちと共に生きるのが幸せかを自分で選ぶ時代。
そんな今こそ。思考のみではなく「身体の感覚」を大切にする。身体が発する一致感を大切にする。知識偏重、思考偏重から「心身のつながり・バランスの重視」へ。
江戸時代まで、日本語では「からだ」というのは死体のことだったそうです。
生きているからだのことは「み(身)」と呼び、それは心と魂と一体のものを表していた、と。
(「日本人の身体」 能楽師・安田登 より)
そもそも日本人は、豊かな身体センサーと頭(思考)がしっかりと結びつき、それを両輪としてきた民族でした。
「身体の叡智を信じる」
「身体(無意識)と頭(意識)の回路を太く、つなぐ」
それはきっとわたしたちの毎日の人とのかかわりに大きな変化をもたらすでしょうし、これからは、それこそが何より人生を導く確かな羅針盤となると感じています。